小牧長久手の戦いへ…織田信雄の重臣殺害事件
天正十二年(1584年)3月6日、伊勢長島城にいた織田信雄が、秀吉に内通した疑いにより、自らの重臣3名を殺害しました。
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織田信長亡き後、驚異の中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へと戻り、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)を大将に据えた山崎の合戦(6月13日参照>>)で、主君・信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、その後の清州会議(6月27日参照>>)では、信長とともに亡くなった嫡男=信忠(のぶただ)の忘れ形見である三法師(さんほうし=後の秀信)を織田家の後継者に推す事に成功し、織田家内での発言権を高めていました。
・・・と、ここで一つ・・・注意せねばならないのは、この清州会議で決まった後継者というのは、あくまで織田家の後継者という事で、信長が天下取り目前であったうんぬんという話とは別物・・・
ブログにも書かせていただいている通り、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)は北畠を(11月25日参照>>)、三男の信孝は神戸を、それぞれ継いでいる中で、天正三年(1575年)の時点で、信長は嫡男の信忠に織田家の家督を譲っています(11月28日参照>>)から、その信忠が亡くなれば、嫡子の三法師が織田家の後継者になる事はごくごく自然な事で、問題と言えば年齢が幼い事くらいですから、その後見人に信孝がなる事で、その幼さはカバーでき、おそらく、会議直後の時点では、周囲の皆が納得していたはず・・・
一方、もう一つの天下取りのほう・・・コチラは、朝廷やら将軍やら周囲の大名やらを巻き込みつつの、あくまで信長の野望であり、信長亡き後に織田家を継いだ者が、そのまま引き継ぐ物ではありません。
・・・で、そこのところの狙いを露わにしたのが、その会議から4ヶ月後に行われた信長の葬儀が秀吉主導だった事・・・(10月15日参照>>)
もちろん、それまでにも、清州会議での領地配分を有利に進めたり、7月に近江(滋賀県)にて初の検地を行ったり(7月8日参照>>)なんぞして、秀吉は、主君・信長の天下取りの方の後継者をもくろんでいたと思われるわけですが・・・
そんな秀吉に違和感を覚えたのが、三男の信孝と、本当なら彼を後継者にしたかった織田家重臣の柴田勝家(しばたかついえ)・・・
・・・で、翌天正十一年(1583年)、その勝家を賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)で破った秀吉は、その勢いのまま勝家を滅ぼします(4月24日参照>>)が、この時に、一方の信孝を攻撃したのが、誰あろう、信長の次男の信雄でした(5月2日参照>>)。
そう、そのページにも書かせていただきましたが、この頃の信雄は、父・信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)」というハンコを使用していたばかりか、信長の弟や、自分の妹の徳姫など、織田一族を庇護下に置いており、おそらく、彼もまた、織田家の後継とともに、天下取りの野望も抱いていた物と思われ、この時は、その野望実現のために、敵の敵は味方とばかりに、秀吉の思惑通りの行動に出たという事でしょう。
なんせ、いくらなんでも秀吉自身が、主君・信長の息子である信孝を死に追い込むわけにないきませんのでね・・・
とは言え、上記の信長の葬儀を見ても解る通り、信長の天下取りを引き継ぎたいのは秀吉自身な事はバレバレなわけで・・・
・・・で、徐々にその事に気づく信雄が頼ったのが、これまで、甲斐(かい=山梨県)や信濃(しなの=長野県)の大半を領する大大名でありながら、一連の流れを「畿内の事」と、遠目に様子見ぃしていた徳川家康でした。
家康とて、秀吉があまりに力をつけ過ぎる事は避けたいわけで・・・で、これまた敵の敵は味方とばかりに両者がくっつき、信雄+家康VS秀吉の合戦となったのが、ご存じ、小牧長久手の戦いなのですが・・・
その戦いのキッカケとなったのが、天正十二年(1584年)3月6日の、織田信雄による三家老の殺害事件なのです。
