大坂の陣~毛利勝永の入城
慶長十九年(1614年)10月7日、大坂の陣に備えた豊臣方の呼び掛けに応じ、浪士たちが大坂城に入城しました。
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関ヶ原の戦いに勝利したものの(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>)、未だ健在の目の上のタンコブ=豊臣家(3月29日参照>>)を滅ぼそうと、豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)が大仏を建立した京都の方広寺の鐘銘に(4月26日讃参照>>)、徳川家康(とくがわいえやす)がイチャモンをつけた事に始まる(8月20日参照>>)、ご存じ大坂の陣・・・
くわしいそれぞれは【大坂の陣の年表】>>でご覧いただくとして・・・
この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、それは、
真田幸村(さなだゆきむら=信繁)、
毛利勝永(もうりかつなが=吉政)、
木村重成(きむらしげなり)(5月6日参照>>)、
大野治房(おおのはるふさ)、
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(5月15日参照>>)、
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)(4月10日参照>>)、
明石全登(あかしたけのり・景盛)(5月8日参照>>)
の7人。
この中で、木村重成と大野治房は豊臣の家臣ですが、彼ら以外の5人は、合戦間近となった大坂城内からの呼び掛けに応じて入城した浪人たちでした。
・・・で、『駿府記』『時慶卿記』などによれば、彼らは慶長十九年(1614年)10月7日に入城したと・・・
と、なっているものの、『當代記』では10月6日~9日にかけてとなっていますし、以前書かせていただいたように、真田幸村が九度山を脱出するのが10月9日(『翁草』=10月9日参照>>)という話もありますので、そこのところは曖昧ではありますが、本日のところは10月7日の日付けで、この日入城したとされる毛利勝永の入城秘話を『明良洪範』に沿ってご紹介させていただきます。
ちなみに、七人衆ではありませんが、猛将として知られる塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)(12月16日参照>>)も、この日に入城したとされます。
逆に、あの高山右近(たかやまうこん=長房・重友)はマニラに追放=日本を出国しています(大坂方の使者がギリギリ間に合わなかったとも…)(1月5日参照>>)。
・‥…━━━☆
毛利勝永(吉政)は、父=毛利勝信(かつのぶ=吉成)とともに豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた武将で、天正十五年(1587年)に、父に豊前国(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)小倉を与えられたのと同時に、彼も豊前国内に領地を賜ったとされます。
豊臣政権下では、その後の朝鮮出兵でも活躍した勝永でしたが、あの関ヶ原では父とともに西軍として参戦・・・伏見城の攻撃に参加し、本番の関ヶ原では、西軍総大将:毛利輝元(てるもと)の名代である毛利秀元(もうりひでもと)や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに南宮山に布陣していたために、ご存じのように、決戦には参加せずとも負け組となってしまいます。
しかも、勝永父子が関ヶ原に行ってる間に、北九州を制圧中の黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)に居城の小倉城を奪われてしまっていました(10月14日参照>>)。
まぁ、負け組となった以上、ここで如水に奪われなくても、その身は改易処分となるわけですが・・・で、戦後は、以前から仲の良かった山内一豊(やまうちかずとよ)(12月5日参照>>)との縁から山内家に預けられる事となり、父子ともども土佐(とさ=高知県)へと移ります。
昔から仲が良かったおかげか、ここ土佐での生活は預かりの身とは思えないほど待遇が良かったようで、勝永は、のんびりと茶の湯に親しむ毎日を送っておりましたが、そんな中、ある時、家臣の窪田甚三郎に、
「ちょっと、大坂まで行って、カッコええ茶器なと買うて来てくれへんかな?」
と・・・
勝永の求めに応じて大坂に向かった甚三郎は、そこで、豊臣秀頼の近況を小耳にはさみます。
実はこの甚三郎さん・・・大坂の陣の時に大坂城内の主将格として活躍する大野治長(おおのはるなが)の従兄弟にあたる人物です。
なんとなく偶然では無い、出来すぎ臭がプンプンする感はありますが、とにもかくにも、ここで甚三郎は、「間もなく起こるであろう大坂の陣」の事、秀頼が「勝永にも参戦してほしい」と言ってる事などの情報を入手し、土佐の勝永に伝えます。
伝え聞いた勝永は、早速、大坂城に入る決意を固めるのですが、気がかりなのは、おそらくは土佐に残していく事になるであろう妻子の事・・・
ある夜、勝永は、奥さんにうち明けます。
「前の大戦で負け組についてもた事で、お前ら家族にまでツライ思いさしてしもて、ホンマ心苦しいんやけど、実は…密かに考えてる事があんねん…けど、めっちゃ言い難い事やねん」
と・・・
すると奥さんは、
「何を言うてんのよ!
