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2014年3月28日 (金)

家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事

 

慶長十六年(1611年)3月28日、徳川家康豊臣秀頼の、二条城での会見が行われました。

・・・・・・前置きです

4年前の2008年の今日も、この二条城の会見のお話を書かせていただきましたが(2008年3月28日を見る>>)、その時は、この出来事がブログの初出という事もあり、ごくごく一般的な内容であり、話の中で登場した毒饅頭もあくまでウワサの域を出ない物・・・

以来、様々な出来事の合い間合い間で、何度か会見の話が登場するも、「ちゃんと書いた事なかったなぁ」と、改めて本日書かせていただく事にしますが、上記の通り、これまで何度か出て来ていますので、内容が少々かぶり気味になる事を、ご理解くださいませm(_ _)m

・‥…━━━☆本題です

・・・で、今回の徳川家康豊臣秀頼二条城の会見・・・

出来事の流れとしては・・・

秀吉亡き後に勃発した、あの関ヶ原の合戦が慶長五年(1600年)。
くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>

今回の会見場所となる二条城を、家康が構築し出すのがその2年後の慶長七年(1602年)(5月1日参照>>)

家康が征夷大将軍の宣旨を受けるのが慶長八年(1603年)2月(2月12日参照>>)で、その5ヶ月後の7月28日には秀吉の息子=秀頼と、家康の孫=千姫との婚儀がとり行われます(7月28日参照>>)

慶長十年(1605年)の4月には、家康は、征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り(4月16日参照>>)ますが、その直後の5月10日に、家康が秀頼に上洛を求めるも、大坂城の秀頼は拒否・・・(5月10日参照>>)

と、一般的には、これらの流れから、この頃に、関ヶ原で勝利して天下を手中に収めた家康が、将軍となって江戸に幕府を開き、さらに将軍の座を息子に譲った事で、それが徳川家で世襲される事をアピールしたとされ・・・だからこそ、天下分け目の関ヶ原と呼ばれます。

が、私としては、先の5月10日のページに書かせていただきましたように、それは後世の徳川幕府による故意的なミスリードの賜物で、実際には大坂の陣で滅亡する直前まで、天下は豊臣家にあったと考えております。

その主な理由としては、

  • 家康の征夷大将軍就任は、生前の秀吉が決めていたであった事、
  • 関ヶ原後の豊臣家が摂津・河内・和泉65万石の一大名だったという話は、大坂の陣から200年後の幕府の記録に初めて登場する事、
  • 慶長十七年(1612年)に備中(岡山県)など、関ヶ原後も畿内から中国地方にかけての広い範囲の領地配分を秀頼が行っていた事、(以上の3つは5月10日に書きました)
  • 秀吉が構築した武家の家格システムが機能していたであろう事、
  • 慶長十九年(1614年)の正月の時点でも、こぞって公家が大坂城に年始挨拶に行っていた(上記の2つは7月15日参照>>)
  • 不肖・私めが大阪城のすぐそばで生まれ育ったために豊臣贔屓である事(*´v゚*)ゞ

などなど・・・

ただし、秀吉が、家康の事を最も警戒していた事も確かでしょう。

そもそも、伏見城を建築する際に整備した京街道=文禄堤・・・その構築は毛利島津などの西国大名のみに作業をさせたわけですが、それは、「いざという時、枚方以北の堤防を切り、淀川を決壊させ、土地が低い現在の東大阪市のあたり一帯を水没させ、東からの大坂への進入を防ぐ」つもりだったから(8月10日参照>>)と言われます=つまり「敵は東から来る」と想定していたわけですね。

なので秀吉は、自分の死後は、淀殿と結婚する形で家康を豊臣家に取り込み、二人で秀頼を盛り立ててくれるよう望んでおり、その結婚の日取りも決まっていました・・・残念ながら、この件は、直前に淀殿が家康との結婚を拒否って大野治長(はるなが)と逃げたために、実現しませんでしたが・・・(12月16日参照>>)

また、自分の死後は、淀殿と秀頼に大坂城に入るように、五大老の筆頭である家康には伏見城に入るように遺言で指示する一方で、東国の大名を大坂城下に、西国の大名を伏見城下に住まわせていました・・・つまり、見張っとけ」って事だったたんじゃないか?と・・・

