斉藤道三×織田信長…正徳寺の会見
天文二十二年(1553)4月20日、斉藤道三が、娘婿にあたる織田信長と正徳寺にて会見しました。
・・・・・・・・・
信長主人公のドラマでは欠かせない名場面ですね。
そもそもは・・・
天文十一年(1542年)の小豆坂(あずきざか)の戦い(9月19日の冒頭部分参照>>)を皮切りに、三河(愛知県東部)の松平広忠(当然ですが家康の父)を援護する駿河(するが=静岡県中部)の今川義元(いまがわよしもと)の軍勢が、小豆坂(愛知県岡崎市)周辺へと、度々侵攻するようになって来る中で、尾張(愛知県西部)の守護・斯波義統(しばよしむね)とともに清州にいた守護代の織田達勝(たつかつ)の奉行だった信長の父・織田信秀(おだのぶひで)が徐々に頭角を現して来ます。
しかし、そんな中で度々攻撃をしていた隣国・美濃(みの=岐阜県)の斎藤道三(さいとうどうさん)に敗北する(9月22日参照>>)と、その留守を狙って、織田清州衆の織田信友(のぶとも=達勝の後継者)らが、古渡(ふるわたり=名古屋市中区)城下に攻撃を仕掛けて来る・・・と、未だ尾張国内でも群雄割拠する状況でした。
東に駿河の今川、北に美濃の斉藤、さらに尾張国内・・・と、考えた信秀は、ひとまずここで斉藤氏と同盟を結ぶ事に・・・
こうして決まったのが天文十八年(1549年)2月24日の信秀の息子・信長と、道三の娘・帰蝶(きちょう・濃姫)との結婚(2月24日参照>>)ですね。
とは言え、戦国時代の政略結婚ですから、「信長と濃姫が結婚するまで会った事無い」てのは当然ですが、嫁の父である道三も信長には会った事が無かったわけで・・・
そんな中で聞こえて来るのは、例の「うつけ」の噂です。
普段から、とても殿様とは思えない奇抜ないでたちで悪童たちと暴れまわり、結婚から2年後の天文二十年(1551年)に亡くなった父=信秀の葬儀の時でさえ、その恰好のまま式場に現われて、手を合わせるどころか、お香を仏前に投げて立ち去るという悪行・・・そんな素行の悪さは、隣国の美濃にも伝わっており、
それが耳に入る度に道三は
「いや、そこまでアホでは無いやろ」
と否定しつつも、徐々に、実際に会って確かめないと気持ちがおさまらなくなって来たのです。
かくして道三は、
「僕が、富田(とみた=愛知県一宮市)の正徳寺(しょうとくじ・聖徳寺=同じく一宮市)まで出向くんで、信長君も、そこまで来てくれへんかな?…1回、会いたいねん」
との手紙を送り、天文二十二年(1553)4月20日の会見とあいなったのです(『信長公記』では4月下旬と表記)。
道三の提案を快く引き受けた信長は、木曽川・飛騨川を渡り富田へ・・・当時の富田は、大坂本願寺から住職が派遣されて来ていた正徳寺を中心に、約700軒ほどの民家並ぶ豊かな場所でした。
かねてから信長の破天荒な噂を耳にしていた事で、
「信長はクソまじめな性格ではない」
と睨んだ道三は
「ひとつ、アイツを驚かせて笑ってやろう」
と考え、見事な正装スタイルに着飾った老臣たちを800人ばかり、正徳寺の御堂の前に整列させ、その真ん中を信長が通るように準備しておいて、自分は町はずれの小屋の中に身を隠し、寺へやって来る信長の行列を覗き見するのです。
やがて・・・道三の隠れている小屋の前を通過する信長・・・
道三が目にした、その姿は・・・
萌黄色(もえぎいろ=この文字の色です)の紐で髪を茶筅髷(ちゃせんまげ=毛先を茶筅のようにした髪型)に結い
湯帷子(ゆかたびら=いわゆる浴衣みたいな物です)を袖脱ぎにし、
袴(はかま)は虎皮と豹皮を4色に染め上げた半袴、
金銀飾りの太刀(たち)と脇差を荒縄で腰にくくりつけ、
さらにその荒縄に、まるで猿回しのように、火打ち袋や複数の瓢箪(ひょうたん)をぶら下げて・・・
(こんなイメージ?→
短パンは穿いてませんが、以前、描かせていただいたイラストです)
従う供は7~800人ほどに槍や弓や鉄砲を持たせて整列させ、軽快な足軽を自らの前方に走らせる・・・
ところが、いざ正徳寺に着いた信長は、ササ~と屏風を立てたかと思うと、かねてより用意していた褐色の長袴を穿き、腰には小刀、髪も正装の折り曲げに結いなおします。
誰もが
「日頃のアホぶりは、わざとやっとってんな」
と思った瞬間でした。
その後、御堂の中で対面し、湯漬けを賞味した後、盃を汲みかわし、会見は滞りなく終了する事となりますが、
なんとなく期待を裏切られた感の道三は、苦虫を噛み潰したような表情で、
「また、近いうちにお目にかかろう」
と言って席を立ち、信長は、寺から立ち去る道三を、外へ出て二十町(2kmちょっと位?)ほど見送りました。
その時、両者の兵士たちが掲げる槍の長さ・・・美濃勢に対して信長勢の持つ槍が非常に長かった様子を見た道三は、またもや不機嫌な表情をしつつ、何も言わずに帰途についたのだとか・・・
途中、茜部(あかなべ=岐阜県岐阜市)という所で従者の猪子高就(いのこたかなり)が道三に、
「やっぱ、噂通りのアホでしたな」
と言うと、道三は
「せやから残念やねん。
俺の息子らは、将来必ず、あのアホの門前に馬をつなぐ(家来になる)事になるやろ」
と・・・
それから後は、信長をアホ呼ばわりする人はいなくなったとか・・・
・・・と、ドラマでお馴染の場面ではありますが、以上は『信長公記』の記述に沿って紹介させていただきましたが、ついでと言っちゃぁなんですが、オモシロイ『老人雑話』での会見の様子もご紹介・・・
内容は、かなりはしょってあるものの、ほぼ同じですが、『老人雑話』では、信長が来るところを覗き見した道三のビックリ仰天度がハンパない!!