正史としては、「秀吉に内通した疑いにより、信雄が自らの重臣3名を殺害した」という事なのですが、実際には、本当に内通していたのかどうか?・・・信雄の勘違い?あるいは秀吉の策略にハメられた?・・・など、いくつかの説があるのですが、本日のところは『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)に沿って、そのお話をご紹介させていただきます。
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まずは、秀吉が、信雄の重臣であった津川義冬(つがわよしふゆ)・岡田重孝(おかだしげたか)・浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)・滝川雄利(たきがわかつとし)の4名を呼びつけ、手厚くもてなした後、
「君らで、信雄くんに自害を勧めてくれへんかな?恩賞はタップリ用意してるで~」
と切り出します。
その場の雰囲気は空気が張り詰め、とてもじゃないが断われるような雰囲気でもなく、しかも、秀吉自らが、
「俺は、この約束に対して神文を書いて誓うさかいに、君らも神文を書きたまえ~」と・・・
この時代の神や仏に対する気持ちはハンパ無いですから「神文を書く」=「神に誓う」という事は、その約束を違えた場合には、神罰が下る事を覚悟するという事で、実に重い事だったわけで、やむなく、呼ばれた重臣4名も「承知しました」と起請文を書いたのです。
一般的には、こうして内応を促する場合、相手を一人だけ呼んで内密に・・・てのが定番ですが、こうして4名同時に呼んだのには、実は秀吉の思惑が・・・
お互いに内応を誓わされている事を知っているので、「誰かが裏切るんじゃないか?」と、それぞれが疑心暗鬼になって、お互いの腹を探り合うため、全員が話し合って裏切りに同意する確率が少ない事・・・
また、もしも、この中で誰か一人だけが裏切って、信雄にこの一件を告げた場合、必ず、その者が他の3人を成敗す事になるであろう事・・・などなど、周到に考えた策略だったのです。
案の定、その秀吉の思惑通り、裏切り者が出ます・・・それは、滝川雄利。
雄利からこの話を聞いた信雄は、「すぐに3人を殺せ!」とばかりに、岡田重孝には飯田半兵衛なる武将を、津川義冬には土方雄久(ひじかたかつひさ)を、浅井長時には森源三郎を、それぞて討手として派遣する事にします。
が、しかし、この決定を聞いた土方雄久・・・「ぜひ、僕に岡田重孝を討たせて下さい!」と言います。
「もう、決まった事やから…」
と信雄に言われても、「どうしても…」と譲らなかった事から、
「ほな、重孝はお前が討て、けど、武功は飯田くんの物やで」
と・・・
実は、それこそ、主君=信雄の前では、そんな事言えませんが、以前、重孝が、
「ウチの殿さんは、他人の言う事を軽々しく信じてしもて、どーもならん!
それを注意すると疎まれるし…いつか、戯言を信じた殿に、俺は討たれるかも知れん」
と、雄久に対して嘆いていた事があったのです。
「そんなアホな事ありませんよ~岡田さんの勘違いでっしゃろ」
と雄久が答えると、
「ほな、その時は、お前が俺を斬りに来いや。。。まぁ、そんな簡単に殺られる俺や無いから、覚悟しとけよ」
と、冗談まじりの会話・・・
しかし、それをしっかりと覚えていた雄久は、「重孝さんの相手は僕しかない!」と、心に決めての願い出だったのです。
かくして天正十二年(1584年)3月6日(常山紀談では3月3日)、信雄から、伊勢長島城に呼び出された彼ら3名・・・
ごくごく普通の拝謁のつもりでやって来た3人・・・まずは重孝相手に、配下の者に新しく造らせた鉄砲を見せながら、ごくごく普通に話しかける信雄・・・
「…で、この鉄砲なんやけどな…、ここのこの穴って、何のための穴やと思う?」
と・・・
「はて??」
と、少し進み出て、その穴を、重孝が覗きこもうとしてうつ向いたところを雄久がガジッと組み付きます。
「俺をか?」
と、すべてを察して、すかさず腰に刺したままにしていた脇差を抜こうとする重孝でしたが、強い力に阻まれて抜けず、そのまま、雄久との揉み合いになっていたところ、
「土方、放せ!俺が斬ったる」
と信雄・・・
しかし、雄久は
「離れません!それなら、僕、もろとも斬ってください!」
「ええぃ、お前が離れへんかったら、いつまでも斬られへんやないかい!」
とジタバタする信雄・・・
ひょとして、雄久は信雄の気が変わるのを最後の最後まで待ってた???(←これは茶々の希望的観測です)とも思える雄久の行動ですが、なんだかんだで、もはや主君の命令に逆らいきれる物でもなく・・・
