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2014年2月24日 (月)

後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場

 

元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に移りました。

・・・・・・・・・・・

時は鎌倉末期・・・

正和五年(1316年)に第14代執権となった北条高時(ほうじょうたかとき)(7月10日参照>>)・・・

一方、その2年後の文保二年(1318年)に第96代天皇として即位した後醍醐(ごだいご)天皇(2月26日参照>>)・・・

この頃は、皇族から来た守邦親王(もりくにしんのう)第9代鎌倉幕府将軍となっていましたが、ご存じのように、あの源頼朝(みなもとのよりとも)直系が絶えて(1月27日参照>>)以来、将軍はもはや飾り物・・・幕府の実権を握っていたのは、執権である北条家でした。

そんな幕府を倒して、自らが政治を行いたい後醍醐天皇は、正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)、元弘元年(1331年)の元弘の変(9月28日参照>>)と度々事を起こしますがいずれも失敗・・・

頼みの綱の楠木正成(くすのきまさしげ)赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)にて敗れて姿をくらまし(10月21日参照>>)、後醍醐天皇自身も隠岐(おき)へと流されてしまします(3月21日参照>>)

しかし元弘三年(1333年)閏2月1日になって、後醍醐天皇の皇子=護良親王(もりよし・もりながしんのう)が隠れていた吉野山を脱出して散り々々になっている討幕派に蜂起を呼び掛け(2月1日参照>>)、続く閏2月5日からは、死んだと思われていた正成が千早城(同じく千早赤阪村)に籠って、攻め寄る幕府軍を翻弄(2月5日参照>>)・・・

さらに、播磨(はりま=兵庫県南西部)からは、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)が挙兵して京都の六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)に迫ります。

そうなると、隠岐にいる後醍醐天皇の監視も厳重になるのですが、そんなこんなの2月のある日・・・その日の警固当番だったた佐々木義綱なる者が女官を通じて現在の戦況を報告し、後醍醐天皇に隠岐からの脱出を進言して来たのです。

にわかに信じ難い後醍醐天皇・・・なんせ、相手は自分の監視役ですから・・・

「隠岐から船で脱出して伯耆(ほうき=鳥取県中西部)か出雲(いずも=島根県東部)か…味方になってくれる武将のおる地に上陸してください。ほんだら、僕が追手のふりして行きまっさかいに、そこで合流しましょ」
と義綱・・・

言葉では忠誠を誓う義綱ですが、やはり疑いを拭えない後醍醐天皇は、
「ほな、まずはお前が出雲へ行って、味方になってくれる武将を集めて迎えに来いや」
と・・・

「承知しました」
と、出雲に向かった義綱は、同族のよしみで味方になってくれそうな塩冶高貞(えんやたかさだ)(4月3日参照>>)のもとを訪ねますが、高貞は味方になるどころか、その義綱を幽閉し、隠岐へは返さなかったのです。

待てど暮らせど義綱が戻らない事に業を煮やした後醍醐天皇は運を天に任せて、自ら脱出する事に・・・

御所に出産間近の女性がいる事に目を付けた後醍醐天皇は、
「彼女がいよいよお産をするので御所を出る」
という噂を流し、女性用の車に乗って闇夜の道を千波(ちぶり=知夫里島)の港を目指して、ひた走ります。

つき従うのは隠岐への流罪にも随従していた千種忠顕(ちぐさただあき)なる近臣ただ一人・・・

途中で車を捨て、さらにひた走り・・・慣れない闇夜の歩行とは言え、これは逃走ではなく、夢ある希望に満ちた旅立ちだと思うと、心は躍りますが、さすがに疲れは隠せない・・・

しばらく休憩する中、とある一軒家を見つけた忠顕が、港への道を尋ねると、中から怪しげな男が出て来て、天皇の姿をしげしげと見つめたかと思うと、
「俺が案内しますわ!」
と、疲れ果てている天皇を軽々と背負って、いざ出発・・・

怪しい風貌とはうらはらに、意外とやさしいこの男は、港に着くとあちこち走り回って、なんと、伯耆へと戻る船頭を見つけて交渉・・・その船に乗せてもらえる事になります。

二人の身なりを見て「タダ者ではない」と感じた船頭は、
「あなたたちのような高貴なお方をお乗せできるなんざ、一生の誉れです!伯耆と言わず、お望みなら、どこの港にでも行きますよって、言うてください!」
と・・・

この態度に安心した忠顕が、その身分を明かして励ますと、船頭は、ますます感激しまくりのハリキリまくりで、帆を高く上げ、一心不乱に漕ぎ出し、力を振り絞って前に進みます。

