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2014年6月 9日 (月)

幕末ニュース~大阪城の堀に恐竜がいた?

 

慶応二年(1866年)6月9日、 大阪城の堀から恐竜が発見されました!
残念ながら、すでに死んでいましたが・・・

・・・・・・・・・

と言っても、その記録に描かれた絵を見て、後世の私たちが、勝手に恐竜と言ってるだけなんですけどね(*´v゚*)ゞ

ただし、京都府立総合資料館に収蔵されている幕末期の記録『人のうわさ』という文書と、もう一つ『幕末風聞書留』(大國家文書)という二つの文書に、まったく同じ日付で同じ事が記載されていますので、文字通り「人のウワサ」とは言え、何かしらの生物の死体が、幕末の動乱真っただ中の大阪城の堀から発見された事は、おそらく本当の事なんじゃないか?と・・・

なんせ、この『人のうわさ』という文献・・・京都で代々続く旧家から発見されており、おそらく、当時京都に住んでいた久兵衛という町人の筆による物で、安政五年(1858年)から慶応四年(1868年)までの11年間に渡り、自ら見聞きした流行り歌や、巷の高札・張り紙の記録とともに、桜田門外の変(3月3日参照>>)長州征伐(5月22日参照>>)などの重要事件も、ちゃんと書き留めている物なのですから、

それこそ、一般町人が聞き及ぶ「ウワサ」がソースとは言え、その話が、まことしやかに囁かれていた事は、おそらく事実なのでしょう

Hitonouwasa400 ・・・で、その『人のうわさ』に描かれている、大阪城の堀から発見された生物のイラストがコチラ→

この絵・・・
ホラ!太古の時代にこの地球を闊歩していた恐竜の事を知ってる現代の私たちが見ると、つい「恐竜」と言ってしまうような、絵でしょ?

まさに「なんとかザウルス」の部類ですやん!

挿絵の横にある説明文には
「慶応二寅年六月九日朝明方大坂
御城内御堀より如此之もの出ル、早々
御城代江申上候之事
身丈 七尺壱寸
(約2.15m)
尾  四尺八寸(約1.45m)
廻り 六尺九寸(約2.09m)
足  三尺二寸(約0.97m)
手  二尺七寸(約82cm)
口  一尺六寸(約48.5cm)
目  三寸五分(約10.6cm)
とあります。

思ってた以上にデカイ!!
目が10cmは、ちと怖いかも

そして、もう一つの『幕末風聞書留』コチラ↓
Bakumatufuubunn600

こちらにも、
「但し死テ上ル  城代役所
一手 弐尺七寸
(約82cm)
一身丈七尺壱寸(約2.15m)
一尾丈四尺八寸(約1.45m)
一廻り六尺九寸(約2.09m)
一足 三尺弐寸(約0.97m)
一口 壱尺弐寸(約36.3cm)
一眼 三寸五分(約10.6cm)
目方弐拾五貫目有(約93.7kg)
慶応二寅六月
九日朝五ツ時半時
御城内南御堀より
上ル、早速
御上様へ御入覧之事」

と、発見された時間や場所まで、さらにくわしい解説が書かれています。

てか・・・100kg近くあったん??w(゚o゚)w
しかも、最後の
「御上様へ御入覧之事」って・・・

オイオイ、あの徳川家茂(いえもち)さん(7月20日参照>>)が見たのかえ?
このUMAを・・・

日付からして、すでに体調を崩してはった感あるけど、大丈夫やったんかいな?

とまぁ、記録を見てきましたが、おそらく、冒頭に書かせていただいた通り、恐竜では無い何かしらの生物の死体・・・

なんせ、つい何年か前にも「すわ!未確認動物発見か?」と言われたのが、すでに腐敗が始まっていたクジラだった・・・てな事が、この平成の世にもあるわけですから・・・

とは言え、太古の昔からひっそりと生きてきた恐竜が・・・なんて言うロマンも、やっぱり捨て難い・・・
なんとかザウルス=(大阪城なので)オッシーであってほしいなぁ~

もちろん、そうなると、日本最古の、あの鶴橋(つるのはし=猪甘津橋)(6月18日参照>>)に江戸時代に出没したという怪物との関係も気になるわけで・・・

いずれにしても、たとえ恐竜じゃなくとも、その意外な大きさは興味をそそりますね~

そんな大きな生物が、それまで1度も姿を見せずに、ずっと大阪城の堀に住んでいたのでしょうか?・・・

もしかして、太閤さんの大坂城を埋められたはらいせに、豊臣の生き残りが刺客として放った凶暴なカミツキガメが250年間の太平の世を生き抜いていたとか・・・

天王寺のドロ亀が谷町筋を北上して住みつき、お堀の主となったとか・・・

いやぁ、妄想はつきません(*´v゚*)ゞ
 .