ただし、あの関ヶ原後に家康が大坂城の二の丸に入ったので、島津家を残して他の大名が皆、大坂に引っ越してますが・・・(3月7日参照>>)

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二条城

と、まぁ、前置きが長くなりましたが(←まだ前置きやったんかい!!!(゚ロ゚屮)屮)、とにもかくにも、息子の秀忠に将軍職を譲って、自らは大御所となって、慶長十二年(1607年)には駿府城を天下普請で構築する(2月17日参照>>)など、徐々に力をつける家康・・・

この間、あくまで豊臣配下のポーズをとりながらも、家康は、再三に渡って、秀頼に上洛を求めていたわけです。

しかし、秀頼以下大坂方から見れば、
「なんで主君のこっちが行かなあかんねん!お前が来いや」
てのが当然です。

・・・で、そんな中で、ようやく重い腰をあげて実現したのが、慶長十六年(1611年)3月28日二条城の会見・・・って事になるのですが、かと言って、一般的に言われているように、これで豊臣家が徳川に屈したわけではありません。

なんせ、天皇が行幸する場合もあるのですから、「訪問した=配下となった」わけでは無いのです。

なので、以前も書かせていただいたように、家康は、やって来た秀頼を自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、秀頼の方が、家康が年長である事、冠位が上である事、嫁(千姫)の祖父である事などを理由に、上座を譲るという形で会見が成されたのです。

ちなみに、この会見の後、家康は、諸大名に、将軍に忠誠を誓う内容の誓紙に連署をさせていますが、その中に秀頼の名前はありません(つまり秀頼は別格です)

とは言え、この会見にあたっては、大坂方もかなり警戒していたようです。

『徳川実記』『翁物語』などによれば・・・

会見の際、秀頼に同行していた加藤清正(かとうきよまさ)浅野幸長(あさのよしなが)に対し、家康は、褒美として刀を与えますが、その時、刀を拝領した清正は、何やら空の1点を見つめて、しばらく動かない・・・

その方角をよく見ると、愛宕山(あたごやま)の方角・・・どうやら、愛宕権現(1月24日参照>>)に何事か祈願しているように見えました。

気になった家康が、その後、配下の者に色々と調べさせると、案の定、会見前の17日に、護摩を焚き、「秀頼公に災難無き事」を祈願していたとの事・・・

また、会見の当日、福島正則(ふくしままさのり)は、「病気になった」と称して大坂城に留まっていましたが、実は、万が一、二条城にて秀頼に何かあった際、清正と幸長はその場にて末代まで名を残すべく命賭けて働く一方で、残った正則が、大坂城にいる淀殿が敵の手に落ちる事が無いように、自らが手にかけた後、大坂城に火を放って、自身も、その場で切腹するというのが、3人の約束だった・・・そのために正則は仮病を使ったという事がわかったのだとか・・・

これらの事を知った家康は
「秀吉さんの、有能な人間を見極めて家臣にする能力ってスゴイよな」
と感心しきりだったのだそうです。

とにもかくにも、秀頼さん無事で何より・・・

とは言え、ご存じのように、大坂の陣は起こりますが・・・
くわしくは【大坂の陣の年表】でどうぞ>>
 .

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

3人の約束はじめて知りました。

清正が長生きしていれば...なんて想像したくなります

投稿: 松寿 | 2014年3月28日 (金) 19時04分

こんばんは♪

家康と淀殿が結婚予定だったというのは初耳でした。しかも与太話ではなく、一級資料に書かれた史実だとは。これを題材にした小説なり、ドラマなりないかな?!なければ私が書こうか?!(冗談)
それと、加藤清正や浅野幸長が大坂の役前にバッタバッタと死んでいますが、仮に彼らが生きていたとしても、福島正則や加藤嘉明、黒田長政同様本人は江戸留守居、清正は息子の忠広、幸長は弟の長晟辺りをを代わりに従軍させられたでしょうね。清正や幸長にとって幸運なのは、豊臣家の滅亡を見ずにすんだことでしょうね。