しかし、そこに隠岐判官・佐々木清高が乗った追手の船が近づいて来ました。

船頭は機転を効かせて、天皇と忠顕を船底に隠した上に、乾魚の入った俵を積み重ねて覆い、さらに、その上に乗組員を座らせます。

やがて追いついた船団のうち一艘が船を横付けし、ドヤドヤと武士たちが乗り込んで来て、船内を捜索しますが、上記の船頭の機転により、天皇の姿を発見する事はできない・・・

すると、一人の武士が、
「この船では無かったか…」
と、今度は船頭に、
「ならば、他に怪しい船は見なかったか?」
と訪ねます。

すかさず、
「今夜の子の刻(午前0時頃)の事やったかいな…その頃に千波の港を出た船に、なんや冠という物や立烏帽子のような物を被った京の高貴な方らしい人物が乗ってはったっちゅー事ですけど、おそらく、その船はもう五~六里先へ進んでるんとちゃいますやろか?」
と、船頭が答えると、
「よっしゃ!その船に違いない!」
と、追手の船は帆を張って進路を変え、見ているうちに遠くの先の方へ消えていきました。

が、しかし・・・
追手の船はこれだけではなく、またもや船団を組んで、もう一組・・・しかも、ここに来て風は向かい風となり、
「アカン!もう追い付かれる~」
と思ったところに、船底から後醍醐天皇が上がって来て、これまで、肌身離さす持っていたお守袋の中から、仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の遺骨)を一粒取り出し、それを懐紙の上に乗せて波の上に浮かべました。

すると、龍神が天皇の願いを聞いたのか?
にわかに風向きが変わり、追手の船団を後ろへ押し戻し、コチラを先へと誘導しはじめました。
(↑ここらあたりの不思議話は『太平記』によるお話なので…)

こうして危機を脱した船は、まもなく、無事、伯耆の国の名和(なわ)の港(鳥取県西伯郡名和町)に到着したのです。

上陸した忠顕は、すぐさま「この付近に精通した武将がいないか?」と聞きこみを開始・・・すると、「知名度こそあまり無いが、智略に優れた良い男で一族も繁栄している」名和長年(なわながとし)なる人物の名が挙がります。

早速、長年に「天皇の味方になるか?ならないか?すぐに返答せよ」との勅使(ちょくし=天皇の使者)立てると、それを受けた長年は、今、まさに一族で宴会中・・・

突然の事にちゅうちょする長年でしたが、
(天皇はあなたの)長年の武勇を前々からお聞きになっていた」
(天皇があなたを)頼っておられる」
との、ちょっと盛り気味の篤いメッセージに、宴会の席にいた親族たちが、
「この期に及んで何を迷う?」
「天皇にお味方する以外に道はないゾ!」

と口々に声を挙げ、長年も決意します。

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錦絵に描かれた名和長年と後醍醐天皇の隠岐脱出場面

時に元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日・・・早速一同、鎧をつけ、天皇のもとへ一直線・・・急な事ゆえ車も用意できず、長年はその鎧姿の上に天皇を背負い、鳥が飛ぶ如くの早さでひた走って船上山(ふなのうえやま:現在のせんじょうざん=鳥取県東伯郡)へと登ったのでした。

これから後、長年は、反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)との京都合戦(6月20日参照>>)で討死する延元元年・建武三年(1336年)まで、後醍醐天皇の篤い信頼を受ける忠臣として活躍する事になります。

一方、後醍醐天皇が船上山に入った事で、討幕軍には様々な動きが・・・まずは、播磨の赤松が、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>)
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)
さらに、4月8日の京合戦(4月8日参照>>)
と続くのですが、それぞれの戦いはそれぞれのページでご覧いただくとして・・・

そんな中で、後醍醐天皇は、「これは…」と思う武将に連絡をつけるのですが、その中の一人が、今、まさに、楠木正成の籠る千早城を攻撃中の軍の中にいた、あの新田義貞(にったよしさだ)・・・

この3月11日に思いもよらぬ後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)を受け取った義貞は・・・と、この先は5月11日【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】でどうぞ>>
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2014年2月18日 (火)

関ヶ原で三成を捕えた田中吉政~出世物語

 

慶長十四年(1609年)2月18日、関ヶ原の戦いの際に石田三成を捕らえたことで知られる筑後柳川城主・田中吉政が亡くなりました。

・・・・・・・・・

田中吉政(たなかよしまさ)・・・失礼ながら、冒頭に書いた関ヶ原後の石田三成(いしだみつなり)逮捕の一件くらいでしか、ドラマなどではお目にかからない方ではありますが、

