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2014年6月26日 (木)

加賀騒動~大槻伝蔵の無念

 

延享五年(1748年)6月26日、加賀藩の第7代藩主・前田重熙への毒殺未遂事件が発覚しました。

・・・・・・・・・・・

伊達騒動(3月27日参照>>)黒田騒動(3月2日参照>>)と並んで、江戸時代の三大お家騒動の一つに数えられる加賀騒動です。
(三大騒動の中に仙石騒動(12月9日参照>>)が入る場合もあります)

Ootukidenzou500 この騒動の中心人物は大槻朝元(おおつきとももと)・・・

通称を伝蔵(でんぞう)と言い、祖父の代から、足軽身分で前田家に仕えており、彼自身は、後に加賀藩の第6代藩主となる前田吉徳(まえだよしのり)御居間坊主として仕えます。

ちなみに、この御居間坊主というのは、お世継ぎ坊ちゃんの身の回りの世話をする人・・・ただし、身の回りの世話をする人と言えば、よくご存じの小姓という少年たちがいますが、彼らは、ある程度身分の高い武士の息子などが多く、殿様(またはその世子)の側近として仕えて後に出世する出世コースの少年で、一方の御居間坊主の方は、その名の通り、世子の居間の道具などの準備したりする少年で、身の回りの世話をすると言っても、直接、その世子とは話をする事すら許されない・・・つまり、けっこう身分が低いわけです。

・・・が、享保八年(1723年)に第5代藩主の綱紀(つなのり)が隠居して、その息子の吉徳が藩主となると、伝蔵は還俗して武士の身分となり、藩主・吉徳の側に仕え、ここからメキメキ出世するのです。

というのも、ご存じのように加賀藩は、加賀百万石と称される大きな藩・・・その大きな藩の財政を維持していく事は大変な事ですが、ここのところ出費が重なり、それが、かなりキワドイところまで来ていたのです。

しかし、前田家中には名門八家(本多氏(筆頭)・長氏・横山氏・前田対馬守家・奥村河内守家・村井家・奥村内膳家・前田土佐守家)という家老に就任できる資格を持つ譜代の重臣たちがおり、それまでは、藩主よりも、むしろ彼らが政治を動かしていたわけで・・・

で、ここに来て、藩主自らが腕をふるって藩政の改革に乗り出したのが先代の綱紀で、新たに藩主となった吉徳も、その父の意思を引き継いで自ら政治を行うとともに、その手足となってくれる新たな人材を抜擢・・・こうして吉徳に重用されたのが伝蔵だったわけです。

藩主の期待に応えるがの如く、伝蔵は、火消し役に命じられれば足軽勢を率いて見事に防ぎ、物頭並から組頭並へ・・・さらに、大坂にて米相場や銀を利用して多大な利益をもたらし、100%とは言えないまでも、藩の財政を何とか持ち直させた功績により、寛保元年(1741年)には、ついに、家中でも名門にしか許されていなかった人持組に大出世したのです。

ところが・・・

延享二年(1745年)6月に、彼を厚遇してくれた吉徳が死去・・・息子の宗辰(むねとき)が第7代藩主になると、その翌年にいきなり、「吉徳への看病や、その病状の通達に不備があった」と訴えた前田直躬(まえだなおみ)らの弾劾状が提出され、何の詰問も無いまま、伝蔵は蟄居(謹慎処分)を命じられてしまいます。

さらに、そんな中で、その宗辰が、わずか1年半の藩主生活&22歳の若さで病死・・・

ここに毒殺説が浮上した事で、宗辰の後を継いで第8代藩主となっていた異母弟の重煕(しげひろ)は、延享五年(1748年)、伝蔵の家禄を没収し、越中(富山県)の五箇山への流罪としたです。

そんなこんなの延享五年(1748年)6月26日藩主・重煕への毒殺未遂が発覚・・・さらに続く7月4日には、重煕の生母である浄珠院(じょうじゅいん)への毒殺未遂も発覚してしまいました。

その後まもなく、実行犯として浅尾という奥女中が逮捕されるのですが、この彼女が「亡き吉徳の側室であったお貞の方(真如院)が、自分が生んだ息子=利和(としかず=吉徳の三男)を藩主につかせたいとして画策した物」と自白するのです。

さらに、それを受けてお貞の方の部屋を捜索すると、なんと、不義密通を臭わせる伝蔵からの手紙を発見!!

