黒田官兵衛VS大友義統~石垣原前哨戦・杵築城攻撃
慶長五年(1600年)9月10日、細川氏の杵築城を、大友義統が攻撃しました。
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年号を見てお解りの通り、あの関ヶ原の戦いに関連する攻防戦で、九州で展開された事から九州の関ヶ原とも呼ばれます。
このブログでは、
遠山友政(ともまさ)VS河尻秀長(かわじりひでなが)の苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)(8月16日参照>>)や、
遠藤慶隆(えんどうよしたか)VS稲葉貞通(いなばさだみち)の郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)(9月2日参照>>)などを、最近ご紹介しましたが、いずれも、豊臣政権時に奪われた旧領を回復すべく、この関ヶ原のドサクサで、東軍=徳川家康方について挙兵するといった形・・・
そして、ここ九州にも、この関ヶ原のドサクサで旧領を回復しようという武将が・・・それが、あの豊後(大分県)の王と称された大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子=大友義統(よしむね)です。
ご存じのように、薩摩(さつま=鹿児島県)の島津四兄弟(6月23日参照>>)の侵攻に耐えかねた宗麟が、豊臣秀吉への救援要請(4月6日参照>>)をした事から秀吉は九州征伐を開始し(4月17日参照>>)、結果的に島津は豊臣傘下となったわけですので、当然、その時は大友氏も、豊臣政権下で豊後一国を与えられて生き残ったわけですが、
その後の朝鮮出兵の時に、宗麟の後を継いでいた義統が、連絡不足による失態を起こしてしまった(1月26日参照>>)事から、所領没収のうえ蟄居(ちっきょ=謹慎)処分となってしまっていたのです。
ただし、義統の場合は、家康=東軍ではなく、西軍としての参戦・・・それは、その義統が、秀吉が亡くなってからは蟄居は許されたものの、浪人として周防(すおう・山口県)に身を置いていた関係からです。
そう、周防って事は・・・かの関ヶ原での西軍総大将(7月17日参照>>)となっっている毛利輝元(もうりてるもと)の所領ですがな!
当然の事ながら、毛利から西軍へと誘われ、しかも、その毛利を通じて、大坂城の豊臣秀頼からの軍資金や軍備の援助、また、勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約まで取り付けてもらったとあっちゃ、男・義統、立つしかありません。
とは言え、この時点での豊後は、ほとんどの武将が西軍での関ヶ原参戦を表明しており、何人かは、すでに、西軍の石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原への拠点として入っていた大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めている者もいました。
が、しかし・・・
そんな豊後にあって、東軍参戦を明確にしている城が・・・それが、細川忠興(ただおき)の杵築城(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)です。
ご存じのように、この時の忠興は、会津征伐からUターン(7月25日参照>>)して来た徳川家康の先発隊(8月11日参照>>)として行動していますし、もともと細川の本領は丹後(京都府北部)・・・ここ杵築は、細川氏の飛び地であり、この時は、家老の松井康之(まついやすゆき)と有吉立行(ありよしたつゆき)らが、わずかな城兵で守っているだけでした。
この絶好のチャンスを見逃すまいと、周防を発ち、海路、豊後へと向かう義統・・・しかも、ここ豊後には、あの秀吉の九州征伐で所領や主を失った武将が、未だウジャウジャいたわけで・・・やがて、義統が上陸するやいなや、続々と、旧大友の家臣や、浪人の身となっていた者たちが馳せ参じ、大友勢は約3000に膨らみ、陸路、杵築城へと向かいます。
この状況を見逃せなかったのが、豊後の北に位置する豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)・・・一応、義統に、東軍へのお誘いをかけてもみたようですが、もはや聞き入れない事を確認し、如水も動きます。
もちろん、これには、飛び地という管理がし難い場所を考慮した忠興が、日ごろから、「杵築に何かあれば支援を…」という要請を隣国の如水にしていた事もあっての行動ではあります。
ただ、いかんせん、如水は隠居の身で、今現在、中津城(大分県中津市)にいる兵は、ごくわずか・・・黒田の主力は息子の長政(ながまさ)が率いて、東軍ドップリで関ヶ原にて奔走していたわけで・・・(なんせ家康は、この大事な合戦で、黒田家を味方につけるために、この直前に養女の栄姫(えいひめ)を長政に嫁がせてますから…)
しかし、そこは用意周到な如水・・・三成の挙兵を知った時から、まさかのために浪人たちに声をかけ、兵を集めていたのです。
先ほど、義統のもとには秀吉の九州征伐で所領や主を失った武将が・・・と書きましたが、そんな浪人者たちには、東軍として参戦する者も少なく無かったわけで、コチラにも約3600の兵が集結します。
こうして、9月9日、中津城を出陣した如水は、まずは、西軍か東軍かの表明を明らかにしていなかった竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)の高田城(大分県豊後高田市)へと向かい、留守を預かる息子=重義(しげよし)と交渉・・・のらりくらりとかわす重義に、ヤル気満々強気姿勢を見せつけて、翌9月10日に開城させ、その足で、それぞれの城主が西軍として大垣城に詰めて留守となっている垣見一直(かきみかずなお)の富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)と、熊谷直盛(くまがいなおもり)の安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
