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2014年9月23日 (火)

南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…

 

正平十六年・康安元年(1361年)9月23日、 将軍・足利義詮からの討伐命令が下った事を知った細川清氏が若狭へと退去しました。

・・・・・・・・・・

ただでさえややこしい南北朝の動乱が、終盤に近づく頃の出来事・・・

くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして・・・とりあえずは、元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・これが北朝と呼ばれます。

一方、この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)・・・で、日本に、この二つの朝廷があった約60年ほどに渡る動乱が、一般的に南北朝の動乱と呼ばれている時代です。(時代区分は室町時代)

延元三年(歴応元年・1338年)には尊氏が征夷大将軍の座につき(8月11日参照>>)、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御する(8月16日参照>>)中、その間の南朝方との戦いを優位に進めていた尊氏でしたが、
北畠顕家(きたばたけあきいえ)討死(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)討死(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら)敗死(1月5日参照>>)など

一方では、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の右腕となって政務をこなしていた弟の足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、苦楽をともにした執事の高師直(こうのもろなお)などを失い(2月26日参照>>)、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)八幡(やわた=京都府)合戦(3月24日参照>>)で京都を制圧されたり、南朝に、尊氏と不仲だった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担かれて抵抗されたり(6月9日参照>>)、というアブナイ場面もありました。

やがて正平十三年・延文三年(1358年)、その尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開を見せて行く事になるのですが・・・

その尊氏の後を継いで第2代室町幕府将軍となっていたのは、三男の義詮(よしあきら)・・・彼は、未だ千寿王(せんじゅおう)と呼ばれていた幼き頃から関東における足利の主(尊氏の名代)と認識されていて(5月21日参照>>)、その中で様々な経験を重ねつつ成長し、20歳の頃には、京都にて父のサポート役として政務をこなし、今や29歳の働き盛り・・・

後継ぎとして、義詮自身には問題は無かったのですが、問題だったのは、彼の周囲にいた重臣たちです。

それこそ彼ら重臣たちは、尊氏が反旗をひるがえした時代から支えて来た大物たちですから、そんな彼らとどう向き合い、2代目将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・

そう、若き将軍を旗印に掲げながらも、その下で働く、彼ら大物たちの間で、政権内の争いが勃発しはじめるのです。

もちろん、この間にも南朝勢力との戦いは続いていたわけですし・・・

・・・で、それまで執事職についていたのは、先の直冬との戦い=東寺合戦(京軍=きょういくさ)(3月13日参照>>)でも活躍した足利一問の仁木頼章(にっきよりあきら)でしたが、その仁木に反対する武将たちが結託して、南朝との合戦のウラで仁木の追い落としをたくらむ動きが出始めます

正平十五年・延文五年(1360年)、南朝への攻撃と見せかけて反仁木派が蜂起した事を受けて、仁木は京都を退去し、伊勢へと逃れ抵抗を続けるも撃退され、これにて仁木は没落の一途をたどる事になります。

『太平記』では、畠山道誓(はたけやまどうせい)の屋敷にて細川清氏(ほそかわきようじ)佐々木道誉(ささきどうよ)らを招いて酒宴・茶会を催した際に、打倒仁木の作戦を練ったとされていますが、結局のところは首謀者のわかぬままに決行された仁木追い落とし作戦の結果、その後に政権を担うようになったのが管領で執事でもあった細川清氏でした。

さぁ、これから順調に義詮と清氏の政権が・・・と、思いきや、今度は、それまでは円満だった義詮と清氏の関係が、例の仁木追い落とし作戦がかなり強引だった事もあり、しだいにお互いが離れていくようになってしまいます。

この一件も、一説には道誉の策略により、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に清氏が収めた願文に「天下を執る」の一文を発見した伊勢貞継(いせさだつぐ)が、其の事を将軍=義詮に伝え、義詮が清氏に疑心を抱いたという道誉首謀説もあるようですが、

