北陸の関ヶ原~前田利長、大聖寺城を攻略
慶長五年(1600年)8月3日、北陸の関ヶ原と言われる『大聖寺城の戦い』がありました。
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何度も語られて来た関ヶ原の戦いの経緯ではありますが・・・
慶長三年(1598年)8月に亡くなった豊臣秀吉(とよとみひでよし)(8月9日参照>>)・・・さらに、その後を追うがの如く翌・慶長四年(1599年)の3月に加賀の大物=前田利家(まえだとしいえ)が亡くなった(3月3日参照>>)事で表面化する豊臣家内部の分裂(3月4日参照>>)・・・
利家の死を受けて、五大老と秀頼(ひでより=秀吉の遺児)の傅役を継いでいた利家の長男=前田利長(としなが)は、そのゴタゴタから一歩退いた状態を保ちたかったのか?・・・この時点で残る1番の大物である徳川家康(とくがわいえやす)の勧めに応じて加賀へと帰郷・・・
しかし、利長が畿内を留守にしている間に、「家康・暗殺未遂事件」の首謀者の疑いをかけられ、やむなく、母のまつ=芳春院(ほうしゅんいん)を江戸に差し出す事で(5月17日参照>>)、何とか前田家の謀反の疑いを晴らしたのですが、今度は、「会津の上杉に謀反あり!」として会津征伐を決意した家康から、越後春日山城(新潟県上越市)の堀秀治(ほりひではる)とともに「津川口を守れ」との出陣要請がかかります。
母を人質に出してまで家康への恭順を示した利長ですから、当然、その出陣要請にも応えたいところですが、この時、家康が同時に東北の警固を命じた越前丸岡城(福井県坂井市)の青山宗勝(あおやまむねかつ)と小松城(石川県小松市)の丹羽長重(にわながしげ)が、なんと、家康に敵対する石田三成(いしだみつなり)率いる西軍の主力の一人=大谷吉継(よしつぐ)の呼びかけにより、家康の要請を蹴って西軍につく事に・・・
さらに奔走する吉継の働きかけによって、結局、越前(福井県)では府中城(福井県越前市)の堀尾吉晴(よしはる)以外のほとんどの武将が西軍となってしまったのです(7月14日参照>>)。
そうなると、自分が家康の要請通りに東北に出陣した後に、留守となる加賀が心配・・・て事で、利長は、まずは周辺地の平定を先にすべく、慶長五年(1600年)7月26日、2万5千余の兵を率いて金沢城を出立し、南加賀から越前方面へと向かったのです。
そして、まず目指すは丹羽長重の小松城・・・この長重は、ご存じ、織田信長の重臣であった丹羽長秀(ながひで)(4月16日参照>>)の息子ですが、例の「家康・暗殺未遂事件」のゴタゴタの際には、家康から「利長を監視するように…」との命令を受けていた事もあって、利長とはもともときな臭い雰囲気が漂う相手・・・
しかし、その小松城は周囲が泥沼に囲まれた場所に立つ天然の要害でなかなかの堅城・・・しかも、長重自ら3千の兵を率いて守る守備態勢は万全で、おそらく、攻撃を仕掛ければ、即、壮絶な戦いが繰り広げられるであろう事は明白・・・
なので、利長は、あえて小松城を見送って先へと進み、同じく西軍を表明していた山口宗永(むねなが)の加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を目指します。
8月2日・・・大聖寺城に近い松山城に入った利長は、まずは穏便に、宗永に降伏を求めますが、宗永は断固拒否・・・よって、翌・慶長五年(1600年)8月3日早朝、利長は大聖寺城に向かって出陣したのです。
迎える宗永は、嫡男=修弘(ながひろ)を城の外へと打って出させ、前田勢を待ち伏せする作戦をとりますが、前田方の先鋒=山崎長徳(やまざきながのり)に見破られ、逆に襲撃されてしまいます。
逃げる山口勢に追う前田勢・・・
そのまま大聖寺城に逃走する兵を追撃する形で、前田勢は城内へと突入し、やがて本丸まで侵入・・・後に、最も激戦となった場所は「骨ヶ谷」なる名称で呼ばれるほどの壮絶な戦いになったのだとか・・・
この情勢をみた修弘は、自ら名乗って長徳の家臣の前に進み出て、抵抗する事なく首を討たせました。
まもなく、父=宗永も自刃し、この日の夕刻、大聖寺城は陥落したのです。
しかし、まだまだ手は緩められません。
一部の家臣を大聖寺城の警固に残し、休む間もなく出立した利長は、次に越前の北ノ庄を目指しますが、ここに来て、この前田勢の勢いに押された越前丸岡城の青山宗勝や北ノ庄城(福井県福井市)の青木一矩(あおきかずのり)は、利長に恭順姿勢を見せます。
「戦わんでええからラッキー!ヽ(´▽`)/」
と思いきや・・・8月5日、利長は突然Uターンして金沢に引き返すのです。