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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々さん初めまして(o^-^o)
絵を見て一瞬、日本カワウソ辺りを見間違えたのかな?って思いましたけど(江戸時代の記録で加賀のお城の堀に住み着いたカワウソの記録があったり、妖怪扱いされてたなど資料があったり...)でもこの資料の大きさで判断するとそれは違いそうですね。う〜ん、何でしょう?(笑)
平成の多摩川の現れたタマちゃんみたいに、江戸時代に名古屋に現れたアザラシを見て、妖怪だの未確認生物発見だのと騒がれた記録などがあったり、この頃の時代の人々は現代とはまた違った驚きが身近に沢山あったのでしょうね。

投稿: 生粋の栃木っ子 | 2014年6月 9日 (月) 15時25分

茶々様 こんばんは。

死骸ですから大きさは間違いないですね。
生きている目撃談は、怖いものは大きく見えますが死骸ですからちゃんと測ったんですよね。
幕末の絵画技術から言うと、実物とそんなに違うとも思えないし。
でも、これだけ大きいのが堀に。
一頭いればもっといますよね。
不思議の一言です。

投稿: エアバスA381 | 2014年6月 9日 (月) 22時00分

生粋の栃木っ子さん、こんばんは~

現在の大阪城のお堀にはヌートリアがいますが、幕末ならカワウソ…と、私も思ったんですが、やはり大きさが…

戦国時代なら海と直結してた感あるので、アザラシのデカイやつかも…とも思いますが、幕末なら、周囲はもうお屋敷だらけだったでしょうし…
いろいろ考えてしまいます。

投稿: 茶々 | 2014年6月10日 (火) 02時18分

エアバスA381さん、こんばんは~

幕末も長州征伐の年ですから、もう、かなり外国の技術も入って来てますし、大きさの測り方なんかも制度高いでしょうね。
そんな中で、この大きさですから…ホント不思議です。

投稿: 茶々 | 2014年6月10日 (火) 02時24分

茶々さん、こんばんは♪

早速大坂城の古地図をネットで探して確認してみましたが、1806年の地図だと北側のお堀が淀川の支流につながっているみたいです。二枚目の瓦版に描かれた絵柄から想像するに、ゴマフアザラシだと思います。ゴマフアザラシ体長は170~180cm、体重は80~130kgだそうですので、当てはまるのではないかなと思います。

淀川を北上するゴマフアザラシ…これも想像すればロマンチックですよ♪

投稿: 圭さん | 2014年6月10日 (火) 18時33分

圭さんさん、こんばんは~

ゴマちゃんですか…
それもロマンですね~o(*^▽^*)o

投稿: 茶々 | 2014年6月11日 (水) 01時10分

茶々さま:)

大阪城アンケートで茶々さまに1票を投じさせて頂いた下総の若造です♪

Googleで「恐竜」「最近」で検索したら

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/093kyouryuu.htm

のブログがヒットして、結論はともかく
「同じ頃に、博物学者ユリシーズ・アルドロバンダスの記した文献にも、こんな記録が載っています。
 [一五七二年五月一三日に、あるイタリヤ農民が、道で珍しい動物に出会いました。その動物は、その頃にはすでに数も少なくなっており、絶滅寸前にありました。
 首の長いその動物は、シューシューと音を立てていましたが、農民はその頭を打って、殺してしまいました。]
この動物は、小型恐竜の一種タニストロフェウスによく似ています。」
と文献として残ってるらしいですので、少なくとも戦国時代〜幕末頃までイタリアにも日本にも恐竜ちゃん住んでたのかもしれないな〜にも1票です☆

