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2014年4月26日 (土)

大坂夏の陣の戦端を切った大和郡山城の戦い

 

元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日、大坂の陣において、大坂方の軍勢が筒井定慶の守る大和郡山城を攻略・・・定慶は城を捨てて逃走しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、大坂冬の陣の講和が成った後、少しの休息があって再開となる大坂夏の陣の勃発です。

何を以って大坂の陣勃発とするかは、微妙なところでもありますので、とりあえず講和後の主だった出来事を時系列にまとめてみますと・・・
(それまでの経緯は【大坂の陣の年表】>>で)

慶長十九年(1614年)
12月19日:冬の陣の和睦成立(参照>>)
12月22日:誓紙発行により冬の陣終結
12月25日:家康が二条城に入る
慶長二十年・元和元年(1615年)
1月3日:家康が駿府への帰途につく
1月15日:秀頼の使者が岡崎に入る
      (家康が誓紙の条件を守らない事について責問)
1月28日:秀忠が京都を発ち下向
2月頃:秀頼の名で浪士を召集
      (埋められた壕を再び堀起こすため)
3月15日:京都諸司代板倉勝茂が大坂の現状報告
3月24日:大野治長の使者が雑説について家康に説明
4月3日:大坂方の普請奉行が天王寺の足場ならし
      (交戦場を作る)
4月4日:息子の結婚式に出席として家康が駿府出発
4月5日:秀頼の城外(阿倍野・住吉・平野など)巡視
4月6日:家康が諸将に出陣準備の旨通達
4月9日:大野治長が何者かの襲撃を受けて重傷を負う
4月12日:家康の息子・義直が結婚
4月15日:家康、名古屋を出立
4月18日:家康、二条城に入る
4月19日:家康が大野治純(治長の弟)に兄の様子を
      問わせる(参照>>)
4月21日:秀忠、伏見に入る
4月24日:家康が常高院(淀殿の妹=初)を通じて「国替えか浪人の追放か」の二者択一を秀頼に迫るも、大坂方は拒否

・・・で、続く4月25日には、秀忠が京都に到着した関東の各部隊の部署を定め、いよいよ、元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日徳川方は、家康&秀忠など主だった者を集めて、二条城にて軍議を開くわけですが・・・

一方の大坂方・・・

一般的には、講和とは言え、負けた感の冬の陣の終結で、大坂方に死亡フラグが立ち、さらに起こった夏の陣での籠城作戦一辺倒の大坂城内の雰囲気に真田幸村(信繁)らの打って出る意見はかき消され・・・てな感じにドラマなどでも描かれがちですが、そうでは無い可能性もあります。

冬の陣の講和の条件等も、実は江戸時代に書かれた書物が出どころである事が多く、豊臣ファンとしては納得がいかない謎まみれで、はがゆいばかりですが、その検証は、また別の日にさせていただくとして、少なくとも、夏の陣では、最初っから籠城作戦だったわけではなく、まずは打って出る作戦であった事は確かです。

なんせ、これまで書かせていただいている通り、この後、
4月29日の樫井の戦い>>
5月6日の若江の戦い>>
同じく八尾の戦い>>
道明寺誉田の戦い>>
とあるわけで、道明寺・誉田の戦いに至っては、幸村が寝坊せずに合戦に間に合っていたなら、もっと善戦できたんじゃないか?とさえ思います。

もともと、冬の陣で手こずった事から、「今度は短期決戦で一気に…」と考えていた家康が、これらの野戦での勢いそのままに大坂城を囲み、翌・5月7日>>に一気に総攻撃をかけたという感じだったと思います。

その最たるものが本日=元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日大和郡山城の戦いです。

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大和郡山城址・天守台から望む郡山の街並み

この大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)は、以前に書かせていただいたように(4月22日参照>>)織田信長から大和を預かった筒井順慶(つついじゅんけい)の城だったのを、ここが伊勢伊賀、さらに奈良側から大阪へ進入する際の重要な場所であった事もあって、その順慶の死後には、豊臣秀吉の弟=大納言秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)や豊臣五奉行の一人である増田長盛(ましたながもり)(5月27日参照>>)が預かった事もある城ですが、

大坂の陣の時は、関ヶ原後に家康の協力によって、それまで改易されていた筒井氏を継いだ筒井定慶(じょうけい)が守っておりました。

当然の事ながら、この夏の陣の勃発において、豊臣方は好条件を出して定慶に味方になってくれるよう説得していたのですが、上記の通りの経緯から「家康に恩がある」という事か?定慶は徳川方につく事になるのです。

・・・となれば、大坂方からの攻撃もやむなし・・・もちろん、定慶も覚悟の上でした。

かくして4月26日、豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、弟・大野治房(はるふさ)後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000が大和郡山城へと向かったのです。

