後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場
元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に移りました。
・・・・・・・・・・・
時は鎌倉末期・・・
正和五年(1316年)に第14代執権となった北条高時(ほうじょうたかとき)(7月10日参照>>)・・・
一方、その2年後の文保二年(1318年)に第96代天皇として即位した後醍醐(ごだいご)天皇(2月26日参照>>)・・・
この頃は、皇族から来た守邦親王(もりくにしんのう)が第9代鎌倉幕府将軍となっていましたが、ご存じのように、あの源頼朝(みなもとのよりとも)の直系が絶えて(1月27日参照>>)以来、将軍はもはや飾り物・・・幕府の実権を握っていたのは、執権である北条家でした。
そんな幕府を倒して、自らが政治を行いたい後醍醐天皇は、正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)、元弘元年(1331年)の元弘の変(9月28日参照>>)と度々事を起こしますがいずれも失敗・・・
頼みの綱の楠木正成(くすのきまさしげ)も赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)にて敗れて姿をくらまし(10月21日参照>>)、後醍醐天皇自身も隠岐(おき)へと流されてしまします(3月21日参照>>)。
しかし元弘三年(1333年)閏2月1日になって、後醍醐天皇の皇子=護良親王(もりよし・もりながしんのう)が隠れていた吉野山を脱出して散り々々になっている討幕派に蜂起を呼び掛け(2月1日参照>>)、続く閏2月5日からは、死んだと思われていた正成が千早城(同じく千早赤阪村)に籠って、攻め寄る幕府軍を翻弄(2月5日参照>>)・・・
さらに、播磨(はりま=兵庫県南西部)からは、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)が挙兵して京都の六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)に迫ります。
そうなると、隠岐にいる後醍醐天皇の監視も厳重になるのですが、そんなこんなの2月のある日・・・その日の警固当番だったた佐々木義綱なる者が女官を通じて現在の戦況を報告し、後醍醐天皇に隠岐からの脱出を進言して来たのです。
にわかに信じ難い後醍醐天皇・・・なんせ、相手は自分の監視役ですから・・・
「隠岐から船で脱出して伯耆(ほうき=鳥取県中西部)か出雲(いずも=島根県東部)か…味方になってくれる武将のおる地に上陸してください。ほんだら、僕が追手のふりして行きまっさかいに、そこで合流しましょ」
と義綱・・・
言葉では忠誠を誓う義綱ですが、やはり疑いを拭えない後醍醐天皇は、
「ほな、まずはお前が出雲へ行って、味方になってくれる武将を集めて迎えに来いや」
と・・・
「承知しました」
と、出雲に向かった義綱は、同族のよしみで味方になってくれそうな塩冶高貞(えんやたかさだ)(4月3日参照>>)のもとを訪ねますが、高貞は味方になるどころか、その義綱を幽閉し、隠岐へは返さなかったのです。
待てど暮らせど義綱が戻らない事に業を煮やした後醍醐天皇は運を天に任せて、自ら脱出する事に・・・
御所に出産間近の女性がいる事に目を付けた後醍醐天皇は、
「彼女がいよいよお産をするので御所を出る」
という噂を流し、女性用の車に乗って闇夜の道を千波(ちぶり=知夫里島)の港を目指して、ひた走ります。
つき従うのは隠岐への流罪にも随従していた千種忠顕(ちぐさただあき)なる近臣ただ一人・・・
途中で車を捨て、さらにひた走り・・・慣れない闇夜の歩行とは言え、これは逃走ではなく、夢ある希望に満ちた旅立ちだと思うと、心は躍りますが、さすがに疲れは隠せない・・・
しばらく休憩する中、とある一軒家を見つけた忠顕が、港への道を尋ねると、中から怪しげな男が出て来て、天皇の姿をしげしげと見つめたかと思うと、
「俺が案内しますわ!」
と、疲れ果てている天皇を軽々と背負って、いざ出発・・・
怪しい風貌とはうらはらに、意外とやさしいこの男は、港に着くとあちこち走り回って、なんと、伯耆へと戻る船頭を見つけて交渉・・・その船に乗せてもらえる事になります。
二人の身なりを見て「タダ者ではない」と感じた船頭は、
「あなたたちのような高貴なお方をお乗せできるなんざ、一生の誉れです!伯耆と言わず、お望みなら、どこの港にでも行きますよって、言うてください!」
と・・・
この態度に安心した忠顕が、その身分を明かして励ますと、船頭は、ますます感激しまくりのハリキリまくりで、帆を高く上げ、一心不乱に漕ぎ出し、力を振り絞って前に進みます。
