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2014年7月21日 (月)

兄弟・父子の連携で乱世を生き抜いた島津義弘

 

元和五年(1619年)7月21日、戦国時代から安土桃山時代にかけて、薩摩の島津氏を率いた武将・島津義弘が加治木屋敷にて85歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

ご存じ、九州は薩摩に君臨した島津四兄弟の一人の島津義弘(しまづよしひろ)・・・すでに、それぞれの場面で、何度もこのブログに登場しているお人ではありますが、本日はご命日という事で、その生涯をたどってみたいと思います。

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Simaduyosihiro600a 悲願だった鹿児島奪回を果たして、薩摩大隅日向三州の統一を目指す薩摩(鹿児島県)の戦国武将・島津貴久(たかひさ)(5月23日参照>>)の次男として生まれた義弘は、はじめは、その父の後を継いだ兄=義久(よしひさ)を助けて各地を転戦する闘将&軍師のような役割で活躍します。

中でも有名なのは、天正六年(1578年)11月の耳川の戦い(11月11日参照>>)・・・豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)の手勢に包囲された高城を救うべく、奇襲をしかけたり、軍配者的軍師=川田義朗(かわだよしあき)(7月24日参照>>)の進言による作戦=『釣り野伏(のぶせ)で敵を翻弄したり(11月22日参照>>)の見事な活躍ぶり・・・

しかし、その後・・・
ここで負けた宗麟が、豊臣(羽柴)秀吉に救援を要請した(4月6日参照>>)事で、ご存じの九州征伐が始まります。

天正十五年(1587年)4月、圧倒的な兵力で攻める秀吉軍に、高城・根白坂の戦い(4月17日参照>>)で敗れた島津は、降伏を申し出、その後は、九州北部&中部を没収され、豊臣政権下での生き残りとなるのですが、個人的には、秀吉に降伏した後の島津兄弟の立ち位置が見事だと思っています。

実は、この時の降伏に積極的だったのは当主の義久で、次男の義弘と三男の歳久(としひさ)は最後まで反対していたとか・・・そこを、当主=兄である義久が押し切って降伏に持って行ったのですが、実際に秀吉側に降伏の話し合いをしに行ったのは四男の家久(いえひさ)

その家久が、秀吉の陣から戻ってまもなく体調を崩して亡くなってしまった事から、「毒殺された!」との不信感を抱いた三男の歳久は、以後、反豊臣的な態勢をとります。

一方、降伏に積極的だったものの、その後の義久は一歩退いた状態で、豊臣政権への協力は極力最小限で収めようとし、次男の義弘は、逆に、「豊臣政権に積極的に協力しなければ島津の存続はありえない」とばかりに奮闘するのです。

そう、見事な三人三様の立ち位置・・・おそらくは、この先の豊臣政権のあり様を見極めて、後々、誰を中心に据えて島津という船を漕いでいくかを模索してたんじゃぁないか?と・・・(個人の感想です)

なんせ、結局は実現しなかったものの、この頃の島津が、「僕らと手組んで、秀吉を倒してみぃひんか?」という提案をして来たという話が中国の『請計處倭酋疏(こうけいそわしゅうそ)という史料に書かれているとか・・・

そこには
「義久不得巳而佯為降順、其心未嘗一日忘秀吉也」
つまり
義久は、仕方なく秀吉に従ってるだけで、弟を殺された恨みは一日だって忘れた事無い」
てな事も・・・

これが本当なら、まさしく、機会を見計らって豊臣政権を倒すつもりでいた事になりますが、結局は、中国との交渉は、未だ実現しないまま、かの朝鮮出兵へ突入・・・この時、勃発したのが、例の梅北の乱(梅北一揆)(6月15日参照>>)

乱そのものは、わずかの期間で鎮圧されたものの、その責任を負って、義久は弟=歳久の首を秀吉に差し出さねばならず、島津の朝鮮出兵も大幅に遅れる事に・・・

ここで、目の前の情勢を読んだのか?義久は、当主の座を義弘に譲り(諸説あり)その義弘が、その朝鮮で八面六臂の活躍をする事で、何とか豊臣政権下での島津の立場を維持するのです。

その活躍ぶりは、それこそ、中国側の史料で「鬼石曼子(おにしまづ)と恐れられるほどでした。

やがて訪れた関ヶ原の戦いでは、徳川家康の依頼により、伏見城に入城して城将の鳥居元忠(もとただ)(8月1日参照>>)とともに伏見城を守るはずだった義弘・・・ところが、なぜか、元忠から入城を拒否られたために、なりゆきで西軍として参戦し、しかも、前日に義弘が提案した奇襲作戦を石田三成(いしだみつなり)に一蹴されて、もはや戦う気ゼロの状態での合戦突入。

西軍の敗色が濃くなって、死を覚悟する義弘でしたが、甥の島津豊久(とよひさ)や家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)(9月15日参照>>)らの犠牲の上に何とか戦場脱出に成功したのでした(9月16日参照>>)

とは言え、西軍として参戦した事で、負け組となってしまった島津・・・しかし、ここでまたまた、兄弟&一族による連携プレーが!!!

