寛永十年(1633年)7月14日、加賀百万石で知られる前田利家の次男・前田利政が、京都にて55歳で亡くなりました。
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前田利政(まえだ としまさ)は、あの前田利家(としいえ)とまつさんの間に生まれた次男・・・つまり、前田利長(としなが)の弟くんですね。
ご存じのように、親友として、天下人=豊臣秀吉をサポートし、その豊臣政権下では最も信頼されていた父=利家のおかげもあって、文禄二年(1593年)に能登国七尾城の城主となり、その後、慶長四年(1599年)には、父の隠居にともなって能登の所領を分与され、大名として七尾小丸山城に入りました。
しかし・・・これまたご存じのように、慶長三年(1598年)8月に亡くなった秀吉(8月9日参照>>)の後を追うように、その翌年、父=利家も、この世を去ってしまいます(3月3日参照>>)。
その時、利家は、「利政は利長を父と思い、利長は利政を子と思って導いて、兄弟仲良くするんやぞ」との遺言を残したとか・・・
しかし、事態は急変・・・その日の夜に、あの石田三成(いしだみつなり)が襲撃され(3月4日参照>>)、豊臣家内の内部分裂が表面化・・・利長は、この争いから一歩退いた状態で、どうやら前田家を中立の立場に置いときたかったようで、
後から思えば、完全に徳川家康の策略と言えるのですが、つい、その勧めに乗っかって、金沢へと帰国してしまうのです。
それこそ、利家の遺言では「3年間は大坂を離れるな」と言われてしたし、そもそも利長は、父の後を継いだ豊臣秀頼(秀吉の息子)の傅役(もりやく)なのですから、本来なら大坂を離れるべきでは無かったのですが・・・
案の定、大坂を留守にしている間に、「家康暗殺計画」の首謀者との疑いをかけられてしまった利長・・・同じく、首謀者の一人とされた五奉行の浅野長政(あさのながまさ)は、即座に嫡男=幸長(よしなが)に家督を譲って、自らは、あえて家康の領国である武蔵に隠居して身の潔白を証明します。
「加賀を討伐する!」とイキまく家康に、やむなく利長も重臣の横山長知(よこやまながちか)を家康の基に派遣して弁明させ、結果的に、母のまつ=芳春院(ほうしゅんいん)を江戸に送る事で(5月17日参照>>)、何とか謀反の疑いを晴らしたのでした。
そんなこんなで関ヶ原・・・
かねてより上洛を拒否し続けていた上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)を「謀反」として会津攻めを決意した家康は、出陣に先だって、利長にも東北への出陣を要請・・・また、越前丸岡城(福井県坂井市)の青山宗勝(あおやまむねかつ)と小松城(石川県小松市)の丹羽長重(にわながしげ)、に上杉の旧領である越後(新潟県)の警固を命じますが、結果的に、3人が3人とも、この命には従いませんでした。
そう、あの大谷吉継(よしつぐ)の根回しにより、宗勝&長重の二人とも・・・いや、利長と府中城(福井県越前市)の堀尾吉晴(よしはる)以外のほとんどの越前(福井県)の武将を、吉継が西軍に引き入れたのです(7月14日参照>>)。
そうなると、越前に隣接する加賀がヤバイ・・・東北に行ってる場合じゃない!って事で、利長は目の前の敵に挑む事としますが、それならば、1番の大物である長重の小松城を攻めたいところですが、小松城は難攻不落の攻め難さ。
なので、まずは、山口宗永(むねなが・正弘)の大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)へ・・・って、ここで、忘れかけてた本日の主役=利政さんですが、ちゃんと、兄に従って出陣してます。
・・・で、8月3日に大聖寺城を見事落した前田勢(8月3日参照>>)ですが、なぜか(一説には吉継が加賀を攻めるというニセ情報を流したとも)、この後、8月5日に金沢へとUターン・・・その撤退を見逃さなかった長重と相対したのが、北陸の関ヶ原と呼ばれる加賀浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)です。
この戦いの後、何とか金沢に戻った利長に、例の小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)で、会津征伐を中止して西へと戻る家康から、本チャンの関ヶ原への出陣要請・・・
当然、その要請を弟の利政にも伝えられますが、本チャン関ヶ原にへの出陣は拒否する利政・・・その理由については、『前田出雲覚書』によれば、当時、三成によって利政の妻子が大坂城にて人質状態にあった事で、「妻子を見捨てては末代までの恥になる」と言って、東西両軍のどちらにも味方しない姿勢を貫いたとされていますが、
一方では、関ヶ原で徳川方が負けた場合の保険という見方もあります。
不肖私・・・ずいぶん前に、利長の菩提寺である瑞龍寺(ずいりゅうじ=富山県高岡市)を参拝した事がありますが、その時のお寺さんのお話では「兄は東軍、弟は西軍について前田家を存続させるナイスな作戦」
的な事をおっしゃっていたので、お寺にはそのように伝わっているのでしょうか?