やむなく重孝を突き飛ばした雄久は、すぐさま自らの脇差を抜いて重孝を貫き、それを見た信雄がすかさず刀を振り下ろし、重孝を討ち取ったのです。
騒ぎを聞きつけて廊下を走って来た津川義冬は、刀を持った信雄と出くわし、慌てて自分も刀を抜いて斬りかかりますが、たまたま刀の先が長押(なげし=柱を水平方向につなぐため壁に沿って取り付けられる板)にひっかかってしまっているところを、雄久と交代した飯田半兵衛に斬られました。
もう一人の浅井長時も、予定通り、森源三郎に討たれます。
こうして、自らの重臣を殺害してしまった信雄・・・
先に書いた通り、その公式の理由は「秀吉への内通」ですから、その理由で自らの家老に成敗を下した以上、その先にあるのは、秀吉との対決・・・という事になります。
かくして勃発する小牧長久手の戦いについては・・・
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い>>
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●5月頃~:美濃の乱>>
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
の、それぞれのページでどうぞm(_ _)m
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コメント
どういう経緯かは色々あるようですが、賤ヶ岳の前から信雄と信孝が争っていることを秀吉が毛利家に宛てて「意味不明…」とか言っているところを見ると、秀吉は当初信長生前の序列に従って、信雄を立てて信孝や柴田勝家やらを抑えようとしたものの、言うことを聞かないので止む無く賤ヶ岳で倒した所、今度は信雄が秀吉自身に食って掛かったので、はじめて賤ヶ岳の戦いそのものが家康の煽動であり、信雄が家康の操り人形であったことに気がついたってところじゃないでしょうか。
この記事の四家老内通事件も、後の石川数正出奔事件も、1つは何とか秀吉がこの辺りの証拠を欲しがったという見方を個人的にはしています。
そもそも信雄は何故か安土城を焼いてますし、いくらでも逃げられた信忠に切腹をすすめたのは織田長益ですし、家康の人脈((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルって感じですね…
投稿: ほよよんほよよん | 2014年3月 6日 (木) 20時22分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
そうですね~いろいろな解釈ができますね。
以前、安土城炎上>>のページで書かせていただいたように、私は「安土城を焼いたのは信雄ではない」と思っているのですが、おっしゃる通り長益は人でなし>>と歌にまでされてますし…
まぁ、秀吉の手紙は警戒もあって話半分としても、家康のタヌキっぷりもスゴイですから、その腹の探り合いもハンパなく、推理がとどまる事は無いでしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年3月 7日 (金) 14時07分
いつも面白い話をありがとうございます。
私、織田信雄に殺された岡田の子孫です。当時星崎城が本拠地で兄が打たれた弟一族郎党はすぐ城に立てこもり小牧長久手の戦いに突入します。信雄は結局秀吉に降り、岡田の家はその後家康に拾われて旗本となりました。江戸時代は美濃郡代、勘定奉行など多少いい仕事をさせてもらっていましたが、時代が下がるにしたがって旗本退屈組に入っていたようです。ただ岡田寒泉って多少有名なのが分家(私はその子孫)にいます。
ここからが本題 この信雄が岡田殺害に使った刀が東博13室に「岡田切」という銘で国宝として飾られているのを先日見つけました。備前長船福岡一文字吉房 複雑な気持ちで拝見しました。
投稿: 岡田の子孫 | 2017年8月10日 (木) 17時24分
岡田の子孫さん、こんばんは~
刀剣という物には、不思議で妖しい魅力…というか、魔力のような物がありますね。
人を斬ったとされる物は特に…
無関係な者でも複雑な気持ちになるのですから、ご子孫だと尚更でしょうね。
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2017年8月11日 (金) 00時55分