つまり、我が子に藩主を継がせたいと思ったお貞の方に、密通相手の伝蔵が近づいてそそのかし、浅尾を使って、お家転覆を謀ったと・・・

結果、浅尾は死刑、お貞の方は終身禁固刑となり、その話を流刑先の五箇山で聞いた伝蔵は、自害して46歳の命を散らしました。

・・・とまぁ、これが加賀騒動と呼ばれる事件の大まかな流れなわけですが・・・お察しの通り、現在では、刑を受けた彼らのした事のすべてがでっち上げだと言われています。

冒頭にご紹介した通り、江戸の三大騒動の一つとされる加賀騒動ですが、他の二つ=伊達騒動も黒田騒動も、その真偽を確かめるために幕府が介入していますが、この加賀騒動だけは幕府が介入していません。

つまり、第三者的な立場からの記録は一切なく、記録のすべてが伝蔵らに処分を科した側=前田直躬ら側の言い分で、しかも、浅尾やお貞の方への詮議の内容も曖昧で、証拠であるはずの不義密通の手紙の中身も、実際には、はっきりとしないのです。

しかし、そんな中で、「お家転覆」「毒殺未遂」「不義密通」なんていう衝撃的で庶民受けしそうなキーワードが並んだ事で、またたく間に事件についての実録本が出され、小説が出され、お芝居になり・・・と話ばかりが独り歩きし、中には、浅尾に執行された死刑が、数百匹もの毒蛇を入れた穴に全裸の浅尾を押し込める「蛇責め」だったなんて話も付け足される始末・・・

当然ですが、小説やお芝居の場合は勧善懲悪でないとウケないため、物語の中では伝蔵は悪の権化、前田直躬は加賀百万石を救ったヒーローとして描かれます。

この前田直躬という人は、加賀藩の藩祖である前田利家×まつさんの次男=利政から数えて5代目の子孫で、先に書かせていただいた加賀藩の名門八家の一つ=前田土佐守家の人で、彼に同調して伝蔵を追いやった人たちは、皆、それらの名門家の人々・・・

この直躬さんは、そのメモ書きに
(伝蔵は)足軽の三男で、性格は悪いし淫乱やし大酒飲みのくせに、俺らと同等やと思てけつかる!」
なんて事を書き残しているとか・・・

そう、彼ら名門家にとっては、藩主に気に入られて出世した新参者の伝蔵はうっとうしくてたまらなかったのでしょう。

上記の通り、ちゃんとした記録が残っていないので、どこまでが事実なのか曖昧な話ではありますが、『見語大鵬撰(けんごたいほうせん)には、こんな逸話が残っています。

ある時、加賀国石川郡の百姓たちが、庄屋頭の与三右衛門の家を打ち壊し、駆け付けた捕り手の役人にも抵抗するという事件があり、藩主の吉徳を含めた重臣たちで対策会議を開くのですが・・・

この時、名門八家の一人である本多安房守は、
「この加賀は、昔、一揆によって守護の富樫政(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ(6月9日参照>>)場所でっせ。
これは、大人数で現地に行き、徹底的に抑え込まんとあきません」

との意見を言いますが、
一方の直躬は、
「それは、戦国時代の事ですやん。
今、この時代に、百姓ごときに大勢で…てのもなぁ。
まして、百姓と言えど、必死のパッチで向かって来たら、こっちもケガ人出るし、とりあえず役人を解雇して様子見るとか…」

重臣たちの話を聞いた吉徳は、
「こんなんほっといたら藩主の威厳もクソもあったもんやない!
弓隊も出して完全武装で行って鎮めて来い!」

と怒り心頭で、一旦は兵を出す方向に傾くのですが・・・

そこへ伝蔵が
「末席から失礼します…」
と進み出て、

「こんな事に完全武装で行くのもどうか…と思いますし、かと言って捨て置いても殿の威厳にかかわりまっさかいに、ここは一つ、僕が一人で話つけて来ます」

と言うが早いか、草履取り一人だけをお供に現場に向かいます。

迎える百姓たちは、おそらく、完全武装の大軍が鎮圧に来るものと予想し、死ぬ覚悟で身構えていましたが、やって来たのは伝蔵一人・・・

そして
「君らの言い分を、必ず上にあげるから、ここらへんで納めてくれへんやろか」
と切り出して話を聞き、
「なら、その悪い役人を必ず処分するから…」
と百姓たちをなだめ、
「かと言うて、これだけの騒ぎを起こしとしてお咎め無しってわけにはいけへんから、悪いけど、くじ引きで何人か代表者出してくれるか」
と言って、代表者15名を連れ帰り、一揆を鎮圧してしまったのです。

結果、15名の代表者は死罪となりますが、一方の役人にも追放処分を言い渡した(これは表向きだけで実際には大した処分では無かったようですが)ので、残った百姓たちから文句が出る事もなく、一件略着となったのだとか・・・もちろん、吉徳さんの怒りも収まり、ゴキゲンを取り戻します。

藩主の目の前で、重臣たちが右往左往する中、末席から進み出て、たった一人で事を納めてしまう・・・これを、サラッとやられちゃぁ、重臣たちの立場が無いわけで・・・

そんなこんなの不満がたまった末、でっちあげの追い落とし・・・

伝蔵にとっては、さぞかし無念の自刃で、その上に小説やお芝居である事無い事付け足されて汚名を着せられちゃぁ、更なる無念であった事でしょう。。。
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2014年6月18日 (水)

2日連続で秀吉から出された二つの『切支丹禁止令』

 