なんせ、信長の着ていた湯帷子の模様が、男性のアレ・・・チ●チ●をデカデカとプリントしての登場に驚いた道三は、
「こんなヤツに正式な式法で会見する必要な~し!」
と、従者に命じて、用意していた式典の道具を片づけさせ、田舎家具を運ぶよう指示しますが、
例の如く、信長は会見場に正式な服装で現われて、またまた慌てて、式典の準備をしなおした・・・と、
そして、これまた有名なセリフ・・・
「我が国は、婿殿への引出物になるであろう」
と・・・
う~~ん、確かに・・・ドラマの場合、この二つのどちらかの道三のセリフで、会見の場面を終える事が多いですね~
どっちが良いかな?
『信長公記』の「門前に馬をつなぐ」か、
『老人雑話』の「引出物」か・・・
個人的には後者かな?
・・・て事は、着物の柄も忠実に再現して…って放送できひんがな(*^.^*)
ちなみに、この会見から3年後に道三は息子の義龍(よしたつ)に攻められて、信長に「美濃を譲るの遺言状」(4月19日参照>>)を残した翌日、奇しくも同じ4月20日に討死し(2012年4月20日参照>>)、さらに、その10年後、その義龍の息子の龍興(たつおき)の時代に、道三の予想通り、美濃は婿殿への引出物となったのでした(8月15日参照>>)。
PS:
この前後の信長関連の出来事としては、
3ヶ月前には傅役の平手政秀(ひらてまさひで)の自刃があり(1月13日参照>>)、
1年後には若き信長の村木城(砦)の戦い(1月14日参照>>)がありますが、
くわしくは【信長の年表】からどうぞ>>
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コメント
茶々様、こんにちは。
信長ファンの私としては、この話大好きですよ。
偉大な人は偉大な人を見抜く。
達人は達人を知るですよね。
道三の予言は見事に当たりますしね。
私は信長公記の記述が好きです。
投稿: エアバスA381 | 2014年4月20日 (日) 12時14分
エアバスA381さん、こんにちは~
>達人は達人を…
安国寺恵瓊も、人を見抜いてましたね~
道三の場合は、息子=義龍を見誤った感はありますが…
「門前に馬をつなぐ」という表現もカッコイイです。
投稿: 茶々 | 2014年4月20日 (日) 15時47分
大河ドラマ「国盗り物語」で、高橋英樹が演じていましたね。うつつけ者を装っていたんでしょうか。漫画「信長協奏曲」も好きですね。
投稿: やぶひび | 2014年4月21日 (月) 18時19分
やぶひびさん、こんばんは~
大河ドラマ「国盗り物語」は良かったですね~
今でも、けっこう覚えています。
投稿: 茶々 | 2014年4月22日 (火) 01時52分
「信長協奏曲」がアニメ・テレビ時代劇・映画と「トリプル映像化」されます。信長協奏曲ではフィクションの脚色部分がありますが、この記事の両雄の会見の場面が出てきます。
10月からのテレビ時代劇編と映画編(公開は来年?)では、小栗旬くんが主役です。他の主要人物の配役が誰になるか楽しみです。
投稿: えびすこ | 2014年5月 9日 (金) 10時19分
えびすこさん、こんにちは~
そうですかぁ…小栗くんかぁ
「信長のシェフ」も7月から続編やります!
楽しみです。
投稿: 茶々 | 2014年5月 9日 (金) 17時32分
参考にさせて頂きますo(*^▽^*)o
ありがとうございます!!
投稿: 記者 夢見がち | 2014年11月15日 (土) 19時23分
記者 夢見がちさん、こんばんは~
コメント、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2014年11月16日 (日) 01時43分