ただし・・・上記の通り、準備を整えて戦う覚悟であった定慶ではありましたが、この時、闇に輝く松明(たいまつ)を掲げて行軍して来る大坂方の兵を見て、その数を見誤り、約30000の軍勢と思ってしまった事から、「とても、現段階での準備では勝ち目が無い」と判断し、定慶は、早々に城を脱出し、福住(奈良県天理市)へと逃れてしまったのです。

それに反発した一部の者が、城に残って徹底抗戦を構えますが、もはや総大将がいない城では何ともしがたく、結局、残りの者も逃走したり討ち取られたりで、ほどなく郡山城は落城・・・城下町にも火が放たれました。

さらに翌日、大坂方は奈良方面へ進入しようとしますが、前日の徳川方の二条城での軍議にて、奈良からの進軍を任された水野勝成(みずのかつなり)の軍勢が迫って来ているとの一報を受け、大坂方の軍勢は、一旦、大坂城へと引き上げる事となったのでした。

・・・で、その2日後に起こるのが、先にもリンクさせていただいた樫井の戦い>>

そのページにも書かせていただいたように、『大坂御陣覚書』では、本来なら勝っていたかも知れないこの樫井の戦いに負けた事が、大坂夏の陣のターニングポイントだったと書かれています。

そう、大坂方は、はなからの籠城戦ではなく、徳川方が完全に大坂城を包囲する前に、敵を一つずつ崩して行き、展開を有利に進めようと考えていたわけです。

しかし、夏の陣の戦端を切ったこの大和郡山城の戦いの後に、そのもくろみが崩れてしまう事となったというのがホントの所なのでしょう。
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2014年4月20日 (日)

斉藤道三×織田信長…正徳寺の会見

 

天文二十二年(1553)4月20日、斉藤道三が、娘婿にあたる織田信長と正徳寺にて会見しました。

・・・・・・・・・

信長主人公のドラマでは欠かせない名場面ですね。

そもそもは・・・
天文十一年(1542年)の小豆坂(あずきざか)の戦い(9月19日の冒頭部分参照>>)を皮切りに、三河(愛知県東部)松平広忠(当然ですが家康の父)を援護する駿河(するが=静岡県中部)今川義元(いまがわよしもと)の軍勢が、小豆坂(愛知県岡崎市)周辺へと、度々侵攻するようになって来る中で、尾張(愛知県西部)の守護・斯波義統(しばよしむね)とともに清州にいた守護代の織田達勝(たつかつ)の奉行だった信長の父・織田信秀(おだのぶひで)徐々に頭角を現して来ます。

しかし、そんな中で度々攻撃をしていた隣国・美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)に敗北する(9月22日参照>>)と、その留守を狙って、織田清州衆織田信友(のぶとも=達勝の後継者)らが、古渡(ふるわたり=名古屋市中区)城下に攻撃を仕掛けて来る・・・と、未だ尾張国内でも群雄割拠する状況でした。

東に駿河の今川、北に美濃の斉藤、さらに尾張国内・・・と、考えた信秀は、ひとまずここで斉藤氏と同盟を結ぶ事に・・

こうして決まったのが天文十八年(1549年)2月24日の信秀の息子・信長と、道三の娘・帰蝶(きちょう・濃姫)との結婚(2月24日参照>>)ですね。

とは言え、戦国時代の政略結婚ですから、「信長と濃姫が結婚するまで会った事無い」てのは当然ですが、嫁の父である道三も信長には会った事が無かったわけで・・・

そんな中で聞こえて来るのは、例の「うつけ」の噂です。

普段から、とても殿様とは思えない奇抜ないでたちで悪童たちと暴れまわり、結婚から2年後の天文二十年(1551年)に亡くなった父=信秀の葬儀の時でさえ、その恰好のまま式場に現われて、手を合わせるどころか、お香を仏前に投げて立ち去るという悪行・・・そんな素行の悪さは、隣国の美濃にも伝わっており、

それが耳に入る度に道三は
「いや、そこまでアホでは無いやろ」
と否定しつつも、徐々に、実際に会って確かめないと気持ちがおさまらなくなって来たのです。

かくして道三は、
「僕が、富田(とみた=愛知県一宮市)正徳寺(しょうとくじ・聖徳寺=同じく一宮市)まで出向くんで、信長君も、そこまで来てくれへんかな?…1回、会いたいねん」
との手紙を送り、天文二十二年(1553)4月20日会見とあいなったのです(『信長公記』では4月下旬と表記)

道三の提案を快く引き受けた信長は、木曽川飛騨川を渡り富田へ・・・当時の富田は、大坂本願寺から住職が派遣されて来ていた正徳寺を中心に、約700軒ほどの民家並ぶ豊かな場所でした。