天正十五年(1587年)6月18日、豊臣秀吉が『天正十五年六月十八日付覚』を発布しました。

・・・・・・・・

ご存じの豊臣秀吉による『切支丹禁止令』あるいは『バテレン追放令』というヤツですが、一般的に『切支丹禁止令』『バテレン追放令』という場合、天正十五年(1587年)6月19日に発布された『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)の事を指しますが、以前、このブログでもお話させていただいた通り(2007年6月19日参照>>)、秀吉は、その前日=天正十五年(1587年)6月18日にも文書を発布しており、『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の中に、この6月18日に発布した『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)内容も含まれる場合もあります。

そもそもは、江戸の昔より周知の存在だった長崎の松浦家に伝わる『松浦文書』(6月19日の分です)があった中で、昭和の初めに伊勢神宮神宮文庫から『御朱印師職古格』なる物が発見され、その中に『天正十五年六月十八日付覚』と言われる6月18日発布された11カ条の覚書があり、以来、連続で出されたとおぼしき二つの文書の関係を巡って、様々な研究がなされて来ました。

  • 秀吉の気持が短時間で寛容な対応から厳重注意に変化したため連続して出され、18日の分ではキリスト教の信仰に制限を加えるという通告をし、19日の分でそれを取り締まる事を明記したのでは?
  • 二つの文書は、18日分は上方(畿内・近畿地方)、19日分は九州と公布の対象が違っていたのではないか?(前者が伊勢、後者が長崎で発見されている)
  • 18日の分が基本法で19日の分が追加法なのではないか?
  • 18日の分は一般庶民への国内向け、19日の分はイエズス会の宣教師など外国人向けに発布したのでは?

などなど・・・もちろん、歴史研究は日々進化しますので、上記以外の見方もあるでしょう。

また、わずか1日の差で微妙に違う二つの文書・・・そこに、何があったのか?については、先の2007年6月19日のページ>>にも書かせていただきましたが、もちろん、それは仮説の域を出ない一つの説であり、他にも様々な推理が成り立ちます。

・・・で、その19日に発布された『朱印』の内容についてはその2007年6月19日のページ>>でご覧いただくとして、このページでは、18日のぶんの11カ条をご紹介・・・

  1. 伴天連門徒之儀者、共著之心次第たるべき事。
  2. 国郡在所を御扶持ニ被遣侯を、其知行中之寺請百性(姓)以下を、心さしも無之処、押付而給人伴天連門徒ニ可成由申、理不尽ニ成侯段、曲事候事。 
  3. 其国郡知行之儀、給人ニ被下僕事ハ、当時之儀ニ候、給人は替り候といへとも、百性(姓)ハ不替者ニ候条、理不尽之儀、何かに付て於有之者、給人を曲事被仰出侯間、可成其意侯事。 
  4. 弐百町二三千貫より上之者、伴天連ニ成侯おゐてハ、奉得、公儀御意次第ニなり可申事。
  5. 右之知行より下を取候老ハ、八宗九宗之義侠間、其主l人宛ハ心次第可成候事。 
  6. 伴天連門徒之儀ハ、一向宗よりも外ニ申合侯条、被聞召侯、一向宗其国郡ニ寺内を立、給人へ年貢を不成、 加賀国一国門徒ニ成侯而、国主之富樫を追出、一向宗之坊主もとへ令知行、共上越前迄取侯而、天下之さわりニ成侯義、無其隠之事。
  7. 本願寺門徒、其坊主天満に寺を立させ、錐免置侯、寺内ニ如前々ニハ、不被仰付候事。 
  8. 国郡又は在所を持侯大名、其家中之者共、伴天連門徒ニ押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内空止しよりも太不可然義侠問、天下之さわりニ可成侯粂、其分別無之老ハ 可被加御成敗侯事。
  9. 伴天連門徒心さし次第ニ下々成侯義ハ、八宗九宗之義侯間、不苦辛。 
  10. 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
  11. 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

ちょっと長くてややこしいですが・・・
要するに、加賀で起こった一向一揆(2010年7月26日参照>>)を例にあげ、キリシタン大名が強制的に改宗を迫ったり、理不尽な事をするのさえ無ければ、下層の武士や一般庶民がキリスト教を信仰する事は「心次第たるべき」=思い通りにしてイイヨ、というのが1~9までに書いてある・・・

なんせ、秀吉が自身で言ってるように、自分も京都に大仏建立の計画を立てたり(2011年7月26日参照>>)、本願寺に土地を寄進したり(1月19日参照>>)するような人ですから、それらの神道や仏教への信仰と一緒に、キリスト教の信仰も統合してしまおうという考えなので、限度をわきまえて信仰するならOK!というのがこの『天正十五年六月十八日付覚』の主旨だと思われます。

しかし、先にも書いた通り、翌・19日に発布される『松浦文書』では、一転、キリスト教排除へと転換するのです。

そんな中で、今回のこのページで注目したいのは、19日の分には一切登場しない、『天正十五年六月十八日付覚』の10条と11条・・・

実は、この天正十五年(1587年)の春、秀吉が、当時、日本イエズス会の副管区長をやっていた宣教師=ガルパス・コエリヨに会見した際に、複数の質問を投げかけている事が、イエズス会の記録やルイス・フロイス『日本史』に見えます。

