起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い
元弘三年(1333年)5月15日、鎌倉討幕戦における分倍河原の戦いにおいて幕府軍が勝利・・・討幕側の新田義貞が一時窮地に立たされるも、翌16日に挽回しました。
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元弘元年(1331年)に笠置山にて挙兵するも(9月28日参照>>)、失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇が、翌元弘二年(1332年)隠岐に流された(3月7日参照>>)事で、小休止となった鎌倉討幕への戦い・・・
しかし、元弘三年(1333年)に入って間もなく、新たなる展開を見せるのです。
1月には笠置山から脱出した護良(もりよし・もりなが=後醍醐天皇の皇子)親王が天王寺の戦いにて六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)
閏2月5日には、先の戦いで落されていた千早城を奪回して立て籠もった楠木正成(くすのきまさしげ)を、大量の幕府軍が囲んでの千早城の戦い(2月5日参照>>)が開始されると、同2月24日には、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山(せんじょうざん=鳥取県)に籠ります(2月24日参照>>)
この天皇の戦闘態勢を受けて、播磨(はりま=兵庫県南西部)の赤松則村(あかまつのりむら・円心)が、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を拠点に、三月十二日合戦(3月12日参照>>)、山崎合戦(3月15日参照>>)、四月三日合戦(4月3日参照>>)と立て続けに京都を脅かし、さらに4月8日には、市街地での京合戦(4月8日参照>>)となります。
そんなこんなの4月16日に、鎌倉幕府の命を受けて、この一連の京都での合戦鎮圧のために上洛した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)(4月16日参照>>)でしたが、翌5月7日、その高氏が、いきなり討幕派に転じて六波羅探題を攻撃した事で(5月7日参照>>)、京を追われた北条仲時(なかとき)が自刃し、六波羅探題が消滅(5月9日参照>>)・・・となります。
と、ここらあたりは京都=都周辺での合戦・・・しかし、ご存じの通り、幕府の拠点は鎌倉ですから、討幕となれば当然・・・で、ここに登場するのが新田義貞(にったよしさだ)です。
義貞は、はじめ、幕府の一員として、あの正成が籠る千早城を攻撃する役目だったわけですが、長引く籠城戦の中で、密かに後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)得た事で、病気と称して勝手に関東へと戻って戦闘準備・・・5月11日、意気揚々と挙兵し、小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)にてぶつかった幕府軍を蹴散らしました(5月11日参照>>)。
小手指原に続いて、翌12日に行われた久米川での戦闘にも敗れた幕府軍は、その日のうちに分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで撤退し、一方の新田軍は、その久米川畔に陣を敷きます。
この日の幕府軍の負傷者は相当な数に上り、もはや息も絶え絶え状態・・・おそらく義貞も、この勢いのままの完全勝利を描いていた事でしょうが、
そこは、さすがの幕府・・・この戦況を、鎌倉にて聞きつけた北条高時(ほうじょうたかとき=第14代執権)は、自らの弟=北条泰家(やすいえ)に10万余騎(←『太平記』の数字です)の兵をつけて援軍として派遣する事に・・・
なんせ、この分倍河原は甲州街道をはじめとする複数の街道が行き交い、かつては武蔵の国府も置かれた要所・・・幕府にとって、ここは死守せねばならない場所だったのです。
こうして、大軍を率いた泰家は、15日の真夜中に、密かに現地=分倍河原へ到着・・・一方、幕府が要所と考えるこの地は、当然、義貞にとっても重要な場所であります。
しかし、この時の新田軍は、まさか、知らぬうちに10万もの援軍が合流しているとは気づかないまま、元弘三年(1333年)5月15日の夜明け前に幕府軍の陣取る分倍河原へと押し寄せたのです。
夜のうちに10万の援軍・・・それを知らずに攻撃・・・
この経緯でお察しの通り、新田軍はたちまち窮地に追い込まれ、逆に新手の大軍に攻め立てられる形となり敗退・・・
と、以前も書かせていただきましたが『太平記』では、
「是ぞ平家の運命の尽きぬる処(ところ)のしるし也(なり)」
と記していて、ここで、もしかしたら討ち果たす事ができたかも知れない義貞を追撃せずに、すんなり撤退させてしまった事が幕府最大の失態=北条(平家)滅亡の兆しとしています。
それほど、この5月15日の分倍河原の戦いでの敗戦は義貞にとってピンチだったわけで、それこそ、命助かったものの、この後の戦いをどうすべきか、彼も悩みに悩んでいたわけですが、
そんなこんなの15日の夕方、今度は義貞のもとに救世主登場・・・相模(さがみ=神奈川県)から6000の兵を率いて駆け付けた三浦一族の大多和義勝(おおたわよしかつ)でした。
しかも、
「さっき、こっそりと敵陣の様子をさぐらせたところ、幕府軍はこの勝利に安心して油断しきってるみたいですわ。
明日の合戦には、新手の僕が一方の先陣を引きうけて、敵を攻め立てて、必ず勝って見せますよってに…」
と心強い言葉・・・
かくして翌16日の朝4時・・・未だ鎮まる幕府軍に奇襲攻撃を仕掛けた三浦勢・・・さらに、そこに、義貞以下の軍勢が時間差攻撃の如く、三方から鬨(とき)の声を挙げて一気に攻め立てたため、幕府軍は大混乱・・・
やむなく、泰家率いる幕府軍は、鎌倉へと敗走する事に・・・
しかし、命からがら鎌倉に戻った兵たちに待っていたのは、「京都の六波羅が落ちた」との知らせ・・・彼らは、しばしの間呆然とするしか無かったのだとか・・・
そしていよいよ・・・この分倍河原での逆転勝利に勢いづいた義貞が、幕府の本拠地=鎌倉を目指すのは、この2日後の事ですが、そのお話は、5月21日の【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】でどうぞ>>
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コメント
お久しぶりです♡分倍河原は家のすぐ近く。多摩川の向こうに美しい富士山が望める絶景ポイントです。あの美しい場所でかつてそんな戦いがあったとは・・・この時期ちょっともやがかかるけど、美しい富士山を見てさぞ鎌倉軍は士気が高まったのでは?
投稿: Hiromin | 2014年5月16日 (金) 21時08分
Hirominさん、こんばんは~
近くの知っている地名が登場して来ると、その時の光景が目に浮かぶようで、妄想はますます膨らみますね~
そうですか…富士山の絶景ポイントなんですね?
絵になりますね~
さらにイロイロ、妄想してしまいます(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2014年5月17日 (土) 01時27分
茶々様、こんばんは。
京王線に乗ってるときに変わった駅名だなと思っていたのですが、そう言う言われのある地名だったんですね。
また、一つ勉強になりました。
投稿: エアバスA381 | 2014年5月18日 (日) 23時12分
エアバスA381さん、こんばんは~
駅名や地名で、その歴史を垣間見る事、私もよくあります。
古い地名は大事したいです。
投稿: 茶々 | 2014年5月19日 (月) 00時01分