実は、その出自ははっきりせず、近江源氏の末裔だとか先祖は城主だったとかという話もあるものの、少なくとも彼が生まれる頃には、すでに農民であったと思われ、

それが、彼1代で、最後には筑後一国柳川城32万石の城持ち大名となるのですから、思えばなかなかの出世・・・あまりメジャーじゃないのは残念ですね。

という事で諸説あるのですが・・・

もともと、近江国(滋賀県)田中村の小農人だった彼は、
「この人生…百姓で終わるのはイヤや!
世は、まさに戦国…誰かに仕官して武功を挙げて出世して金持ちになって名を残したるねん!」

と、18歳の時に一大決心をし、奥さんと離婚・・・

って「なぜ?離婚?」
と思ったのは、奥さんも同じ・・・

「なんでやのん?ウチ、何かした?」と・・・

すると吉政は、
「お前に罪は無いねん…俺に夢があるだけやねん。明日、出て行くさかいに、飯をぎょーさん炊いてくれるか」
と言って、自宅に幼馴染の友人を大勢呼んで宴会を開き、その席で自らの夢を皆に披露し、翌日、家を出たその足で、浅井郡宮部村(長浜市宮部町)の土豪・宮部継潤(みやべけいじゅん)なる武将のもとへ行き、その草履取りとなって戦国武将の道を歩み始めます。

そんな吉政の日々の様子を見ていた継潤・・・
「コイツを草履取りにしとくのはもったいない」
と、自らの側近に加えるのです。

以前、ブログに書かせていただいたように(3月25日参照>>)、この宮部継潤なる武将は、あの浅井攻めの時に、羽柴(後の豊臣)秀吉が、カワイイ甥っ子の秀次(後の豊臣秀次)を人質に出してでも味方にしたかった人物・・・

もちろん、その時は、彼の治める城の立地条件などもあったでしょうが、後に、秀吉をして『日本無双』と言わせるくらいの武将なわけですから、そんな継潤の目にとまる吉政は、やはり、タダ者では無い雰囲気・・・

こうして、秀吉の与力となった継潤とともに、その配下である吉政も・・・という事になるのですが、やがて信長の中国攻めがいよいよ本格的になった天正八年(1580年)、秀吉が、因幡(鳥取県東部)垣屋光成(かきやみつなり)の城を攻めた時、真っ先に城内に入った吉政は、今まさに、落城を決意して自害しようとしている城主の光成を見つけます。

自害しようとしているとは言え、世は戦国ですから、敵同士が出会えば、当然、お互いに槍を向けて一戦交えるわけですが、すぐには勝負はつかず・・・そうこうしているうちに、二人のもとに秀吉からの知らせが・・・

なんと、光成の見事な籠城ぶりに「敵ながらアッパレ!」と感動した秀吉が、その命を助け、所領も安堵するという言うのです。

思わぬ展開で、結果的に光成の自害を阻止した形になった吉政・・・戦後、吉政に会見した秀吉は、「お気に入りの名将を救ってくれた」として、吉政を三州(愛知県東部=三河)刈屋城(愛知県刈谷市=現在は刈谷城)城主として4万石を与えたのです。

これが、18歳で家を出てから、わずか6年後の事だとか・・・いやはや、大したもんです。

とは言え、これは『朝野雑載(ちょうやざつさい)に登場するお話で、最近では、近江国田中村ではなく、浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身とする説が有力ですし、その奥さんも、宮部家の家臣で坂田郡国友村(長浜市国友町)を本拠とする国友与左衛門の娘=妙寿院(みょうじゅいん)という女性で、父の与左衛門の姉が吉政の母・・・つまり吉政とは従兄弟同志の女性だったのだとか・・・

なので、おそらく、奥さんを捨てて宮部の草履取りになるような事は無かったかも知れませんが、そんな逸話を匂わせるほど、吉政の出発点は、大した身分では無かった事は確かですから、やっぱり、大いなる出世です。

その後、先の浅井攻めの時の「秀次が人質として宮部継潤の養子に…」の関係(天正二年(1574年)頃までは秀次は宮部継潤の養子だったと思われる)から、吉政は、秀次の宿老となり、近江八幡(滋賀県)を治める事になった秀次のサポート役として、領国経営に手腕を奮ったとの事・・・

やがて天正十八年(1590年)に秀吉が関東の北条氏を倒した(7月5日参照>>)後、秀次が徳川家康の領地だった尾張(愛知県西部)に入ると、吉政も岡崎城(愛知県岡崎市)5万7400石の城主となります。

が、しかし・・・
ここで、ご存じの秀次の自害・・・(7月15日参照>>)