一方では、今川貞世(いまがわさだよ=了俊)著した『難太平記』には、今川範国(のりくに)を密かに召し出した義詮が「君んトコの息子(貞世の事)は清氏と親しいから、ちょっと京都に呼び出してヤッちゃってくれへんか?」と言ったなんて、将軍主導な話も書かれています。

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京都・嵐山にある天龍寺…天龍寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩の「竹林の里・嵯峨野&嵐山」でどうぞ>>

と、またもや首謀者のわからぬ一件ですが、とにもかくにも、その時、「武装した300騎の軍隊を引き連れた清氏が天龍寺を参拝した」との情報を聞いて、清氏の謀反を確信した義詮は、正平十六年・康安元年(1361年)9月23日後光厳(ごこうごん)天皇とともに京都を出て新熊野(いまくまの=今熊野・京都市東山区)に籠って、清氏の討伐を諸将に命じたのです。

急を察した清氏が義詮に対して(謀反の)身に覚えが無いです」と釈明するも義詮は聞き入れず・・・やむなく清氏は、血気にはやる家来たちをなだめて、領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去したのでした。

若狭に入ってからは、頓宮四郎左衛門(とんぐうしろうざえもん)小浜城(福井県小浜市)に落ち着いた清氏らでしたが、そこへ「北陸道より幕府の討伐軍が進軍して来ている」との知らせが届き、清氏は自ら出陣して敵を迎え撃つ事にします

しかし、彼らが小浜城を後にした後、未だ勝敗が決していなにも関わらず、留守を守るはずだった四郎左衛門が幕府側へと通じ、敵を城内に入れてしまいます。

武勇の誉れ高き清氏も、さすがにこれでは万事休す・・・前後を挟まれたうえ、帰る場所もなくなってしまい、やむなく、清氏たちは右に左に、バラバラになって落ちていきました。

こうして、わずか2騎となった清氏・・・しかし、今度はその数の少なさを活かして、密かに京都へと舞い戻り、以前、南朝へと降った旧友の石堂頼房(いしどうよりふさ)を通じて南朝への降伏を打診・・・

間もなく、後村上天皇の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給された文書)が下り、晴れて南朝軍の一員となった清氏のもとには加勢する味方も集まり、南朝軍の士気も高まり・・・

そして、この3ヶ月後には、清氏自ら「1日で京都を攻略してみせまっせ!」といきまいて、北朝と一戦交える事になるのですが・・・そのお話は、南朝軍が京を制圧した12月7日【南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀】でどうぞ>>m(_ _)m
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2014年9月17日 (水)

毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月17日、四国・松前城の加藤嘉明勢が、旧領を回復すべく毛利の支援を受けて侵攻して来た宍戸景世らに夜襲をかけました。

・・・・・・・・・

コチラも関ヶ原に関連しての戦い・・・なので『伊予の関ヶ原』とも呼ばれますが、それ以外にも、宍戸勢の陣のあった場所をとって『刈屋口の戦い』『三津浜の戦い』、その宍戸勢が出港して夜襲を受けたので『竹原崩れ』、また『三津浜夜襲』とも呼ばれます。

とにもかくにも天下分け目となった関ヶ原の戦いに乗じて、旧領を回復しようという動きはアチコチで見られたわけですが、そのうちの誰もが、本チャンの関ヶ原での大戦が、わずか半日ほどで決着がつくとは思っておらず、それ以前はもちろん、本チャンの9月15日を過ぎても、その大戦の結果がもたらされるまでは、それまでの作戦通りの動きをしていたわけです。

そこらへんのところは・・・
苗木城の戦い8月16日参照>>
郡上八幡城の戦い9月2日参照>>
杵築城の戦い9月10日参照>>
石垣原の戦い9月13日参照>>など、
また、関ヶ原と連動していたとされ『東北の関ヶ原』と呼ばれる長谷堂城の戦い(10月1日参照>>) なんかが、10月1日になって、やっと上杉勢が撤退するあたりでも、その感じは読み取れると思いますが・・・
(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