投稿: 圭さん | 2014年3月28日 (金) 19時56分

それもそうですな。

豊臣家の忠臣として、やはり滅亡を見なかっただけ幸せだったのかもしれません。

投稿: 松寿 | 2014年3月28日 (金) 21時58分

松寿さん、こんばんは~

彼らが生きていたら増田長盛>>と同じような結果になっていたかも…

一般的には大坂の陣での息子の参戦遅れの責任を取る形の自刃命令だったとされますが、私としては、そのページに書かせていただいたような「豊臣への思い」があったのではないか?と思っています。

投稿: 茶々 | 2014年3月29日 (土) 02時41分

圭さん、こんばんは~

淀殿の結婚式ドタキャン…ドラマとかでやってほしいですよね~
オモシロイと思うんですが…

投稿: 茶々 | 2014年3月29日 (土) 02時43分

不肖・私めが大阪城のすぐそばで生まれ育ったために豊臣贔屓である・・・ ふ~ん こんなん有りなんだ・・・


ちなみに、爺は名前に家康の「康」があるんだよね・・・

投稿: 夏原の爺 | 2014年3月29日 (土) 03時12分

夏原の爺さん、こんにちは~

>ふ~ん こんなん有りなんだ・・

話にオチを入れるのが大阪ですww
「箇条書きの最後」というポジションは「フィーリングカップル5対5」の5人目みたいな感じでしょうか?

>ちなみに、爺は…

て事は、夏原の爺さんは徳川贔屓って事ですね。

投稿: 茶々 | 2014年3月29日 (土) 14時38分

浅野幸長は、ずっと家が残っているんですね。
分家の赤穂藩の改易にもうまく対応しているし。いい子孫に恵まれたというしかないです。

投稿: やぶひび | 2014年3月30日 (日) 16時02分

やぶひびさん、こんにちは~

そうですね。
ご本人は大坂の陣までに亡くなりますが、弟さん以下がうまく対応して生き残りましたね。

投稿: 茶々 | 2014年3月30日 (日) 16時40分

茶々様…お久しぶりでございます。

私は、根っからの豊臣びいきです。タヌキ家康は子どものころからあまり好きではありません。偉大な人物なのでしょうが…。

しかしながら、豊臣家滅亡“直前”まで、天下が豊臣方にあったという論理には、ちょっと無理があるようにも感じます。

天下人(主権者)の必要条件としては「法令」を出す権限を持つこと、それと「納税させる」の権限、あと「軍令催促権」…だとすると(ほかにも多くの条件があるのでしょうが…。)これは、私の持っている情報・知識では、全国的には徳川家の方が強く持っていたように思います。

徳川家は、関ヶ原以降、大名の改易・転封の権限を持っていますし、これに伴って封建体制では、家康が主、大名が従で、ここに主従関係(御恩-奉公)が成立していると思われます。

法令については多くの法令があるのでしょうが、武家や朝廷に対しては、教科書レベルですが、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」があります。

納税については、よく分かりません。「天領」の成立がいつごろか知りませんが、400万石と言われる天領からの収入は幕府のものです。
また、幕府は豊臣家滅亡の前に(外様)大名に対して“お手伝い普請”等の使役の権限を持っています。

「軍令催促権」については、大坂の陣の折、豊臣家も発していますが、豊臣方についた大名は皆無と言っていいでしょう…。

淀殿-家康の婚姻予定説…初めて知りました。
婚姻後、どちらに居住するかですよね。
まあ、形だけの婚姻で別居という選択しかないのかな?
江戸城に居住するのか、大坂城に居住するのか…。完全な人質でしょうから…。

それにしても、関ヶ原の戦いのとき、豊臣恩顧の大名で家康方についた者たちは、どんなふうに時の移り変わりを感じていたのか知りたいです。

福島正則などはどんな顔をして、没後、太閤秀吉公にあの世で挨拶をしたのでしょうか…。まあ、秀吉公もあの世で信長にどんな顔で挨拶したのか知りたいです。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年3月31日 (月) 09時47分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

