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2014年3月17日 (月)

戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝

 

寛永五年(1628年)3月17日、戦国末期の僧・安楽庵策伝が、京都所司代の板倉重宗に「醒睡笑」を提出しました。

・・・・・・・・・

以前、「落語の元祖」という事で、戦国時代に豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう・殿さまの相談相手)として活躍した曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)をご紹介させていただきましたが(11月19日参照>>)、実は、もう一人、「落語の元祖」と称される人物がいます。

Sakuden600a2 それが、戦国末期に京都の誓願寺(せいがんじ=京都市中京区新京極)の法主を務めた僧侶=安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)です。

策伝は美濃(みの=岐阜県岐阜市)の武将・金森定近の息子だったとして、あの飛騨高山高山城を築いて、その町を小京都と呼ばれるほどの城下町にした金森長近(かなもりながちか)(8月20日参照>>)の弟だとされます。

7歳の時に浄音寺(じょうおんじ=岐阜県)にて出家して浄土宗の僧となった後、永禄七年(1564年)の11歳の時に京都に出て東山の禅林寺(永観堂=京都市左京区)にて修行・・・

その後、畿内だけに留まらず、中国地方四国地方でも布教活動を行った後、46歳で一旦、故郷の浄音寺に戻りますが、慶長十八年(1613年)、60歳にして京都の大本山誓願寺55世住職となったのです。

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京都の繁華街にある誓願寺(京都市中京区新京極)

そんな策伝上人が得意としたのが「お説教」・・・

「お説教」とは、ご存じの通り、もともとはお坊さんが、檀家さんや信徒に、仏の教えを説いてみせる法話の事ですが、現在でも、お父さん&お母さんや先生などから「叱られる」事が「お説教」と言い換えられるように、その話の内容は、庶民には難解で堅苦しく、小難しい物・・・

そこを、おもしろおかしく笑い話を交えながら、親しみやすく、そして、わかりやすく皆に説いてみせようと試みたのが策伝上人なのです。

上記の通り、策伝上人の生きた時代は、長きに渡った戦乱の世の真っただ中・・・

貴族など、身分の高い一部の特権階級のみに開かれていたそれまでの仏教の門を、庶民にも大きく開いて、浄土宗の開祖となった鎌倉時代の法然上人(2月18日参照>>)の教えそのままに、策伝は、明日をも知れぬ戦乱の世に、傷つき、荒んだ庶民の心を仏の教えによって救おうとしたのです。

それは、難しい仏教の話の前に、聞いてる人が思わず「クスッ」と笑うようなオチのある短い笑い話を持って来て、聞く人の心を和ませておいて、肝心な部分に入って行く・・・という手法・・・

このオモシロイ導入部分は「落とし言葉」あるいは「落とし話」と呼ばれ、それは、まさに「落語」・・・

ちなみに、策伝上人が、お寺の堂内に置いた一段高い台に乗ってお説教をしていた場所が、そう、「高座」ですね。

例としてあげると・・・
「隣の家に囲いができたんやて」
「へ~~
(塀)
とか、
「あっちから坊さんが歩いてくるで」
「そう
(僧)か?」
みたいな・・・皆様も聞かれた事があるんじゃないでしょうか?

・・・で、そんな策伝の説教は、またたく間に評判となり、庶民にバカ受け!

となると、庶民だけではなく、武士や貴族やら、身分の高い人たちまでが、「何とか策伝のお説教を聞きたい」と思うわけで・・・

そんな中の一人が、当時、京都所司代だった板倉重宗(いたくらしげむね)・・・

元和元年(1615年)、重宗から
「君のオモロイ話をまとめてみてぇな」
と頼まれた策伝・・・

これまでに話て来た落とし話に加え、自ら見聞きした体験談や教訓などを、風刺を交えてオモシロおかしくまとめて本にしたのです。

それが、寛永五年(1628年)3月17日に重宗に提出した(注:日づけについては諸説あります)、8巻からなる『醒睡笑(せいすいしょう)でした。

命名の由来は、書き終えた策伝が、その出来栄えを計るごとく、もう一度読み直してみたところ、
「我ながら、眠気も醒めるくらいオモロイやないかい!」
と思って、そう名づけたのだとか・・・

