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2014年4月10日 (木)

後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?

 

永禄三年(1560年)4月10日、もと黒田家の家臣で、大坂夏の陣で大坂方の一人として討死し、後に「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」などに数えられる武将・後藤又兵衛基次が誕生しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と、堂々と日づけを書いちゃいましたが、これは、あくまで一つの説・・・実際には、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)の幼い頃の事は、よくわかっていないのです。

なので、モノによっては生年不詳となっている事もあるのですが、それではお話をはじめ難いので、本日=4月10日の日づけで書かせていただきますね。

通説では、又兵衛の父は、別所氏家臣で、後に小寺政職(こでらまさもと)の配下となった後藤基国(もとくに)であるとされ、その父が、又兵衛が幼い頃に亡くなってしまったため、当時、ともに政職に仕えていた黒田(小寺)官兵衛孝高(かんべえよしたか=如水)が、彼を引き取って、自らの息子のように育てたと・・・

そう、今年の大河ドラマで、主人公の官兵衛の息子=松寿丸(しょうじゅまる=後の長政)剣術稽古の相手をする兄貴分みたいな感じで登場しているあの子です。

先日のドラマの中で、人質となって羽柴(豊臣)秀吉のもとへ行き、そこで、秀吉子飼いの加藤清正(かとうきよまさ)らに、稽古でコテンパンにやられる松寿丸を見かねて止めに入ったおね(秀吉の正室)さんに対して、
「大丈夫です!姫路で稽古していた又兵衛は、もっと強ぅございました」
的なセリフで、松寿丸が答えるシーンがありましたが、その通り、この後、成長した又兵衛は、西に東に大活躍する武将になるわけですが、

とは言え、この又兵衛が、歴史と言える正式な文書に登場するのは、秀吉が九州征伐を開始する天正十四年(1586年)が初・・・又兵衛は、すでに25~6歳くらいになってますが、この時の戸次川の戦い(11月25日参照>>)に、讃岐(香川県)仙石(せんごく)秀久の配下として登場します。

この戸次川の戦いは、天正十年(1582年)の本能寺に散った織田信長亡き後に、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)秀吉が、その翌年に織田家の重臣だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月23日参照>>)、天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(11月16日参照>>)を経て徳川家康をほぼ味方に引き入れて、まさに天下を狙うべく四国を平定(7月26日参照>>)したグッドタイミングで、九州にて島津に攻められてヤバくなった大友宗麟(そうりん)が泣きついて来た(4月6日参照>>)事で開始された、対島津の戦いなわけですが・・・

ところが、その戸次川の戦いのページ(先の11月25日参照>>)に書かせていただいたように、ギクシャクムード満載で突入したこの戦いで秀吉軍は大敗・・・その責任から秀久は所領を没収され、高野山へと追放の身(9月18日の真ん中あたり参照>>)となってしまうのです。

当然、その下にいた又兵衛も・・・と、その時に又兵衛に手を差し伸べたのが、誰あろう、幼き頃に兄弟のように剣術の稽古を重ねた松寿丸こと長政でした。

しかも、父=官兵衛の反対を押し切って・・・

というのも、実は、又兵衛が、黒田家を離れた理由が、あの荒木村重(あらきむらしげ)官兵衛幽閉事件の時・・・

このブログでも度々登場しているお話ですが、かの秀吉の中国攻略で、はじめは信長傘下を表明していた村重が突然寝返った時、その説得のために有岡城を訪れた官兵衛を牢屋に閉じ込めて幽閉した事から、信長は、戻って来ない官兵衛が寝返ったと思ったあの事件(10月16日参照>>)・・・

この時に、又兵衛の身内が敵方についた事から、又兵衛自身も黒田家を離れたらしいのですが、もともと、又兵衛の武勇と器量がハンパ無い事は黒田父子も周知の事・・・で、長政は、又兵衛を迎え入れようとしたわけです。

しかし、父=官兵衛は、
「謀反人を側近にするのはアカン」
と・・・

そこで、長政は重臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)与力としてまずは採用し、そこからだましだましで自らの家臣にしていく感じで・・・

これまでの、そしてこの後の又兵衛と黒田父子の関係を思うに、おそらく官兵衛&長政ともに、
心の底では「おいでヽ(´▽`)/おいで」って感じやったんでしょうが、簡単に許しちゃぁ周りに示しがつかないので、こんな感じでやったんじゃないか?と思うのですが(←あくまで個人的な妄想です)

