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2014年6月26日 (木)

加賀騒動~大槻伝蔵の無念

 

延享五年(1748年)6月26日、加賀藩の第7代藩主・前田重熙への毒殺未遂事件が発覚しました。

・・・・・・・・・・・

伊達騒動(3月27日参照>>)黒田騒動(3月2日参照>>)と並んで、江戸時代の三大お家騒動の一つに数えられる加賀騒動です。
(三大騒動の中に仙石騒動(12月9日参照>>)が入る場合もあります)

Ootukidenzou500 この騒動の中心人物は大槻朝元(おおつきとももと)・・・

通称を伝蔵(でんぞう)と言い、祖父の代から、足軽身分で前田家に仕えており、彼自身は、後に加賀藩の第6代藩主となる前田吉徳(まえだよしのり)御居間坊主として仕えます。

ちなみに、この御居間坊主というのは、お世継ぎ坊ちゃんの身の回りの世話をする人・・・ただし、身の回りの世話をする人と言えば、よくご存じの小姓という少年たちがいますが、彼らは、ある程度身分の高い武士の息子などが多く、殿様(またはその世子)の側近として仕えて後に出世する出世コースの少年で、一方の御居間坊主の方は、その名の通り、世子の居間の道具などの準備したりする少年で、身の回りの世話をすると言っても、直接、その世子とは話をする事すら許されない・・・つまり、けっこう身分が低いわけです。

・・・が、享保八年(1723年)に第5代藩主の綱紀(つなのり)が隠居して、その息子の吉徳が藩主となると、伝蔵は還俗して武士の身分となり、藩主・吉徳の側に仕え、ここからメキメキ出世するのです。

というのも、ご存じのように加賀藩は、加賀百万石と称される大きな藩・・・その大きな藩の財政を維持していく事は大変な事ですが、ここのところ出費が重なり、それが、かなりキワドイところまで来ていたのです。

しかし、前田家中には名門八家(本多氏(筆頭)・長氏・横山氏・前田対馬守家・奥村河内守家・村井家・奥村内膳家・前田土佐守家)という家老に就任できる資格を持つ譜代の重臣たちがおり、それまでは、藩主よりも、むしろ彼らが政治を動かしていたわけで・・・

で、ここに来て、藩主自らが腕をふるって藩政の改革に乗り出したのが先代の綱紀で、新たに藩主となった吉徳も、その父の意思を引き継いで自ら政治を行うとともに、その手足となってくれる新たな人材を抜擢・・・こうして吉徳に重用されたのが伝蔵だったわけです。

藩主の期待に応えるがの如く、伝蔵は、火消し役に命じられれば足軽勢を率いて見事に防ぎ、物頭並から組頭並へ・・・さらに、大坂にて米相場や銀を利用して多大な利益をもたらし、100%とは言えないまでも、藩の財政を何とか持ち直させた功績により、寛保元年(1741年)には、ついに、家中でも名門にしか許されていなかった人持組に大出世したのです。

ところが・・・

延享二年(1745年)6月に、彼を厚遇してくれた吉徳が死去・・・息子の宗辰(むねとき)が第7代藩主になると、その翌年にいきなり、「吉徳への看病や、その病状の通達に不備があった」と訴えた前田直躬(まえだなおみ)らの弾劾状が提出され、何の詰問も無いまま、伝蔵は蟄居(謹慎処分)を命じられてしまいます。

さらに、そんな中で、その宗辰が、わずか1年半の藩主生活&22歳の若さで病死・・・

ここに毒殺説が浮上した事で、宗辰の後を継いで第8代藩主となっていた異母弟の重煕(しげひろ)は、延享五年(1748年)、伝蔵の家禄を没収し、越中(富山県)の五箇山への流罪としたです。

そんなこんなの延享五年(1748年)6月26日藩主・重煕への毒殺未遂が発覚・・・さらに続く7月4日には、重煕の生母である浄珠院(じょうじゅいん)への毒殺未遂も発覚してしまいました。

その後まもなく、実行犯として浅尾という奥女中が逮捕されるのですが、この彼女が「亡き吉徳の側室であったお貞の方(真如院)が、自分が生んだ息子=利和(としかず=吉徳の三男)を藩主につかせたいとして画策した物」と自白するのです。

さらに、それを受けてお貞の方の部屋を捜索すると、なんと、不義密通を臭わせる伝蔵からの手紙を発見!!