合戦の時には薩摩に留まっていた兄=義久が、義弘の現地での行動を叱責するとともに、すぐさま蟄居(ちっきょ=謹慎処分)させ、自らが先頭に立って、家康との交渉をのらりくらりと交わしつつ、最終的に、義弘の息子=忠恒(ただつね・後の家久)を上洛させて家康と謁見させ、その忠恒を次の当主とする事で、見事、本領安堵を勝ち取るのです(4月11日参照>>)

その後の義弘は、大隅(鹿児島県東部)加治木に隠居して静かな余生を送り、元和五年(1619年)7月21日85歳で亡くなりますが、一説には、かの家康が「自分の遺体を西に向けて葬るように…」という遺言を残したと言われるほど、徳川が警戒していた島津・・・

ご存じのように、250年に渡る徳川の時代に引導を渡すのは、この義弘の後を継いだ息子=忠恒さんの子孫という事になります。
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コメント

秀吉好きの人には悪いけど、三男の歳久に対する秀吉の振る舞いというか行いは酷いと思います。その話を知ったときは歳久が可哀想でちょっと涙が出ました。

投稿: | 2014年7月21日 (月) 15時24分

確かに、歳久が直接「梅北一揆」に関わっていたわけでも無いのに、反乱者の中に多くの家臣がいたからと言って、それも、兄に「弟を討伐せよ」との命令は、島津側から見れば、血も涙も無い言いがかりで討たれた感も拭えませんね。

ただ、家の当主が降伏を表明しているにも関わらず、歳久は秀吉に敵対する態度をとり続けていたですし、秀吉が九州征伐の帰路についた時には、「君の城で1泊させて」との申し出を断ったばかりか、秀吉側の使者を攻撃したり、家臣にニセの道案内をさせて山道へ誘い込んで攻撃し、秀吉の駕籠を射ぬいたりしてますよね?

たまたま警戒していた秀吉が、その駕籠に乗らずにいたから助かりましたが、時の関白に矢を放つという行為はなかなかのものではないかと…

それでも、秀吉は「当主の義久が降伏しているのだから…」と、その時の歳久の行為を許したんですが…
かと言って、やはり島津側からみれば、「行いは酷い」って事になるのかも知れませんね。

まぁ、その敵対する態度も、すべての責任をかぶって討たれるのも、歳久の島津内での立ち位置だったって事なのかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2014年7月22日 (火) 02時29分

実は、私は義弘が晩年を過ごし亡くなった加治木屋敷の隣にある鹿児島県立加治木高校の出身です。

確かに、特に義久&義弘は“凄い”&“面白い”兄弟だと思います。弟:義弘が出陣した関ヶ原の戦いには(意図的に!?)兄:義久は兵を出していないようです。確か、関ヶ原での島津勢の数はわずか1000人足らずだったように記憶しています。

関ヶ原の戦いの戦後処理がすごいです。
家康「なぜ西軍についたのか!」
義久「弟が西軍についているなんて知りませんでした。」
家康「一度上京せい!」
義久「病気のために上京できません。」「仮病ではありません。」
家康「何だと…(怒)」
義弘「旅費が足りません。」
と、こんな感じだったようです。

一方で、領内に113(?)の外城を作り、郷士に、対徳川の準備を固めたようです。

85歳とは当時としては長生きですね。波乱万丈の一生と言えると思います。

義久と義弘が違うスタンスで豊臣家に対応しているようです。弟の義弘は豊臣大名として島津家は生きていくしかない…それに対して義久は何というか…よく分かりません。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年7月22日 (火) 06時58分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

