« アンケート企画:「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」 | トップページ | 後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場 »

2014年2月18日 (火)

関ヶ原で三成を捕えた田中吉政~出世物語

 

慶長十四年(1609年)2月18日、関ヶ原の戦いの際に石田三成を捕らえたことで知られる筑後柳川城主・田中吉政が亡くなりました。

・・・・・・・・・

田中吉政(たなかよしまさ)・・・失礼ながら、冒頭に書いた関ヶ原後の石田三成(いしだみつなり)逮捕の一件くらいでしか、ドラマなどではお目にかからない方ではありますが、

実は、その出自ははっきりせず、近江源氏の末裔だとか先祖は城主だったとかという話もあるものの、少なくとも彼が生まれる頃には、すでに農民であったと思われ、

それが、彼1代で、最後には筑後一国柳川城32万石の城持ち大名となるのですから、思えばなかなかの出世・・・あまりメジャーじゃないのは残念ですね。

という事で諸説あるのですが・・・

もともと、近江国(滋賀県)田中村の小農人だった彼は、
「この人生…百姓で終わるのはイヤや!
世は、まさに戦国…誰かに仕官して武功を挙げて出世して金持ちになって名を残したるねん!」

と、18歳の時に一大決心をし、奥さんと離婚・・・

って「なぜ?離婚?」
と思ったのは、奥さんも同じ・・・

「なんでやのん?ウチ、何かした?」と・・・

すると吉政は、
「お前に罪は無いねん…俺に夢があるだけやねん。明日、出て行くさかいに、飯をぎょーさん炊いてくれるか」
と言って、自宅に幼馴染の友人を大勢呼んで宴会を開き、その席で自らの夢を皆に披露し、翌日、家を出たその足で、浅井郡宮部村(長浜市宮部町)の土豪・宮部継潤(みやべけいじゅん)なる武将のもとへ行き、その草履取りとなって戦国武将の道を歩み始めます。

そんな吉政の日々の様子を見ていた継潤・・・
「コイツを草履取りにしとくのはもったいない」
と、自らの側近に加えるのです。

以前、ブログに書かせていただいたように(3月25日参照>>)、この宮部継潤なる武将は、あの浅井攻めの時に、羽柴(後の豊臣)秀吉が、カワイイ甥っ子の秀次(後の豊臣秀次)を人質に出してでも味方にしたかった人物・・・

もちろん、その時は、彼の治める城の立地条件などもあったでしょうが、後に、秀吉をして『日本無双』と言わせるくらいの武将なわけですから、そんな継潤の目にとまる吉政は、やはり、タダ者では無い雰囲気・・・

こうして、秀吉の与力となった継潤とともに、その配下である吉政も・・・という事になるのですが、やがて信長の中国攻めがいよいよ本格的になった天正八年(1580年)、秀吉が、因幡(鳥取県東部)垣屋光成(かきやみつなり)の城を攻めた時、真っ先に城内に入った吉政は、今まさに、落城を決意して自害しようとしている城主の光成を見つけます。

自害しようとしているとは言え、世は戦国ですから、敵同士が出会えば、当然、お互いに槍を向けて一戦交えるわけですが、すぐには勝負はつかず・・・そうこうしているうちに、二人のもとに秀吉からの知らせが・・・

なんと、光成の見事な籠城ぶりに「敵ながらアッパレ!」と感動した秀吉が、その命を助け、所領も安堵するという言うのです。

思わぬ展開で、結果的に光成の自害を阻止した形になった吉政・・・戦後、吉政に会見した秀吉は、「お気に入りの名将を救ってくれた」として、吉政を三州(愛知県東部=三河)刈屋城(愛知県刈谷市=現在は刈谷城)城主として4万石を与えたのです。

これが、18歳で家を出てから、わずか6年後の事だとか・・・いやはや、大したもんです。

とは言え、これは『朝野雑載(ちょうやざつさい)に登場するお話で、最近では、近江国田中村ではなく、浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身とする説が有力ですし、その奥さんも、宮部家の家臣で坂田郡国友村(長浜市国友町)を本拠とする国友与左衛門の娘=妙寿院(みょうじゅいん)という女性で、父の与左衛門の姉が吉政の母・・・つまり吉政とは従兄弟同志の女性だったのだとか・・・

