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2014年6月15日 (日)

本能寺の後…明智秀満の湖水渡り

 

天正十年(1582年)6月15日、明智光秀の重臣・明智秀満が坂本城に火を放ち、残された光秀の妻子とともに自害しました。

・・・・・・・・・

左馬助(さまのすけ=左馬之助)の通称で知られる明智秀満(あけちひでみつ)は、もとの名を三宅弥平次(みやけやへいじ)と名乗っていた明智光秀(みつひで)の重臣ですが、その出自や前半生がほとんどわからず、他にも光春や秀俊など、複数の名前が残っている謎の人です。

そんな秀満が歴史の表舞台に登場するのは、主君である光秀が、そのまた主君の織田信長から丹波地方(たんば=兵庫県北部・京都府北部)の平定(1月15日参照>>)を命じられていた頃・・・

やがて天正六年から天正七年(1579年)にかけての、あの荒木村重(あらきむらしげ)摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県東南部)有岡城での謀反・・・

この時、光秀は、自らの娘が村重の息子に嫁いでいた縁から、有岡城に籠城する村重のもとへ、開城するよう説得に行く役目も果たしたわけですが、説得を聞き入れない村重は、逆に、光秀の娘を息子と離縁させて送り返して来たのです(10月16日参照>>)

・・・で、その離縁された光秀の娘を娶ったのが、今回の秀満さん・・・

おそらく、その事があって明智姓を授けられ、以後、明智秀満と名乗る事になりますが、その名前が、正式な文献に登場するのは、あの本能寺の変の直前・・・

娘を娶り、明智姓を授かった秀満が、丹波一国(10月24日参照>>)を任されて福知山城代となっていた事を思えば、光秀からの信頼もかなり篤かったと思われ、天正十年(1582年)6月2日の、あの本能寺の変(6月2日参照>>)では先鋒を努めて大活躍しました。

変の後に、安土城に派遣された秀満は、その安土城の守りを固めるとともに、近江(滋賀県)の平定に尽くす事になりますが、その間に・・・

そうです。

信長の命令で中国地方を平定していた(6月4日参照>>)羽柴(後の豊臣)秀吉が、奇跡の如き中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に戻り、あの山崎の地にて弔い合戦・・・光秀は敗北して逃走します(6月13日参照>>)

安土にて、この知らせを聞いた秀満は、光秀を救うべく、安土城を出て、琵琶湖の東岸を京都へ向かいますが、途中で、光秀が山科小栗栖(おぐるす)にて討たれてしまったとの一報・・・

やむなく、「それならば坂本城へ…」と、粟津から大津へと向かっていたところで、秀吉軍の堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)と遭遇・・・

多勢に無勢の秀満は、またたく間に本道を封鎖されてしまい、そこから先に進めなくなってしまいました。

すると秀満・・・いきなり、馬で湖水へと乗り入れ、琵琶湖をどんどんと泳いで行ったのです。

水際からは堀の兵士たちが
「ほれ、皆、ここから、アイツが溺れるところを見ようぜ!」
と岸に群がりながら笑い合います。

ところが・・・
白絹に狩野永徳の筆による雲竜を描いた羽織に、二の谷という兜をかぶり、大鹿毛(おおかげ)という名馬にまたがった秀満の姿は、沈む事なく湖水に浮かび、とうとう対岸の唐崎へ・・・有名な『左馬助の湖水渡り』です。

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歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)

実は、長年坂本で暮らしていた秀満は、大津から唐崎まで、遠浅の場所を熟知していたのですね・・・そう、泳いでいるのではなく、浅瀬をを渡っていたのです。

こうして、なんなく唐崎浜にたどりついた秀満は、湖岸の一本松のところで、疲れた馬に気つけの薬を与えた後、しばらくは追って来る敵を監視していましたが、小休止の後、再び馬に乗って坂本城を目指します。

途中、十王堂という御堂の前で馬を下り、馬の手綱を御堂につないで、ササッと筆を取り、
「左馬助が湖水を渡った馬である」
と札に書いて、その馬のたてがみに結びつけました。

その後、坂本城に入った秀満は、光秀の妻子を天守に集め、逆に、安土からの戦利品であった宝物の数々を天守から投げ落とし、妻子たちを手に掛けた後、天正十年(1582年)6月15日城に火を放って、自らも自害をしたのです。