で、今回の『伊予の関ヶ原』『三津浜夜襲』と呼ばれる戦いの主役である宍戸景世(ししどかげよ)という武将ですが、この方については不明な点が多く、その実体がつかみづらい・・・なので、河野水軍として名を馳せながらも、家督争いなどで衰退し、当時は毛利の支援を受けていた河野氏の河野通軌(こうのみちのり)と同一人物とみられたり、家系譜などに登場する宍戸景好(かげよし)と同一人物とされたり、複数の説が存在しますが、

少なくとも、今回の『三津浜夜襲』では宍戸景世の名で登場し、この関ヶ原のドサクサで伊予(いよ=愛媛県)へと手を伸ばしたい安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)から、河野氏の旧領=湯築城(ゆづきじょう=愛媛県松山市道後町)の回復を約束という大義名分を与えられての出陣となっていますので、おそらくは河野氏の血を受け継いでいて豊臣秀吉四国攻め(7月26日参照>>)の時に所領を没収されて事実上滅亡していた野氏の名目上の後継ぎとなっていた事は確かだと思われます。

かくして9月17日・・・因島水軍村上吉忠(むらかみよしただ)能島(のしま)水軍村上元吉(もとよし)のほか、河野氏の旧臣などを加えた3000余りの兵を率いて安芸の竹原を出港した景世ですが、関ヶ原で西軍の総大将となっている輝元(7月17日参照>>)の支援を受けているという事は、当然、彼は西軍としての参戦・・・

一方、この伊予周辺で東軍となっているのは、板島城(いたじまじょう=現在の宇和島城・愛媛県宇和島市)藤堂高虎(とうどうたかとら)松前城(まさきじょう・愛媛県伊予郡松前町)加藤嘉明(かとうよしあき)ですが、彼らはともに徳川家康会津征伐に同行していて、そのままUターン(7月25日参照>>)で関ヶ原突入ですので、当然、城は留守・・・

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

このチャンスを逃すまいと三津浜に上陸した景世らのもとには、河野氏の旧臣であった荏原城(えばらじょう・愛媛県松山市恵原町)城主の平岡直房(ひらおかなおふさ)も合流し、一路、松前城へ・・・城から8kmほど離れた三津刈屋口に陣を構え、曽根景房(そねかげふさ=愛媛県喜多郡内子町にあった曽根城城主で毛利の支援を受けていた)なる武将を使者として、松前城の開城を呼び掛けたのです。

今はいないとは言え、かの嘉明は、あの賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(4月21日参照>>)の一人に数えられる名将ですから、留守を預かる弟の忠明(ただあき)以下城兵も、なかなかのしたたか者・・・

「まずは、妻子を逃がす猶予が欲しい…城兵も少ない事ですし、それさえ聞き入れてもらえれば、すぐにでも開城します」
と返答してきます。

「これで、松前城の無血開城はまもなくだ」
との判断をする景世ら・・・

しかし、忠明は、宍戸勢に「開城します」の返答をする一方で、領民たちに、「彼らを酒肴でもてなすように…」との指令を出します。

景世の目標である「旧領回復」を見てもお解りの通り、このあたりは、もともと河野氏の領国・・・この時、酒の肴を持って集まって来た百姓たちを「昔の領主を懐かしんで歓迎してくれている」と勘違いした景世らは、大喜びで酒宴の席を設けて、飲めや歌えの大騒ぎ・・・

しかし、お察しの通り、これは加藤家の策略・・・

宴会ですっかり油断している宍戸勢を確認した加藤勢は、慶長五年(1600年)9月17日の深夜から18日の未明にかけて、160余りの軍勢で夜襲を仕掛けたのです。

残念ながら、油断していた宍戸勢は、激戦のさ中、またたく間に大混乱に陥り、曽根景房や村上元吉が討死し、景世自身も負傷する大損害を被ってしまいました。

とは言え、彼ら宍戸勢も名のある戦国武将・・・翌・19日には態勢を整えて反撃し、その後も一進一退の攻防戦を続けましたが・・・

しかし9月23日、あの関ヶ原本チャンでの西軍敗北(9月15日参照>>)の一報が彼らにもたらされ「もはや、これ以上の戦いは無駄」となってしまった事で、翌・9月24日、宍戸勢が安芸へと撤退・・・こうして、伊予の関ヶ原は幕を閉じ、景世の夢であった河野氏の再興は叶えられなかったのです。
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2014年9月10日 (水)

