「丹波の赤鬼」こと赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略
天正七年(1579年)8月9日、織田信長の命を受けて丹波国を平定中の明智光秀が丹波黒井城を攻め落としました。
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上洛後の織田信長による全国制覇の一環ですが・・・
ご存じのように山陰+山陽=中国地方を担当していた羽柴(後の豊臣)秀吉と明智光秀(あけちみつひで)・・・
そんな中で、光秀は畿内に近い京都府北中部や兵庫県北東部にあたる丹波(たんば)の平定を任されていたわけですが・・・
その中の、今回の丹波黒井城(兵庫県丹波市)・・・
ここを本拠として治めるのは赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)という武将。
彼は荒木氏綱(あらきうじつな)の「荒木鬼」、波多野宗高(はたのむねたか)の「丹波鬼」、籾井教業(もみいのりなり)の「青鬼」(10月26日参照>>)とともに、丹波に住む4人の鬼の一人、「丹波の赤鬼」と呼ばれる人物で、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、徳川家康(とくがわいえやす)と長宗我元親(ちょうそかべもとちか)に並んで3人の「名高キ武士」として紹介されています。
もともとは荻野姓を名乗っていたのが、義父を殺害して黒井城を乗っ取った頃から赤井姓を名乗るようになり、その一件から通称を悪右衛門と称するようになったとか・・・
とにもかくにも、幼き頃から悪童として名を馳せたエピソードを持つ直正だったわけですが、信長が西国に勢力をのばして来た元亀元年(1570年)頃には、すんなりとその傘下に入り、甥っ子の赤井忠家(ただいえ)とともに、持っていた所領は、無事安堵されました。
しかし、その後、もともとここらあたり一帯に勢力を持っていた山名氏とのトラブルが勃発し、その関係から、信長を敵に回してしまうのです。
やがて天正三年(1575年)、信長は明智光秀を総大将に丹波の平定に乗り出したというわけです。
その年の10月、準備を整えて出陣した光秀は、圧倒的な兵力で黒井城を取り囲み、即座に攻撃を開始します。
もはや、ヘビに睨まれたカエル状態の黒井城は、またたく間に陥落すると思われましたが、どうしてどうして・・・黒井城はなかなかの堅城で、しかも守るは丹波の赤鬼・・・
すぐに決着がつくかに見えた籠城戦は終わりを見せず、翌・1月には、なんと、これまで信長傘下を表明していた丹波八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)の波多野秀治(ひではる)が、赤井の援軍として明智軍を取り囲んで攻撃を開始して来たのです。
この戦いは、「もはやこれまで!」と、一旦は光秀に死を覚悟させるほどでしたが、その後、何とか撤退を成功させて、近江(滋賀県)の坂本城へと戻った光秀・・・
当然ですが、信長は黒井城の赤井よりも、いきなり裏切った八上城の波多野に怒り爆発し、すぐに光秀に秀治討伐を命じるわけですが、上記の通り、光秀が落さねばならない丹波地方の城は、八上城や黒井城だけではありませんし、しかも、その間の光秀は、秀吉の三木城・籠城戦(3月29日参照>>)を応援したり、畿内の石山本願寺との合戦(5月3日参照>>)に赴いたりと、かなり忙しい・・・
で、ようやく、天正七年(1579年)の6月・・・何とか、その兵力を八上城一本へと絞って、八上城陥落へと持ち込んだのでした(1月15日参照>>)。
そうなると、当然のごとく、次のターゲットを黒井城一本に絞れるわけですが・・・実は、この間に黒井城の赤井側にも大きな変化がありました。
天正六年の3月9日に、赤鬼こと直正が亡くなってしまっていたのです(病死とも、戦の傷の悪化とも)。
しかも、先の八上城攻めやらなんやらの周辺の戦いで、もはや黒井城の支城もほとんど落されてしまっている状態・・・織5月19日参照>>)
直正の遺児=直義(なおよし)が未だ幼かったため、直正の弟=幸家(ゆきいえ)や、甥っ子の忠家が中心となって明智軍を迎え撃つ事になりますが、もちろん、今度は、波多野の援軍も無いわけで・・・
かくして天正七年(1579年)8月9日、赤井勢が立て籠もる黒井城へと攻め寄せた光秀・・・
出撃して来た赤井勢をサラッと攻撃し、形勢不利となった赤井勢が城への逃走を図りはじめると、それを追撃する形で、じわりじわりと城の外郭へと攻め込みます。
この状況に、この先の戦の行方を読み切った赤井側は、これまでに出されていた様々な条件を飲み降伏・・・黒井城を開け渡して、どこへともなく逃走したのでした。
これにて、光秀による丹波平定は完了・・・2ヶ月後の10月24日に信長に報告すると(10月24日参照>>)、信長は「比類なき功績!」と、大喜びだったのだとか・・・
ちなみに、幼き直義は、この後、藤堂高虎(とうどうたかとら)のもとで活躍し、忠家も豊臣秀吉から徳川家康に仕えて大和国内に1千石を与えられていますので、赤井氏の血脈は生き残った事になります。
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コメント
光秀…その働きを信長は褒めているようですが、「こき使われて」いるみたいですね。今日のブログを読んでたいへんだったんだなあと思いました。「信長会社」はブラック企業ですから…(笑)
本能寺の変への下地の一つはこうやって生まれたのかな~。考えすぎでしょうか。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年8月10日 (日) 07時06分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
確かに…見ようによっちゃぁ「こき使われてる」感じもしないでは無いですが、もともと、盆と正月しか休みの無い時代ですし、ましてや戦時下ですからね~
光秀だけじゃなく、信長自身もアッチにコッチに忙しい時期ですし…どうなのかなぁ??
…と、イロイロと妄想するのが楽しいです(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2014年8月10日 (日) 15時39分
初めまして。あかいのくろい 今年の4月にのぼりました。ここも雲海がでそうです、下館にあたる興禅寺脇の休憩所の中に 大河ドラマ春日局役のきれいな大原麗子さんの写真が展示してありました。
ググるとちょうどバブルでしかもハシダスカコさんでした。近所駅の柏原の街はなんと 五葉木瓜の旗
だらけ まるで歴史をあやつるなにかがいるような気がします。
投稿: おと松 | 2014年8月12日 (火) 10時59分
おと松さん、こんにちは~
そうですか…行かれたのですね。
それに…春日局に五葉木瓜の旗…
イロイロな妄想をしてしまいそうです。
投稿: 茶々 | 2014年8月12日 (火) 15時10分