近代日本の教育者…伊沢修二
大正六年(1917年)5月3日、明治から大正にかけて教育者として活躍した伊沢修二が、67歳でこの世を去りました。
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嘉永四年(1851年)に信州(長野県)の高遠藩士の家に生まれた伊沢修二(いさわしゅうじ)ですが、家は20俵2人扶持の下級武士・・・しかし、そんな下級武士の彼らにも勉学の機会が与えられ、頑張りようによっては、その才能を以って世に出る事ができる土壌があったのが、夢多き幕末維新の頃・・・
そんな幕末に、江戸や京都に出て蘭学を学んだ修二は、維新後の新政府にて文部省の出仕して文教官僚となり、明治七年(1874年)に愛知師範学校(後の愛知教育大学)校長となります。
翌・明治八年(1875年)には、「その目で先進国を見て来い」とばかりに、3年間のアメリカ留学の機会を与えられますが、これが、帰国後の修二の生き方を大きく左右する転機となりました。
後の彼に大きな影響を与える事になる二人の人物に出会うのです。
一人は、電話の発明で有名なアレキサンダ・グラハム・ベル・・・ずいぶん前にチョコッとだけ書かせていただきましたが、その電話が完成して間もなくの頃、「日本語でも通じるのか?」という疑問を抱いて研究室を訪問した日本人留学生の一人が、彼=修二だったのです(12月16日参照>>)。
伝記などでご存じの方も多いかと思いますが、ベルは、お母さんが聴覚障害を持っていて、母の苦悩を少しでも和らげようと様々な事を学び、電話の発明も、「母に音の波長を見せたかったから」なんて事も言われますね。
なのでベルは、手話や視話法(口の開き方など見た目からの発音の指導法)もマスターしており、そのような障害を持つ人たちへの教育方法についても研究していたのです。
後に東京盲唖学校(後の筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長になった時には、その時ベルから教わった視話法を日本の教育現場に取り入れる事になります。
そして、もう一人・・・ルーサー・メーソンという人物です。
アメリカ留学中にはハーバード大学にて理化学を学んだり地質研究などもこなしていた修二ですが、同時に、そのメーソンから音楽教育も学んでおりました。
留学を終えて帰国した翌年の明治十二年(1879年)、修二は東京師範学校(後の筑波大学)の校長になりますが、その時感じたのが、日本における音楽教育の遅れ・・・
なんせ、当時は、教えるべき教材もなければ、教える事のできる先生さえいない・・・なので修二は、それらの問題を指摘し、文部省に音楽教育機関の設置をかけあったのです。
進言が聞き入れられて、文部省内に立ちあげられた音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)に任命された修二は、早速、音楽の恩師であるメーソンをお雇い外国人として日本に招きます。
そして、彼らが最初に行った仕事が『唱歌集』の編集でした。
「唱歌」という言葉自体は、平安の昔から雅楽の世界で使われており、室町時代にも歌の歌詞の事を「唱歌」と称する事もあったようですが、ここで言う『唱歌』は、いわゆる「学校の音楽で習う歌」という意味の唱歌・・・
いや、むしろ、ここで言う「学校で習う唱歌」が、この後、あまりにも一般的になってしまった事で、現在では「唱歌と言えば学校で習う物」という認識が強く、いわゆる英語で言うところの「song」は「歌曲」「楽曲」などと呼ばれ、古来使われていた雅楽の譜面を声に出す意味の唱歌も、逆に「譜唱」などと言われるほどに、唱歌=学校のイメージがついちゃうわけですが・・・
それは、言いかえれば、そんだけ「学校で習う唱歌がスゴかった」という事なんです。
そう、これまでの日本人のほとんどが接する事が無かった洋楽というモノ・・・そんな洋楽、あるいは洋楽風の曲を、それも、子供でも覚えやすい短い曲に仕上げ、そこに、見事にマッチした日本語の美しい歌詞を付け、初等・中等の学校で一斉に教える・・・
今の今まで、これだけ独自の文化を育んで来た国民が、この唱歌のおかげで、短期間に、かつ一斉にして他民族が造り上げた音階やリズムに親しみを持ち、吸収する事になったわけで・・・こんな事って、世界広しと言えど、なかなか無いのでは?