黒田官兵衛VS大友義統~石垣原前哨戦・杵築城攻撃

 

慶長五年(1600年)9月10日、細川氏の杵築城を、大友義統が攻撃しました。

・・・・・・・・・・

年号を見てお解りの通り、あの関ヶ原の戦いに関連する攻防戦で、九州で展開された事から九州の関ヶ原とも呼ばれます。

このブログでは、
遠山友政(ともまさ)VS河尻秀長(かわじりひでなが)苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)(8月16日参照>>)や、
遠藤慶隆(えんどうよしたか)VS稲葉貞通(いなばさだみち)郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)(9月2日参照>>)などを、最近ご紹介しましたが、いずれも、豊臣政権時に奪われた旧領を回復すべく、この関ヶ原のドサクサで、東軍=徳川家康方について挙兵するといった形・・・

そして、ここ九州にも、この関ヶ原のドサクサで旧領を回復しようという武将が・・・それが、あの豊後(大分県)の王と称された大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子=大友義統(よしむね)です。

ご存じのように、薩摩(さつま=鹿児島県)島津四兄弟(6月23日参照>>)の侵攻に耐えかねた宗麟が、豊臣秀吉への救援要請(4月6日参照>>)をした事から秀吉は九州征伐を開始し(4月17日参照>>)、結果的に島津は豊臣傘下となったわけですので、当然、その時は大友氏も、豊臣政権下で豊後一国を与えられて生き残ったわけですが、

その後の朝鮮出兵の時に、宗麟の後を継いでいた義統が、連絡不足による失態を起こしてしまった(1月26日参照>>)事から、所領没収のうえ蟄居(ちっきょ=謹慎)処分となってしまっていたのです。

ただし、義統の場合は、家康=東軍ではなく、西軍としての参戦・・・それは、その義統が、秀吉が亡くなってからは蟄居は許されたものの、浪人として周防(すおう・山口県)に身を置いていた関係からです。

そう、周防って事は・・・かの関ヶ原での西軍総大将(7月17日参照>>)となっっている毛利輝元(もうりてるもと)の所領ですがな!

当然の事ながら、毛利から西軍へと誘われ、しかも、その毛利を通じて、大坂城豊臣秀頼からの軍資金や軍備の援助、また、勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約まで取り付けてもらったとあっちゃ、男・義統、立つしかありません。

とは言え、この時点での豊後は、ほとんどの武将が西軍での関ヶ原参戦を表明しており、何人かは、すでに、西軍の石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原への拠点として入っていた大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めている者もいました。

が、しかし・・・
そんな豊後にあって、東軍参戦を明確にしている城が・・・それが、細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)です。

ご存じのように、この時の忠興は、会津征伐からUターン(7月25日参照>>)して来た徳川家康の先発隊(8月11日参照>>)として行動していますし、もともと細川の本領は丹後(京都府北部)・・・ここ杵築は、細川氏の飛び地であり、この時は、家老の松井康之(まついやすゆき)有吉立行(ありよしたつゆき)らが、わずかな城兵で守っているだけでした。

この絶好のチャンスを見逃すまいと、周防を発ち、海路、豊後へと向かう義統・・・しかも、ここ豊後には、あの秀吉の九州征伐で所領や主を失った武将が、未だウジャウジャいたわけで・・・やがて、義統が上陸するやいなや、続々と、旧大友の家臣や、浪人の身となっていた者たちが馳せ参じ、大友勢は約3000に膨らみ、陸路、杵築城へと向かいます。

この状況を見逃せなかったのが、豊後の北に位置する豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)・・・一応、義統に、東軍へのお誘いをかけてもみたようですが、もはや聞き入れない事を確認し、如水も動きます。