未だ謎多き秀次事件ですが、ここで多くの関係者が処分されるものの、吉政はお咎め無しでした。

一説には、秀吉の後を継いで関白となった秀次の悪行三昧を注意した事で、その頃の吉政は、秀次から遠ざけられていたため、ほぼ無関係・・・とも言われますが、その秀次さんのページでも書かせていただいたように、今では、その悪行三昧がでっちあげでは?との声も高いので、そこのところは何とも・・・

ただ、その秀次事件の時に、聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)にいた秀次に「高野山へ入るように」と促したのが石田三成であり宮部継潤である(実際には前田玄以など、他にも数名いますが)わけで・・・

そうなると、吉政のお咎め無しにも、何かあるんじゃ?・・・てな感じで、「吉政は秀吉&三成のスパイだった」てな説もあるのですが、そこまでではなくとも、何となく三成との親しげな関係を匂わせてくれるのが、吉政の最も有名な逸話である「三成逮捕」の一件です。

Dscf2411a600 ご存じのように、秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦い(くわしくは【関ヶ原の年表】で>>)で、敗軍の将となった三成は、伊吹山方面に脱出・・・(写真:関ヶ原古戦場にある田中吉政陣跡→)

翌々日には居城の佐和山城(滋賀県彦根市)(2月1日参照>>)も陥落する中、単身で古橋村(滋賀県木之本町)にたどり着いた三成が、地元の農民から笠や蓑(みの)を借りて木こりの姿となり、岩窟に隠れていたところを、東軍として参戦していた吉政の配下である田中伝左衛門沢田少右衛門なる人物に見つかって、合戦から5日後の9月21日に捕縛された(9月21日参照>>)・・・との事。

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば・・・

捕えられた三成に面会した吉政が、
「勝負は時の運でっさかいに、今回、力及ばんかったとは言え、数十万の軍勢を率いて挑まはった姿は、さすがの智謀やなって感心しましたわ。」
と、礼儀を込めて話すと、

三成は大きな声で笑いながら、
「秀頼(ひでより=秀吉の息子)公のために悪しき害を取り除いて、太閤殿下(秀吉)の恩に報いよーって思てんけど、運も尽きて、こないな結果になってもた以上、何の悔いもないわ!
コレ、君にやるよって形見にしてな」

と言って、秀吉から賜った切刃(きれば)正宗という脇差を与えたのだとか・・・

しかも、それまで、
「体に悪い!」
と言って、出されたご馳走をいっさい口にしていなかった三成が、
「このニラ粥は、体にええから食べてみぃ」
吉政が勧めた物は快く食した後、大きなイビキをかいて、ゆっくり寝た・・・と、

一説には、三成は吉政に、
「同じ捕まるんやったら、他のヤツより、君に捕まって良かったわ」
と、言ったとも・・・

なんとなく、二人の・・・もとい、濃い関係がううかがえます。

で、この功績により、戦後は、筑後(ちくご=福岡県南部)柳川城(福岡県柳川市)32万石を与えられて大名となった吉政・・・

ここでは、農業発展と水運の一石二鳥となる堀を活かした城下町作りに手腕を発揮し、周辺の街道整備なども行う見事な領国経営ぶりを見せてくれる吉政ですが、残念ながら、慶長十四年(1609年)2月18日京都の伏見にて病に倒れ、62歳の生涯を終えるのです。

家督は四男の忠政(ただまさ)が継ぎますが、その忠政に子供ができなかった事、また、四男なのに家督を継いだ事でもお解りのように、もともと兄弟の間がしっくり行って無かった事が相まって、忠政の死後に田中家は改易・・・兄の系列から血筋は残りますが、「吉政が築いた田中家」という物は、ここで終わりを告げたのです。

思えば、たった1代で、見事な出世物語・・・一方で、関ヶ原からわずか9年後の死は、吉政にとって、18歳で抱いた夢の、まだまだ途中であった事でしょう。

あの世で待つ三成とともに、お互いをトップクラスに引き上げてくれた恩ある豊臣家の滅亡を知らぬまま・・・
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2014年2月13日 (木)

アンケート企画:「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」

 

さて、本日は、旬なブーム?に乗っかったアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とは言え、以前もお話させていただいたように、軍師もそれぞれ・・・

私たちが「軍師」と聞いて思いつくのは、今年の大河ドラマの主役である黒田官兵衛(くろだかんべえ・かんひょうえ)はじめとする、あんな感じですが、彼らは、ある武将の与力(よりき)という立場で本人も武将です。

しかし、以前も、中山修理介(なかやましゅりのすけ)さんのページ(10月7日参照>>)書かせていただいたように、合戦に参加しない僧侶陰陽師(おんみょうじ)のような人もいます。

かと言って、僧侶でも合戦に参加した安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ような人もいるし・・・