  • なんで?ポルトガル人は大勢の日本人を買い、奴隷として連れて行くのか? 
  • 牛馬は、人間の力仕事を手伝うてくれる有意義な動物やのに、それを食べよっていうのがワカランわ~

まさに、この10条&11条の内容です。

まぁ、11条に関しては、食文化の違いですし、すでに食べちゃってる平成の私たちには、単なる習慣&価値観の違いによる物としか言いようがありませんが、肝心なのは10条・・・そう、人身売買です。

これに対するコエリヨの返答は、
「日本人が売るから買うんです。
僕ら宣教師は、この事を大いに悲しんでて、何とか防止しよ思てるんですが、力不足で…
殿下
(秀吉の事)がお望みでしたら、各地の大名に、売る事を禁止して、違反した者に重い刑を科したらよろしいねん。
ほたら、誰も売りませんし、売る者がいてなければ買いもしませんがな」

と・・・(なんか「物も言いよう」てな返答のような気がしないでもない)

ずいぶん前に書かせていただきましたが、天正九年(1581年)に織田信長に謁見したヴァリアーノ神父が黒人奴隷を連れていて、その彼を気に入った信長が、その黒人さんをもらいうけ、弥介という名で従者の一人に加えて、ずいぶんと可愛がっていたというお話・・・(2月23日参照>>)

この時代、宣教師と言えど、奴隷を連れている事は珍しくない時代で・・・実は、1454年当時のローマ教皇=ニコラス5世が自ら
「この状態(奴隷になった状態)神の恩恵である」
的な発言をしているとか・・・

つまり、「異教徒ある彼らが、奴隷として長期に渡ってキリスト教の国に住む事で、いずれキリスト教信者になれば、それは彼らにとって良い事なのだ」てな事らしいです(10月12日参照>>)

これは、同時期にヨーロッパへと派遣された天正遣欧少年使節(6月20日参照>>)の彼らも、日本人が奴隷として海外に売られる事に関して、同じような事を言っているので、やはり、それが、この時代のキリスト教側の考え方で、キリシタン大名たちの多くも、そのような考えていたのかも知れません。

Toyotomihideyoshi600 しかし、秀吉には許せなかった・・・
いや、けっこう怒ってはります。

かの『日本史』によれば、この時、秀吉は
「これまでに外国へ売られた日本人を、君らが連れ戻してくれへんやろか?
もし、それが、距離的に難しい事やねんやったら、せめて、今現在ポルトガル人が購入した日本人奴隷をすぐに釈放してくれ。
商人が彼らを購入した費用は、全部、俺が出すさかいに…」

と言ったのだとか・・・

しかし、それに対する宣教師の返答も
「いや、せやから、僕らも心痛めてますねん。
幸いな事に、この状況は未だ九州のみで、畿内や関東まで広がってません。
根本的な解決は、やはり、殿下が、大名たちに禁止を勧告する以外に無いと思います」

という先の回答と似たり寄ったりな物・・・

実は、秀吉が平定する以前は、島津大友に代表される武将たちによる戦乱に明け暮れた九州地方では、いわゆる「乱取り」という名の略奪行為が行われ、捕虜として確保された一般領民たちが、その後に海外に売られて行く・・・という現状がありました。

いや、九州だけでなく、乱取りは日本各地であった行為でした(10月2日の後半部分参照>>)

なんせ、殿様クラスの武将なら、合戦で領地を増やして、それを自分のモノにする・・・という勝利後のお得がありますが、下っ端の足軽や、まして、普段は農業やってる百姓兵なんで、乱取りでもしないと、命がけの合戦に出ても、何も得る物が無いのが戦国の現実ですから・・・

しかし、秀吉の考えは少し違っていました。

戦いに勝利して奪い取った土地が、たび重なる合戦によって荒れ果てているにも関わらず、その土地に住む者まで略奪して売り飛ばしたら、誰がコメを作るんだ?
てな事です。

まさに、武士では無い秀吉ならではの考え・・・なので、上記の人身売買への秀吉の怒りも、純粋に人道的な観点からの中に、商人的な損得勘定がプラスされた物なのかも知れませんが、とにもかくにも、秀吉にとっては、合戦に勝利したあかつきには、そこに住む領民もろとも自分のトコに来てもらう・・・っていうのがベストだったわけです。

で無いと、マトモに年貢を徴収する事ができませんから・・・

この後、秀吉は、天正十六年(1588年)の8月に、肥後国(ひご=熊本県)の北と南を与えた加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)に向けて、
「豊後(ぶんご=大分県)の百姓や女子供が肥後に売られて行ったてな話を聞いたけど、見つけたら、すぐに連れ戻す事…(買い手による)拒否は許さんし、金も払わん。
買うた者は買い損やという事を知らせとけ」

という内容の書状を送っていますが、悲しいかな、禁止したらすぐに無くなるという物では無いというのも現状・・・

とは言え、秀吉の『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の発布の理由の一つには、ポルトガルやスペインによる日本占領の危機とともに、この人身売買禁止の一件もあったという事が、この6月18日付けの覚書によってわかるのです。