かねてから信長の破天荒な噂を耳にしていた事で、
「信長はクソまじめな性格ではない」
と睨んだ道三は
「ひとつ、アイツを驚かせて笑ってやろう」
と考え、見事な正装スタイルに着飾った老臣たちを800人ばかり、正徳寺の御堂の前に整列させ、その真ん中を信長が通るように準備しておいて、自分は町はずれの小屋の中に身を隠し、寺へやって来る信長の行列を覗き見するのです。

やがて・・・道三の隠れている小屋の前を通過する信長・・・

道三が目にした、その姿は・・・
萌黄色(もえぎいろ=この文字の色です)の紐で髪を茶筅髷(ちゃせんまげ=毛先を茶筅のようにした髪型)に結い
湯帷子(ゆかたびら=いわゆる浴衣みたいな物です)を袖脱ぎにし、
(はかま)は虎皮と豹皮を4色に染め上げた半袴
金銀飾りの太刀(たち)脇差荒縄で腰にくくりつけ、
Nobunagabirthdaycc さらにその荒縄に、まるで猿回しのように、火打ち袋や複数の瓢箪(ひょうたん)をぶら下げて・・・
(こんなイメージ?→
短パンは穿いてませんが、以前、描かせていただいたイラストです)

従う供は7~800人ほどに槍や弓や鉄砲を持たせて整列させ、軽快な足軽を自らの前方に走らせる・・・

ところが、いざ正徳寺に着いた信長は、ササ~と屏風を立てたかと思うと、かねてより用意していた褐色の長袴を穿き、腰には小刀、髪も正装の折り曲げに結いなおします。

誰もが
「日頃のアホぶりは、わざとやっとってんな」
と思った瞬間でした。

その後、御堂の中で対面し、湯漬けを賞味した後、盃を汲みかわし、会見は滞りなく終了する事となりますが、

なんとなく期待を裏切られた感の道三は、苦虫を噛み潰したような表情で、
「また、近いうちにお目にかかろう」
と言って席を立ち、信長は、寺から立ち去る道三を、外へ出て二十町(2kmちょっと位?)ほど見送りました。

その時、両者の兵士たちが掲げる槍の長さ・・・美濃勢に対して信長勢の持つ槍が非常に長かった様子を見た道三は、またもや不機嫌な表情をしつつ、何も言わずに帰途についたのだとか・・・

途中、茜部(あかなべ=岐阜県岐阜市)という所で従者の猪子高就(いのこたかなり)が道三に、
「やっぱ、噂通りのアホでしたな」
と言うと、道三は
せやから残念やねん。
俺の息子らは、将来必ず、あのアホの門前に馬をつなぐ
(家来になる)事になるやろ」
と・・・

それから後は、信長をアホ呼ばわりする人はいなくなったとか・・・

・・・と、ドラマでお馴染の場面ではありますが、以上は『信長公記』の記述に沿って紹介させていただきましたが、ついでと言っちゃぁなんですが、オモシロイ『老人雑話』での会見の様子もご紹介・・・

内容は、かなりはしょってあるものの、ほぼ同じですが、『老人雑話』では、信長が来るところを覗き見した道三のビックリ仰天度がハンパない!!

なんせ、信長の着ていた湯帷子の模様が、男性のアレ・・・チ●チ●をデカデカとプリントしての登場に驚いた道三は、
「こんなヤツに正式な式法で会見する必要な~し!」
と、従者に命じて、用意していた式典の道具を片づけさせ、田舎家具を運ぶよう指示しますが、

例の如く、信長は会見場に正式な服装で現われて、またまた慌てて、式典の準備をしなおした・・・と、

そして、これまた有名なセリフ・・・
「我が国は、婿殿への引出物になるであろう」
と・・・

う~~ん、確かに・・・ドラマの場合、この二つのどちらかの道三のセリフで、会見の場面を終える事が多いですね~

どっちが良いかな?

『信長公記』の「門前に馬をつなぐ」か、
『老人雑話』の「引出物」か・・・

個人的には後者かな?
・・・て事は、着物の柄も忠実に再現して…って放送できひんがな(*^.^*)

ちなみに、この会見から3年後に道三は息子の義龍(よしたつ)に攻められて、信長に「美濃を譲るの遺言状」(4月19日参照>>)を残した翌日、奇しくも同じ4月20日に討死し(2012年4月20日参照>>)、さらに、その10年後、その義龍の息子の龍興(たつおき)の時代に、道三の予想通り、美濃は婿殿への引出物となったのでした(8月15日参照>>)

PS:
この前後の信長関連の出来事としては、
3ヶ月前には傅役の平手政秀(ひらてまさひで)自刃があり(1月13日参照>>)
1年後には若き信長の村木城(砦)の戦い(1月14日参照>>)がありますが、
くわしくは【信長の年表】からどうぞ>>
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2014年4月16日 (水)

茶器図録を残した敏腕老中・松平乗邑

 

