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2014年8月26日 (火)

信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦

 

元亀元年(1570年)8月26日、織田信長三好三人衆ら大坂方に対抗すべく天王寺に陣を置き、野田・福島の戦いが開始されました。

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永禄十一年(1568年)9月・・・今は亡き、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)(5月19日参照>>)の弟・足利義昭(よしあき=義秋)(7月28日参照>>)を奉じて上洛(10月14日参照>>)した織田信長・・・

それまで畿内を支配していたのは、義輝を暗殺した後に、自らの思い通りになる傀儡(かいらい=あやつり人形)的第14代将軍足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)=をトップに据えていた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)・・・通称:三好三人衆と呼ばれる彼らでしたが、その信長軍の襲来で居城を追われるわ、頼みの義栄は若くして亡くなるわで、一旦、敗走していました(9月29日の前半部分参照>>)

しかし元亀元年(1570年)・・・そんな彼らに、畿内奪回のチャンスが訪れます。

そう、この年の6月にあった越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江(滋賀県北)浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川の戦い(6月19日参照>>)のため、信長の主力部隊が畿内を留守にしたのです。

早速、三好三人衆は、摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝政(勝正)の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して、野田・福島(大阪市福島区)に砦を築き、信長に対抗しようとします。

この動きに、畿内の反信長派が三好三人衆のもとに続々と集結・・・その中には同族の三好康長(やすなが)十河存保(そごうまさやす=三好長慶の甥)らはもちろん、名門・細川家の細川昭元(ほそかわあきもと・信良=晴元の息子)、信長によって美濃(岐阜県)を追われた斎藤龍興(さいとうたつおき)(8月15日参照>>)や、その家臣=長井道利(ながいみちとし) などなど約8000。

一方、信長方の動きとしては、信長上洛の際にいち早く傘下に入った松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)が、居城の信貴山城で準備を整えはじめますが、この時、彼ら=大坂方の最初のターゲットとなったのは、久秀と同時期に信長傘下に入っていた三好本家の三好義継(みよしよしつぐ=三好長慶の養子)古橋城(大阪府門真市)でした。

守る兵はわずかに800・・・8月17日に大坂方からの攻撃を受けた古橋城は、多勢に無勢のまま合戦突入となったワリには、かなりの抵抗を試みた激戦となりますが、いかんせん数に劣るため、間もなく壊滅状態となり、義継は敗走しました。

その一報を聞いた信長・・・8月20日に岐阜を出陣し、翌・21日に横山(滋賀県長浜市)、さらにその翌日に長光寺(滋賀県近江八幡市)、23日には京都の本能寺に宿泊し、25日は枚方(大阪府枚方市)の寺院に・・・

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野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

かくして元亀元年(1570年)8月26日信長は、野田・福島の砦を包囲すべく陣を敷きます。

先陣を敵の最前線に配置し、天満ガ森(大阪市北区)川口(同西区)渡辺(同中央区)上難波(同中央区)下難波(同浪速区)神崎(兵庫県尼崎市)・・・と、取り囲む鉄壁の陣を敷き、自らは天王寺(大阪市天王寺区)に陣を構えました。

そうなると、信長方にも、堺や兵庫あたりから手土産持って挨拶に来る者や、様子を見に来る者などが続々と集まってくるわけですが、そんな中で、やはり、敵方=大坂方も一枚岩とは言い難く、28日には三好政勝(まさかつ)香西長信(こうさいながのぶ)らが信長方へと寝返ります。

また、9月3日には、この前年に三好三人衆からの襲撃を受けていた将軍=義昭が、細川藤賢(ふじかた)中嶋城(大阪市淀川区)に入りました。

さらに信長・・・9月8日には、大坂にあった石山本願寺より1kmほど西にある楼岸(ろうのきし=大阪市中央区)に砦を築かせて斎藤新五(しんご・利治・新五郎とも=道三の末子)(9月24日参照>>)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(11月19日参照>>)などに守らせ、川向こうにある川口村にも砦を造って平手汎秀(ひらてひろひで=平手政秀の三男)(12月23日参照>>)佐々成政(さっさなりまさ)(7月10日参照>>)などに守らせ、

9月9日には、信長自ら天満ガ森へと本陣を進出させ、諸将に草を集めさせて、その草で以って、敵の砦付近にある堀や入江を埋めさせたのです。

以前もお話しましたが、この頃の大阪平野は、未だ川や入江が縦横無尽に走る湿地帯でしたからね。

さらに、9月12日は、野田・福島の砦から1kmほど北の海老江(大阪市福島区)という村に砦を築いて、ここに義昭と信長が合流して本陣としますが、この頃には、すでに合戦の火ぶたは切られており、信長軍の先陣は、敵近くに土手や物見櫓を構築して近くまで攻め寄せ、大砲もぶっ放しております。

また、信長に呼応した根来(ねごろ)雑賀(さいか・さいが)など紀州の面々が2万の軍勢を率いて信長方に参戦・・・ご存じのように鉄砲に長けた彼らの攻撃は昼も夜も止む事なく、まさに天地に響く轟音が鳴り続けたと言います。

さすがの大坂方も、この数の多さには圧倒され、ここらあたりから和睦を申し入れて来ますが、信長の返事は「NO!」・・・「もう1日もたんやろ!一気に落せ!」と、さらに勢いづくばかり・・・

これに反応したのが、真横でドンパチやられている石山本願寺です。

もともと、好立地にある石山本願寺の場所を狙っていた信長に、このまま野田・福島を落されては、「この本願寺が危ない」とばかりに、第11代法主=顕如(けんにょ)が、全国の信徒に蜂起するよう呼び掛ける檄文を発し、9月12日夜には突然響いた鐘の音とともに楼岸・川口の両砦に向けて鉄砲を打ち込んだのです。

さすがに、プロの戦闘集団である信長軍は、あくまで烏合の衆である一揆勢にビビる事はありませんでしたが、14日には、大坂方が天満ガ森まで出撃して来るという事態に・・・

そう、風前の灯であった野田福島の大坂方が、本願寺の参戦によって勢いを盛り返したのです。

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「小田信長、石山本願寺を貴る」(絵本拾遺信長記:前篇五)

ここに野田福島の戦いは、この先10年に渡る有名な石山合戦へと移る事になるのですが、それに関連するお話は、
本願寺が参戦した9月12日のページ>>
もしくは
激戦となる天王寺合戦5月3日のページ>>
でご覧くださいませm(_ _)m
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コメント

強者だった者たちの衰退が感じられる戦いですね。美濃のマムシと呼ばれて、一代で大大名となった斎藤、一番最初に天下を統一したと言われる三好、かつては半将軍と呼ばれて幕府を操っていた細川。この戦いでそれらの勢力が消えていきました。まあ、斎藤以外の二人は三好は十河存保は死んでしまうも三好政勝が旗本として家を残したし、細川も分家の幽斎、忠興親子が肥後54万石の大大名になりましたからね。(最近、幽斎親子が細川の分家でこの戦いで敗北した昭元が本家だと知りました。)

投稿: 貧乏武士 | 2014年8月29日 (金) 14時10分

貧乏武士さん、こんにちは~

そうですね…何となく、世代交代な感じがする戦いです。

それに、この時は敵対していた細川本流の細川昭元なんかも、その後、信長傘下となって、妹のお犬を娶るくらい信長と密接になりますが、信長が本能寺で亡くなると、逆に行き場を失くしたように迷走しますね。

アブナイと思ったら、すぐに立ち位置を変えるような世渡り上手で無いと、戦国は生き残れないのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年8月29日 (金) 14時44分

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