毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原
慶長五年(1600年)9月17日、四国・松前城の加藤嘉明勢が、旧領を回復すべく毛利の支援を受けて侵攻して来た宍戸景世らに夜襲をかけました。
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コチラも関ヶ原に関連しての戦い・・・なので『伊予の関ヶ原』とも呼ばれますが、それ以外にも、宍戸勢の陣のあった場所をとって『刈屋口の戦い』や『三津浜の戦い』、その宍戸勢が出港して夜襲を受けたので『竹原崩れ』、また『三津浜夜襲』とも呼ばれます。
とにもかくにも天下分け目となった関ヶ原の戦いに乗じて、旧領を回復しようという動きはアチコチで見られたわけですが、そのうちの誰もが、本チャンの関ヶ原での大戦が、わずか半日ほどで決着がつくとは思っておらず、それ以前はもちろん、本チャンの9月15日を過ぎても、その大戦の結果がもたらされるまでは、それまでの作戦通りの動きをしていたわけです。
そこらへんのところは・・・
●苗木城の戦い:8月16日参照>>
●郡上八幡城の戦い:9月2日参照>>
●杵築城の戦い:9月10日参照>>
●石垣原の戦い:9月13日参照>>など、
また、関ヶ原と連動していたとされ『東北の関ヶ原』と呼ばれる長谷堂城の戦い(10月1日参照>>) なんかが、10月1日になって、やっと上杉勢が撤退するあたりでも、その感じは読み取れると思いますが・・・
(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)
で、今回の『伊予の関ヶ原』=『三津浜夜襲』と呼ばれる戦いの主役である宍戸景世(ししどかげよ)という武将ですが、この方については不明な点が多く、その実体がつかみづらい・・・なので、河野水軍として名を馳せながらも、家督争いなどで衰退し、当時は毛利の支援を受けていた河野氏の河野通軌(こうのみちのり)と同一人物とみられたり、家系譜などに登場する宍戸景好(かげよし)と同一人物とされたり、複数の説が存在しますが、
少なくとも、今回の『三津浜夜襲』では宍戸景世の名で登場し、この関ヶ原のドサクサで伊予(いよ=愛媛県)へと手を伸ばしたい安芸(あき=広島県)の毛利輝元(もうりてるもと)から、河野氏の旧領=湯築城(ゆづきじょう=愛媛県松山市道後町)の回復を約束という大義名分を与えられての出陣となっていますので、おそらくは河野氏の血を受け継いでいて、豊臣秀吉の四国攻め(7月26日参照>>)の時に所領を没収されて事実上滅亡していた河野氏の名目上の後継ぎとなっていた事は確かだと思われます。
かくして9月17日・・・因島水軍の村上吉忠(むらかみよしただ)、能島(のしま)水軍の村上元吉(もとよし)のほか、河野氏の旧臣などを加えた3000余りの兵を率いて安芸の竹原を出港した景世ですが、関ヶ原で西軍の総大将となっている輝元(7月17日参照>>)の支援を受けているという事は、当然、彼は西軍としての参戦・・・
一方、この伊予周辺で東軍となっているのは、板島城(いたじまじょう=現在の宇和島城・愛媛県宇和島市)の藤堂高虎(とうどうたかとら)と松前城(まさきじょう・愛媛県伊予郡松前町)の加藤嘉明(かとうよしあき)ですが、彼らはともに徳川家康の会津征伐に同行していて、そのままUターン(7月25日参照>>)で関ヶ原突入ですので、当然、城は留守・・・
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
このチャンスを逃すまいと三津浜に上陸した景世らのもとには、河野氏の旧臣であった荏原城(えばらじょう・愛媛県松山市恵原町)城主の平岡直房(ひらおかなおふさ)も合流し、一路、松前城へ・・・城から8kmほど離れた三津刈屋口に陣を構え、曽根景房(そねかげふさ=愛媛県喜多郡内子町にあった曽根城城主で毛利の支援を受けていた)なる武将を使者として、松前城の開城を呼び掛けたのです。
今はいないとは言え、かの嘉明は、あの賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(4月21日参照>>)の一人に数えられる名将ですから、留守を預かる弟の忠明(ただあき)以下城兵も、なかなかのしたたか者・・・
「まずは、妻子を逃がす猶予が欲しい…城兵も少ない事ですし、それさえ聞き入れてもらえれば、すぐにでも開城します」
と返答してきます。
「これで、松前城の無血開城はまもなくだ」
との判断をする景世ら・・・
しかし、忠明は、宍戸勢に「開城します」の返答をする一方で、領民たちに、「彼らを酒肴でもてなすように…」との指令を出します。
景世の目標である「旧領回復」を見てもお解りの通り、このあたりは、もともと河野氏の領国・・・この時、酒の肴を持って集まって来た百姓たちを「昔の領主を懐かしんで歓迎してくれている」と勘違いした景世らは、大喜びで酒宴の席を設けて、飲めや歌えの大騒ぎ・・・
しかし、お察しの通り、これは加藤家の策略・・・
宴会ですっかり油断している宍戸勢を確認した加藤勢は、慶長五年(1600年)9月17日の深夜から18日の未明にかけて、160余りの軍勢で夜襲を仕掛けたのです。
残念ながら、油断していた宍戸勢は、激戦のさ中、またたく間に大混乱に陥り、曽根景房や村上元吉が討死し、景世自身も負傷する大損害を被ってしまいました。
とは言え、彼ら宍戸勢も名のある戦国武将・・・翌・19日には態勢を整えて反撃し、その後も一進一退の攻防戦を続けましたが・・・
しかし9月23日、あの関ヶ原本チャンでの西軍敗北(9月15日参照>>)の一報が彼らにもたらされ、「もはや、これ以上の戦いは無駄」となってしまった事で、翌・9月24日、宍戸勢が安芸へと撤退・・・こうして、伊予の関ヶ原は幕を閉じ、景世の夢であった河野氏の再興は叶えられなかったのです。
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コメント
やっぱり輝元は無能だなぁ・・・。加藤は同姓の清正の押されがちだけど嘉明や忠明も負けてませんね・・・・・だのに!!何故!!嘉明の息子は!!あんなボンクラになってしまったのか!!(黒田長政や毛利輝元の息子も大概ボンクラだけど)
投稿: 貧乏武士 | 2014年9月18日 (木) 03時40分
貧乏武士さん、こんにちは~
う~~ん
合戦は時の運もありますからね~何とも…
投稿: 茶々 | 2014年9月18日 (木) 12時59分
ゆるキャラ「萩にゃん」のモデルは、毛利輝元の家臣・長井元房の猫だったそうです。殿が亡くなったので、殉死。猫もあと追い自殺。400年経ってから、奇兵隊に入るという。
投稿: やぶひび | 2014年9月29日 (月) 19時33分
やぶひびさん、こんばんは~
こんなに数が増えると、ゆるキャラのキャラ設定も、なかなか難しい物なんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年9月30日 (火) 02時43分