どこまでが僧侶でどこまでが軍師で、どっから戦国武将・・・と言われても、メッチャややこしいので、
とりあえずは、固い事は抜きにして、管理人:茶々の独断と偏見で以って、16項目の選択肢を作ってみましたので、お遊び感覚で、それでいて清き1票を、よろしくお願いいたしまする~~~m(_ _)m

もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 織田信長&豊臣秀吉に仕えた
    黒田官兵衛(孝高・如水)
    今年の主役は外せない?…(参照ページ>>)
  2. 豊臣秀吉の名軍師
    竹中半兵衛(重治)
    如水が出たらコッチもね!…(参照ページ>>)
  3. 武田信玄に仕えた
    山本勘助(晴幸・道鬼)
    「風林火山」の旗のもと…(参照ページ>>)
  4. 上杉謙信の四天王
    宇佐美定満
    緒方拳さんのイメージ強し…(参照ページ>>)
  5. 今川義元をサポートした
    太原雪斎(崇孚)
    義元も家康もこの人なくしては…(参照ページ>>)
  6. 武田信玄の気象予報士
    駒井高白斎
    勝利の影に天気アリ?…(参照ページ>>)
  7. 織田信長を育てた
    平手政秀
    傅役も軍師です…(参照ページ>>)
  8. 戦国のネゴシエーター
    安国寺恵瓊
    外交交渉という名の軍事…(参照ページ>>)
  9. 尼子再興に命を賭けた
    山中鹿介(幸盛)
    願わくは、我に七難八苦を与えたまえ…(参照ページ>>)
  10. 秀吉の天下統一を助けた弟
    豊臣秀長

    公儀の事は秀長に…(参照ページ>>)
  11. 天下人となった秀吉のもとで…
    施薬院全宗
    人々を救うため軍師となった?…(参照ページ>>)
  12. 伊達家を支えた政宗の傅役
    片倉小十郎(景綱)
    独眼竜の在るところ小十郎あり…(参照ページ>>)
  13. 徳川家康のブレーン
    金地院(以心)崇伝
    江戸幕政に関わった黒衣の宰相…(参照ページ>>) 
  14. 同じく徳川家康のブレーン
    南光坊天海
    明智光秀説もある謎の人…(参照ページ>>)
  15. 琉球最後の忠臣
    謝名利山
    最後まで薩摩に屈しなかった…(参照ページ>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がおられましたらお知らせください

とりあえずは・・・上記の16項目に絞ってみました。

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは2月27日に締め切りとさせていただきました。

結果はコチラからどうぞ>>
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2014年2月 9日 (日)

織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始

 

天正十年(1582年)2月9日、武田方に属していた木曽義昌の離反を受けて、信濃に出陣する事を決意した織田信長諸将に命令を下しました・・・世に言う『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)です。

・・・・・・・・

武田勝頼(たけだかつより)織田信長徳川家康連合軍が相まみえた長篠の合戦(5月21日参照>>)から3年・・・

その長篠で多くの老将を失った勝頼は、彼が、もともと諏訪家を継ぐはずだった事にこだわったり、今は亡き父・信玄を崇拝したりする家臣たちとの間に亀裂を生じながら(4月16日参照>>)、何とか武田家を盛り上げるべく、北条の第3代当主・北条氏康(うじやす)の娘を娶って同盟を結び(3月11日参照>>)徐々に勢力をつけて来る織田、度々侵攻して来る徳川に対抗する日々を送っていたわけですが、

その同盟からわずか1年後の天正六年(1578年)、越後(新潟県)上杉謙信の急死に始まった上杉家の後継者争い=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)の時に、北条家から養子に入っていた上杉景虎(かげとら)ではなく、上杉景勝(かげかつ)と同盟を結んだ事で、その北条との同盟も消滅・・・

しかも天正九年(1581年)3月には、隣国との境界近くにある防御の要=高天神城を家康に落とされてしまいます(3月22日参照>>)

そのため、甲斐初の本格的な城・新府城を構築し、本拠を甲府から韮崎(にらさき)へと移して防備を強化しようと試みる勝頼でしたが、この新城の建築にかかる膨大な費用の負担に不満を持ったのが勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)でした。

天正十年(1582年)2月1日、かねてより、義昌の説得にかかっていた遠山友忠(きとおやまともただ)から、「義昌の調略に成功した」との報告を受けた信長は、義昌の弟・木曽義豊(きそよしとよ)を人質として差し出す事を条件に、援軍を出す約束をしたのです。