つまり、我が子に藩主を継がせたいと思ったお貞の方に、密通相手の伝蔵が近づいてそそのかし、浅尾を使って、お家転覆を謀ったと・・・

結果、浅尾は死刑、お貞の方は終身禁固刑となり、その話を流刑先の五箇山で聞いた伝蔵は、自害して46歳の命を散らしました。

・・・とまぁ、これが加賀騒動と呼ばれる事件の大まかな流れなわけですが・・・お察しの通り、現在では、刑を受けた彼らのした事のすべてがでっち上げだと言われています。

冒頭にご紹介した通り、江戸の三大騒動の一つとされる加賀騒動ですが、他の二つ=伊達騒動も黒田騒動も、その真偽を確かめるために幕府が介入していますが、この加賀騒動だけは幕府が介入していません。

つまり、第三者的な立場からの記録は一切なく、記録のすべてが伝蔵らに処分を科した側=前田直躬ら側の言い分で、しかも、浅尾やお貞の方への詮議の内容も曖昧で、証拠であるはずの不義密通の手紙の中身も、実際には、はっきりとしないのです。

しかし、そんな中で、「お家転覆」「毒殺未遂」「不義密通」なんていう衝撃的で庶民受けしそうなキーワードが並んだ事で、またたく間に事件についての実録本が出され、小説が出され、お芝居になり・・・と話ばかりが独り歩きし、中には、浅尾に執行された死刑が、数百匹もの毒蛇を入れた穴に全裸の浅尾を押し込める「蛇責め」だったなんて話も付け足される始末・・・

当然ですが、小説やお芝居の場合は勧善懲悪でないとウケないため、物語の中では伝蔵は悪の権化、前田直躬は加賀百万石を救ったヒーローとして描かれます。

この前田直躬という人は、加賀藩の藩祖である前田利家×まつさんの次男=利政から数えて5代目の子孫で、先に書かせていただいた加賀藩の名門八家の一つ=前田土佐守家の人で、彼に同調して伝蔵を追いやった人たちは、皆、それらの名門家の人々・・・

この直躬さんは、そのメモ書きに
(伝蔵は)足軽の三男で、性格は悪いし淫乱やし大酒飲みのくせに、俺らと同等やと思てけつかる!」
なんて事を書き残しているとか・・・

そう、彼ら名門家にとっては、藩主に気に入られて出世した新参者の伝蔵はうっとうしくてたまらなかったのでしょう。

上記の通り、ちゃんとした記録が残っていないので、どこまでが事実なのか曖昧な話ではありますが、『見語大鵬撰(けんごたいほうせん)には、こんな逸話が残っています。

ある時、加賀国石川郡の百姓たちが、庄屋頭の与三右衛門の家を打ち壊し、駆け付けた捕り手の役人にも抵抗するという事件があり、藩主の吉徳を含めた重臣たちで対策会議を開くのですが・・・

この時、名門八家の一人である本多安房守は、
「この加賀は、昔、一揆によって守護の富樫政(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ(6月9日参照>>)場所でっせ。
これは、大人数で現地に行き、徹底的に抑え込まんとあきません」

との意見を言いますが、
一方の直躬は、
「それは、戦国時代の事ですやん。
今、この時代に、百姓ごときに大勢で…てのもなぁ。
まして、百姓と言えど、必死のパッチで向かって来たら、こっちもケガ人出るし、とりあえず役人を解雇して様子見るとか…」