と、如水がこの二城に攻撃を仕掛けた、まさに同じ慶長五年(1600年)9月10日、義統率いる大友勢は、かの杵築城に攻撃を開始したのです。
上記の通り、未だ如水の援軍が来ていない杵築城は、大友勢の猛攻にまたたく間に二の丸三の丸を落され、まもなく本丸だけになって窮地に立たされます。
杵築ピンチの一報を聞いた如水・・・富来城と安岐城には、わずかの囲みの兵だけを残し、すぐさま先鋒となる軍勢2000を杵築城に差し向けます。
9月12日には、この先鋒隊が木付に到着して着陣・・・と、「攻撃されてるはずやのにエライすんなり~」と思いきや、実は、すでに、この時、黒田の援軍が向かって来ている知らせをキャッチした大友勢が、先鋒隊との速戦を避けるべく、一旦、杵築城の包囲を解いて本陣のある立石(別府市)へと退いていたのですね。
翌13日早朝、その立石に向かって進軍をはじめた黒田先発隊と杵築の細川連合軍は、その立石の北3kmほどの所にある角殿山と実相山にそれぞれ布陣・・・
対する大友勢もそれを迎え撃つ形で布陣・・・やがて両者は石垣原でぶつかります。
これが世に言う、九州の関ヶ原=石垣原の戦いなのですが、そのお話は、2009年9月13日の【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦】の後半部分でどうぞ>>
(前半は義統の事について書いてますので少々内容カブッてます…(*´v゚*)ゞ)
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コメント
大友は義統は勿論、宗麟もそこまで有能なイメージがないなー。立花・高橋のような有能な部下に支えられた感じ。キリシタン大名は有馬晴信にしろ大村純忠・喜前親子にしろろくな目にあってないような。あと石垣原の戦いって何気に龍造寺乗っ取った鍋島とある意味立花に乗っ取られた大友という対極の図みたいになってるなw
投稿: 貧乏武士 | 2014年9月11日 (木) 03時18分
貧乏武士さん、こんにちは~
宗麟は…
やはりキリシタンになってからの後半生がねぇ(;-ω-)
当時のキリシタンていうのは、その判断を曇らせるくらいに儲かったという事なのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2014年9月11日 (木) 13時38分
最近の関ヶ原関連の記事を読んで、気づいたこと。
応仁の乱に似ていますねぇ。
東西に分かれて戦ったり寝返ったり。
それだけどちらが勝つか、予測出来なかったということでしょうね。
そうすると、大坂の陣との違いが分かりますね。
大名がこぞって徳川に付いたのは、予想しやすかったという証拠でしょう。
関ヶ原が、天下分け目といわれるわけですね。
投稿: ことかね | 2014年9月12日 (金) 13時01分
ことかねさん、こんにちは~
そうですね~
一般的には、大坂の陣で豊臣方についたのは浪人ばっかり…って事になってますが、実は、私はそうは思っていないんです(←あくまで豊臣好きの妄想ですが(*´v゚*)ゞ)
この大阪の陣での「浪人」というのは、その少し前から、「兄弟ゲンカした」とか「主君や親とそりが合わない」なんて理由で出奔した人たちが、けっこういる…もちろん、長宗我部盛親や真田幸村のように「関ヶ原以降ずっと」って人もいますが、
有名なところでは、毛利の重臣で姻戚関係にある佐野道可>>が、豊臣が勝った時のための保険だったのでは?との説があります。
ほかにも細川忠興の次男=興秋や結城秀康の重臣や伊達政宗の重臣も豊臣方に来てますし、家康の隠し子とされる小笠原権之丞も豊臣方です。
私としては、後藤又兵衛も黒田家の保険、落城するまで大坂城に居続けた初(淀殿の妹)なんかも、徳川方で参戦している息子(側室の子)の京極忠高とのバランスを考えての事なんじゃないか?と…
逆に、大野治長も、弟を徳川方に送り込んでますしね。
もちろん、豊臣は滅亡し、その後は徳川の天下となるので、「豊臣に味方した者は、神君家康公に味方した我らに反発して浪人なった者」として記録されますので、あくまで、希望的観測のもとの想像の域を出ない話でありますが…豊臣ファンとしては「そうだったら良いのになぁ~」と思ってます。
投稿: 茶々 | 2014年9月12日 (金) 17時55分
いつも丁寧なお返事ありがとうございます。
私が言いたかったのは、「大名家」としてどちらが本命だったのか?ということです。大名家の「誰か」ではなく。
勝敗に絶対はありません。
家康が亡くなっていれば、大坂方にも勝機はあったでしょう。
ゆえに「誰か」を保険とするのは当然だと思います。
それでも、勝つと思う方に付くのは当然のことです。
あえて負けそうな方に付くのには、それなりの理由があるからでしょう。
義理や人情、恨み、一発逆転あるいは保険として。
大名家の偏り具合で、そんな当時の雰囲気が読み取れるのではないかと、思ったわけです。
投稿: ことかね | 2014年9月13日 (土) 14時15分
ことかねさん、お返事、ありがとうございます。
そういう事でしたか…
そうですね。
確かに、「本命か」「保険か」の差はあったかも知れませんね。
秀頼はまだ若いですが、一方の家康は百戦錬磨…そういう意味で、豊臣方に、秀長か秀次のような頼れる身内が生き残っていなかった事が悔やまれます。
投稿: 茶々 | 2014年9月14日 (日) 01時40分