もちろん、どの史料に重きを置くかで考えは変わりますし、タイムマシンで見て来れない以上、結論は出ませんので、あくまで「私はこう考える」という意味でお答えさせていただきますが…

もちろん、関ヶ原以降に家康の権限が強くなった事は確かでしょう。
特に東国では…
そもそもは、秀吉が死んでから、秀頼が幼いのを良い事にイロイロやりだしたからこそ、三成が怒っての関ヶ原ですし、その関ヶ原で、豊臣家内の反対勢力を一掃させたわけですから、五大老の筆頭として、その力が強大になった事は否めません。

ただし、この時点での家康は、あくまで「豊臣家のため」という家臣のポーズでやってたと思うんです。

法令の発布や納税関係、天下普請や天領うんぬんというのは、豊臣家の五大老の筆頭という立場からも、ある程度可能だったのではないかと…なんせ「東は家康に任す」というのが秀吉の遺言ですし。

ただ、「一国一城令」を慶長二十年閏6月13日に、「武家諸法度」は同じく7月7日に、「禁中並公家諸法度」は7月17日と、鹿児島のタクさんのおっしゃる、これらの、まさに徳川家のための法令は、いずれも豊臣家を滅亡させた直後に矢継ぎ早に発布しています。
また、この間の7月13日に元号を慶長から元和に改めて、これらを江戸幕府側は「元和偃武」>>と呼んでいます。
「偃武」とは「武器を伏せる(武器を用いない)」という意味で、言わば、徳川家自身が、「ここで戦国が終わった」と宣言している=つまり、大坂の陣までは戦国だったと言ってるように思うのです。
それは、イコール、それまでの天下は豊臣家にあったという事ではないかと…

また、
>大坂の陣の折、豊臣家も発していますが、豊臣方についた大名は皆無と言っていいでしょう…

これは、あくまで徳川家の言い分だと思うのです。
それこそ、大坂の陣に勝利して、結果的に徳川の世になった以上、ややこしい記録は末梢しなければならないので、記録が消された=証明もできないわけですが、
例えば、有名なところでは毛利の「佐野道可事件」>>のように、多くの大名が関ヶ原と同様の「二股かけてた」んじゃないか?と思うんですが、その「佐野道可事件」でも、結局は佐野道可の個人的な出奔として処理して毛利は生き残りますが、毛利以外にも加藤家や細川家が二股をかけていたなんて事も言われていますので、おそらく他にも…
こういう記録は、大名自身の立場が不利になるので、徳川が消さなくても、大名が末梢するでしょう。

以前、おねさんのご命日の日のページ>>に書かせていただいたように、秀吉の関白任官関係や所領関係の文書は、おねさんが保管して放さなかった事から、さすがに秀吉=関白を末梢する事はできませんが、豊国神社をぶっ潰したり、秀吉の墓をグチャグチャにしたりなんて徳川家の行動を見てると、秀吉の存在自体を歴史から消したかったんじゃないか?と思うくらいに考えてしまします(←それこそ豊臣贔屓の妄想ですが…笑)

文中に書いた「徳川幕府による故意的なミスリード」というのは、そういう意味です…つまり、現代の私たちも、惑わされているんじゃないかと…これまた妄想ですが、

投稿: 茶々 | 2014年3月31日 (月) 11時30分

「天領」をどこで切るかという問題もありますが、大坂の陣時点での、将軍家の天領兵力が3万5千、駿府家の兵力が2万ですので、御三家兵力を含まないのであれば220万石前後と推察されます。

投稿: ほよよんほよよん | 2014年3月31日 (月) 21時24分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

そうですね。
一般的には、関ヶ原前は120万石程度で関ヶ原後に240万石程度だったとされていますね。

投稿: 茶々 | 2014年4月 1日 (火) 01時18分

茶々様

やはり、歴史は勝者が残していく…都合のよいようにというのが当然なのでしょうね。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年4月 1日 (火) 09時21分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

私としては、そこを推理していくのが、歴史の醍醐味だと思うんです。

もちろん、学問としての歴史学の研究の場合は、もう少し史料が揃わないとお話にならないとは思いますが…

投稿: 茶々 | 2014年4月 1日 (火) 12時34分

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