秀吉の中国攻略戦~野口城の戦い・青麦合戦
天正六年(1578年)4月3日、織田信長の命を受けて中国地方を平定中の羽柴秀吉が、播磨三木城攻めを中断し、長井政重の野口城に攻めかかりました。
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天正のはじめ頃から始まった織田信長の中国攻め・・・しかし、畿内でのあれやらこれやらに忙しい信長は(9月30日参照>>)、ご存じのように、その中国平定の大将として、あの羽柴(豊臣)秀吉を派遣・・・
西には安芸(あき=広島県)の毛利という強大な勢力もありましたから、ここに来ての東からの織田=秀吉には、播磨(はりま=兵庫県)の諸大名たちも困惑・・・かと言って、小さな大名家である彼らは単独では生き残る事はほぼ不可能ですから、結局は、どちらかに属するしか無いわけで・・・
そんな中の一人で、いち早く織田方を表明したのが、今年の大河の主役=黒田官兵衛孝高(よしたか・如水)なわけですが(11月29日参照>>)、現在の神戸や加古川あたりを治めていた別所長治(べっしょながはる)も、天正三年(1575年)の7月には織田方を表明し、信長のもとへも参上していました。
ところがドッコイ、天正六年(1578年)の2月23日に、いきなり織田方からの離別を宣言して、居城の三木城(兵庫県三木市)に建て籠ってしまうです。
・・・で、これを受けた秀吉が、早速翌月の3月29日に、大軍にて三木城を囲んだのです。
しかし、なかなかに堅固な三木城・・・「すぐには落とせない」と判断した秀吉は、まずは周囲の支城を攻め落として三木城を孤立化し、長期に渡る兵糧攻めにて落とそうと考えます。
そんな支城の一つめのターゲットが長井政重の守る野口城(兵庫県加古川市)でした。
この秀吉の中国攻めにおいて、まさにサポート役となっていた黒田官兵衛の進言により、本陣としていた姫路城から、やや北西にあたる書写山に本陣を移す秀吉・・・
『絵本太閤記』によれば、
この時、この山にあった圓教寺なるお寺の僧侶や宗徒たちは、大量の兵士が登山をしてくる有様を目の当たりにし、
「あの比叡山焼き討ちをやった織田信長の家臣がやって来る」
と恐怖におののいた・・・という事ですが、
秀吉は、すかさず使者を出し、
「僕は、この地を平定するために、この山を本陣として使わせてもらうだけなんで、寺院に対して乱暴狼藉を働くつもりはありませんねん。
せやから、安心して、いつもどぉりにしとって下さい」
と、僧侶がニンマリするようなお布施とともに、連絡を入れたのだとか・・・
こうして、攻撃の準備を整えた秀吉は、天正六年(1578年)4月3日、野口城に攻め寄せたのです。
四方を囲んだ兵が、怒涛のごとく鬨(とき)の声を挙げたかと思うと、鉄砲を放ち、一斉に兵が突進!!
とは言え、守る政重も、攻撃を受ける事は覚悟の上・・・慌てず騒がず、的確に配置した城兵に激励を飛ばしながら防戦します。
ただ・・・なんせ多勢に無勢、数え切れないほどの大軍に対して城を守る兵の数はわずかで、いかに一騎当千の勇兵が矢を放てど、塀際に駆けよって登ろうとする兵士の数は、たいして減りはしないわけで・・・
そんな中、秀吉軍の中から、
「我こそは、城内への1番乗りを果たすゾ!」
とばかりに、
気合充分の若者一人・・・
城の塀にしがみついている味方の兵士の肩に手をかけ、鎧の紐を足場にしたかと思うと、その兵士の上になり、アッと言う間に塀を乗り越え、
「加藤孫六、1番乗りを果たしたゾ~!!