そして、18日と19日の間に「何か」があり、秀吉の気持が、統合から排除へと変わった・・・
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2014年6月15日 (日)

本能寺の後…明智秀満の湖水渡り

 

天正十年(1582年)6月15日、明智光秀の重臣・明智秀満が坂本城に火を放ち、残された光秀の妻子とともに自害しました。

・・・・・・・・・

左馬助(さまのすけ=左馬之助)の通称で知られる明智秀満(あけちひでみつ)は、もとの名を三宅弥平次(みやけやへいじ)と名乗っていた明智光秀(みつひで)の重臣ですが、その出自や前半生がほとんどわからず、他にも光春や秀俊など、複数の名前が残っている謎の人です。

そんな秀満が歴史の表舞台に登場するのは、主君である光秀が、そのまた主君の織田信長から丹波地方(たんば=兵庫県北部・京都府北部)の平定(1月15日参照>>)を命じられていた頃・・・

やがて天正六年から天正七年(1579年)にかけての、あの荒木村重(あらきむらしげ)摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県東南部)有岡城での謀反・・・

この時、光秀は、自らの娘が村重の息子に嫁いでいた縁から、有岡城に籠城する村重のもとへ、開城するよう説得に行く役目も果たしたわけですが、説得を聞き入れない村重は、逆に、光秀の娘を息子と離縁させて送り返して来たのです(10月16日参照>>)

・・・で、その離縁された光秀の娘を娶ったのが、今回の秀満さん・・・

おそらく、その事があって明智姓を授けられ、以後、明智秀満と名乗る事になりますが、その名前が、正式な文献に登場するのは、あの本能寺の変の直前・・・

娘を娶り、明智姓を授かった秀満が、丹波一国(10月24日参照>>)を任されて福知山城代となっていた事を思えば、光秀からの信頼もかなり篤かったと思われ、天正十年(1582年)6月2日の、あの本能寺の変(6月2日参照>>)では先鋒を努めて大活躍しました。

変の後に、安土城に派遣された秀満は、その安土城の守りを固めるとともに、近江(滋賀県)の平定に尽くす事になりますが、その間に・・・

そうです。

信長の命令で中国地方を平定していた(6月4日参照>>)羽柴(後の豊臣)秀吉が、奇跡の如き中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に戻り、あの山崎の地にて弔い合戦・・・光秀は敗北して逃走します(6月13日参照>>)

安土にて、この知らせを聞いた秀満は、光秀を救うべく、安土城を出て、琵琶湖の東岸を京都へ向かいますが、途中で、光秀が山科小栗栖(おぐるす)にて討たれてしまったとの一報・・・

やむなく、「それならば坂本城へ…」と、粟津から大津へと向かっていたところで、秀吉軍の堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)と遭遇・・・

多勢に無勢の秀満は、またたく間に本道を封鎖されてしまい、そこから先に進めなくなってしまいました。

すると秀満・・・いきなり、馬で湖水へと乗り入れ、琵琶湖をどんどんと泳いで行ったのです。

水際からは堀の兵士たちが
「ほれ、皆、ここから、アイツが溺れるところを見ようぜ!」
と岸に群がりながら笑い合います。

ところが・・・
白絹に狩野永徳の筆による雲竜を描いた羽織に、二の谷という兜をかぶり、大鹿毛(おおかげ)という名馬にまたがった秀満の姿は、沈む事なく湖水に浮かび、とうとう対岸の唐崎へ・・・有名な『左馬助の湖水渡り』です。

Aketihidemitukosuiwatari800
歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)

実は、長年坂本で暮らしていた秀満は、大津から唐崎まで、遠浅の場所を熟知していたのですね・・・そう、泳いでいるのではなく、浅瀬をを渡っていたのです。

こうして、なんなく唐崎浜にたどりついた秀満は、湖岸の一本松のところで、疲れた馬に気つけの薬を与えた後、しばらくは追って来る敵を監視していましたが、小休止の後、再び馬に乗って坂本城を目指します。

途中、十王堂という御堂の前で馬を下り、馬の手綱を御堂につないで、ササッと筆を取り、
「左馬助が湖水を渡った馬である」
と札に書いて、その馬のたてがみに結びつけました。

その後、坂本城に入った秀満は、光秀の妻子を天守に集め、逆に、安土からの戦利品であった宝物の数々を天守から投げ落とし、妻子たちを手に掛けた後、天正十年(1582年)6月15日城に火を放って、自らも自害をしたのです。

この時、秀満が身につけていた白絹の羽織と兜は、いずれも人手に渡るか行方不明となりますが、馬だけは無双の駿馬と讃えられ、後に、秀吉が賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)の時に、この馬に乗ったとされています。

と、本日は『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に沿ってご紹介させていただきましたが、細かな部分は文献によって諸説ありますので、そこのところはヨロシクです。

ちなみに、この秀満さんは、安土城に放火した犯人とも言われますが、私個人的には違うような気がしています(2010年6月15日参照>>)
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2014年6月 9日 (月)

幕末ニュース~大阪城の堀に恐竜がいた?