Gotoumototugu600 とにもかくにも、こうして黒田家に戻った又兵衛は、黒田父子の予想通り、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにて八面六臂の大活躍家老にまで昇進し、冒頭の「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人に数えられる名将となるのです。

ところがドッコイ、大活躍の関ヶ原からわずか6年後の慶長十一年(1606年)、又兵衛は突如として一族を引き連れて黒田家を出奔し、隣国である豊前(ぶぜん=福岡県東南部)細川忠興(ほそかわただおき)を頼ります。

黒田父=官兵衛は、この2年前に亡くなっていますので、この時の黒田家は名実ともに長政が当主だったわけですが、いったい、本当の兄弟のように仲良くしていたはずの二人の間に何が???

よく言われるのは、出奔して頼った事でもわかるように、又兵衛が忠興と仲が良かった事・・・

実は、関ヶ原後に行われた国替えで、忠興の細川家が豊前の中津を与えられた時、同時に、それまでこの豊前の領主だった長政は、筑前(ちくぜん=福岡県西部)に移るのですが、その際、大名同志の取り決めで、年貢の半分は残して行く約束だったにも関わらず、長政(官兵衛はすでに隠居してるので…)は、その年の年貢をすべて徴収してから去って行った事で、新しい地についた細川家がエライ目に遭ったという出来事があってから、すでに黒田と細川が犬猿の仲となっていた中で、

隣国の豊前と国境を接する位置にある大隈城(おおくまじょう=福岡県嘉麻市)を任されていた又兵衛が、本来なら相手を監視すべきところを、何かと親しく交流する事が、長政には許せず、次第に、又兵衛との仲も悪くなっていった・・・というもの・・・

あるいは、長政の嫉妬という話もよく聞きます。

いかにも豪快な戦国気質を持ち、合戦ではアッと驚くような事をやってのける又兵衛に対して、長政はちとタイプが違う・・・以前、官兵衛さんのご命日のページ(3月20日参照>>)にも書かせていただきましたが、晩年の父=官兵衛は、自分とはタイプの違う長政の事を、常に気にかけていたようで・・・

そう、実は、父=官兵衛が、自分とタイプが似ていて好みだったのは又兵衛の方で、一方の又兵衛も、幼くして父を亡くした自分を育ててくれた豪快かつ器量の大きな官兵衛を尊敬してやまなかったわけで・・・そんな、二人の関係に、少しタイプの違う長政が嫉妬したのではないか?と・・・

とにもかくにも、以前に又兵衛さんのご命日のページ(5月6日参照>>)にも書かせていただいたように、又兵衛が黒田家にいる段階からお互いにディスりまくりの犬猿ムードだった中で、出奔して大嫌いな細川を頼った事が、その気持ちに拍車をかけ、長政は又兵衛を「奉公構(ほうこうかまい・ほうこうかまえ)の処分に・・・

この奉公構というのは、大名から他の大名へ、コイツを召抱えないように」と釘を刺す回状を出すこと・・・業界で言うとこのろの「お前、ほすゾ」ってヤツで、大名からの正式な通達ですから、当然、頼られた細川家も召抱える事はできませんし、その他の大名たちも・・・

で、結局、ず~~っと浪人のままだった又兵衛は、一時は物乞いをするまでに貧窮しますが、そこに大坂の陣を迎えた豊臣秀頼(ひでより)からの声がかかり、あの真田幸村(信繁)と同様に、大坂城へと馳せ参じ、慶長二十年=元和元年(1615年)5月6日の道明寺の戦いにおいて壮絶な死を遂げるのです。
(大坂の陣については【大坂の陣の年表】でどうぞ>>)

大坂の陣での戦いぶりや長政VS又兵衛の確執など、まだまだ書きたいところですが、それはいずれまた別の機会にさせていただくとして、とにもかくにも、そんな又兵衛は6人の息子と幾人かの娘を残しました。

大坂の陣から30年経った慶安二年(1649年)に大野治房(はるふさ)の息子たちの謀反の計画が発覚した事を受けて、当時、和泉国淡輪村(たんのわむら=大阪府泉南郡岬町)に隠れ住んでいた又兵衛の長男の佐太郎(さたろう)が、幕府からの取り調べを受けた時の記録によって、父の死後も、又兵衛の子供たちが、遠い地に離れ々々になりながらも親しく交流していた事がうかがえ・・・と、これもまた、子供たちについてイロイロとお話したいのですが、これ以上横にそれるとエライ事になるので、とりあえず、本日のお題の話をしますが・・・