皆様よくご存じの「蝶々」はスペイン民謡、
「蛍の光」はスコットランド民謡、
「霞か雲か」はドイツ民謡・・・『唱歌集・初編』に掲載されたこれらの歌は、今でも、歌われます。
もちろん、日本の伝統的な音楽を引き継いでいく事も重要ですが、明治維新を迎えて、世界に広く目を向け、近代的な文化を身につけねばならない頃のやり方としては、なかなかの物じゃないでしょうか?
アホみたいな例えですが、ひと昔前のアニメソングに似てる気が…(*゚ー゚*)
あくまで、個人的な考えですが・・・今では、アーチストやアイドルのヒット曲の一つのようになってしまってるアニソンですが、ひと昔前は、小さな子供が世界の音楽に触れる機会であったように思います。
イタリアの少年が南米を旅する「母を訪ねて三千里」のテーマ曲は、その頃には、未だ一般的には馴染みの薄かったケーナの伴奏によるフォルクローレ風の曲で、しかも、南米特有の途中で曲調が変わるフーガの形式を取り入れたような曲でした。
アメリカの農村が舞台だった「あらいぐまラスカル」は、バンジョーを使ったカントリー調、ご存じの「アルプスの少女ハイジ」に至っては、ホルンはもちろん、スイスで録音した本物のヨーデルのコーラスから始まる・・・といった具合。
それは「世界名作劇場」やからやないかい!とお思いかも知れませんが、いえいえ、当時の子供たちは、あの「妖怪人間ベム」のジャズっぽいテーマ曲に、怪しげな夜の大人の世界を感じた物です~。
・・・とまぁ、話が脱線してしまいましたが、そんな感じで、テレビもCDもYouTubeも無い時代に、子供たちを世界の音楽に触れさせ、それを楽しむ機会を与えてくれたのが、修二たちの作った『唱歌』だったという事なのです。
その後も、教科書検定制度を実施たり、台湾総督府学務部長になって台湾に行ったり、貴族院議員として学制改革に力を入れたり・・・と、とにかく教育改革に奔走した修二・・・
何でもやってのける行動力があるぶん、感情のままに突っ走るところがあり、これだけ教育に力を入れながら、結局のところ、文部大臣にさえなれなかったと言われる彼ですが、大臣の椅子に座るより、立って行動する方が、彼の性分には合っていたのかも知れませんね。
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コメント
茶々さん、こんにちは〜
最近、この記事を読ませて頂き「世界名作劇場」の事が書かれていましたので、ついコメントしてしまいました(^O^)
世界名作劇場、こどもの頃に大河ドラマ同様、毎週日曜日のお楽しみでした。
確かに、今考えると音楽が素晴らしかったですよね(^O^)/
その年に、放送されていたアニメのイメージにぴったりで、今でもその曲を聴くとアニメの情景が思い浮かびます。
世界名作劇場ではありませんが、「アンデス少年ペペロの冒険」の主題歌も好きでした。「コンドルは飛んで行く」へのオマージュで、作詞は楳図かずおさんだそうです。
小、中学校で習った唱歌も大好きでした。「われは海の子」とか「箱根八里」「こいのぼり」「富士山」等々、どれも旋律も歌詞も味わい深いものばかりですねo(^-^)o
伊沢修二さん、初めてお聞きしたお名前ですが、 日本の音楽教育を導いて下さり感謝です!
投稿: 伊集院みちこ | 2014年5月27日 (火) 17時03分
伊集院みちこさん、こんにちは~
「アンデス少年ペペロの冒険」は、劇中に流れるBGMもフォルクローレ風で、とてもステキでしたね。
楳図かずおさんが作詞だとはぜんぜん知りませんでした。
投稿: 茶々 | 2014年5月27日 (火) 17時42分