家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事
慶長十六年(1611年)3月28日、徳川家康と豊臣秀頼の、二条城での会見が行われました。
・・・・・・前置きです
4年前の2008年の今日も、この二条城の会見のお話を書かせていただきましたが(2008年3月28日を見る>>)、その時は、この出来事がブログの初出という事もあり、ごくごく一般的な内容であり、話の中で登場した毒饅頭もあくまでウワサの域を出ない物・・・
以来、様々な出来事の合い間合い間で、何度か会見の話が登場するも、「ちゃんと書いた事なかったなぁ」と、改めて本日書かせていただく事にしますが、上記の通り、これまで何度か出て来ていますので、内容が少々かぶり気味になる事を、ご理解くださいませm(_ _)m
・‥…━━━☆本題です
・・・で、今回の徳川家康と豊臣秀頼の二条城の会見・・・
出来事の流れとしては・・・
秀吉亡き後に勃発した、あの関ヶ原の合戦が慶長五年(1600年)。
くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>
今回の会見場所となる二条城を、家康が構築し出すのがその2年後の慶長七年(1602年)(5月1日参照>>)。
家康が征夷大将軍の宣旨を受けるのが慶長八年(1603年)2月(2月12日参照>>)で、その5ヶ月後の7月28日には秀吉の息子=秀頼と、家康の孫=千姫との婚儀がとり行われます(7月28日参照>>)。
慶長十年(1605年)の4月には、家康は、征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り(4月16日参照>>)ますが、その直後の5月10日に、家康が秀頼に上洛を求めるも、大坂城の秀頼は拒否・・・(5月10日参照>>)
と、一般的には、これらの流れから、この頃に、関ヶ原で勝利して天下を手中に収めた家康が、将軍となって江戸に幕府を開き、さらに将軍の座を息子に譲った事で、それが徳川家で世襲される事をアピールしたとされ・・・だからこそ、天下分け目の関ヶ原と呼ばれます。
が、私としては、先の5月10日のページに書かせていただきましたように、それは後世の徳川幕府による故意的なミスリードの賜物で、実際には大坂の陣で滅亡する直前まで、天下は豊臣家にあったと考えております。
その主な理由としては、
- 家康の征夷大将軍就任は、生前の秀吉が決めていた事であった事、
- 関ヶ原後の豊臣家が摂津・河内・和泉65万石の一大名だったという話は、大坂の陣から200年後の幕府の記録に初めて登場する事、
- 慶長十七年(1612年)に備中(岡山県)を…など、関ヶ原後も畿内から中国地方にかけての広い範囲の領地配分を秀頼が行っていた事、(以上の3つは5月10日に書きました)。
- 秀吉が構築した武家の家格システムが機能していたであろう事、
- 慶長十九年(1614年)の正月の時点でも、こぞって公家が大坂城に年始挨拶に行っていた事(上記の2つは7月15日参照>>)
- 不肖・私めが大阪城のすぐそばで生まれ育ったために豊臣贔屓である事(*´v゚*)ゞ
などなど・・・
ただし、秀吉が、家康の事を最も警戒していた事も確かでしょう。
そもそも、伏見城を建築する際に整備した京街道=文禄堤・・・その構築は毛利や島津などの西国大名のみに作業をさせたわけですが、それは、「いざという時、枚方以北の堤防を切り、淀川を決壊させ、土地が低い現在の東大阪市のあたり一帯を水没させ、東からの大坂への進入を防ぐ」つもりだったから(8月10日参照>>)と言われます=つまり「敵は東から来る」と想定していたわけですね。
なので秀吉は、自分の死後は、淀殿と結婚する形で家康を豊臣家に取り込み、二人で秀頼を盛り立ててくれるよう望んでおり、その結婚の日取りも決まっていました・・・残念ながら、この件は、直前に淀殿が家康との結婚を拒否って大野治長(はるなが)と逃げたために、実現しませんでしたが・・・(12月16日参照>>)
また、自分の死後は、淀殿と秀頼に大坂城に入るように、五大老の筆頭である家康には伏見城に入るように遺言で指示する一方で、東国の大名を大坂城下に、西国の大名を伏見城下に住まわせていました・・・つまり、「見張っとけ」って事だったたんじゃないか?と・・・
ただし、あの関ヶ原後に家康が大坂城の二の丸に入ったので、島津家を残して他の大名が皆、大坂に引っ越してますが・・・(3月7日参照>>)。
と、まぁ、前置きが長くなりましたが(←まだ前置きやったんかい!!!(゚ロ゚屮)屮)、とにもかくにも、息子の秀忠に将軍職を譲って、自らは大御所となって、慶長十二年(1607年)には駿府城を天下普請で構築する(2月17日参照>>)など、徐々に力をつける家康・・・
この間、あくまで豊臣配下のポーズをとりながらも、家康は、再三に渡って、秀頼に上洛を求めていたわけです。
しかし、秀頼以下大坂方から見れば、
「なんで主君のこっちが行かなあかんねん!お前が来いや」
てのが当然です。
・・・で、そんな中で、ようやく重い腰をあげて実現したのが、慶長十六年(1611年)3月28日の二条城の会見・・・って事になるのですが、かと言って、一般的に言われているように、これで豊臣家が徳川に屈したわけではありません。
なんせ、天皇が行幸する場合もあるのですから、「訪問した=配下となった」わけでは無いのです。
なので、以前も書かせていただいたように、家康は、やって来た秀頼を自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、秀頼の方が、家康が年長である事、冠位が上である事、嫁(千姫)の祖父である事などを理由に、上座を譲るという形で会見が成されたのです。
ちなみに、この会見の後、家康は、諸大名に、将軍に忠誠を誓う内容の誓紙に連署をさせていますが、その中に秀頼の名前はありません(つまり秀頼は別格です)。
とは言え、この会見にあたっては、大坂方もかなり警戒していたようです。
『徳川実記』『翁物語』などによれば・・・
会見の際、秀頼に同行していた加藤清正(かとうきよまさ)と浅野幸長(あさのよしなが)に対し、家康は、褒美として刀を与えますが、その時、刀を拝領した清正は、何やら空の1点を見つめて、しばらく動かない・・・
その方角をよく見ると、愛宕山(あたごやま)の方角・・・どうやら、愛宕権現(1月24日参照>>)に何事か祈願しているように見えました。
気になった家康が、その後、配下の者に色々と調べさせると、案の定、会見前の17日に、護摩を焚き、「秀頼公に災難無き事」を祈願していたとの事・・・
また、会見の当日、福島正則(ふくしままさのり)は、「病気になった」と称して大坂城に留まっていましたが、実は、万が一、二条城にて秀頼に何かあった際、清正と幸長はその場にて末代まで名を残すべく命賭けて働く一方で、残った正則が、大坂城にいる淀殿が敵の手に落ちる事が無いように、自らが手にかけた後、大坂城に火を放って、自身も、その場で切腹するというのが、3人の約束だった・・・そのために正則は仮病を使ったという事がわかったのだとか・・・
これらの事を知った家康は
「秀吉さんの、有能な人間を見極めて家臣にする能力ってスゴイよな」
と感心しきりだったのだそうです。
とにもかくにも、秀頼さん無事で何より・・・
とは言え、ご存じのように、大坂の陣は起こりますが・・・
くわしくは【大坂の陣の年表】でどうぞ>>
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