延享三年(1746年)4月16日、第8代江戸幕府将軍・徳川吉宗の時代に活躍した松平乗邑が死去しました。

・・・・・・・

松平乗邑(まつだいらのりさと)は、名門・松平家の出身・・・元禄三年に肥前(ひぜん=佐賀県&長崎県)唐津藩主だった父・乗春(のりはる)の死を受けて幼くして家督を相続した後、享保七年(1722年)に37歳にして大坂城代となり、翌・享保八年には老中に就任し、当時の将軍だった第8代・徳川吉宗(よしむね)享保の改革(6月18日参照>>)を推進しました。

今となっては賛否両論ある享保の改革ではありますが、現在進行形で改革を行っていた乗邑にとっては、まさに全身全霊を込めた仕事であったわけで、その性格は、とにかく仕事一途でマジメで頑張るタイプでした。

松浦静山(まつらせいざん)の残した『甲子夜話(かっしやわ)(6月29日参照>>)には、そんな乗邑さんの逸話がいくつか残されていますが、そこにも
「乗邑は剛毅(ごうき=意志が堅くて強くてくじけない)の資質なり」
とありますから、かなりのやり手だったのでしょう。

己にも厳しく他人にも厳しい・・・
「俺がマジメにこんだけやってんやから、君もやってくれな困るがな」
てな性格は、敵も多くつくりますが、それこそ、吉宗の改革を推進するためには、多少の誹謗中傷や反発は、あって当たり前・・・覚悟の上でそこを貫いてこそ!というガンバリ屋であったのです。

ただし、この方・・・「笑癖」というおもしろいクセも持っていたようで・・・

Tokugawayoshimune600 上記の通り、乗邑はエライさんですから、将軍・吉宗に何かを取り継いでもらう時や、何かの書類の確認をしてもらうために、彼の部屋には部下たちが訪れる事が度々あったのですが、例の「己にも厳しく他人にも厳しい」性格を知ってる部下たちは、なかなか怖くて声をかけられない・・・

「あのぅ…」
と声をかえても
「今、忙しいねん!」
と突っぱねられる事山の如し・・・

ところが、ご機嫌の良い時は、声を出して高笑いをする乗邑さん・・・なので、部下たちは、乗邑に声をかける前に、まず、側にいる坊主に
「今日は例の高笑いはあったか?」
と訪ね、
「まだです」
と聞けば、すごすごと退散し、あれば思い切って部屋に入る・・・なんて事もあったのだとか・・・

また、ある時、吉宗が日光東照宮にお参りした際、途中の宿で休憩をとるのですが、その後、吉宗が出発しようと思ったものの、部下がなかなか揃わない・・・

で、吉宗が、そばにいた乗邑に
「なんで、皆揃てないん?」
と聞くと、
「ちょっと、見廻りして来ますわ」
と馬に乗って周囲を一周・・・

乗邑が一声かけると、たちまちにして部下が勢ぞろいし、すぐに出立する事ができたと・・・つまり、仕事はデキるものの、部下たちから見れば、ビビリまくりの怖~い上司だったんですね~彼は・・・

そんな彼の1番の趣味が茶の湯・・・

ある時、乗邑の側近の順阿弥なる茶坊主が、彼の茶会に招かれた時、会席にて柚子味噌が出された事があったのですが、後日、乗邑に会った際に、
「こないだの柚子味噌…お庭の柚子で取れ立てやったからメッチャおいしかったですわ~」
と言うと
「なんで、庭の柚子やって解ったんや?」
と乗邑・・・
「いや、茶室へ入った時と、出た時では庭にあった柚子の数が減ってましたさかいに…」
「ふ~~ん、お前って油断できひんヤツなんやなぁ」
と、その場は、それで終わったのですが、

後日、幕府の集まりがあった際に、茶会の話が出た時、順阿弥は良かれと思って、先日の柚子の一件を皆に話すのですが、それに乗邑が激怒・・・
「お前、みんなの前で…無礼やゾ!」
と一喝すると、

以来、怖くなった順阿弥は出社拒否に・・・

しかし4~5日経って、
「順阿弥の姿を見ぃひんけどどないしたん?」
と心配した乗邑が、順阿弥の同僚に聞いて
「病気で休んでるみたいです」
と、答えると
「そうなん?はよ治って出て来たらええのになぁ」
と、

それを聞いた順阿弥は、早速、翌日から出社したようですが、やっぱり、趣味の世界でも、怖い上司だったんですね~

とは言え、そのクソまじめさが趣味のうえで、功を奏する事もありました。

趣味の一環として彼が残した茶器図録『三冊名物記』は、それはもう、彼の几帳面さ、仕事の完璧さを見せつける見事な物だそうで・・・

それまで、利休門下の茶人をはじめとする様々な人が名物茶道具を紹介する本を書いていますが、いずれも名前と所蔵先に、簡単な姿形を紹介する程度の物・・・

しかし、彼の『三冊名物記』は、名称所蔵先のほか、(図録に載せるための借物の場合)その持ち主が購入した年月日に道具そのものの細かな図面をつけ、同時に寸法も記載・・・さらに、それを調査した年月日に加え、付属品のある無しなど、まさに完璧と言える茶器の百科事典のような物で、この後に発表される名物記録は、皆、彼の手法を手本にするほどの出来栄えだそうな。。。