もちろん、これには、飛び地という管理がし難い場所を考慮した忠興が、日ごろから、「杵築に何かあれば支援を…」という要請を隣国の如水にしていた事もあっての行動ではあります。

ただ、いかんせん、如水は隠居の身で、今現在、中津城(大分県中津市)にいる兵は、ごくわずか・・・黒田の主力は息子の長政(ながまさ)が率いて、東軍ドップリで関ヶ原にて奔走していたわけで・・・(なんせ家康は、この大事な合戦で、黒田家を味方につけるために、この直前に養女の栄姫(えいひめ)を長政に嫁がせてますから…)

しかし、そこは用意周到な如水・・・三成の挙兵を知った時から、まさかのために浪人たちに声をかけ、兵を集めていたのです。

先ほど、義統のもとには秀吉の九州征伐で所領や主を失った武将が・・・と書きましたが、そんな浪人者たちには、東軍として参戦する者も少なく無かったわけで、コチラにも約3600の兵が集結します。

こうして、9月9日、中津城を出陣した如水は、まずは、西軍か東軍かの表明を明らかにしていなかった竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)高田城(大分県豊後高田市)へと向かい、留守を預かる息子=重義(しげよし)と交渉・・・のらりくらりとかわす重義に、ヤル気満々強気姿勢を見せつけて、9月10日に開城させ、その足で、それぞれの城主が西軍として大垣城に詰めて留守となっている垣見一直(かきみかずなお)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)と、熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。

Kitukikoubousenjpgcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

と、如水がこの二城に攻撃を仕掛けた、まさに同じ慶長五年(1600年)9月10日、義統率いる大友勢は、かの杵築城に攻撃を開始したのです。

上記の通り、未だ如水の援軍が来ていない杵築城は、大友勢の猛攻にまたたく間に二の丸三の丸を落され、まもなく本丸だけになって窮地に立たされます。

杵築ピンチの一報を聞いた如水・・・富来城と安岐城には、わずかの囲みの兵だけを残し、すぐさま先鋒となる軍勢2000を杵築城に差し向けます。

9月12日には、この先鋒隊が木付に到着して着陣・・・と、「攻撃されてるはずやのにエライすんなり~」と思いきや、実は、すでに、この時、黒田の援軍が向かって来ている知らせをキャッチした大友勢が、先鋒隊との速戦を避けるべく、一旦、杵築城の包囲を解いて本陣のある立石(別府市)へと退いていたのですね。

翌13日早朝、その立石に向かって進軍をはじめた黒田先発隊と杵築の細川連合軍は、その立石の北3kmほどの所にある角殿山実相山にそれぞれ布陣・・・

対する大友勢もそれを迎え撃つ形で布陣・・・やがて両者は石垣原でぶつかります。

これが世に言う、九州の関ヶ原石垣原の戦いなのですが、そのお話は、2009年9月13日【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦】の後半部分でどうぞ>>
(前半は義統の事について書いてますので少々内容カブッてます…(*´v゚*)ゞ)
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2014年9月 2日 (火)

稲葉貞通VS遠藤慶隆の関ヶ原~郡上八幡城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて遠藤慶隆に攻め込まれた郡上八幡城が降伏を申し出ました。

・・・・・・・・

天下を取った豊臣秀吉亡き後に生じた豊臣家内での家臣の分裂(3月4日参照>>)が大きくなる中、上洛命令に応じない会津(福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)の行動を「謀反」とした(4月14日参照>>)豊臣五大老筆頭の徳川家康が、諸将を引き連れて会津征伐に向かった留守を見計らって、石田三成(いしだみつなり)が挙兵(7月11日参照>>)した事にはじまる、ご存じ、関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>)

三成の伏見城攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、有名な「小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)Uターンを決意し、その先発隊が、東海道を一路西へ向かう(8月11日参照>>)美濃(岐阜県)では、その混乱に乗じて・・・