その『醒睡笑』には、先ほど例にあげた短い物だけではなく様々なオモローな話が収められており、現在の落語の演目のもととなったお話も多くあるわけで・・・

有名なところでは『平林(ひらばやし)というお話・・・

これは、あるお店の丁稚が、旦那さんから、平林(ひらばやし)という医者のところに手紙を届けるように言い使って店を出るのですが、途中で宛名の読み方を忘れてしまい、周囲のかしこそうな通行人に尋ねて回るのですが、聞く人聞く人によって言う事が違う・・・

ある人は「これはタイラバヤシと読むんや」と言い、
ある人はヒラリンや」と・・・

さらに、
「これは、漢字をバラバラにしてイチハチジュウノモクモクと読まなあかん」
と言う人や
「バラすのんは合うてるけど、ヒトツトヤッツトトッキッキって読むねんで」
という人まで・・・

しかたなく丁稚は
「タイラバヤシヒラリンか、イチハチジュウノモクモク、ヒトツトヤッツトトッキッキ~」
と大きな声で呼びながら歩いて行くと、どんどん人が集まって来て・・・

てなお話・・・オチの部分は、それぞれの落語家さんの演目によって様々あり、丁稚が探しまわる場所や彼の名前が特定されている物、スピンオフ的なお話がプラスされている物もあるようですが、いずれもおもしろいですよね~

策伝さんの教えとしては・・・
人は、つい「学もないのに知ったかぶりをする」事が多いけれど、それを周囲で見てるとなんとこっけいな事か!…「だから知ったかぶりせずに、日頃から学問に励みなさい」という事ですね。
(↑これは耳が痛い!)

この『醒睡笑』を書き終えた頃の策伝上人は、すでに誓願寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する寺院)安楽庵という茶室を建てて、そこで隠居に身となっていましたが、もともと、出身の金森家が茶道の名家であった事や、当代きっての文化人である小堀遠州(こぼり えんしゅう)(2月6日参照>>)松花堂昭乗(しょうじょう)(4月2日参照>>)とも交流が深かった事から、超一流の文化人としての注目度もスゴかったのだとか・・・

寛永十九年(1642年)、策伝上人は89歳でこの世を去りますが、『醒睡笑』に残した落とし話は永遠に残り、やがて落語として花開きます。

今でも京都の誓願寺では毎年10月の「策伝忌」にて、奉納落語会が行われているのだとか・・・戦乱の世に、悲しむ人々を笑顔にしたいと願った策伝上人のお話は、この平成の世の人々にも笑顔を届けてくれているのですね。
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コメント

落語は大好物なんですけれど、恥ずかしながらそのご先祖については存じませんでした。(^^ゞ 勉強になりますね。

寄席で折々掛かる「平林」。 「たいらばやしかひらりんか・・・・」の言いたてが愉しくて、比較的新しい噺に違いないって、勝手に想い込んでいましたけれど。 このような歴史があったとは!(^ァ^)

投稿: もとよし | 2014年3月18日 (火) 00時23分

いつも、珍しいお話ありがとうございます。面白そうなので、図書館の蔵書を検索したら、丁度、講談社から醒睡笑の全訳註の新刊(2014/2)が出ていて、早速取り寄せました。とても楽しみです。

投稿: Isizmi | 2014年3月18日 (火) 04時23分

もとよしさん、こんにちは~

私は、落語ではなく、母からの昔話のような形で「平林」を知ってましたが、やはり、策伝さんの…というのは、大人になってからです。
原点がお寺でのお説教からとは思ってもみませんでした。

投稿: 茶々 | 2014年3月18日 (火) 12時11分

Isizmiさん、こんにちは~

そんなナイスなタイミングで新刊が!!w(゚o゚)w
それは興味アリですね~

投稿: 茶々 | 2014年3月18日 (火) 12時12分

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