皆はよ!俺に続いて来いや!」
と味方の大軍に対して、大きく叫びました。
そう、この若者が後に賤ヶ岳の七本槍(4月21日参照>>)と称される加藤嘉明(よしあき)・・・この戦いが初陣でした。
この呼びかけに応じて「おぉー!!」とどよめきにも似た鬨の声を挙げる大軍・・・さすがの野口城の城兵も、この大軍の勢いに押され、やがて外曲輪(くるわ)を乗っ取られ、本丸へと撤退・・・
もう、そうなると後がありません。
頼みの三木城も、すでに秀吉軍に囲まれてしまっていて援軍を出せる状況ではないし、この野口城のような小さな城では、単独で籠城をしたとて知れたもの・・・
やむなく政重は、人質を差し出して降伏し(討死した説もあり)、野口城の戦いは、攻撃開始から3日めにして幕を閉じたのでした。
また、『播磨別所記』によれば、
この野口城が湿地帯に囲まれた天然の要害であった事から、秀吉は、周辺にあった畑の麦を何万束も刈り取って沼地を埋めて足場を作ってから攻めに入ったとされ、この野口城の戦いは青麦合戦とも呼ばれます。
・‥…━━━☆
さてさて、大河ドラマでは、やはり官兵衛の手柄になるのかな?
まぁ、『播磨別所記』には出て来ないけど、『絵本太閤記』には、一応出て来るので、主役の特権の許容範囲ですわな。
(↑大河で野口城が出て来なかったらゴネンナサイ)
…にしても、この頃の秀吉は忙しい・・・
上記の三木城を兵糧攻めにしつつ
(3月29日参照>>)&(9月10日参照>>)、
上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の支援(5月4日参照>>)にも行かなアカンし、
10月には荒木村重(あらきむらしげ)が寝返るし(12月16日参照>>)、
説得に行った官兵衛は捕まるし(10月16日参照>>)、
そうこうしてるうちに、あの竹中半兵衛重治(しげはる)が(6月13日参照>>)・・・
こんだけ忙しいのだから、おそらく、この先の大河は、おもしろくなりますよ~~期待o(*^▽^*)o
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コメント
おはようございます。
昨夜放送分の大河ドラマを見ているようです。
このブログを読んだので、大河ドラマのこれからが、いい意味で掴めました。
『太閤記』というのもいろいろあるのですね。今日は、『絵本太閤記』というのが出てきましたが、『川角太閤記』というのもよく出てくるみたいです。『太閤記』自体も江戸幕府に都合よく書かれているのでしょうか。それとも反対に、庶民から見た英雄として書かれているのでしょうか。
ちなみに小・中学生の頃に読んだ子供向けの『太閤記』は、秀吉を英雄といるものばかりでした。確か…。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年4月 7日 (月) 09時44分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
>『太閤記』自体も江戸幕府に都合よく書かれているのでしょうか…
キャハ(*´v゚*)ゞ
痛いところを突かれました~~
「徳川家のミスリード」と言っておきながら、結局は古文書の類いから話を進めてしまう…まったく以って節操が無い限りでお恥ずかしいです。(そのために、かのページで「豊臣贔屓」という理由をつけさせていただきましたm(_ _)m)
『太閤記』と呼ばれる書物は数種類ありますが、その中で比較的信憑性の高い『川角太閤記』なんかもありますが、一方では、今回の『絵本太閤記』のような「軍記物」もあります。
「軍記物」は記録というよりは、おもしろさに重点を置いた歴史小説のような物なので、丸々信用する事はできないわけですが、かと言って、すべてが作話でもなく、これまで軍記物でしか確認されていなかった賤ヶ岳の戦いにおける砦の位置が、昨年5月に『秀吉の指示書』が発見さた事で、軍記物に書かれていた通りだった事が確認されたなんて事もあります。
ただ、徳川幕府の公式記録はともかく、それ以外の物は、ある程度、規制を受けたんじゃないか?と思います。
『太閤記』の中でも最も有名な小瀬甫庵の『甫庵太閤記』は、江戸時代に何度か発禁になってますし、以前書かせていただいた湯浅常山の『常山紀談』>>などは、発刊されたのが著者の死後30~40年経ってからという事で、やはり「徳川家に気をつかって出せなかったんじゃ?」という憶測を生んでます。
そんな中で、公式記録にも都合が良いように書き換えられている感がする物もあり…どれを信じ、どれを「違う」というのかは、それこそ人それぞれで、だからこそ、答えが無い物だと思っていますが、ホント、勝手な言い草で申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2014年4月 7日 (月) 13時55分