 

慶応二年(1866年)6月9日、 大阪城の堀から恐竜が発見されました!
残念ながら、すでに死んでいましたが・・・

・・・・・・・・・

と言っても、その記録に描かれた絵を見て、後世の私たちが、勝手に恐竜と言ってるだけなんですけどね(*´v゚*)ゞ

ただし、京都府立総合資料館に収蔵されている幕末期の記録『人のうわさ』という文書と、もう一つ『幕末風聞書留』(大國家文書)という二つの文書に、まったく同じ日付で同じ事が記載されていますので、文字通り「人のウワサ」とは言え、何かしらの生物の死体が、幕末の動乱真っただ中の大阪城の堀から発見された事は、おそらく本当の事なんじゃないか?と・・・

なんせ、この『人のうわさ』という文献・・・京都で代々続く旧家から発見されており、おそらく、当時京都に住んでいた久兵衛という町人の筆による物で、安政五年(1858年)から慶応四年(1868年)までの11年間に渡り、自ら見聞きした流行り歌や、巷の高札・張り紙の記録とともに、桜田門外の変(3月3日参照>>)長州征伐(5月22日参照>>)などの重要事件も、ちゃんと書き留めている物なのですから、

それこそ、一般町人が聞き及ぶ「ウワサ」がソースとは言え、その話が、まことしやかに囁かれていた事は、おそらく事実なのでしょう

Hitonouwasa400 ・・・で、その『人のうわさ』に描かれている、大阪城の堀から発見された生物のイラストがコチラ→

この絵・・・
ホラ!太古の時代にこの地球を闊歩していた恐竜の事を知ってる現代の私たちが見ると、つい「恐竜」と言ってしまうような、絵でしょ?

まさに「なんとかザウルス」の部類ですやん!

挿絵の横にある説明文には
「慶応二寅年六月九日朝明方大坂
御城内御堀より如此之もの出ル、早々
御城代江申上候之事
身丈 七尺壱寸
(約2.15m)
尾  四尺八寸(約1.45m)
廻り 六尺九寸(約2.09m)
足  三尺二寸(約0.97m)
手  二尺七寸(約82cm)
口  一尺六寸(約48.5cm)
目  三寸五分(約10.6cm)
とあります。

思ってた以上にデカイ!!
目が10cmは、ちと怖いかも

そして、もう一つの『幕末風聞書留』コチラ↓
Bakumatufuubunn600

こちらにも、
「但し死テ上ル  城代役所
一手 弐尺七寸
(約82cm)
一身丈七尺壱寸(約2.15m)
一尾丈四尺八寸(約1.45m)
一廻り六尺九寸(約2.09m)
一足 三尺弐寸(約0.97m)
一口 壱尺弐寸(約36.3cm)
一眼 三寸五分(約10.6cm)
目方弐拾五貫目有(約93.7kg)
慶応二寅六月
九日朝五ツ時半時
御城内南御堀より
上ル、早速
御上様へ御入覧之事」

と、発見された時間や場所まで、さらにくわしい解説が書かれています。

てか・・・100kg近くあったん??w(゚o゚)w
しかも、最後の
「御上様へ御入覧之事」って・・・

オイオイ、あの徳川家茂(いえもち)さん(7月20日参照>>)が見たのかえ?
このUMAを・・・

日付からして、すでに体調を崩してはった感あるけど、大丈夫やったんかいな?

とまぁ、記録を見てきましたが、おそらく、冒頭に書かせていただいた通り、恐竜では無い何かしらの生物の死体・・・

なんせ、つい何年か前にも「すわ!未確認動物発見か?」と言われたのが、すでに腐敗が始まっていたクジラだった・・・てな事が、この平成の世にもあるわけですから・・・

とは言え、太古の昔からひっそりと生きてきた恐竜が・・・なんて言うロマンも、やっぱり捨て難い・・・
なんとかザウルス=(大阪城なので)オッシーであってほしいなぁ~

もちろん、そうなると、日本最古の、あの鶴橋(つるのはし=猪甘津橋)(6月18日参照>>)に江戸時代に出没したという怪物との関係も気になるわけで・・・

いずれにしても、たとえ恐竜じゃなくとも、その意外な大きさは興味をそそりますね~

そんな大きな生物が、それまで1度も姿を見せずに、ずっと大阪城の堀に住んでいたのでしょうか?・・・

もしかして、太閤さんの大坂城を埋められたはらいせに、豊臣の生き残りが刺客として放った凶暴なカミツキガメが250年間の太平の世を生き抜いていたとか・・・

天王寺のドロ亀が谷町筋を北上して住みつき、お堀の主となったとか・・・

いやぁ、妄想はつきません(*´v゚*)ゞ
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2014年6月 6日 (金)

母里太兵衛友信~これぞ真の黒田武士

 

元和元年(1615年)6月6日、黒田官兵衛・長政父子に仕え、黒田二十四騎黒田八虎随一の豪傑とうたわれた母里太兵衛友信が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