投稿: Matthias | 2014年6月13日 (金) 13時53分

最初イグアナかなと思いましたが、体重100キロとは大きいですね。長い尾があるからアザラシとは思えません。飼いきれなくなったコモドドラゴンでしょうか。
江戸時代には外国から鳥や動物を取り寄せて買うことが流行っていたそうですが、爬虫類は人気があったのでしょうか。
ぶちのイラストは狸みたいで可愛いですね。イラストは生きている姿勢を想像して描いたのみたいですね。間違った姿勢に再現されている可能性もあります。(イグアノドンの話が有名ですが)
それにしても、直径10センチの目玉の陸上動物っているの?不思議すぎます。

投稿: りくにす | 2014年6月13日 (金) 21時10分

Matthiasさん、こんばんは~

なりほど…
恐竜がけっこう近代まで生きていたという説もあるのですね~
確かに、大きければ大きいほど、成長するのがゆっくりな可能性もあり、それだけ長生きだったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2014年6月14日 (土) 01時16分

りくにすさん、こんばんは~

ホント不思議な話です。
そうですね…死骸ですから、その姿勢は想像で、それが余計に話をややこしくしてるんだと思いますが、やっぱり、大きさが気になりますね。

投稿: 茶々 | 2014年6月14日 (土) 01時23分

茶々さま
お久しぶりです^^

こちらのUMA!「鵺(ヌエ)」ではないでしょうか!?
時代が翻弄、変わろうとしている時に現れる…と。
ちょうどそんな時代ですよね^^
今、今世にも現れてたりして…^^

投稿: tonton | 2014年6月14日 (土) 23時01分

tontonさん、こんばんは~

鵺ですか…俄然、オドロオドロしい感じになってきますね~
鵺の鳴く夜は恐ろしい~~~

投稿: 茶々 | 2014年6月15日 (日) 01時07分

大阪城の冬の陣だったか、多分、戦いで堀の中に落ちた馬でしょうなね、当時の馬は、サラブレッドだけでは足らず、出陣し堀に落ちたかも、北海道の道産子は当時の武者の背丈が六等身は大きい方で道産子は大きな農耕馬ですので…恐竜に見えるかも知れませぬな…

ただ、海外からインド像を長崎から連れてきた、カピタンが存在し、政権が当時大阪城で在った為、殿様に献上で、日本は寒くて南国育ちの像は死亡し、大阪城の堀に埋葬した可能性が在りますので、

投稿: 赤髭 | 2014年9月 2日 (火) 10時56分

赤髭さん、こんにちは~

う~ん…冬の陣当時の堀は、徳川が完全に埋めちゃったので考え難いような気がしますね~
サラブレッドが日本に輸入されるのは明治を過ぎてからですが、道産子なら、幕末にもいたかも知れませんね。

象は…
享保の時代に東海道を通って江戸まで吉宗さんに会いに行った象>>が、江戸時代の最後だと思ってましたが…

秀吉の時代の大坂城なら、虎を飼ってたって話も残ってますね。

投稿: 茶々 | 2014年9月 2日 (火) 13時18分

茶々さん
たしか、大阪城は夏の陣と冬の陣の二度目に落城した頃ですので、インド交易とポルトガル人の交易が在りますが,朝鮮制覇の頃、長崎から大阪まで南国育ちの像を移送したが日本の寒さの為、大阪城の堀で巨大な象が橋の上で朽ち落ちた様です、象は江戸へ移送が出来なくなり、二度目の渡航らしい!

投稿: 赤髭 | 2014年9月 3日 (水) 00時43分

茶々さん、豊臣が蝦夷地の制圧で道産子を得たとか、サラブレッド系は、毛利の源頼朝さんの群馬県の野生馬がサラブレッド系ですので… 虎は、大酒飲みの虎にて!城飼かもね…(*^o^*)v 酒豪の虎ばかりだったかと思いますよ♪

投稿: 赤髭の追記 | 2014年9月 3日 (水) 00時57分

赤髭さん、こんばんは~

あ、ちょっと言葉足らずでしたか…すみません。

先のコメントでリンクした「象の日」のページにも書かせていただきましたが、戦国の頃には、足利義持や大友宗麟や、もちろん秀吉に献上された象もいるんですが、今回のモンスターに話は幕末で、私が江戸時代最後だと思っている享保の時の象からでも100年以上経ってるので、その享保より後に、象が来たのかどうかしら?、という意味です。

