「秋田蘭画」を誕生させた佐竹義敦と小田野直武
天明五年(1785年)6月1日、出羽国秋田藩の第8代藩主・佐竹義敦が死去しました。
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東北の雄として戦場を駆け巡ったあの佐竹義宣(よしのぶ)(1月25日参照>>)に始まる出羽国(山形県・秋田県)秋田藩(久保田藩とも)・・・第7代藩主だった父=義明(よしはる)の死を受けて、息子の佐竹義敦(さたけよしあつ)が第8代藩主となったのは宝暦八年(1758年)の事、わずか10歳の若き藩主でした。
しかし、彼が藩主となった時期は、宝暦の大飢饉の真っただ中で農地は荒れ果て、藩政不安による藩内のゴタゴタも起き、藩の財政は崩壊寸前・・・参勤交代もできないほどの困窮ぶりだったと言います。
そんな中で、若き藩主は、重臣たちの力を借りながらも、財政の立て直しに手腕を振るう日々を送ります。
そんな義敦の趣味が絵画・・・いや、それは趣味の域を超えた腕前で、「曙山(しょざん)」という立派な画号を持つ狩野派の絵師でもあったのです。
そんなこんなの安永二年(1773年)、彼は、都会からやって来たマルチな天才に出会います。
その人は、あの平賀源内(ひらがげんない)・・・いや、出会うというよりは義敦が源内を呼んだんですけどね。
それは、ひっ迫した藩の財政を立て直す手段の一つとして、当時は採掘量が激減していた阿仁(あに)銅山(秋田市)の再建・・・この数年前に、秩父の中津川で鉱山開発を行って、石綿を発見していた源内に、その阿仁銅山の復活事業におけるノウハウを指導してもらうために招いたのです。
この頃の源内は、すでに江戸に長崎に大坂に京都に・・・という最先端の場所で、様々な教養を身につけており、10年前の宝暦十二年(1762年)には、江戸で「東都薬品会」なる物産会を開催し、その出品物を解説した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』なる書物も刊行し、マルチな天才として、かなりの有名人になっていたわけで・・・(ちなみに、あのエレキテルは、この3年後です)
呼ばれて飛び出て秋田へと赴いた源内は、しばらくの間、銅山の調査した後、その帰りに、ある事を義敦に願い出ます。
それは、義敦の部下である秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ)を江戸に連れ帰る事・・・
実はこの直武さん・・・義敦に絵を教えた先生でもあったわけですが、滞在中に彼の絵を見た源内が「なんて。繊細な絵を描くんだ!!」と感動し、「是非とも江戸に連れて行きたい」と・・・
こうして、3年間の約束で江戸にやって来た直武は、源内と親しかった杉田玄白(すぎたげんぱく)の『解体新書』(3月4日参照>>)の付図を描いたのを手始めに、諸国の物産図など、精巧な図が要求される場面で、その手腕を大いに発揮しました。
かくして3年の約束が4年に伸びた安永六年(1777年=安永八年とも)、秋田に戻った直武は、お久しぶりの義敦に、源内が刊行したかの『物類品隲』を、お土産として手渡します。
思わぬ手土産に大喜びで、その書物を読みふける義敦・・・実は、そこには油絵に使う絵具の製法が書かれていたんですね~
絵が大好きな彼にとって、未だ、未体験の西洋の油絵・・・夢中になるうち、いつしか義敦の描く絵画も油絵の画法を用いた物へと変化していき、直武とともに『画法綱領』や『画図理解』など、本邦初の洋画論を展開する書物を執筆するまでになります。
こうして、秋田藩で誕生した西洋式日本画は「秋田蘭画」と呼ばれる事になりますが、その盛隆はわずかの期間でした。
そう、安永八年(1779年)、あの源内が、殺人で逮捕され、そのまま獄中で亡くなってしまったのです(11月21日参照>>)。
その噂が秋田まで届くと、源内から直接教えを請うた弟子とも言える直武は、藩に留まる事ができず失脚(失脚の原因については異説もあります)・・・しかも、その翌年の安永九年(1780年)5月に急死してしまうのです。
直武を失った義敦は、絵画への情熱を失って心を閉ざし、失意のまま天明五年(1785年)6月1日、38歳の若さでこの世を去りました。
何とも、悲しい最期ではありますが、ご安心を・・・
義敦の才能は、後を継いだ息子=第9代藩主・義和(よしまさ)に受け継がれ、直武の思いは、親しかった友人=司馬江漢(しば こうかん)(10月21日参照>>)に引き継がれて花開き、彼らの残した画法は、後の世に誕生する若き絵師たちに、大きな影響を与える事になります。
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コメント
こんばんは。
高校の日本史の教科書にも洋画、銅版画は載っていました。あまり注目されていないけど。
投稿: やぶひび | 2014年6月 3日 (火) 00時03分
やぶひびさん、こんばんは~
おぉ、載ってましたか~
恥ずかしながら、私は源内の絵しか覚えてませんでした(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2014年6月 3日 (火) 01時39分