この夫の行動に激怒していたのは義昌の嫁である真理姫・・・早速、兄の勝頼に「義昌謀反」の一報を届け、夫と離縁して三男の義一(よしかず)を連れて姿を隠します。

翌日の2月2日に15000ほどの軍勢を率いて新府城を出陣した勝頼は、諏訪上原(うえのはら=長野県諏訪市)へと進出して陣を構え、出撃態勢を整えます。

続く2月3日、信長は、家康をはじめ、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)飛騨(ひだ=岐阜県北部)金森長親(かなもりながちか)らに進撃を命じ、自らは息子の信忠(のぶただ)との2手に分かれて伊那(いな=長野県上伊那郡&下伊那郡)へと進攻・・・先陣を切る森長可(もりながよし)団忠直(だんただなお)木曽・岩村(岐阜県恵那市)方面へと向かいます。

その伊那への入り口にあったのが滝ガ沢砦(長野県下伊那郡)・・・武田方は、ここを守りの要として下条信氏(しもじょうのぶうじ)に守らせていましたが、この状況になって弟の下条氏長(うじなが)兄を追放して織田方に寝返り・・・まもなく、この砦には織田の軍勢が入ります。

かくして天正十年(1582年)2月9日、信長は、この合戦における11項目に渡る命令を諸将に発したのです。

  • 今回、俺と一緒に出陣するのは大和(奈良県)の軍勢…これは筒井順慶(つついじゅんけい)に率いてもらうんで準備よろしく、ただし高野山寄りの連中は残して、吉野口を警固させてね。
  • 河内連判衆烏帽子形(えぼしがた=大阪府河内長野市)高野山雑賀(さいが・さいか=和歌山県北西部)方面を警戒しといてね(【織田信長の高野山攻め】参照>>)
  • 和泉一国(大阪府南西部)の者は紀州(和歌山県)に警戒
  • 三好康長(みよしやすなが)くんは四国へ出陣してな。
  • 摂津(せっつ=大阪府北西部と兵庫県南東部)の国は、池田恒興(つねおき)は留守番して息子二人が出陣してや。
  • 中川清秀(なかがwきよひで)は出陣してや。
  • 多田家も出陣してや。
  • 上山城衆は、いつでも出陣できるように用意しといてね。
  • 羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は中国地方全体の警備…
  • 細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)は息子の忠興(ただおき)一色満信(いっしきみつのぶ)を出陣させて、自分は自国=丹後(たんご=京都府北部)を警固するように…
  • 明智光秀(あけちみつひで)は出陣の用意をしておいてね
  • 以上なんやけど…遠方への出兵やさかいに大軍を率いる事無く少数精鋭で、兵糧の準備も充分に…けど、少数でも大部隊とおんなじくらいの成果を発揮できるよう頑張ってな。

てな感じです。

Odanobutada これを受けた息子の信忠が先発して2月14日に岩村に着陣すると、信長は、滝川一益(たきがわかずます)池尻秀隆(いけじりひでたか)らを派遣・・・

すると、その様子を察した信州松尾(長野県飯田市)の城主・小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)が、「お味方しまっせ!」と声をかけて来たので、森長可と団忠直が先陣として妻籠(つまご=長野県木曽郡)方面から晴南寺(長野県下伊那郡)へと進撃し、さらに木曽峠から梨子野峠(なしのとうげ=下伊那郡)へ軍を走らせると、信嶺も合流して、あちこちに火の手が上がります。

これを受けた武田方・・・「もはや守りきれぬ」とみた飯田城(飯田市)坂西織部(ばんざいおりべ)保科正直(ほしなまさなお)は、城を出て退却しました。

2月16日には、それを追撃する森長可と迎え撃つ武田方が、鳥居峠(木曽郡~塩尻市)にてぶつかりますが、この戦いで武田方に多数の死者が出てしまいます。

さらに、そこに木曽方面から織田長益(ながます=信長の弟で後の有楽斉)らの軍勢が駆けつけ、またたく間に鳥居峠を占拠・・・この間に、信忠は飯田に陣を移動させました。

この時、その先となる武田方の大島(下伊那郡松川町)の城では、城主の日向宗秀(ひゅうがむねひで)が強固な守りを固めていましたが、信忠が攻めの姿勢を見せると、夜の闇にまぎれて逃走・・・こうして、織田方は大島城も占拠してしまったのです。

「開城→追撃→逃走→追撃→」と、何やら、武田方が、どんどん一方的に後退してる感が拭えませんが、やはり、2月はじめに妹婿の木曽義昌が離反した時点で、もはや、勝頼と諸将の亀裂はピークに達し、キッカケさえあれば怒涛のごとく崩れる態勢に陥っていたのでしょうね。

それは武将だけでなく、領民たちも同じでした。

信忠に先陣を命じられた森長可らが、さらに先の飯島(上伊那郡飯島町)まで進撃すると、前方から、、農民たちが自らの家々に火を放って、コチラに向かって来るのが見えます。

