南北朝・東寺合戦(京軍)の終結
正平十年・文和四年(1355年)3月13日、南北朝の動乱の東寺合戦にて幕府軍に補給路を断たれた足利直冬が、全軍に撤退命令を発しました。
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後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に開いた室町幕府=北朝(8月15日参照>>)と、その後醍醐天皇が、逃れた吉野にて開いた南朝(12月21日参照>>)・・・と、こうして始まった南北朝の動乱ですが、
これまでの経緯は【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして、本日は、2月4日に書かせていただいた神南(こうなん)合戦(2月4日参照>>)の続きのお話です。
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父・尊氏と不仲であった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担いだ南朝側の山名時氏(やまなときうじ)・師氏(もろうじ)父子は、後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇からの「尊氏&義詮追討」の勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を得た(6月9日参照>>)うえに、ここに来て、あの新田義貞を討ち取った(7月21日参照>>)越前(福井県)守護の斯波高経(しばたかつね)という強い味方も加わった事で、意気揚々を京へと攻め上り、正平十年・文和四年(1355年)2月4日に山崎の西=神南(こうなん=高槻市神南)にて激戦となりますが、惜しくも敗れ、全軍撤退となりました。
神南合戦にて「幕府軍勝利!」の知らせを聞いた尊氏ですが、勝ったとは言え、未だ京都を制圧しているのは、東寺に陣取る南朝軍・・・・なので、自らは、比叡山を降りて東山に陣を構え、仁木頼章(にっきよりあきら)を嵐山に配置したほか、西山や山崎などに、それぞれ諸将を配置・・・
そう、現時点では、京都市街から南は八幡(京都府八幡市)あたりまでを制圧している南朝軍を囲むように自軍を配置したのです。
さらに、次なる市街戦を想定して、撃って出て来る敵が見渡しやすいように、戦場区域となる場所にある神社仏閣を破壊して民家を焼き払いました。
こうして準備万端整えた2月8日(と言っても先の神南から4日後ですが…)、尊氏の息子=義詮(よしあきら=後の2代将軍)についていた細川清氏(ほそかわきようじ)が、幕府軍の先頭を切って京都市街へ突入・・・
四条大宮付近で南朝軍との激しい戦闘なりました。
この戦闘を皮切りに、幕府軍と南朝軍の京都市街での戦闘は約1ヶ月に渡って繰り広げられる事になるので、今回の一連の戦いは東寺合戦(とうじかっせん)、あるいは京軍(きょういくさ)と呼ばれます。
2月15日には、「東山から出た幕府軍が上京あたりで兵糧を集めている」との情報を聞きつけた南朝軍の苦桃(にがもも)大輔が500騎余りの軍勢を率いて東寺を撃って出て一条から二条に兵を展開し、迎え撃つ清氏勢と六条東洞院から烏丸あたりで7度8度のぶつかり合い・・・しかし、この日も勝負がつく事なく、ともに、自らの陣地へと・・・
そんな小競り合いが何度か続く中の正平十年・文和四年(1355年)3月13日・・・徐々にその制圧範囲を広げて来ていた幕府軍が、7000騎の大軍を率いて押し寄せ、転戦の末、いよいよ東寺の目前にまで迫りまって来ます。
とは言え、未だ京での市街戦はあくまで互角・・・しかし、これらの一連の戦いの間に、幕府軍は、先の仁木頼章によって山陰道を押さえ、義詮の配下によって山陽道を封鎖しており、東は、もともと尊氏が東山に陣取っており・・・と、つまりは南朝軍は、幕府軍によって完全に補給路を断たれた孤立状態になってしまっていたのです。
たとえ市街戦が互角でも・・・
「これでは、もはや支えきれない」
と判断した直冬は、東寺を放棄して、とりあえずは八幡まで撤退する事に・・・
入れ替わりに東寺に侵入して占拠しのは、かの清氏・・・まもなく、尊氏・義詮父子も東寺へと入ります。
そうなれば、付き従う山名父子にも、
「もはや播磨に戻る時が来たみたいな」
てな空気が流れたその夜、直冬は全軍への撤退命令を発したのでした。