まぁ、そんな仕事一途で怖い上司の乗邑さんですが、だからこそ、部下が持って来た様々な用件に、この乗邑が承知するか、苦言を呈するかで、その先の成り行きが読めたと言います。

乗邑が承知した案件を、将軍・吉宗に持って行けば、必ず
「よきにはからえ~~」
と、すんなりと1発OKで一件落着になったのだとか・・・まぁ、それだけ吉宗の信頼も厚く、吉宗も乗邑に目をかけていたという事なのでしょう。

ところが、そんな仕事一途でまじめ一徹が、一方では要領の悪さを生んでしまいます。

将軍の後継ぎ問題で、乗邑は、吉宗の次男である宗武(むねたけ)を推しますが、長男相続を曲げなかった吉宗によって、結局、第9代の将軍は長男の家重(いえしげ)に決まってしまい、それがもとで老中を解任され、1万石を没収のうえ、隠居の身となります。

松平家の家督は次男が相続し、かろうじて生き残りますが、出羽(でわ)山形へ転封となり、その将軍問題から、わずか1年後延享三年(1746年)4月16日、寂しい晩年となった乗邑は61歳でこの世を去りました。

あれだけ、吉宗とツーカーだった乗邑が、最後の最後に吉宗の心を読めなかった・・・いや、ひょっとしたら、心は読めていたけど、その仕事一途さが、無理を承知の宗武推しを貫かせたのかも・・・

なんせ、一説には、家重より宗武の方が優秀だったと言われていますから・・・

マジメな彼には、そこを譲る事ができなかったのかも知れませんね~あくまで想像ですが・・・
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2014年4月10日 (木)

後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?

 

永禄三年(1560年)4月10日、もと黒田家の家臣で、大坂夏の陣で大坂方の一人として討死し、後に「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」などに数えられる武将・後藤又兵衛基次が誕生しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と、堂々と日づけを書いちゃいましたが、これは、あくまで一つの説・・・実際には、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)の幼い頃の事は、よくわかっていないのです。

なので、モノによっては生年不詳となっている事もあるのですが、それではお話をはじめ難いので、本日=4月10日の日づけで書かせていただきますね。

通説では、又兵衛の父は、別所氏家臣で、後に小寺政職(こでらまさもと)の配下となった後藤基国(もとくに)であるとされ、その父が、又兵衛が幼い頃に亡くなってしまったため、当時、ともに政職に仕えていた黒田(小寺)官兵衛孝高(かんべえよしたか=如水)が、彼を引き取って、自らの息子のように育てたと・・・

そう、今年の大河ドラマで、主人公の官兵衛の息子=松寿丸(しょうじゅまる=後の長政)剣術稽古の相手をする兄貴分みたいな感じで登場しているあの子です。

先日のドラマの中で、人質となって羽柴(豊臣)秀吉のもとへ行き、そこで、秀吉子飼いの加藤清正(かとうきよまさ)らに、稽古でコテンパンにやられる松寿丸を見かねて止めに入ったおね(秀吉の正室)さんに対して、
「大丈夫です!姫路で稽古していた又兵衛は、もっと強ぅございました」
的なセリフで、松寿丸が答えるシーンがありましたが、その通り、この後、成長した又兵衛は、西に東に大活躍する武将になるわけですが、

とは言え、この又兵衛が、歴史と言える正式な文書に登場するのは、秀吉が九州征伐を開始する天正十四年(1586年)が初・・・又兵衛は、すでに25~6歳くらいになってますが、この時の戸次川の戦い(11月25日参照>>)に、讃岐(香川県)仙石(せんごく)秀久の配下として登場します。

この戸次川の戦いは、天正十年(1582年)の本能寺に散った織田信長亡き後に、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)秀吉が、その翌年に織田家の重臣だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月23日参照>>)、天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(11月16日参照>>)を経て徳川家康をほぼ味方に引き入れて、まさに天下を狙うべく四国を平定(7月26日参照>>)したグッドタイミングで、九州にて島津に攻められてヤバくなった大友宗麟(そうりん)が泣きついて来た(4月6日参照>>)事で開始された、対島津の戦いなわけですが・・・

ところが、その戸次川の戦いのページ(先の11月25日参照>>)に書かせていただいたように、ギクシャクムード満載で突入したこの戦いで秀吉軍は大敗・・・その責任から秀久は所領を没収され、高野山へと追放の身(9月18日の真ん中あたり参照>>)となってしまうのです。