そう、つい半月ほど前、豊臣政権によって苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)を奪われていた遠山友政(ともまさ)が、この関ヶ原の混乱で城を奪回する苗木城争奪戦のお話(8月16日参照>>)をさせていただきましたが、今回の郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)も、ほぼ、同じ構図です。

ただしコチラは、秀吉VS神戸信孝(かんべのぶたか・織田信孝=信長の三男)柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(4月20日参照>>)の時には、途中で降伏して何とか助かったものの、その後の織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)+家康との小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)の時に信雄についたと疑われた遠藤慶隆(えんどうよしたか)が、秀吉に本領を奪われて美濃小原7500石に減知され、その郡上八幡が稲葉貞通(いなばさだみち)に与えられていたため、

この関ヶ原において東軍についた慶隆が、西軍に属している貞通が城を留守にしている間に、城を奪回しようと図ったワケですが・・・

そう、この時の郡上八幡城は、城主の貞通が、家康の先発隊が織田秀信(ひでのぶ・信長の孫=三法師)岐阜城を攻めていた(8月22日参照>>)関係から、西軍武将の一人として、犬山城(愛知県犬山市)に、その身を置いていたので、留守を守るのは息子の通孝(みちたか)以下、わずかな城兵のみだったのです。

「このチャンスを見逃すまい」と動く慶隆は、早速、家康先発隊の軍監(ぐんかん=軍の目付)である井伊直政(おおなおまさ)に許可を得て、娘婿である金森可重(かなもりよりしげ)とともに戦闘の準備に入ります。

ところがドッコイ、かの岐阜城の落城をキッカケに、貞通が突然、東軍へと寝返る事態に・・・

当然ですが、東軍となった者の城を、東軍の武将が攻めるわけにはいかないわけで、徳川からは、戦闘中止の命令が出たわけですが、それを知ってか知らずか・・・まぁ、やっぱり、慶隆個人としては、以前は自分の物だった城を、この機会に奪い返したくて、仕方無いわけで・・・

で、結局慶隆は、この9月1日、金森勢とともに郡上八幡城を攻め立てたのです。

上記のごとく、はなから多勢に無勢なので、郡上八幡城はたちまち窮地に陥る・・・しかも、父がすでに東軍の人となっている事は、息子の通孝も知っているわけですから、翌・慶長五年(1600年)9月2日「俺んとこ、東軍なんやけど…」と言いつつ降伏を申し出た事で、とりあえずは停戦となります。

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濃州郡上図(名古屋市蓬左文庫蔵):郡上八幡城の縄張と周辺を描いた古図

徳川からのその後の指示を待つべく、慶隆は城外の愛宕山に敷いた本陣で一夜を過ごすのですが・・・

それを「ふ~~ん」と見過ごすわけにいかないのが、城を落された貞通。

「あのアホンダラ!!」
とばかりに、慌てて郡上八幡に戻って来ますが、上記のごとく、すでに城は落城状態・・・

かくして翌・9月3日早朝、今度は貞通が慶隆がいた、その本陣を急襲するのです。

その朝は非常に霧が濃く、そのうえ、戦いは終わったと安心しきっていた遠藤勢は、アッと言う間に総崩れとなり、慶隆はもはや逃げるしか無く、可重の軍と合流した後、翌・4日には、一応の和議が結ばれ、遠藤&金森勢は郡上八幡から撤退となります。

ただし、一説には、この時の慶隆には油断などなく、戦いはかなりの激戦となって、その後も小競り合いが続いたという説もあります。

とにもかくにも、この両者の事は、そのまま、本チャンでの関ヶ原に結果に影響されるのは致し方ない事で・・・

で、結局、本番の関ヶ原で東軍が勝利した事で、慶隆は、もともと持っていた郡上八幡の本領を回復・・・

一方の貞通は、豊後(ぶんご=大分県)臼杵(うすき)転封となりますが、郡上八幡が4万石だったのに対して臼杵は5万石・・・1万石の加増が、ギリギリのところで東軍に寝返った見返りといった感じなのかしらん?
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