『太平記』によれば、この時、八幡まで撤退した直冬に八幡様の神託(しんたく=神のお告げ)があったと・・・
♪たらちねの 親を守りの 神なれば
この手向(たむけ)をば うくるものかは ♪
「源氏の守護神である八幡宮は、源氏の棟梁=尊氏(親)の守り神やよって、親を討つつもりの子=直冬の願いを叶える事はできひんねん」
との神歌だったとか・・・
こうして京都での市街戦となった戦いが終わりを告げた事で、この後、しばらくの間、都には平穏な日々が戻り、戦いから2年後の延文二年・正平十二年(1357年)には、後村上天皇による先の八幡合戦(3月24日参照>>)のゴタゴタで南朝側に幽閉されていた光厳(こうごん=北朝1代天皇)(7月7日参照>>)・光明(こうみょう=北朝2代天皇)(8月15日参照>>)・崇光(すうこう=北朝3代天皇)(1月13日参照>>)の3上皇と皇太子の直仁(なおひと)親王が解放されて都に戻っています。
とは言え、元弘三年(1333年)の鎌倉幕府の滅亡(5月22日参照>>)・・・いや、厳密には討幕の戦いはそれ以前に始まってるので、もう少し早い時期ですが、その頃に始まってから、鎌倉幕府の残党による戦い(7月28日参照>>)に向かった尊氏が反旗をひるがえしての南北朝の動乱に突入・・・ですから、もはや20年以上に渡って戦いにあけくれる日々が続いていたわけで・・・
これらの戦乱で、都にあった皇居をはじめ院の御所や公家たちの屋敷も大半は焼失していて、もはや残っているのは2~3割ほどだったところに、今回の市街戦となった事で、ほぼ壊滅状態・・・
白河あたりにチョロッと武士の屋敷が残る程度で、一般市民の家は1軒たりとも残っておらず、あたりは見渡す限りの焼け野原になってしまい、都の面影など、どこにも無い状態だったのだとか・・・
そのため、宮廷の職員や女官の中には、もはや生きる気力を失って、桂川に身を投げる者も現われ、生き残った者も、つてを頼って僻地に逃げたり、世捨て人のような侘びしい生活を送ったりで、都には、朝の炊事の煙もたたなくなり、餓死者があふれたとの事・・・
以前、『ある公家の悲しい都落ち』のお話(10月27日参照>>)を書かせていただきましたが、このお話が『太平記』に登場するのが、この33巻の東寺合戦のあと・・・
そして、その次の項に続く足利尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開へと進むのですが、
そのお話は、
新田義貞の次男=新田義興(にったよしおき)の死(10月10日参照>>)、
尊氏の死から10年後に第3代将軍となる足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)、
九州で奮戦する懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)
などなどのページでどうぞm(_ _)m
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コメント
自分は日本神話は実話で神が実在したと考えています。
それでも、管理人さんの歴史解釈はわかりやすく面白かったです。
これからもがんばってください。
投稿: | 2014年3月16日 (日) 17時26分
茶々様夜分失礼致します〜。最近つくづく思います。歴史とは男どもの戦いの軌跡だと。なんでこうも、古今東西、男どもは争い張り合い蹴落としあい侵略しあい支配したがり、女を泣かせ民を泣かせることを、何千年も連綿と明け暮れ死んで行ってるのでしょうか?創造主がそのように作ったとしか思えません。私、ちょっとへこみます〜すみません。
投稿: マリーゴールド | 2014年3月17日 (月) 01時01分
コメントありがとうございます。
神や仏は、信じる者の心を救い、希望を与えてくれるもの…そういう意味で大切な存在だと思います。
「おもしろかった」と言っていただけるとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2014年3月17日 (月) 12時01分
マリーゴールドさん、こんにちは~
とは言え、「歴史の影に女あり…」
なかなか女性も活躍してますよ!
男も女も、正しき平和を模索しながら、その時代に精一杯で向き合っていたのではないか?と…
投稿: 茶々 | 2014年3月17日 (月) 12時06分