母里友信(もりとものぶ・ぼりとものぶ)・・・通称を太兵衛(たへい・たひょうえ)と言います。

そう、今年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」で、イケメンもこみち君がやってる役ですが、実は、この通称の太兵衛は彼の意志を継ぐ2代目からの通称で、友信本人は生涯・多兵衛の表記だったなんて話もありますが、太兵衛が有名で、ドラマでも太兵衛なので、本日は太兵衛さんと呼ばせていただきます。

Moritaei600 ちなみに、徳川秀忠から彼に宛てた手紙に「毛利友信へ」と誤記されていた事から、将軍に気を使って一時だけ毛利姓にした事もあるので、毛利太兵衛と呼ばれる事もあります。

とにもかくにも、この太兵衛さん・・・その身長は六尺半(197cmくらい)を超す大男で、ヒゲが濃く、その風貌まんまの勇猛で頑固で激しい気性だったと言われますが、そもそもは、播磨国御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町御着)の城主だった小寺政職(こでらまさもと)に仕えた妻鹿の国人=曽我一信(そが かずのぶ)の次男として生まれました。

その後、14歳頃に同じく政職に仕えていた黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか=後の如水)(3月20日参照>>)のもとに出仕する事になりますが、時を同じくして、黒田家の側近だった尼子氏末裔の母里一族24名が青山の戦いで討死してしまった事から、太兵衛は母里家の名跡を継ぐ事になり、以後、母里太兵衛となります。

ただ、腕はたつけど、あまりに無鉄砲な太兵衛・・・その性格を心配した官兵衛が、重臣である栗山利安(くりやまとしやす=善助)義兄弟の契りを結ばせて、「何事も善助に従うように…」なんて場面もありましたが、官兵衛が、荒木村重(あらきむらしげ)有岡城に幽閉された一件(10月16日参照>>)の時には、善助らとともに、黒田家に忠誠を誓う起請文にも名を連ね、ともに危機を乗り越えました。

その後、官兵衛が心配した気性の激しさは良い方向に発揮され、中国(6月4日参照>>)&四国(7月26日参照>>)の平定でも常に先陣を切って大活躍・・・九州攻め(4月16日参照>>)では、豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)宇留津(うるつ)攻めにて一番乗りの功名を挙げ、戦後、官兵衛に豊前を与えられた時には、太兵衛も6,000石を拝領し、黒田家の家老に就任しました。

そんな太兵衛の豪快さを大いに気に入った豊臣(羽柴)秀吉から、「直参の家来にしたい」とのラブコールを受けながらも断り続け、あの朝鮮出兵の時には、その秀吉から15本もの槍を拝領したのだとか・・・

その期待に応えるがの如く、文禄&慶長の役でも、官兵衛から家督を譲られた息子の長政(ながまさ)に従い、戦いでは先手を努めて大活躍を果たしたのです。

やがて、秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦いの時には、太兵衛は官兵衛と行動をともにし、九州の関ヶ原と呼ばれる大友義統(よしむね)との石垣原の戦い(9月13日参照>>)へ・・・

その後、慶長八年(1603年)に、長政が筑前(ちくぜん=福岡県西部)52万石に加増された事に伴い、太兵衛は鷹取城代となって1万8,000石を領した後、元和元年(1615年)6月6日に、おそらく60歳前後(生年がはっきりしない)で、その生涯を終えたのです。

と、ここまで、太兵衛さんの生涯を追って参りましたが、母里太兵衛と言えば、やっぱり、あの逸話です。

そう、
♪酒は飲め飲め~飲むならば~♪でおなじみの民謡・黒田節の基となった福島正則(ふくしままさのり)との酒飲み対決!!!

時は文禄&慶長の役の小休止の頃・・・京都の伏見城に滞在していた正則のもとへ、黒田家からの使者として向かった太兵衛・・・

ご存じの通り、正則はあの『賤ヶ岳の七本槍』(4月21日参照>>)にも数えられた豪傑で、その豪快さゆえに、酒の量もハンパない酒豪ぶりだったわけですが、実は太兵衛も、かなりの酒豪・・・

その噂を耳にしていた正則は、その酒豪ぶりを確認してみたかったのか?訪れた太兵衛に、大きな盃を渡して、
「これで、一杯飲めや!」
と、お酒をすすめます。

「いや、今日は主君の使者として訪問させていただんで…」
と、断る太兵衛に対して、すでに酔っぱらっていた正則は、その勢いで
「なんや!黒田のヤツは皆、腰抜けか?この盃を飲み干したら、何でも、好きな物やるのにな~」
と、つい・・・言っちゃった。

「黒田は腰抜け」と言われちゃぁ、太兵衛も黙ってられません。

「ならば…」
と、またたく間に、その大盃を飲み干し、見事、望み通りの『日本号』という名槍を正則からせしめるのです。

この時、酔いに任せて
「武士に二言は無い」
として、望む槍を太兵衛に与えたものの、しらふになった正則は、後日、慌てて
「返して~~」
と泣きつきます。

なんせ、この『日本号』は、正則が秀吉から拝領した福島家の家宝ですから・・・が、時、すでに遅し・・・太兵衛はガンとして返さなかったのだとか・・・

♪これぞ、まことの黒田武士♪
と、後の藩士たちに、今様風のメロディに乗せて語り継がれていたのが、現在の黒田節になったとの事・・・

いやぁ、見事、呑み取りました~
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2014年6月 1日 (日)

