稲葉貞通VS遠藤慶隆の関ヶ原~郡上八幡城の戦い
慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて遠藤慶隆に攻め込まれた郡上八幡城が降伏を申し出ました。
・・・・・・・・
天下を取った豊臣秀吉亡き後に生じた豊臣家内での家臣の分裂(3月4日参照>>)が大きくなる中、上洛命令に応じない会津(福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の行動を「謀反」とした(4月14日参照>>)豊臣五大老筆頭の徳川家康が、諸将を引き連れて会津征伐に向かった留守を見計らって、石田三成(いしだみつなり)が挙兵(7月11日参照>>)した事にはじまる、ご存じ、関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>)
三成の伏見城攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、有名な「小山評定(おやまひょうじょう)」(7月25日参照>>)でUターンを決意し、その先発隊が、東海道を一路西へ向かう中(8月11日参照>>)、美濃(岐阜県)では、その混乱に乗じて・・・
そう、つい半月ほど前、豊臣政権によって苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)を奪われていた遠山友政(ともまさ)が、この関ヶ原の混乱で城を奪回する苗木城争奪戦のお話(8月16日参照>>)をさせていただきましたが、今回の郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)も、ほぼ、同じ構図です。
ただしコチラは、秀吉VS神戸信孝(かんべのぶたか・織田信孝=信長の三男)+柴田勝家(しばたかついえ)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(4月20日参照>>)の時には、途中で降伏して何とか助かったものの、その後の織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)+家康との小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)の時に信雄についたと疑われた遠藤慶隆(えんどうよしたか)が、秀吉に本領を奪われて美濃小原7500石に減知され、その郡上八幡が稲葉貞通(いなばさだみち)に与えられていたため、
この関ヶ原において東軍についた慶隆が、西軍に属している貞通が城を留守にしている間に、城を奪回しようと図ったワケですが・・・
そう、この時の郡上八幡城は、城主の貞通が、家康の先発隊が織田秀信(ひでのぶ・信長の孫=三法師)の岐阜城を攻めていた(8月22日参照>>)関係から、西軍武将の一人として、犬山城(愛知県犬山市)に、その身を置いていたので、留守を守るのは息子の通孝(みちたか)以下、わずかな城兵のみだったのです。
「このチャンスを見逃すまい」と動く慶隆は、早速、家康先発隊の軍監(ぐんかん=軍の目付)である井伊直政(おおなおまさ)に許可を得て、娘婿である金森可重(かなもりよりしげ)とともに戦闘の準備に入ります。
ところがドッコイ、かの岐阜城の落城をキッカケに、貞通が突然、東軍へと寝返る事態に・・・
当然ですが、東軍となった者の城を、東軍の武将が攻めるわけにはいかないわけで、徳川からは、戦闘中止の命令が出たわけですが、それを知ってか知らずか・・・まぁ、やっぱり、慶隆個人としては、以前は自分の物だった城を、この機会に奪い返したくて、仕方無いわけで・・・
で、結局慶隆は、この9月1日、金森勢とともに郡上八幡城を攻め立てたのです。
上記のごとく、はなから多勢に無勢なので、郡上八幡城はたちまち窮地に陥る・・・しかも、父がすでに東軍の人となっている事は、息子の通孝も知っているわけですから、翌・慶長五年(1600年)9月2日、「俺んとこ、東軍なんやけど…」と言いつつ降伏を申し出た事で、とりあえずは停戦となります。
濃州郡上図(名古屋市蓬左文庫蔵):郡上八幡城の縄張と周辺を描いた古図
徳川からのその後の指示を待つべく、慶隆は城外の愛宕山に敷いた本陣で一夜を過ごすのですが・・・
それを「ふ~~ん」と見過ごすわけにいかないのが、城を落された貞通。
「あのアホンダラ!!」
とばかりに、慌てて郡上八幡に戻って来ますが、上記のごとく、すでに城は落城状態・・・
かくして翌・9月3日早朝、今度は貞通が慶隆がいた、その本陣を急襲するのです。
その朝は非常に霧が濃く、そのうえ、戦いは終わったと安心しきっていた遠藤勢は、アッと言う間に総崩れとなり、慶隆はもはや逃げるしか無く、可重の軍と合流した後、翌・4日には、一応の和議が結ばれ、遠藤&金森勢は郡上八幡から撤退となります。
ただし、一説には、この時の慶隆には油断などなく、戦いはかなりの激戦となって、その後も小競り合いが続いたという説もあります。
とにもかくにも、この両者の事は、そのまま、本チャンでの関ヶ原に結果に影響されるのは致し方ない事で・・・
で、結局、本番の関ヶ原で東軍が勝利した事で、慶隆は、もともと持っていた郡上八幡の本領を回復・・・
一方の貞通は、豊後(ぶんご=大分県)臼杵(うすき)に転封となりますが、郡上八幡が4万石だったのに対して臼杵は5万石・・・1万石の加増が、ギリギリのところで東軍に寝返った見返りといった感じなのかしらん?
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント
この二人、何気に元斎藤配下の武将なんだよな。この話だと完全に稲葉がとばっちり受けてるような気もするが。ただ遠藤はこんなことやったくせに本領復帰とは運がよかった。某斎村さんは斬首だったり、某宮部さんは西軍に寝返るという大チョンボやっちゃったりしてるのに。
投稿: 貧乏武士 | 2014年9月 3日 (水) 02時58分
貧乏武士さん、こんばんは~
>遠藤はこんなことやったくせに…
ホントですよね~
知っててやったら、完全に命令違反なのに…
関ヶ原後の処分は不可解な事が多いです。
投稿: 茶々 | 2014年9月 4日 (木) 01時09分