なので、おそらく、奥さんを捨てて宮部の草履取りになるような事は無かったかも知れませんが、そんな逸話を匂わせるほど、吉政の出発点は、大した身分では無かった事は確かですから、やっぱり、大いなる出世です。

その後、先の浅井攻めの時の「秀次が人質として宮部継潤の養子に…」の関係(天正二年(1574年)頃までは秀次は宮部継潤の養子だったと思われる)から、吉政は、秀次の宿老となり、近江八幡(滋賀県)を治める事になった秀次のサポート役として、領国経営に手腕を奮ったとの事・・・

やがて天正十八年(1590年)に秀吉が関東の北条氏を倒した(7月5日参照>>)後、秀次が徳川家康の領地だった尾張(愛知県西部)に入ると、吉政も岡崎城(愛知県岡崎市)5万7400石の城主となります。

が、しかし・・・
ここで、ご存じの秀次の自害・・・(7月15日参照>>)

未だ謎多き秀次事件ですが、ここで多くの関係者が処分されるものの、吉政はお咎め無しでした。

一説には、秀吉の後を継いで関白となった秀次の悪行三昧を注意した事で、その頃の吉政は、秀次から遠ざけられていたため、ほぼ無関係・・・とも言われますが、その秀次さんのページでも書かせていただいたように、今では、その悪行三昧がでっちあげでは?との声も高いので、そこのところは何とも・・・

ただ、その秀次事件の時に、聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)にいた秀次に「高野山へ入るように」と促したのが石田三成であり宮部継潤である(実際には前田玄以など、他にも数名いますが)わけで・・・

そうなると、吉政のお咎め無しにも、何かあるんじゃ?・・・てな感じで、「吉政は秀吉&三成のスパイだった」てな説もあるのですが、そこまでではなくとも、何となく三成との親しげな関係を匂わせてくれるのが、吉政の最も有名な逸話である「三成逮捕」の一件です。

Dscf2411a600 ご存じのように、秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦い(くわしくは【関ヶ原の年表】で>>)で、敗軍の将となった三成は、伊吹山方面に脱出・・・(写真:関ヶ原古戦場にある田中吉政陣跡→)

翌々日には居城の佐和山城(滋賀県彦根市)(2月1日参照>>)も陥落する中、単身で古橋村(滋賀県木之本町)にたどり着いた三成が、地元の農民から笠や蓑(みの)を借りて木こりの姿となり、岩窟に隠れていたところを、東軍として参戦していた吉政の配下である田中伝左衛門沢田少右衛門なる人物に見つかって、合戦から5日後の9月21日に捕縛された(9月21日参照>>)・・・との事。

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば・・・

捕えられた三成に面会した吉政が、
「勝負は時の運でっさかいに、今回、力及ばんかったとは言え、数十万の軍勢を率いて挑まはった姿は、さすがの智謀やなって感心しましたわ。」
と、礼儀を込めて話すと、

三成は大きな声で笑いながら、
「秀頼(ひでより=秀吉の息子)公のために悪しき害を取り除いて、太閤殿下(秀吉)の恩に報いよーって思てんけど、運も尽きて、こないな結果になってもた以上、何の悔いもないわ!
コレ、君にやるよって形見にしてな」

と言って、秀吉から賜った切刃(きれば)正宗という脇差を与えたのだとか・・・

しかも、それまで、
「体に悪い!」
と言って、出されたご馳走をいっさい口にしていなかった三成が、
「このニラ粥は、体にええから食べてみぃ」
吉政が勧めた物は快く食した後、大きなイビキをかいて、ゆっくり寝た・・・と、

一説には、三成は吉政に、
「同じ捕まるんやったら、他のヤツより、君に捕まって良かったわ」
と、言ったとも・・・

なんとなく、二人の・・・もとい、濃い関係がううかがえます。

で、この功績により、戦後は、筑後(ちくご=福岡県南部)柳川城(福岡県柳川市)32万石を与えられて大名となった吉政・・・

ここでは、農業発展と水運の一石二鳥となる堀を活かした城下町作りに手腕を発揮し、周辺の街道整備なども行う見事な領国経営ぶりを見せてくれる吉政ですが、残念ながら、慶長十四年(1609年)2月18日京都の伏見にて病に倒れ、62歳の生涯を終えるのです。