当然、その下にいた又兵衛も・・・と、その時に又兵衛に手を差し伸べたのが、誰あろう、幼き頃に兄弟のように剣術の稽古を重ねた松寿丸こと長政でした。

しかも、父=官兵衛の反対を押し切って・・・

というのも、実は、又兵衛が、黒田家を離れた理由が、あの荒木村重(あらきむらしげ)官兵衛幽閉事件の時・・・

このブログでも度々登場しているお話ですが、かの秀吉の中国攻略で、はじめは信長傘下を表明していた村重が突然寝返った時、その説得のために有岡城を訪れた官兵衛を牢屋に閉じ込めて幽閉した事から、信長は、戻って来ない官兵衛が寝返ったと思ったあの事件(10月16日参照>>)・・・

この時に、又兵衛の身内が敵方についた事から、又兵衛自身も黒田家を離れたらしいのですが、もともと、又兵衛の武勇と器量がハンパ無い事は黒田父子も周知の事・・・で、長政は、又兵衛を迎え入れようとしたわけです。

しかし、父=官兵衛は、
「謀反人を側近にするのはアカン」
と・・・

そこで、長政は重臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)与力としてまずは採用し、そこからだましだましで自らの家臣にしていく感じで・・・

これまでの、そしてこの後の又兵衛と黒田父子の関係を思うに、おそらく官兵衛&長政ともに、
心の底では「おいでヽ(´▽`)/おいで」って感じやったんでしょうが、簡単に許しちゃぁ周りに示しがつかないので、こんな感じでやったんじゃないか?と思うのですが(←あくまで個人的な妄想です)

Gotoumototugu600 とにもかくにも、こうして黒田家に戻った又兵衛は、黒田父子の予想通り、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにて八面六臂の大活躍家老にまで昇進し、冒頭の「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人に数えられる名将となるのです。

ところがドッコイ、大活躍の関ヶ原からわずか6年後の慶長十一年(1606年)、又兵衛は突如として一族を引き連れて黒田家を出奔し、隣国である豊前(ぶぜん=福岡県東南部)細川忠興(ほそかわただおき)を頼ります。

黒田父=官兵衛は、この2年前に亡くなっていますので、この時の黒田家は名実ともに長政が当主だったわけですが、いったい、本当の兄弟のように仲良くしていたはずの二人の間に何が???

よく言われるのは、出奔して頼った事でもわかるように、又兵衛が忠興と仲が良かった事・・・

実は、関ヶ原後に行われた国替えで、忠興の細川家が豊前の中津を与えられた時、同時に、それまでこの豊前の領主だった長政は、筑前(ちくぜん=福岡県西部)に移るのですが、その際、大名同志の取り決めで、年貢の半分は残して行く約束だったにも関わらず、長政(官兵衛はすでに隠居してるので…)は、その年の年貢をすべて徴収してから去って行った事で、新しい地についた細川家がエライ目に遭ったという出来事があってから、すでに黒田と細川が犬猿の仲となっていた中で、

隣国の豊前と国境を接する位置にある大隈城(おおくまじょう=福岡県嘉麻市)を任されていた又兵衛が、本来なら相手を監視すべきところを、何かと親しく交流する事が、長政には許せず、次第に、又兵衛との仲も悪くなっていった・・・というもの・・・

あるいは、長政の嫉妬という話もよく聞きます。

いかにも豪快な戦国気質を持ち、合戦ではアッと驚くような事をやってのける又兵衛に対して、長政はちとタイプが違う・・・以前、官兵衛さんのご命日のページ(3月20日参照>>)にも書かせていただきましたが、晩年の父=官兵衛は、自分とはタイプの違う長政の事を、常に気にかけていたようで・・・

そう、実は、父=官兵衛が、自分とタイプが似ていて好みだったのは又兵衛の方で、一方の又兵衛も、幼くして父を亡くした自分を育ててくれた豪快かつ器量の大きな官兵衛を尊敬してやまなかったわけで・・・そんな、二人の関係に、少しタイプの違う長政が嫉妬したのではないか?と・・・

とにもかくにも、以前に又兵衛さんのご命日のページ(5月6日参照>>)にも書かせていただいたように、又兵衛が黒田家にいる段階からお互いにディスりまくりの犬猿ムードだった中で、出奔して大嫌いな細川を頼った事が、その気持ちに拍車をかけ、長政は又兵衛を「奉公構(ほうこうかまい・ほうこうかまえ)の処分に・・・

この奉公構というのは、大名から他の大名へ、コイツを召抱えないように」と釘を刺す回状を出すこと・・・業界で言うとこのろの「お前、ほすゾ」ってヤツで、大名からの正式な通達ですから、当然、頼られた細川家も召抱える事はできませんし、その他の大名たちも・・・