投稿: 茶々 | 2014年9月 3日 (水) 01時06分

茶々さん、
自分の話しは現在の埼玉県新座市平林寺住職さんからの古文書に或る講話からの参考ですので… 五日市の千川や箱水を建築した野火止め用水路の管理、源頼朝の水野忠邦の世代より、遣唐使や県遣随使の時代には、江戸へ移送した象は朝鮮へ渡来した筈ですので、享保7年虎吉日は徳川吉宗で1716年元年 たしか、お犬様時代だっかですので…
多分、唐人雑技団が来日して象を持ち込んでます♪記録的には不明確ですが,ペリー提督の浦賀からの話しでした。酒豪の虎と竜は、城飼での自慢話ですので… 酒造りの武田信玄の息子たちですから、酒豪ですよ♪

投稿: 赤髭先生 | 2014年9月 3日 (水) 01時55分

茶々さん
幾度もの書き込みコメントを御容赦を、
詳しく調べ、166年後の文化10年に徳川吉宗が,象が視たいとの事で、江戸時代最後の渡来した象だとか、豊臣秀吉の像はやはり、大阪城の堀から恐竜かと想われた出土したのは象ですね…
堀が埋め立てられて、後々に掘り起こしたのでしょうね!
今日も善い1日で在ります様に、おはよう御座います。 夜勤明けにて失礼を致します。(-.-)zzZ

投稿: 赤髭 | 2014年9月 3日 (水) 05時24分

赤髭さん、こんばんは~

秀吉時代の大坂城は未だ発掘中で全貌が謎ですが、そこへ10m以上の盛土でスッポリ覆って、まったく違う徳川の大坂城を建ててるわけですから、そう簡単に堀出せないような気がしないでもないです。
そもそも、白骨ではなく遺体ですし…

とは言え、そこは、妄想に次ぐ妄想でキリが無いですね(*^-^)

イロイロなお話、ありがとうございました~

投稿: 茶々 | 2014年9月 4日 (木) 01時05分

茶々さん、
もし、藤吉郎ならば、大阪城で巨大な象を埋葬するのに、何処へ埋めるかな? 頭の善い殿様なら、食肉とはせず、遺体ならば臭いも凄い筈ですので… 城の外堀へ落として、海辺が近い為、魚や海老の餌に成るかと思いますよ、
また、徳川の殿様は権力を示す為、大阪城を広げる為に、外堀を広げて、象の落ちた堀は埋め立て回廊にするでしょうね。仮に、蝦夷地の制覇で持ち帰った北海道からの道産子を身体の小さな秀吉なら、戦陣に立てる権力を誇示する為に道産子の馬も巨大ですので、食肉として、骨は古い堀へ落として、大阪城の拡張工事で埋め立てるかと思いますよ♪
¢(^O^) 日本へ象は船舶の荷卸に掻かせない労働力ですから、頻繁に渡航者が持ち込んでますよ、

投稿: 赤髭 | 2014年9月 5日 (金) 01時28分

赤髭さん、こんにちは~

徳川の大坂城は、豊臣時代よりも石垣や天守を高くしましたが、二の丸までしか構築してないので、広さは豊臣の大坂城のほうが、徳川の約4倍くらい広いです。

道産子はポニーくらいの大きさで、そんなに巨大では無いです。
ばんえい競馬の馬をご想像なさっているのかも知れませんが、あれは、ばん馬という別の種類で、明治の開拓時代に産業馬としてフランスだったかイギリスだったかから輸入された馬の子孫たちだと思います。

あと、象に関しては、文化十年の象は入国が許可されずに長崎の港から返されてしまっているので、上陸したのは(先にも書かせていただいた通り)、近現代を除いては享保の時代が最後だと思っていましたので、その後も「頻繁に渡航者が持ち込んでいる」という記録があるなら、ぜひ、くわしく見てみたいです。
ソースなど、教えていただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2014年9月 5日 (金) 15時40分

茶々さま、北海道の馬は生息地で数種類在りますので… 私の言う巨大馬は農耕馬 大きさは背丈3m.足は太くて黒い毛並みですので…サラブレッドは小さく見えるかも、今の道産子と言う小馬は改良種類で北海道の生まれた馬を道産子と謂いますので… 中国はモンゴルの小さい馬と同じ種類になりますよ、数種類の馬が生息してます。野生種の馬ですので…