しかし、そこに隠岐判官・佐々木清高が乗った追手の船が近づいて来ました。
船頭は機転を効かせて、天皇と忠顕を船底に隠した上に、乾魚の入った俵を積み重ねて覆い、さらに、その上に乗組員を座らせます。
やがて追いついた船団のうち一艘が船を横付けし、ドヤドヤと武士たちが乗り込んで来て、船内を捜索しますが、上記の船頭の機転により、天皇の姿を発見する事はできない・・・
すると、一人の武士が、
「この船では無かったか…」
と、今度は船頭に、
「ならば、他に怪しい船は見なかったか?」
と訪ねます。
すかさず、
「今夜の子の刻(午前0時頃)の事やったかいな…その頃に千波の港を出た船に、なんや冠という物や立烏帽子のような物を被った京の高貴な方らしい人物が乗ってはったっちゅー事ですけど、おそらく、その船はもう五~六里先へ進んでるんとちゃいますやろか?」
と、船頭が答えると、
「よっしゃ!その船に違いない!」
と、追手の船は帆を張って進路を変え、見ているうちに遠くの先の方へ消えていきました。
が、しかし・・・
追手の船はこれだけではなく、またもや船団を組んで、もう一組・・・しかも、ここに来て風は向かい風となり、
「アカン!もう追い付かれる~」
と思ったところに、船底から後醍醐天皇が上がって来て、これまで、肌身離さす持っていたお守袋の中から、仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の遺骨)を一粒取り出し、それを懐紙の上に乗せて波の上に浮かべました。
すると、龍神が天皇の願いを聞いたのか?
にわかに風向きが変わり、追手の船団を後ろへ押し戻し、コチラを先へと誘導しはじめました。
(↑ここらあたりの不思議話は『太平記』によるお話なので…)
こうして危機を脱した船は、まもなく、無事、伯耆の国の名和(なわ)の港(鳥取県西伯郡名和町)に到着したのです。
上陸した忠顕は、すぐさま「この付近に精通した武将がいないか?」と聞きこみを開始・・・すると、「知名度こそあまり無いが、智略に優れた良い男で一族も繁栄している」と名和長年(なわながとし)なる人物の名が挙がります。
早速、長年に「天皇の味方になるか?ならないか?すぐに返答せよ」との勅使(ちょくし=天皇の使者)立てると、それを受けた長年は、今、まさに一族で宴会中・・・
突然の事にちゅうちょする長年でしたが、
「(天皇はあなたの)長年の武勇を前々からお聞きになっていた」
「(天皇があなたを)頼っておられる」
との、ちょっと盛り気味の篤いメッセージに、宴会の席にいた親族たちが、
「この期に及んで何を迷う?」
「天皇にお味方する以外に道はないゾ!」
と口々に声を挙げ、長年も決意します。
時に元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日・・・早速一同、鎧をつけ、天皇のもとへ一直線・・・急な事ゆえ車も用意できず、長年はその鎧姿の上に天皇を背負い、鳥が飛ぶ如くの早さでひた走って船上山(ふなのうえやま:現在のせんじょうざん=鳥取県東伯郡)へと登ったのでした。
これから後、長年は、反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)との京都合戦(6月20日参照>>)で討死する延元元年・建武三年(1336年)まで、後醍醐天皇の篤い信頼を受ける忠臣として活躍する事になります。
一方、後醍醐天皇が船上山に入った事で、討幕軍には様々な動きが・・・まずは、播磨の赤松が、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>) 、
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)、
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)、
さらに、4月8日の京合戦(4月8日参照>>)、
と続くのですが、それぞれの戦いはそれぞれのページでご覧いただくとして・・・
そんな中で、後醍醐天皇は、「これは…」と思う武将に連絡をつけるのですが、その中の一人が、今、まさに、楠木正成の籠る千早城を攻撃中の軍の中にいた、あの新田義貞(にったよしさだ)・・・
この3月11日に思いもよらぬ後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)を受け取った義貞は・・・と、この先は5月11日の【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】でどうぞ>>
.
固定リンク
| コメント (6)
| トラックバック (0)
最近のコメント