その理由については、今なお不明ですが、一説には、この時、表面では恭順姿勢を見せていた青木一矩が、実は水面下で大谷吉継に援軍要請をしており、その援軍が、まもなく北ノ庄城に入るとの情報に前田勢が動揺したとか・・・
また、その吉継の別働隊4万が、海と陸に分かれて金沢に攻め込むとの情報が入ったためとか言われています。
結果的に、その情報は誤報(もしくは吉継がかく乱のために流したとも…)だったわけですが、それに慌てた?利長が、北ノ庄城への攻撃を中止して帰路についた事は確か・・・
・・・で、この撤退劇を見逃さなかったのがかの小松城の丹羽長重・・・そう、現在、利長がいる位置から金沢に戻るためには、どうしても小松城の近くを通らねばならないわけで・・・
かくして起こったのが「北陸の関ヶ原:Part 2」=加賀浅井畷(あさいなわて)の戦いですが、そのお話は、7年も前の記事ではありますが(*´v゚*)ゞ8月8日のページでどうぞ>>
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コメント
>家康から「利長を監視するように…」との命令を受けていた事もあって
それなのに、長重さんは西軍についたということですか。
そして、利長さんは東軍。
複雑怪奇ですねぇ。
投稿: ことかね | 2014年8月 7日 (木) 14時28分
ことかねさん、こんにちは~
>それなのに、長重さんは西軍についたということですか。
そうなんです。
ホント、関ヶ原は複雑怪奇です。
先日も書かせていただいたように、利長の弟=利政も、途中から西に移行してますしね。
投稿: 茶々 | 2014年8月 7日 (木) 14時38分
茶々様、こんばんは。
関ヶ原は本戦だけでも奥が深くて複雑怪奇ですけど本戦以外だとわけがわからないですね。
九州方面、東北方面がわけがわからないですが、北陸方面でもこうなっているとすると、頭が混戦です。
実は美濃地方でも、小さな大名が複雑怪奇な動きで、結局西軍で改易されました。
名前も忘れましたし、出典も手元に無いです。
自分の今後の研究課題です。
どうしても本戦あるいは有名大名の方に目が行きますが(苦笑)。
歴史は奥が深いです。
投稿: エアバスA381 | 2014年8月 7日 (木) 19時53分
エアバスA381さん、こんばんは~
そうですね。
関ヶ原での美濃あたりの事は、成長した三法師くんの岐阜城の陥落はupしてるんですが、それ以外は、あまり書いてませんね~
今年は苗木城や郡上八幡なんかを、その日付までに仕上げる事ができたらupさせていただくつもりでいますo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2014年8月 8日 (金) 01時07分
茶々さん、こんばんは!ご無沙汰しております。
大聖寺城、一度行ってみたい場所なんですよね。
この城主だった山口宗永(玄蕃)は宇治にゆかりのある武将で、秀吉によって解体された宇治橋を家康の命に従って、息子の正弘と共に再建した人物でもあります。この人が宇治橋を架けてくれてなかったら、「御茶壺道中」もなかったし、宇治は寂れてたかもしれません。
山口宗永(玄蕃)と長男の正弘はこの戦いで戦死しますが、次男の教弘は逃れ、大坂の陣に際し、木村重成の傘下となり、重成共々、戦死します。現在、重成の墓の傍で教弘の墓も眠っています。
この山口家ってすごく義理堅い一族なのか、正弘の子孫が会津に逃れた後、松江の松平家に仕官して明治を迎え、その子孫は海軍軍人になるんですね。
時は流れて昭和17年(1942)ミッドウェーの海戦で日本海軍は米海軍に大打撃を蒙るのですが、その折りに旗艦などを逃がすために自ら犠牲となった軍艦「飛龍」の艦長である山口多聞はこの子孫だそうです。
言葉選びが間違ってるかもしれませんが「類は類を…」と言っても過言ではないくらい、一族の宿命というかなんというか…
その昔、加賀市に「加賀戦国時代村」があった時期、この戦いで大聖寺城が落ち、山口宗永(玄蕃)が自刃するシーンを描いたアトラクションがあったそうです。
今じゃ、みんな忘れ去られちゃったのかなぁー。
投稿: 御堂 | 2014年8月 8日 (金) 21時59分
御堂さん、こんばんは~
「加賀戦国時代村」には何度か行った事があるのですが、月日の経過とともに、今や、足元から水が出てくる北前船のアトラクションと「にゃんまげ」しか記憶にありません~(°°;)))
そんな良さげなアトラクションがあったとは!
投稿: 茶々 | 2014年8月 9日 (土) 01時54分