そんな又兵衛の子供たちのうち、五男とされる久馬助(くめすけ)・・・彼は、又兵衛が、黒田家出奔後に、一時、姫路城主の池田輝政(てるまさ)のもとに身を置いていた時に、池田の家臣の三浦主水(もんど)妹を娶ってもうけた子供でしたが、輝政の死後に池田家が例の長政の奉公構のクレームに従った事で、上記の通り、浪人の身となって大坂の陣へ突入・・・と、この時、かの久馬助は、わずか3歳でした。

父=又兵衛の死後に、母の実家である三浦家に引き取られた彼は、大きくなって三浦治兵衛為勝(じへえためかつ)と名乗り、岡山城主の池田忠雄(ただかつ)に仕えます。

さらに、その後、その池田家が鳥取に転封となったために彼も鳥取に引っ越して元禄四年(1691年)に亡くなったので、彼の長男である正敏(つまり又兵衛の孫)なる人物が、景福寺(けいふくじ=鳥取市新品治町)というお寺に父=為勝のお墓を建立するのですが・・・

なんと、そのお墓の銘文には「為勝之厳父曰後藤又兵衛正延■敕華道蓮。今也尋於道蓮之元由、黒田官兵衛源政成法号如水入道實子」の文字・・・つまり、「又兵衛は官兵衛の実子である」と・・・

にわかに信じ難い話ですが、もし本当だとすると、又兵衛は長政より年上ですから、官兵衛が正室である(てる・みつ)さんと結婚する前に生まれた子という事になり、まさに長男ですがな!!

もちろん、これは正史とされてはいませんが、少なくとも、又兵衛の息子や孫はそう思っていたわけで・・・

以下、妄想に次ぐ妄想ですが・・・
幼き頃に兄のように慕っていた又兵衛が、実は本当の兄だという事を、長政が途中(官兵衛が亡くなった頃?)で知ったとしたら・・・
それが、父からの信頼も篤く、父のように優秀で、父にソックリな兄貴だったとしたら・・・

それを考えると、官兵衛が亡くなった後の長政の異常な嫉妬もなんとなくうなずけるわけで・・・

いやはや、大河ドラマさん・・・ドラマの序盤に幼馴染のおたつさんとの初恋エピソードを盛り込むなら、いっその事、又兵衛を、おたつとの間にもうけた子供にしちゃって・・・たら、あきませんね。。

ドロドロのぐちゃぐちゃで大河が昼ドラになってしまいそうですから~(*^-^)
 .

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コメント

こんばんは。

大河での少年時代の又兵衛くん&松寿丸くんは、実の兄弟の如く仲良しに描かれていますが、どんどん仲悪くなっていくんでしょうねぇ。

又兵衛が如水の実子…長政との確執の理由としてはスゴく面白いですが、どうなんでしょうねぇ。

投稿: 圭さん | 2014年4月10日 (木) 19時43分

唐突・・・・昨日近鉄にのり奈良県宇陀市宇陀本郷の後藤又兵衛屋敷跡に咲く「又兵衛桜」を見に行きました。平日だというのに凄い人ごみ、「槍の又兵衛」人気者のです。

1915年5月6日大坂夏の陣 道明寺小松山の戦いで、伊達政宗家臣、片倉重長隊、鉄砲の一斉射撃を受け壮絶な戦死をとげたのは
やはり、影武者の又兵衛でした。

  官兵衛よ、又兵衛は奈良で天寿をまっとうしたぜ・・・nhkさんヨロシク 管理人さんの話もグゥー!

投稿: 浪速の影丸 | 2014年4月11日 (金) 01時27分

圭さん、こんばんは~

どうでしょうねぇ~~
何代か後の子孫なら勘違い度も高いでしょうが、子と孫の世代ですから、間違わない気もするんですが…
ホントだと面白いんですよね。

投稿: 茶々 | 2014年4月11日 (金) 01時44分

浪速の影丸さん、こんばんは~

おぉ、又兵衛桜をご覧になって来たんですか!!
いいですね~

不死身の男=又兵衛の生存説は遠く九州までありますからね~
ワクワクです(*^-^)

投稿: 茶々 | 2014年4月11日 (金) 01時47分

連絡手段が、此処しかないので、ここに書かせていただきます。
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/yasaka.htm
↑ここのマップの圓徳院と高台寺の位置関係は、実際と逆です。