新城建設のために、重い税をかけられたり、労働力として駆り出されたり、はたまた、周囲に多くの関所を設けていたり・・・と、ここ最近の勝頼の領国運営に、庶民たちも不満をつのらせ、「加勢しまっせ!」とばかりに協力の申し出たのでした。

こうして始まった甲州征伐・・・もはや、織田方に吹く風は止まりませんでした。

このあと、2月20日には、別働隊で動いていた徳川家康が田中城を開城させ(2月20日参照>>)3月1日には、一族の穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)までもが武田を裏切る(3月1日参照>>)事になるのですが、そのお話は、それぞれのページで、、、

また、今回の主役である信忠隊がこの先向かう高遠城の戦いについては3月2【勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信】でどうぞ>>
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2014年2月 4日 (火)

足利VS山名~南北朝・神南合戦

 

正平十年・文和四年(1355年)2月4日、北朝=幕府軍を率いる足利尊氏と、その息子の直冬を担ぐ南朝側の山名時氏がぶつかった神南(こうなん)合戦がありました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)ものの、その後に後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して京都へ攻め寄せた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都に開いた室町幕府=北朝(8月15日参照>>)・・・

一方、京都を追われた後醍醐天皇が大和(奈良)吉野にて朝廷を開く=南朝(12月21日参照>>)・・・こうして始まった南北朝の動乱・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が亡くなった(8月16日参照>>)後も、京都を制圧し続けていた北朝でしたが、尊氏の右腕だった弟の直義(ただよし)が正平五年・観応元年(1350年)に敵対し、観応の擾乱(じょうらん)(10月29日参照>>)という内輪モメに発展・・・まもなく、直義の死を以って何とか収まるのですが、

これをチャンスと見た、今は亡き新田義貞(にったよしさだ)の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが関東で挙兵し(2月20日参照>>)、尊氏がその鎮圧のために留守にしている間に、畿内では、後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇が挙兵して八幡山(京都府八幡市)にたて籠り、いち時は優勢となりますが、留守を預かる尊氏の息子=義詮(よしあきら)が何とか挽回・・・(3月24日参照>>)

しかし、この八幡の合戦で活躍したにも関わらず、佐々木道誉(どうよ)のが上層部にとりついでくれず、思うように恩賞が貰えなかった山名師氏(もろうじ)が、正平八年・文和二年(1353年)、不満モンモンのまま、父=時氏(ときうじ)とともに南朝方へと転身して挙兵しました。

しかも、ここに来て、尊氏の次男でありながらもソリが合わず、亡き直義の養子となっていた足利直冬(ただふゆ)を味方に引き入れる事に成功したばかりか、かの後村上天皇の「尊氏&義詮追討」の勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を得たのでした(6月9日参照>>)

かくして正平九年・文和三年(1354年)12月13日、直冬を総司令官に掲げた時氏・師氏父子は、5000余騎の兵を率いて伯耆(ほうき=鳥取県中西部)を出立したのです。

Asikagatakauzi600 この時の北朝側・・・尊氏は在京していましたが、自らの手勢を義詮に託して播磨(はりま=兵庫県南西部)へと出陣させており、ほぼ無防衛な状態・・・京都での市街戦は不利と判断し、北朝の天皇である後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)を連れて、一旦近江(滋賀県)へと退きます。

明けて正月13日・・・直冬&山名勢は、尊氏勢がいなくなった京へと入りました。

すると、そこに越前(福井県)の守護=斯波高経(しばたかつね)が3000騎を引き連れて、「加勢しまっせ!」と合流・・・と、この高経さん、以前、瓜生兄弟のところ(1月12日参照>>)で出て来た人ですが、この時に金崎城(福井県)を攻撃していた事でもお解りのように、それまでは室町幕府側の重鎮で、あの運命の遭遇戦で新田義貞の首を挙げた(7月21日参照>>)人物です。

それが、ここに来ての、いきなりの寝返り・・・

実は彼・・・その義貞を討った時に、討ち取った人物が持っていた伝来の名刀=「鬼丸」「鬼切」という2本の刀によって、その首が義貞である事を確認するわけで、当然の事ながら、その2本の名刀は、その時点から高経の物となっていたのですが・・・

この「鬼丸」は、北条時政(ほうじょうときまさ)(1月6日参照>>)が所持していて「小鬼の災いを斬った」という伝説の刀で、以来、北条嫡流に伝わっていたのを、鎌倉討幕のおりに義貞が手に入れた物。

「鬼切」はさらに古く、源氏のカリスマである源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)(12月8日参照>>)の愛刀とされる物で、どちらも、お宝と呼ぶにふさわしい名刀でした。