結局、長重との戦いや利政の説得に手間取った利長は、9月11日に金沢を出陣しますが、本チャンの関ヶ原(9月15日参照>>)には間に合いませんでした。
で、結果はご存じの通りの東軍勝利・・・
出陣しなかった利政は改易となり、その後は、奥さんとともに京都にて隠遁生活・・・一方の利長は、本チャンには間に合わなかったものの、北陸で西軍大名と戦った功績により、所領が安堵されたうえ、利政の領地も利長のもとに・・・
ただし、その後も利政は、利長や母の芳春院とも密に連絡を取り合い、当然の事ながら利長は、水面下で利政の生活を応援し続けます。
さらに大坂の陣が勃発した時には、家康からの再三の誘いを断り続けて中立を貫いた利政・・・それでいて、金沢城との連絡を怠らず、利長の後を継いだ弟の利常(としつね)(10月12日参照>>)とも、何度も手紙のやりとりをしていたとか・・・
すべてが落ち着いた元和三年(1617年)に、芳春院は、家族ぐるみで親しかった高台院(秀吉の奥さん=おね)(9月6日参照>>)を京都に訪ねますが、この時は、利政も母に面会し、ともに語り合ったとの事・・・
こうして寛永十年(1633年)7月14日・・・利政は、静かに、その生涯を終えました。
よく、「秀吉と利家は、あんなに親しかったのに、なぜ、前田家は東軍に???」てな疑問を耳にしますが、上記の通り、東軍についたのは利長であって、弟の利政は中立もしくは西軍だったのです。
私個人的には、これはやはり、東軍×西軍、どちらが勝っても良いように、保険をかけたのだと思っています。
この関ヶ原にしろ、後の大坂の陣にしろ、どちらが勝っても良いように保険をかけたとおぼしき戦国大名は多数います。
ただ、当然の事ながら、堂々と「保険かけました!」とは記録に残せないので、記録としては「兄弟または父子が、もともと仲が悪かった」とか、「意見が食い違った」とか、「嫁が○○家だから」「娘が○○家に嫁いでる」とか、もちろん上記の前田家のように「妻子が人質」とかって書き残すわけですので、あくまで、個人的な推理以外の何物でも無いのですが・・・
そこで、思うのは、「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事・・・
確か、何週間か前の大河ドラマ『軍師 官兵衛』でも、官兵衛の奥さん=光(てる・みつ)の兄が敵となっている事に苦悩した光が、涙ながらに兄を説得に行くシーンがありましたし、それ以前も、やはり光の姉の嫁ぎ先を官兵衛が攻める事に涙したりするシーンがありました。
もちろん、ドラマは文字通りドラマ・・・それを視聴するのは現代人の私たちなのですから、現代人の価値観に即した造りで共感を得なければならないので、ドラマの場合はそれもアリなのですが、おそらくは、実際に戦国に生きた人たちにとって、何よりも重要な事は、「家を残す&血筋を残す」という事であったと思います。
たとえば、織田信長の命を受けて福知山を平定した明智光秀(あけちみつひで)・・・以前、福知山の猪崎(いざき)城跡へ行った時のお話をしたページで少し書かせていただいたのですが(2010年7月22日参照>>)、光秀が平定する以前の福知山周辺は塩見氏が統治しており、当時は、当主の塩見頼勝(しおみよりかつ)が、福知山城の前身である横山城に本拠を構えていましたが、「織田の配下の光秀がやってくる」となった時、頼勝の四男である長利(ながとし)だけが、すんなりと降伏して明智側につくのです(後に別件で攻められますが…)(5月19日参照>>)。
男5人兄弟のうち1人だけ・・・まさに、血筋と家を残すための手段ですよね。
地方の武将であっても、こうして生き残りを図るのですから、まして、天下分け目の関ヶ原となれば当然の事・・・そこに、「親兄弟だから」というためらいはありません。
もっと大事な物が彼らにはあるのです。
しかも、こういう場合、最も信頼できるのは身内・・・なんせ、家系の存続のためには、どんな状況になっても最大限、家のために尽くしてくれる最も信頼できる者を反対側に送り込まねば意味がありませんから・・・
そして、それこそが親子の情であり、兄弟の情・・・この時代、親兄弟が敵味方となって戦う事=愛情が無い事では無いのだと思います。
必死で戦って大きな武功を残せば、その恩賞により、敵にまわって負け組となった身内を救う事だってできるのです。
現に、前田家の場合、負けた利政の領地は、丸々利長の物となり、その命も助かってます。
また、前田家の場合・・・妹婿の宇喜多秀家(うきたひでいえ)という保険もかけていたと睨んでいます。
そう、秀家は利長の妹で秀吉の養女となったの豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)のダンナ・・・西軍の主力である三成や、小西行長(9月19日参照>>)、安国寺恵瓊(えけい)(9月23日参照>>)らが処刑される中(10月1日参照>>)、利長の働きかけによって秀家は八丈島への流罪となり(8月6日参照>>)、その後、前田家が支援をし続けています。
おそらく、この関ヶ原の戦いに西軍が勝った場合、利政と秀家が利長を支援する手はずになっていたんじゃないか?と・・・
もちろん、前田家だけではなく、ご存じの真田父子も・・・有名な犬伏の別れ(7月21日参照>>)で分かれた嫡男・真田信幸は、この関ヶ原でも、後の大坂の陣でも、見事、真田家を守ります。
さらに毛利(9月28日参照>>)も九鬼一族(9月13日参照>>)も・・・ま、毛利の場合は家康に踊らされた感ありますが・・・
先にも言いましたが、関ヶ原だけでなく、一般的には、徳川の大勝利で、豊臣方には浪人しか集まらなかったと言われている大坂の陣でも、どうしてどうして、よく見ると保険かけてる大名はけっこういるんですよ。
もちろん、上記の通り、負けた側の情報はウヤムヤになってしまうので、アレですが、個人的には後藤又兵衛(4月10日参照>>)なんかも、黒田家の保険じゃ無いか?なんて気もします。
逆に、この大坂の陣で、家康がかけた保険が小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)・・・家康の隠し子とされる人物ですが、大坂の陣では豊臣方で参戦してます。
そして、そんな家康が最後の最後にかけた、250年に渡る大いなる保険が水戸家(1月6日参照>>)・・・なんて妄想がどんどん膨らんでしまいますが・・・(*´v゚*)ゞ
とにもかくにも、記録に残らない憶測ではありますが、「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事には、現代の私たちが思うのとは違う価値観、違う愛情を以って、戦国武将たちは挑んでいたのだと思います。
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