おっしゃる通り、島津兄弟は、それぞれの立ち位置で、秀吉に対しても家康に対しても、見事なかけひきで対応したと思います。

戦国武将の中でも義久&義弘は人気がありますね~

投稿: 茶々 | 2014年7月22日 (火) 14時03分

こんばんは。

義弘は良くも悪くも突っ走るタイプで、義久は距離を置いて見るタイプのようですね。この島津家のやり方は、幕末の長州を連想させます。正反対の二つを内包してすすめ、うまくいったほうを主流にする。もう一方も保険として残しておき、粛清はしない。この柔軟性が生き残りの秘訣だったのでしょうか。

投稿: タロベエ | 2014年7月22日 (火) 22時04分

タロベエさん、こんばんは~

>この島津家のやり方は、幕末の長州を連想させます。

ホントですね。
250年にわたる江戸の世で、その柔軟性のある生き残りの秘訣を温存させていたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年7月23日 (水) 04時02分

はじめまして。日本史ランキングなるもの、始めて知りました。斉藤一の生涯を読ませて頂き
ましたが、勉強になりました。ありがとうございました。今後も私みたいな不勉強な人間にも
解るよう更新頑張って下さい。拍手はしましたよ。では、また。

投稿: しろもも | 2014年7月23日 (水) 07時54分

しろももさん、はじめまして~

拍手ありがとうございますm(_ _)m

歴史を好きでは無い方にもわかりやすく…と思って書いております。
また、遊びに来てくださいませ。

投稿: 茶々 | 2014年7月23日 (水) 16時22分

関ヶ原の戦いの前、島津義弘は何度も本国の薩摩に兵と糧秣を至急に送るように催促をしています。個人的な意見ですが義弘は、西軍の武将として、徳川とはやる気まんまんだったとおもうのですが、本国からは兵も鉄砲も糧秣も送られてはきませんでした。

投稿: 浪速の影丸 | 2014年7月25日 (金) 21時16分

浪速の影丸さん、こんばんは~

おっしゃる通り、薩摩の義久は一歩退いた姿勢を貫きましたね。
義弘は、あの奇襲作戦を一蹴されるまでは、けっこうヤル気があったのではないか?と、私も思います。

投稿: 茶々 | 2014年7月26日 (土) 01時39分

義弘は(仕方なく、西軍側についた「あの奇襲作戦」)より前(開戦前)に…。

最初は、東軍側につこうとしたのか…伏見城の鳥居元忠に伏見城への入場を要請したとのことがあるようです。ただし、鳥居元忠に直接伝わっておらず、結果として入場を拒否された“史実!?”があるようです。
⇒ Wikipediaより

義弘(島津家)が、最初…東軍につこうと思っていたのか…時間軸が動いていくうちに西軍につくことになったのかよく分かりません。

「信念」みたいなものがあって、西軍or東軍につこうとしたのかさえ分かりません。ただ「お家の大事」なので、最後の最後まで…迷った(優柔不断)だったのか、それが戦略だったのか…。それさえ分からないことだらけです。

何と言っても、関ヶ原の戦いで事実上戦闘していないようなことも含めて、何を考えていたのか分かりません。…やっぱり「お家大事」の戦略だったのでしょうか。


茶々様、いかがでしょうか?

投稿: 鹿児島のタク | 2014年7月26日 (土) 18時45分

鹿児島のタクさん、こんばんは~

文禄元年には、協力して豊臣を倒そうかと計画していたとの噂があるくらい義久は家康と親しかったですし、会津征伐直前には伏見城の家康を義弘が訪ね、その際に伏見城の留守を、家康から任されており、そもそも、国許に兵と兵糧を催促するのは、この「家康から伏見城を任されたため」=「伏見城を守るため」の催促だったとされています。

しかし、本文にも書かせていただいたように、元忠からは入城を拒否され、国許の義久からは援軍も兵糧も断られ、しかたなく大坂に滞在していたところ、宇喜多秀家らの伏見城攻撃隊が大坂を出陣する事になったために(妻子が大坂城にいた事もあって)、その攻撃隊に加わったというのが一応の史実とされています。

この時には、後に寝返る小早川秀秋も、水面下で東軍との密約を交わそうと奔走していた吉川広家も伏見城攻撃隊に加わっていますので、優柔不断というよりは、大坂にいる限りは、そこに参加しなくちゃならないような状況だったのかも知れませんね。

ただ、なりゆきとは言え、西軍として参加した以上は「最善を尽くそう」と思っていたであろうと想像しますが、なにぶん手勢が少ないため、戦況がハッキリするまで動かずに見極めていたのではないか?と思います。

そして、負けが確定した時点で、決死の戦線離脱を決行したのではないかと…

投稿: 茶々 | 2014年7月27日 (日) 02時47分

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