投稿: 赤髭 | 2014年9月 6日 (土) 01時07分

茶々さん
現在は農耕馬も少なくなり、巨大馬は北海道でしか、自然環境で暮らせないので、もう、小い道産子しか居ないかも知れませんね! 野生種は捕獲禁止されてますから、野生種は気の荒い馬で、人が飼い慣らす事が難しく、寒い環境でしか暮らせない馬でした。
また、象の日本への渡航と海外交易は今は東京都の徳川資料館しか無いですので、閲覧は難しいですよ、

投稿: 赤髭 | 2014年9月 6日 (土) 01時55分

赤髭さん、こんばんは~

先のコメントに
>道産子の馬も巨大…
と書かれていたので勘違いしてしまいました。
申し訳ないです。

そうですね。
北海道の…というより、日本の在来種は皆小さいですからね~
だからこそ、外国の馬を見た開拓使次官の黒田清隆が「これでは外国に太刀打ちできない!」として、慌てて外国の馬を輸入して、軍隊や農耕用に繁殖させたくらいですから…

>東京都の徳川資料館
というのは、場所はどこになるのでしょうか?
検索しても出て来ないので、住所等教えていただければありがたいです。

最近の博物館や大学等では、蔵書がネット上で閲覧できたり、図録が通信販売されていたりするので、ちょっと期待していたんですが…そうですか、難しいのですか~残念!
赤髭さんは、どうやって…展示会か何かですか?
それとも、「見せて」と言うと「ハイ!」と見せてもらえるスゴイ先生だったりして…o(^ー^)oワクワク

投稿: 茶々 | 2014年9月 6日 (土) 03時28分

茶々さん
外来種の特徴は、環境で左右されますので、国家の政策次第は古今東西に共通かな… もっとも、日本種馬は小さく、サラブレッド系の群馬県の馬もまた、小柄ですので、
ただ、育て方も環境次第でしか無いですので、
競走馬は体力は無いですよ、武将が鎧を着て長期間の闘う馬では無いので、中世ヨーロッパの馬もまた、競技場でしか、鎧を着ての乗馬は数分間しか保ちませんでした!
戦略輸入も、日本の環境では難しく、北海道での馬は極寒地でしか生きられません。秀吉の大阪城では暑すぎたのでしょうね…
以前は日本領土でしたが今は、ロシア領土ですから、動物愛護の団体が保護した数十頭しか生息してませんよ、種族維持の為に農耕馬では個人所有は出来ません。北海道でも数頭しか居ないかも知れませんね!
展示会や馬の競売には非売品、
イヌイット族が改良腫で育てた馬が農耕馬として現在まで、動物愛護保存してるかも知れません、久しく見てませんので…今は、個人所有は禁止されてますよ、野生種ですので、
馬の競売は北海道で生まれた馬で鬣が長い子馬を道産子と呼んでますね.
イヌイット族の祭りでの農耕馬は小型の道産子でしょうね、多分、

投稿: 赤髭 | 2014年9月 6日 (土) 22時30分

赤髭さん、こんにちは~

そうですか…
イロイロあるのですね~
よく、わかりました。

投稿: 茶々 | 2014年9月 8日 (月) 14時15分

日本にはオオサンショウウオという巨大両生類がいたのを忘れておりました。ただし
・目はちっちゃい
・脚がイラストのようにまっすぐ下に伸びていない。横向きについている。(絵が恐竜に見えるのは脚がまっすぐ下に伸びているからだ)
・学者から奉公人にまで意見を求めれば、誰かしらオオサンショウウオを知っている人がいそうな気がする。
・ふつうは1メートル前後。こんなに巨大になるのか?なぜ大阪城のお濠で死ぬのか?
…なんだかわからなくなってまいりました。

なお、横ですがタニストロフェウスは中生代の爬虫類で首が全長の3分の2ほどもあります。6メートルもありますが分類上は恐竜ではありません。水生らしいので大阪城の堀にはふさわしいかも。

投稿: りくにす | 2015年1月 3日 (土) 15時51分

りくにすさん、こんにちは~

ホント、
あれかな?これかな?
と妄想は尽きませんね。

こういう一件は、考えるのが楽しいです。

投稿: 茶々 | 2015年1月 3日 (土) 18時25分

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