重臣たちの話を聞いた吉徳は、
「こんなんほっといたら藩主の威厳もクソもあったもんやない!
弓隊も出して完全武装で行って鎮めて来い!」

と怒り心頭で、一旦は兵を出す方向に傾くのですが・・・

そこへ伝蔵が
「末席から失礼します…」
と進み出て、

「こんな事に完全武装で行くのもどうか…と思いますし、かと言って捨て置いても殿の威厳にかかわりまっさかいに、ここは一つ、僕が一人で話つけて来ます」

と言うが早いか、草履取り一人だけをお供に現場に向かいます。

迎える百姓たちは、おそらく、完全武装の大軍が鎮圧に来るものと予想し、死ぬ覚悟で身構えていましたが、やって来たのは伝蔵一人・・・

そして
「君らの言い分を、必ず上にあげるから、ここらへんで納めてくれへんやろか」
と切り出して話を聞き、
「なら、その悪い役人を必ず処分するから…」
と百姓たちをなだめ、
「かと言うて、これだけの騒ぎを起こしとしてお咎め無しってわけにはいけへんから、悪いけど、くじ引きで何人か代表者出してくれるか」
と言って、代表者15名を連れ帰り、一揆を鎮圧してしまったのです。

結果、15名の代表者は死罪となりますが、一方の役人にも追放処分を言い渡した(これは表向きだけで実際には大した処分では無かったようですが)ので、残った百姓たちから文句が出る事もなく、一件略着となったのだとか・・・もちろん、吉徳さんの怒りも収まり、ゴキゲンを取り戻します。

藩主の目の前で、重臣たちが右往左往する中、末席から進み出て、たった一人で事を納めてしまう・・・これを、サラッとやられちゃぁ、重臣たちの立場が無いわけで・・・

そんなこんなの不満がたまった末、でっちあげの追い落とし・・・

伝蔵にとっては、さぞかし無念の自刃で、その上に小説やお芝居である事無い事付け足されて汚名を着せられちゃぁ、更なる無念であった事でしょう。。。
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コメント

こんにちは。

保守派の名門にして見れば、伝蔵を認めることは自分たちを否定することだから、伝蔵は悪でなければいけなかったんでしょうね。

しかし後ろ楯を失った改革者は悲惨ですねぇ。史記にすでに、似たような話がいくつもあります(というか悪行のエピソードは史記の丸写しのような)。

投稿: タロベエ | 2014年6月27日 (金) 10時33分

タロベエさん、こんにちは~

>史記の丸写し…

誰がどう見ても悪人…とする条件を満たすためには、古今東西、同じような悪行を並べ立てる事になるんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年6月27日 (金) 13時41分

最後の一揆を治める話、見事です。面白かったですね~歴史って第三者の証拠ないと何も言えないですね、難しいです。

投稿: minoru | 2014年7月 3日 (木) 11時49分

minoruさん、こんにちは~

保守と革新はいつの時代もモメるのでしょうね~

投稿: 茶々 | 2014年7月 3日 (木) 12時35分

こんにちわ、茶々様

今 映画「武士の献立」を見たところです
加賀騒動は知っていたのですが、映画の中で伝蔵さんや浄珠院さんもしっかり出てきて歴史好きの私もしっくり見れる映画でした

(映画の内容的にはまぁまぁです・・・まぁ、単純なだけにヽ(´▽`)/)

映画を見終わり『茶々様の徒然日記で見た覚えが・・・』と思い この6月16日のブログを再度 読ませていただきました。

今日も茶々様に感謝です。

投稿: DAI | 2015年3月 4日 (水) 20時09分

DAIさん、こんばんは~

そうですか~
「武士の献立」は、見たいな~と思いながらも、結局見て無いんですが…

「献立」という限りは、やはり、毒殺うんぬんの話が出てくるんでしょうね。
今度、機会があったら、見てみますね。

投稿: 茶々 | 2015年3月 5日 (木) 03時43分

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