家督は四男の忠政(ただまさ)が継ぎますが、その忠政に子供ができなかった事、また、四男なのに家督を継いだ事でもお解りのように、もともと兄弟の間がしっくり行って無かった事が相まって、忠政の死後に田中家は改易・・・兄の系列から血筋は残りますが、「吉政が築いた田中家」という物は、ここで終わりを告げたのです。

思えば、たった1代で、見事な出世物語・・・一方で、関ヶ原からわずか9年後の死は、吉政にとって、18歳で抱いた夢の、まだまだ途中であった事でしょう。

あの世で待つ三成とともに、お互いをトップクラスに引き上げてくれた恩ある豊臣家の滅亡を知らぬまま・・・
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« アンケート企画:「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」 | トップページ | 後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

略、 管理人様

私、浪速の影丸は去年 古橋のオトチの洞穴に挑戦してまいりました。
  まずは熊の罠でびびらされ 熊の出没に注意の看板に脅され、さんざん恐怖を植えつけられての山登りでした。

  三成にとって生きることが正義であり死こそが敗北であるはずなのに最後はどうして身を差し出したのか、石にかじりついてでも、大阪城に落ちるべきだったのに・・・

  管理人さんも一度オトチの洞穴に挑戦を

投稿: | 2014年2月21日 (金) 02時49分

こんにちは~

>どうして身を差し出したのか

そうですね。。。
こういう場合の常ですが、謎が残りますね~
そもそも、なぜ?大垣城で籠城ではなく、家康が望んでいた関ヶ原だったのか??も気になりますね~

>一度オトチの洞穴に挑戦を

行きたいですが、熊は怖いです。。。
一応、散策の時は、常に鈴を身につけてるんですが…(^-^;

投稿: 茶々 | 2014年2月21日 (金) 15時27分

こう言っちゃあ身も蓋もないですが
幕府にマークされてた1人には
違いないでしょうね~

投稿: | 2014年2月21日 (金) 17時37分

>幕府にマークされてた1人には…

そうですね~
以前、加藤清正さんのご命日にも書かせていただきましたが、関ヶ原から大坂の陣までの間に、田中さんをはじめ、豊臣恩顧の武将が亡くなり過ぎですね~

まぁ、最初の犠牲者は竹田城の赤松さんなんでしょうが…

投稿: 茶々 | 2014年2月22日 (土) 14時37分

こんにちは。

>竹田城の赤松さんが最初の犠牲者…

気になってググってみましたが、関ヶ原で石田方から寝返って宮部氏の鳥取城を攻めた際の城下焼き討ちを咎められて詰め腹を切らされた、赤松政広のことですね。なんか、焼き討ちを進言した亀井茲矩が責任を押し付けた説があるみたいですが。

投稿: 圭さん | 2014年2月23日 (日) 12時46分

圭さん、こんにちは~

ハイ、このブログでも2年ほど前にご紹介させていただきました。
優秀な方だったようで、自刃は残念です。

投稿: 茶々 | 2014年2月24日 (月) 13時31分

先日、「日本人のおなまえ」で田中姓特集が放送された際に取り上げられていますが、江戸幕府発足時の大名で「田中姓」は田中吉政親子だけらしいです。田中忠政以降で田中姓の大名はいないんですね。

投稿: えびすこ | 2021年2月14日 (日) 14時00分

えびすこさん、こんばんは~

私も、その番組見てましたが、やはり「江戸幕府発足時の大名」での田中は田中吉政さん関連が多いという事だと思います。

鎌倉から室町にかけて活躍した播磨の赤松の配下である田中さんも中国地方では有名だと思いますが、江戸期という事になると、おそらく、その頃は毛利配下に組み込まれてそうなので、大名家としては残らなかったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2021年2月15日 (月) 03時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 関ヶ原で三成を捕えた田中吉政~出世物語:

« アンケート企画:「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」 | トップページ | 後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場 »