ウチがこの家に嫁に来たんのも、ず~っと前から神さんが決めてはった運命なんやと思うし、嫁に来た以上、旦那さんと一緒に浮き沈みすんのは女のさだめやん。
そんな事、ツライなんて思わへんよ…むしろツライんは、大好きな旦那さんが、悩みをウチに言うてくれへん事やわ。何でも言うてよ」
その奥さんの言葉に・・・
「実は、もうすぐ天下分け目の大きな戦いがある。
それを横目で見ながら、ここでグダグダやってるのは、実にくやしい!!
やっぱ俺は、秀頼さんのもとに馳せ参じて、前の大戦のリベンジしたいねん。
けど、俺がここを出たら、きっとお前らは、山内さんに人質として捕えられるやろ…それが心配で…」
と、勝永が言うと、奥さんは大きな声で笑いながら・・・
「アハッ(*^m^)ちゃうちゃう、その考え、間違うてるわww
天下の猛者とあろう者が、嫁さん子供への情にほだされて、足踏みしてる事こそ、恥ですやん!
ウチらの事なんか気にせんと、さっさと大坂行って、家名を再興して来なはれ!」
と高らかに言い放ち、
続けて・・・
「もしアンタが討死にしはった時は、ウチら皆、この海に身を投げて、あの世とやらへお供しするだけやし…けど、アンタが勝たはった時は、絶対、もっかい会いましょね」
・・・夫を信じて、待っていると・・・
この奥さんの言葉に勇気づけられた勝永は、早速、土佐藩主の山内忠義(ただよし=一豊の養嗣子)に『関東に下りたい」とウソをついて出国の許可を得、嫡子=勝家(かついえ)とともに大坂城へと向かったのでした。
もちろん、そんなウソはすぐにバレます。
彼らが大坂城にて籠城したという一報を聞いた忠義は、妻子を捕えて駿府へと連れて行きましたが、一部始終を聞いた家康の、
「それって武士としては立派な事やんか…そんなヤツの妻子を罪に問うたらアカンのちゃう?」
との言葉により、その後、妻子は城中にて養育されたとの事・・・
って、なんか、いつの間にか「神君家康公ステキ(*≧m≦*)」の逸話にすり替えられる気がしないでもない・・・(あくまで『明良洪範』内のお話ですから)
実際には、この時、妻とともに駿府へ行った次男君は、合戦後に斬首されているようですし・・・
『大坂夏の陣図屏風』右隻4扇(大阪城天守閣蔵)に描かれた毛利勝永…右隻の左端に描かれているのが大坂城で、中央の鳥居は四天王寺の西門、鳥居を挟んだ下(西側)には真田隊が見えます。
とにこかくにも、こうして大坂方の一翼として大坂の陣に参戦する事になった勝永は、期待通りの縦横無尽の活躍をし、夏の陣では、家康本陣にまで攻め込む大活躍を見せるのですが・・・そのお話は、2015年5月7日の【毛利勝永VS本多忠朝~大坂夏の陣・天王寺口の戦い】でどうぞ>>
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コメント
よく間違えられますが毛利(もり)勝永です。
もうりではありません。
元々、姓が森で毛利輝元の許しを得て毛利に改名しましたが読みはかえてないのです。
投稿: | 2014年11月20日 (木) 00時51分
コメント、ありがとうございます。
「森」から改名した事は存じておりましたが、安部猛氏と西村圭子氏の共著『戦国人名事典』に「毛利勝永(もうりかつなが)」とあるので、そのようにルビをふらせていただきました。
今のところ、上記の書籍が最も有名な『戦国人名事典』だと思っていますので、その通りにさせていただきましたが、検討させていただくためにも「毛利(もり)」である事の出典をお示しくださればありがたいです。
投稿: 茶々 | 2014年11月20日 (木) 02時41分