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2014年4月26日 (土)

大坂夏の陣の戦端を切った大和郡山城の戦い

 

元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日、大坂の陣において、大坂方の軍勢が筒井定慶の守る大和郡山城を攻略・・・定慶は城を捨てて逃走しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、大坂冬の陣の講和が成った後、少しの休息があって再開となる大坂夏の陣の勃発です。

何を以って大坂の陣勃発とするかは、微妙なところでもありますので、とりあえず講和後の主だった出来事を時系列にまとめてみますと・・・
(それまでの経緯は【大坂の陣の年表】>>で)

慶長十九年(1614年)
12月19日:冬の陣の和睦成立(参照>>)
12月22日:誓紙発行により冬の陣終結
12月25日:家康が二条城に入る
慶長二十年・元和元年(1615年)
1月3日:家康が駿府への帰途につく
1月15日:秀頼の使者が岡崎に入る
      (家康が誓紙の条件を守らない事について責問)
1月28日:秀忠が京都を発ち下向
2月頃:秀頼の名で浪士を召集
      (埋められた壕を再び堀起こすため)
3月15日:京都諸司代板倉勝茂が大坂の現状報告
3月24日:大野治長の使者が雑説について家康に説明
4月3日:大坂方の普請奉行が天王寺の足場ならし
      (交戦場を作る)
4月4日:息子の結婚式に出席として家康が駿府出発
4月5日:秀頼の城外(阿倍野・住吉・平野など)巡視
4月6日:家康が諸将に出陣準備の旨通達
4月9日:大野治長が何者かの襲撃を受けて重傷を負う
4月12日:家康の息子・義直が結婚
4月15日:家康、名古屋を出立
4月18日:家康、二条城に入る
4月19日:家康が大野治純(治長の弟)に兄の様子を
      問わせる(参照>>)
4月21日:秀忠、伏見に入る
4月24日:家康が常高院(淀殿の妹=初)を通じて「国替えか浪人の追放か」の二者択一を秀頼に迫るも、大坂方は拒否

・・・で、続く4月25日には、秀忠が京都に到着した関東の各部隊の部署を定め、いよいよ、元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日徳川方は、家康&秀忠など主だった者を集めて、二条城にて軍議を開くわけですが・・・

一方の大坂方・・・

一般的には、講和とは言え、負けた感の冬の陣の終結で、大坂方に死亡フラグが立ち、さらに起こった夏の陣での籠城作戦一辺倒の大坂城内の雰囲気に真田幸村(信繁)らの打って出る意見はかき消され・・・てな感じにドラマなどでも描かれがちですが、そうでは無い可能性もあります。

冬の陣の講和の条件等も、実は江戸時代に書かれた書物が出どころである事が多く、豊臣ファンとしては納得がいかない謎まみれで、はがゆいばかりですが、その検証は、また別の日にさせていただくとして、少なくとも、夏の陣では、最初っから籠城作戦だったわけではなく、まずは打って出る作戦であった事は確かです。

なんせ、これまで書かせていただいている通り、この後、
4月29日の樫井の戦い>>
5月6日の若江の戦い>>
同じく八尾の戦い>>
道明寺誉田の戦い>>
とあるわけで、道明寺・誉田の戦いに至っては、幸村が寝坊せずに合戦に間に合っていたなら、もっと善戦できたんじゃないか?とさえ思います。

もともと、冬の陣で手こずった事から、「今度は短期決戦で一気に…」と考えていた家康が、これらの野戦での勢いそのままに大坂城を囲み、翌・5月7日>>に一気に総攻撃をかけたという感じだったと思います。

その最たるものが本日=元和元年・慶長二十年(1615年)4月26日大和郡山城の戦いです。

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大和郡山城址・天守台から望む郡山の街並み

この大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)は、以前に書かせていただいたように(4月22日参照>>)織田信長から大和を預かった筒井順慶(つついじゅんけい)の城だったのを、ここが伊勢伊賀、さらに奈良側から大阪へ進入する際の重要な場所であった事もあって、その順慶の死後には、豊臣秀吉の弟=大納言秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)や豊臣五奉行の一人である増田長盛(ましたながもり)(5月27日参照>>)が預かった事もある城ですが、

大坂の陣の時は、関ヶ原後に家康の協力によって、それまで改易されていた筒井氏を継いだ筒井定慶(じょうけい)が守っておりました。

当然の事ながら、この夏の陣の勃発において、豊臣方は好条件を出して定慶に味方になってくれるよう説得していたのですが、上記の通りの経緯から「家康に恩がある」という事か?定慶は徳川方につく事になるのです。

・・・となれば、大坂方からの攻撃もやむなし・・・もちろん、定慶も覚悟の上でした。

かくして4月26日、豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、弟・大野治房(はるふさ)後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000が大和郡山城へと向かったのです。

ただし・・・上記の通り、準備を整えて戦う覚悟であった定慶ではありましたが、この時、闇に輝く松明(たいまつ)を掲げて行軍して来る大坂方の兵を見て、その数を見誤り、約30000の軍勢と思ってしまった事から、「とても、現段階での準備では勝ち目が無い」と判断し、定慶は、早々に城を脱出し、福住(奈良県天理市)へと逃れてしまったのです。

それに反発した一部の者が、城に残って徹底抗戦を構えますが、もはや総大将がいない城では何ともしがたく、結局、残りの者も逃走したり討ち取られたりで、ほどなく郡山城は落城・・・城下町にも火が放たれました。

さらに翌日、大坂方は奈良方面へ進入しようとしますが、前日の徳川方の二条城での軍議にて、奈良からの進軍を任された水野勝成(みずのかつなり)の軍勢が迫って来ているとの一報を受け、大坂方の軍勢は、一旦、大坂城へと引き上げる事となったのでした。

・・・で、その2日後に起こるのが、先にもリンクさせていただいた樫井の戦い>>

そのページにも書かせていただいたように、『大坂御陣覚書』では、本来なら勝っていたかも知れないこの樫井の戦いに負けた事が、大坂夏の陣のターニングポイントだったと書かれています。

そう、大坂方は、はなからの籠城戦ではなく、徳川方が完全に大坂城を包囲する前に、敵を一つずつ崩して行き、展開を有利に進めようと考えていたわけです。

しかし、夏の陣の戦端を切ったこの大和郡山城の戦いの後に、そのもくろみが崩れてしまう事となったというのがホントの所なのでしょう。
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