「秋田蘭画」を誕生させた佐竹義敦と小田野直武

 

天明五年(1785年)6月1日、出羽国秋田藩の第8代藩主・佐竹義敦が死去しました。

・・・・・・・・・・

東北の雄として戦場を駆け巡ったあの佐竹義宣(よしのぶ)(1月25日参照>>)に始まる出羽国(山形県・秋田県)秋田藩(久保田藩とも)・・・第7代藩主だった父=義明(よしはる)の死を受けて、息子の佐竹義敦(さたけよしあつ)第8代藩主となったのは宝暦八年(1758年)の事、わずか10歳の若き藩主でした。

しかし、彼が藩主となった時期は、宝暦の大飢饉の真っただ中で農地は荒れ果て、藩政不安による藩内のゴタゴタも起き、藩の財政は崩壊寸前・・・参勤交代もできないほどの困窮ぶりだったと言います。

そんな中で、若き藩主は、重臣たちの力を借りながらも、財政の立て直しに手腕を振るう日々を送ります。

そんな義敦の趣味が絵画・・・いや、それは趣味の域を超えた腕前で、「曙山(しょざん)という立派な画号を持つ狩野派の絵師でもあったのです。

そんなこんなの安永二年(1773年)、彼は、都会からやって来たマルチな天才に出会います。

その人は、あの平賀源内(ひらがげんない)・・・いや、出会うというよりは義敦が源内を呼んだんですけどね。

それは、ひっ迫した藩の財政を立て直す手段の一つとして、当時は採掘量が激減していた阿仁(あに)銅山(秋田市)の再建・・・この数年前に、秩父の中津川で鉱山開発を行って、石綿を発見していた源内に、その阿仁銅山の復活事業におけるノウハウを指導してもらうために招いたのです。

この頃の源内は、すでに江戸に長崎に大坂に京都に・・・という最先端の場所で、様々な教養を身につけており、10年前の宝暦十二年(1762年)には、江戸で「東都薬品会」なる物産会を開催し、その出品物を解説した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)なる書物も刊行し、マルチな天才として、かなりの有名人になっていたわけで・・・(ちなみに、あのエレキテルは、この3年後です)

呼ばれて飛び出て秋田へと赴いた源内は、しばらくの間、銅山の調査した後、その帰りに、ある事を義敦に願い出ます。

それは、義敦の部下である秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ)を江戸に連れ帰る事・・・

実はこの直武さん・・・義敦に絵を教えた先生でもあったわけですが、滞在中に彼の絵を見た源内が「なんて。繊細な絵を描くんだ!!」と感動し、「是非とも江戸に連れて行きたい」と・・・

Sinobazunoike800 こうして、3年間の約束で江戸にやって来た直武は、源内と親しかった杉田玄白(すぎたげんぱく)『解体新書』(3月4日参照>>)の付図を描いたのを手始めに、諸国の物産図など、精巧な図が要求される場面で、その手腕を大いに発揮しました。

かくして3年の約束が4年に伸びた安永六年(1777年=安永八年とも)、秋田に戻った直武は、お久しぶりの義敦に、源内が刊行したかの『物類品隲』を、お土産として手渡します。

思わぬ手土産に大喜びで、その書物を読みふける義敦・・・実は、そこには油絵に使う絵具の製法が書かれていたんですね~

絵が大好きな彼にとって、未だ、未体験の西洋の油絵・・・夢中になるうち、いつしか義敦の描く絵画も油絵の画法を用いた物へと変化していき、直武とともに『画法綱領』『画図理解』など、本邦初の洋画論を展開する書物を執筆するまでになります。

こうして、秋田藩で誕生した西洋式日本画は「秋田蘭画」と呼ばれる事になりますが、その盛隆はわずかの期間でした。

そう、安永八年(1779年)、あの源内が、殺人で逮捕され、そのまま獄中で亡くなってしまったのです(11月21日参照>>)

その噂が秋田まで届くと、源内から直接教えを請うた弟子とも言える直武は、藩に留まる事ができず失脚(失脚の原因については異説もあります)・・・しかも、その翌年の安永九年(1780年)5月に急死してしまうのです。

直武を失った義敦は、絵画への情熱を失って心を閉ざし、失意のまま天明五年(1785年)6月1日38歳の若さでこの世を去りました。

何とも、悲しい最期ではありますが、ご安心を・・・

義敦の才能は、後を継いだ息子=第9代藩主・義和(よしまさ)に受け継がれ、直武の思いは、親しかった友人=司馬江漢(しば こうかん)(10月21日参照>>)に引き継がれて花開き、彼らの残した画法は、後の世に誕生する若き絵師たちに、大きな影響を与える事になります。
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