で、結局、ず~~っと浪人のままだった又兵衛は、一時は物乞いをするまでに貧窮しますが、そこに大坂の陣を迎えた豊臣秀頼(ひでより)からの声がかかり、あの真田幸村(信繁)と同様に、大坂城へと馳せ参じ、慶長二十年=元和元年(1615年)5月6日の道明寺の戦いにおいて壮絶な死を遂げるのです。
(大坂の陣については【大坂の陣の年表】でどうぞ>>)

大坂の陣での戦いぶりや長政VS又兵衛の確執など、まだまだ書きたいところですが、それはいずれまた別の機会にさせていただくとして、とにもかくにも、そんな又兵衛は6人の息子と幾人かの娘を残しました。

大坂の陣から30年経った慶安二年(1649年)に大野治房(はるふさ)の息子たちの謀反の計画が発覚した事を受けて、当時、和泉国淡輪村(たんのわむら=大阪府泉南郡岬町)に隠れ住んでいた又兵衛の長男の佐太郎(さたろう)が、幕府からの取り調べを受けた時の記録によって、父の死後も、又兵衛の子供たちが、遠い地に離れ々々になりながらも親しく交流していた事がうかがえ・・・と、これもまた、子供たちについてイロイロとお話したいのですが、これ以上横にそれるとエライ事になるので、とりあえず、本日のお題の話をしますが・・・

そんな又兵衛の子供たちのうち、五男とされる久馬助(くめすけ)・・・彼は、又兵衛が、黒田家出奔後に、一時、姫路城主の池田輝政(てるまさ)のもとに身を置いていた時に、池田の家臣の三浦主水(もんど)妹を娶ってもうけた子供でしたが、輝政の死後に池田家が例の長政の奉公構のクレームに従った事で、上記の通り、浪人の身となって大坂の陣へ突入・・・と、この時、かの久馬助は、わずか3歳でした。

父=又兵衛の死後に、母の実家である三浦家に引き取られた彼は、大きくなって三浦治兵衛為勝(じへえためかつ)と名乗り、岡山城主の池田忠雄(ただかつ)に仕えます。

さらに、その後、その池田家が鳥取に転封となったために彼も鳥取に引っ越して元禄四年(1691年)に亡くなったので、彼の長男である正敏(つまり又兵衛の孫)なる人物が、景福寺(けいふくじ=鳥取市新品治町)というお寺に父=為勝のお墓を建立するのですが・・・

なんと、そのお墓の銘文には「為勝之厳父曰後藤又兵衛正延■敕華道蓮。今也尋於道蓮之元由、黒田官兵衛源政成法号如水入道實子」の文字・・・つまり、「又兵衛は官兵衛の実子である」と・・・

にわかに信じ難い話ですが、もし本当だとすると、又兵衛は長政より年上ですから、官兵衛が正室である(てる・みつ)さんと結婚する前に生まれた子という事になり、まさに長男ですがな!!

もちろん、これは正史とされてはいませんが、少なくとも、又兵衛の息子や孫はそう思っていたわけで・・・

以下、妄想に次ぐ妄想ですが・・・
幼き頃に兄のように慕っていた又兵衛が、実は本当の兄だという事を、長政が途中(官兵衛が亡くなった頃?)で知ったとしたら・・・
それが、父からの信頼も篤く、父のように優秀で、父にソックリな兄貴だったとしたら・・・

それを考えると、官兵衛が亡くなった後の長政の異常な嫉妬もなんとなくうなずけるわけで・・・

いやはや、大河ドラマさん・・・ドラマの序盤に幼馴染のおたつさんとの初恋エピソードを盛り込むなら、いっその事、又兵衛を、おたつとの間にもうけた子供にしちゃって・・・たら、あきませんね。。

ドロドロのぐちゃぐちゃで大河が昼ドラになってしまいそうですから~(*^-^)
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2014年4月 3日 (木)

秀吉の中国攻略戦~野口城の戦い・青麦合戦

 

天正六年(1578年)4月3日、織田信長の命を受けて中国地方を平定中の羽柴秀吉が、播磨三木城攻めを中断し、長井政重の野口城に攻めかかりました。

・・・・・・・・・・

天正のはじめ頃から始まった織田信長の中国攻め・・・しかし、畿内でのあれやらこれやらに忙しい信長は(9月30日参照>>)、ご存じのように、その中国平定の大将として、あの羽柴(豊臣)秀吉を派遣・・・

西には安芸(あき=広島県)毛利という強大な勢力もありましたから、ここに来ての東からの織田=秀吉には、播磨(はりま=兵庫県)諸大名たちも困惑・・・かと言って、小さな大名家である彼らは単独では生き残る事はほぼ不可能ですから、結局は、どちらかに属するしか無いわけで・・・