・・・で、源平代々の重宝となれば、これまた当然の事ながら、尊氏も欲しい・・・そんなわけで、尊氏は、何度も何度も、高経に「ソレ、欲しい~の」「チョーダイ」と懇願していたのですが、

そんな中で、毎度々々の懇願がうっとぉしくなったのか?はたまた、断わり切れなかったのか?高経はとうとう、その名刀を尊氏に献上するのですが、実はそれがニセモノだったわけで・・・

しかし、そればすぐにバレ、ニセモノをつかまされた尊氏が激怒し、報復として恩賞の大幅削減という措置を取られていた、まさに、その真っ最中だった高経は、尊氏から離反し、南朝に寝返ったというワケです。

かくして、高経という強い味方を得た直冬&山名勢・・・一方、近江へと退いた尊氏も、また、播磨にいた義詮も、それぞれが戦闘準備をして連絡を取り、同時に行動を開始します。

それぞれの大将のところに北朝勢力が集まったのを確認した正平十年・文和四年(1355年)2月4日尊氏は30000余騎を率いて東坂本(滋賀県大津市)に到着・・・義詮は7000余騎を率いて山崎の西=神南(こうなん=高槻市神南:下記地図の上牧駅の北西の山です)の北の峯に陣取ります。

一方の直冬は、自らが高経以下7000余騎を率いて東寺に詰め、その兵は七条から九条を護り固めます。

南朝軍のもう一手=山名父子は、5000余騎を率いて、神南とは淀川を挟んで対岸となる淀・鳥羽あたりに陣取り、そこから南へと続く八幡山(京都府八幡市)の山すそあたりまでは、援軍として駆けつけた南朝側の兵士・約3000騎が広がります。

やがて動きを見せはじめる戦場・・・義詮は、コチラが山に布陣しているとは言え、木々が生い茂っている険しい状態では敵の動向がつかめず、どこから攻めて来られるかわからないため、西の峯南の峯北の峯の三方に分れて陣を固めていたところ、まさに対岸にいた援軍の3000騎が一気に鬨(とき)の声を挙げて西の峯へと駆け上がって来ました。

もう一方の南の峯では、「さすがに、この険しい谷を登っては来れまい」と油断している北朝軍に向かって、山名父子率いる2000余騎が攻め上り、またたく間に西の峯と南の峯が破られます。

この勢いに乗って、さらに攻める山名軍に対し、押される北朝勢は総崩れ・・・逃走者が続出して、いつしか義詮の周囲は、わずかに100騎ほどになってしまいます。

無勢となった本陣・・・
「もはや、これまでか!」
と、義詮が自刃を覚悟した、その時・・・あの佐々木道誉が登場・・・

「大将、急ぎなはんな!自刃するんやったら、俺らが討死してからにしなはれ!」

・・・と、そこに迫る山名軍が見たのは、護衛の数も少なくなった大将の本陣と、そのかたわらにはためく四目結(よつめゆい)の家紋が描かれた軍旗・・・

「あの四目結紋は佐々木の家紋や!あそこに道誉がおるゾ!
そもそもは、アイツのせいで俺らは南朝に寝返ったわけやねんから、誰か、はよ、あの首取って、俺に見せてくれや!」

この言葉に奮起する山名軍でしたが、まさに、義詮まで二町(一町=約109m)ほどに迫った時、今度は赤松則祐(そくゆう・のりすけ)が、
「天下はこの戦いにかかってるんや!命惜しむな!名将の前でかっこええ散り際見せて、名を残さんかい!」
とゲキを飛ばします。

険しい谷を登る側と防ぐ側・・・ともに奮起すれば、残念ながら上に居る方が有利・・・さすがの山名軍でも敵に押されると、その気持ちはあれど、疲れ切った兵士は次から次へと谷になだれ落ちてしまいました。

「行け~~~!!」と声をかけながらも、ふと周囲を見渡した山名父子は、もはやその数の少なさにどうしようもなく・・・残念ながら山崎を目指して軍を退く事にしました。

しかし、そうなると勝ちに乗じて、退く山名軍に追い撃ちをかける北朝軍・・・このドサクサで師氏は左目を射られるという重傷を負ってしまいました。

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対岸の八幡・橋本側から淀川越しに神南方面を望む

こうして、主力であった山名軍が敗北した南朝軍は全軍撤退を余儀なくされますが、未だ京都を制圧中・・・戦いそのものは、まだ終わりません。

このあと、尊氏VS直冬の、父子対決となる市街戦へと突入した東寺合戦(京軍)が終結する3月13日のページでどうぞ>>
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