この時、秀満が身につけていた白絹の羽織と兜は、いずれも人手に渡るか行方不明となりますが、馬だけは無双の駿馬と讃えられ、後に、秀吉が賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)の時に、この馬に乗ったとされています。

と、本日は『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に沿ってご紹介させていただきましたが、細かな部分は文献によって諸説ありますので、そこのところはヨロシクです。

ちなみに、この秀満さんは、安土城に放火した犯人とも言われますが、私個人的には違うような気がしています(2010年6月15日参照>>)
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コメント

こんばんは!この浮世絵かっこいいですよね~
ただそれだけなんですけど。なんか兎の耳の兜かぶってた方ですよね?やっぱり安土城に放火したのはあの馬鹿息子?($・・)

投稿: | 2014年6月15日 (日) 23時40分

こんばんは~

信雄くんは、そこまでアホでは無いだろうし、放火する理由も無い気がして、私は、イエズス会関係の人が放火したんじゃないかな?って思ってます。
「悪魔の如き思い上がり」ってかなり怒ってはりましたから…

投稿: 茶々 | 2014年6月16日 (月) 01時25分

子孫の方がいますよ。ブログは下記です。
世の中は広いようで、狭いです。
http://ameblo.jp/mikehide-1582/entry-11803186019.html

投稿: やぶひび | 2014年6月16日 (月) 15時52分

やぶひびさん、こんにちは~

>世の中は広いようで、狭い…

そうですね。
私も、「村上海賊の娘」なので、ハヤリの小説を読むべきか否か?(小説は、ほとんど読まないので…)検討中です(笑)

投稿: 茶々 | 2014年6月16日 (月) 16時23分

こんばんは。

秀吉は「大殿(信長)が光秀のように家来思いなら、あるいは光秀が左馬之介のように主思いなら謀反など起きなかった。」みたいなことを言ってたらしいですね。

投稿: タロベエ | 2014年6月16日 (月) 20時23分

タロベエさん、こんばんは~

秀吉は周囲の人たちから様々な事を吸収してのし上がっていった人ですから、信長や光秀の事を、そのように思っていたかも知れませんね。

私としては、信長さんは意外に家来思いだったような気がしてますが…

投稿: 茶々 | 2014年6月17日 (火) 01時10分

話は、すこしそれますが、大河ドラマで荒木村重の一族が信長の命により粛清される場面がありましたその時、思わずその可愛い嫁だけは助けてやってくれ・・と本気でつぶやいてしまいました。 トホホ・・・・

投稿: なにわの影丸 | 2014年6月18日 (水) 03時55分

なにわの影丸さん、こんにちは~

桐谷さん、キレイですもんね~
村重が逃げ回らなければ、彼女たちは助かったかも…ですが、村重さんは、この後も出て来るので、何とも言えませんね。

投稿: 茶々 | 2014年6月18日 (水) 13時33分

昨夜、BS NHKプレミアムで、「英雄たちの選択」で、明智光秀~本能寺の変を見ました。もし、光秀が謀反をしなかったら、どうなっていたかという話、興味深かったです。
織田幕府成立という説はなくて、天下統一後に
朝鮮に派兵とする話になっていました。

投稿: やぶひび | 2014年7月 4日 (金) 03時54分

やぶひびさん、こんにちは~

もし…と考えはじめるとキリがありませんね~
妄想は膨らみます(*^.^*)

投稿: 茶々 | 2014年7月 4日 (金) 09時57分

明智秀満の湖水渡りは、数々のNHK大河ドラマでは、お目にかかる機会は少ないのではないかと思いますが、確実に言えることは、主君である、明智光秀に対する忠誠心が強かったことではないでしょうか。もちろん、斎藤利三(春日局の父親)・溝尾庄兵衛などの家臣たちも同様です。ただ、秀満らが、最終的に滅亡の道をたどってしまったのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の恐るべき機敏さと求心力にあったとしか思えませんね。

投稿: トト | 2016年2月15日 (月) 13時07分

トトさん、こんにちは~

7~8年前の、染五郎さんの秀満が印象的でしたね。

投稿: 茶々 | 2016年2月15日 (月) 14時57分

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