投稿: | 2014年4月11日 (金) 05時22分

茶々様

貴説…と言っていいのかな…は大河ドラマ以上の面白いものになりそうですね。
それにしても、「男の嫉妬」みたいなものも怖いですね。(長政の件)

「奉公構(ほうこうかまい・ほうこうかまえ)」…怖いですね。まあ、戦国武将には、「七たび浪人せねば一流ではない。」…とかいう言葉があったとかなかったとか…。

「奉公構(ほうこうかまい・ほうこうかまえ)」…これが現代社会の会社であったら(あるのかな?)たいへんですね。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年4月11日 (金) 06時47分

>圓徳院と高台寺の位置関係は…

ありがとうございますm(_ _)m

別窓やその他の地図は大丈夫でしたので、昨年、その地図を大きくした時にテレコになってたみたいです~(気づいてませんでした)
早速、訂正させていただきました。

ホームページからの連絡先はトップページに設置してありましたが、目立たなかったですか?
今度、改善しておきますo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2014年4月11日 (金) 13時11分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

>貴説…

もしも本当だったら…といろいろ想像してみるとおもしろいですよね~
奉公構…この頃は、「イケズ」ではなく、処分の仕方の一つではありましたが、なかなか厳しいです。

投稿: 茶々 | 2014年4月11日 (金) 13時18分

茶々様、こんばんは。
いつも、ありがとうございます。

余談ですが、CSで、「真田太平記」が、再放送されていますね。
茶々様は、ご覧になっておられるかしらと、毎日思っています!

投稿: 真田丸 | 2014年4月11日 (金) 21時36分

真田丸さん、こんばんは~

CSですか…
最近はCS見て無いですね~

「真田太平記」は本放送の時も、人生で最も多忙な時期で、ほとんどテレビを見て無い時だったので…
「オモシロイ」との噂は聞いてますので、いつか機会がありましたら拝見させていただきますね。

投稿: 茶々 | 2014年4月12日 (土) 02時05分

初耳です。w(゚o゚)w もし1560年生まれだとしたら、官兵衛が10代半ばの頃の子供になりますね。官兵衛の生前から隠し子の噂があったんでしょうか?長政には年の離れた弟(光さんが母親)がいるらしいですが、この人は若年で死んだとかで。実際は誰がついていたかわかりませんが、長政(松寿丸)が織田家の人質になった時に、若年ではあるものの又兵衛がついて行かなかったのも意味深なのかな?
先日松坂桃李くんが撮影に合流したようです。スポーツ新聞の写真で黒田家関係者では、登場人物の世代で見ると古株組が総髪で若手組は月代のようですね。シンケンジャーで殿と呼ばれた松坂くんが、大河ドラマで「本物の殿様」になります。6月22日から登場です。
最後に余談ですが、阪神の黒田正宏ヘッドコーチは黒田官兵衛の子孫に当るようです。出身地・出身校が姫路です。軍師官兵衛の制作決定の際にはコメントをしております。

投稿: えびすこ | 2014年4月13日 (日) 10時56分

えびすこさん、こんにちは~

本文にも書かせていただいた通り、この件に関しては墓石の銘文以上の事は想像するしかありませんが、建立した人物がはっきりしていて、又兵衛さんに近い人物であるゆえ、「子孫の思い込み」と一蹴するわけにはいかないでしょうねぇ。。。

私としては、更なる発見に期待しています。

投稿: 茶々 | 2014年4月13日 (日) 12時01分

普通に三木城の蜂起に際して、黒田孝高は小寺政職と仲違いなどしておらず、黒田基次を毛利-小寺側に送り、黒田長政を織田家に送ったと考えればごく自然だと思います。
当時の播磨は、どちらかというと毛利色が濃かったですから。織田勢の有利がはっきりしてきて、さも人質候補が1人しか居なかったかのごとく忠臣を偽装し、秀吉の時代もごまかし続けたと考えることは十分できると思います

投稿: ほよよんほよよん | 2014年4月14日 (月) 19時56分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

二股作戦ですね。。。

同時期に明智光秀が平定した福知山の塩見氏も、一族の中で三男の長政だけが織田=明智について生き残りを計っています。

戦国の世で血筋を残すための手段ですから、又兵衛が実子であった方が、より納得の選択ですね。

関ヶ原や大坂の陣を見ても、こういう場合には、負けた側の記録は、ある程度末梢されるのが常ですから、そこンところをウヤムヤにしてあるのかも…

投稿: 茶々 | 2014年4月15日 (火) 00時31分

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