そんな中の一人で、いち早く織田方を表明したのが、今年の大河の主役=黒田官兵衛孝高(よしたか・如水)なわけですが(11月29日参照>>)、現在の神戸加古川あたりを治めていた別所長治(べっしょながはる)も、天正三年(1575年)の7月には織田方を表明し、信長のもとへも参上していました。

ところがドッコイ、天正六年(1578年)の2月23日に、いきなり織田方からの離別を宣言して、居城の三木城(兵庫県三木市)に建て籠ってしまうです。

・・・で、これを受けた秀吉が、早速翌月の3月29日に、大軍にて三木城を囲んだのです。

しかし、なかなかに堅固な三木城・・・「すぐには落とせない」と判断した秀吉は、まずは周囲の支城を攻め落として三木城を孤立化し、長期に渡る兵糧攻めにて落とそうと考えます。

そんな支城の一つめのターゲットが長井政重の守る野口城(兵庫県加古川市)でした。

この秀吉の中国攻めにおいて、まさにサポート役となっていた黒田官兵衛の進言により、本陣としていた姫路城から、やや北西にあたる書写山に本陣を移す秀吉・・・

『絵本太閤記』によれば、
この時、この山にあった圓教寺なるお寺の僧侶や宗徒たちは、大量の兵士が登山をしてくる有様を目の当たりにし、
「あの比叡山焼き討ちをやった織田信長の家臣がやって来る」
と恐怖におののいた・・・という事ですが、

秀吉は、すかさず使者を出し、
「僕は、この地を平定するために、この山を本陣として使わせてもらうだけなんで、寺院に対して乱暴狼藉を働くつもりはありませんねん。
せやから、安心して、いつもどぉりにしとって下さい」

と、僧侶がニンマリするようなお布施とともに、連絡を入れたのだとか・・・

こうして、攻撃の準備を整えた秀吉は、天正六年(1578年)4月3日野口城に攻め寄せたのです

四方を囲んだ兵が、怒涛のごとく鬨(とき)の声を挙げたかと思うと、鉄砲を放ち、一斉に兵が突進!!

とは言え、守る政重も、攻撃を受ける事は覚悟の上・・・慌てず騒がず、的確に配置した城兵に激励を飛ばしながら防戦します。

ただ・・・なんせ多勢に無勢、数え切れないほどの大軍に対して城を守る兵の数はわずかで、いかに一騎当千の勇兵が矢を放てど、塀際に駆けよって登ろうとする兵士の数は、たいして減りはしないわけで・・・

Katouyosiakiy600 そんな中、秀吉軍の中から、
「我こそは、城内への1番乗りを果たすゾ!」
とばかりに、
気合充分の若者一人・・・

城の塀にしがみついている味方の兵士の肩に手をかけ、鎧の紐を足場にしたかと思うと、その兵士の上になり、アッと言う間に塀を乗り越え、
「加藤孫六、1番乗りを果たしたゾ~!!
皆はよ!俺に続いて来いや!」

と味方の大軍に対して、大きく叫びました。

そう、この若者が後に賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)と称される加藤嘉明(よしあき)・・・この戦いが初陣でした。

この呼びかけに応じて「おぉー!!」とどよめきにも似た鬨の声を挙げる大軍・・・さすがの野口城の城兵も、この大軍の勢いに押され、やがて外曲輪(くるわ)を乗っ取られ、本丸へと撤退・・・

もう、そうなると後がありません。

頼みの三木城も、すでに秀吉軍に囲まれてしまっていて援軍を出せる状況ではないし、この野口城のような小さな城では、単独で籠城をしたとて知れたもの・・・

やむなく政重は、人質を差し出して降伏し(討死した説もあり)、野口城の戦いは、攻撃開始から3日めにして幕を閉じたのでした。

また、『播磨別所記』によれば、
この野口城が湿地帯に囲まれた天然の要害であった事から、秀吉は、周辺にあった畑の麦を何万束も刈り取って沼地を埋めて足場を作ってから攻めに入ったとされ、この野口城の戦いは青麦合戦とも呼ばれます。

・‥…━━━☆

さてさて、大河ドラマでは、やはり官兵衛の手柄になるのかな?

まぁ、『播磨別所記』には出て来ないけど、『絵本太閤記』には、一応出て来るので、主役の特権の許容範囲ですわな。
(↑大河で野口城が出て来なかったらゴネンナサイ)

…にしても、この頃の秀吉は忙しい・・・

上記の三木城を兵糧攻めにしつつ
(3月29日参照>>)(9月10日参照>>)、
上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の支援(5月4日参照>>)にも行かなアカンし、
10月には荒木村重(あらきむらしげ)が寝返る(12月16日参照>>)
説得に行った官兵衛は捕まる(10月16日参照>>)
そうこうしてるうちに、あの竹中半兵衛重治(しげはる)(6月13日参照>>)・・・

こんだけ忙しいのだから、おそらく、この先の大河は、おもしろくなりますよ~~期待o(*^▽^*)o
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