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2014年10月31日 (金)

アンケート企画:驚いた?!歴史上の人物の年齢は?

 

さて、旧暦の無い31日という事で、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
(あなたが初めて知った時…)驚いた?!歴史上の人物の年齢は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とりあえずは、私=茶々自身が初めて知った時に
「意外w(゚o゚)w」あるいは「まさか!この歳で?」驚いた人物から、「へぇ~そうなんや」とか「イメージ沸かんなぁ」程度の軽いインパクトの人までをランダムに選択肢に入れさせていただきましたが、

もちろん、生年のはっきりしない人物もいますし、出来事そのものも、あったとされる年号が微妙な場合もありますので、「あくまで、そう言われている年齢」という事で、歴史上の細かな事は一旦棚の上に置いといて、お遊び感覚の広~いお心でとらえていただき、「やっぱ、これやな」と思う人物に清き1票を、ご投票いただければ…と思います。

もちろん、いつものようにその他のご意見もお待ちしております。

  1. 神武天皇が崩御された年齢
    137歳(日本書紀=127歳)(参照ページ:8月5日>>)
    未だ神世の世界かも知れませんが…
  2. 聖徳太子が摂政として政治に参加した年齢
    19歳(参照ページ:4月10日>>)
    伝説の域を出ない話ではありますが…
  3. 源義経が五条大橋で弁慶と出会った年齢
    18歳(参照ページ:6月17日>>)
    「牛若丸=子供」のイメージ強し!
  4. 木曽(源)義仲が京を制圧した年齢
    30歳(参照ページ:7月28日>>)
    平家を都落ちさせて旭将軍に…
  5. 足利義満が第3代将軍に就任した年齢
    11歳(参照ページ:12月30日>>)
    未だ南北朝合一なる前の微妙な時期に11歳で…
  6. 蓮如が最後の子供をもうけた年齢
    84歳(参照ページ:11月3日の真ん中あたり>>)
    子育てにも頑張った蓮如さんでした
  7. 北条早雲が世に出た年齢
    61歳(参照ページ:10月11日>>)
    諸説ある早雲ですが今回は伊豆討ち入りのコレで…
  8. 三国同盟を結んだ武田信玄・今川義元・北条氏康
    嫡男が3人とも天文7年(1538年)生まれな件
    単なる偶然の一致ですが…(参照:3月3日>>)
  9. 朝倉宗滴が越前一揆を撃破した年齢
    79歳(参照ページ:8月13日>>)
    総大将として最後まで戦場に出ました!
  10. 本能寺の変の時の明智光秀の年齢
    55歳(67歳説あり)(参照ページ:6月2日>>)
    つい信長より年下に思っちゃう(信長=49歳)
  11. 関ヶ原の戦いの時の細川幽斉の年齢
    67歳(参照ページ:7月21日>>)
    たった500人で田辺城を死守!
  12. 画家生活71年、90歳で没した葛飾北斎
    葛飾北斎と名乗っていたのは13年間
    46歳~59歳までだそうです…(参照:4月18日>>)
  13. 近松門左衛門が『心中宵庚申』を発表した年齢
    72歳(参照ページ:11月22日>>)
    心中モノが禁止になる直前の作品
  14. 伊能忠敬が全国の測量を終えた年齢
    72歳(参照ページ:9月4日>>)
    50歳で天文学を志し56歳で測量に出発!
  15. 吉田松陰が松下村塾を開講した年齢
    28歳(参照ページ:11月5日>>)
    多くの英雄を排出した先生の若さに乾杯!
  16. 橋本左内が『啓発録』を著した年齢
    15歳(参照ページ:10月7日>>)
    15歳でここまでデキるとは!その若さに完敗(><)
  17. 徳川慶喜が大政を奉還した年齢
    30歳(参照ページ:10月14日>>)
    徳川の世に幕を引いた最後の将軍の英断?
  18. 津田梅子がアメリカ留学した年齢
    8歳(参照ページ:11月12日)
    満年齢だと、まだ6歳だったとか…
  19. その他
    「やっぱ、この人でしょう」
    「この人忘れちゃ、ダメよ~ダメダメ!」

    ってな方がおられましたらどうぞm(_ _)m
      

悩みつつも、とりあえずは、上記の選択肢に絞ってみました。

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケート投票は11月14日締め切りとさせていただきました。

結果発表コチラからどうぞ>>

たくさんのご投票、ありがとうございましたm(_ _)m

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2014年10月25日 (土)

織田信長ピンチ!~第二次長島一向一揆戦

 

天正元年(1573年)10月25日、北伊勢から撤退する信長軍を、長島一向一揆勢が追撃し、信長軍の殿をつとめた林通政が討死しました。

・・・・・・・・・・・

長島は、尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県・岐阜県の一部)の国境にあり、木曽川長良川揖斐川という3本の川が合流して伊勢湾に流入するデルタ地帯・・・

この頃には、尾張の一部と認識されていたようですが、永禄五年(1562年)に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)とされる織田信長も、未だ、この長島は支配していませんでした。

というのも、この長島は、本願寺蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の六男・蓮淳(れんじゅん)を住職として創建された願証寺(がんしょうじ)を中心に、武装した本願寺門徒が勢力を誇る地域だったからです。

永禄十年(1567年)に居城の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を信長に落された(8月15日参照>>)斉藤龍興(たつおき)が、後に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦い(8月14日参照>>)で反信長として再登場する=つまり、城を落されても生き延びる事ができたのは、その時に、ここ長島に逃げ込んだからとの事・・・

そんなこんなの元亀元年(1570年)9月、大坂の石山本願寺が信長相手に蜂起・・・ご存じの石山合戦が勃発(9月12日参照>>)、この時に第11代法主の顕如(けんにょ)が、全国の本願寺門徒に蜂起を呼び掛けた事から、当然、この長島も・・・

早速、下間頼旦(しもつまらいたん)に率いられた何万もの武装した宗徒が、信長方の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)桑名城(くわなじょう=三重県桑名市)次々と攻略・・・この時、長島城の伊藤重晴は追放され、古木江城を守る織田信興(のぶおき=信長の弟・信与)は自決に追い込まれ(11月21日参照>>)、桑名城の滝川一益(たきがわかずます)が敗走という結果に・・・

この時の信長は、あの姉川の戦い(6月28日参照>>)をはじめとする対・浅井朝倉戦(9月20日参照>>)に向き合っている真っ最中で救援に向かえなかったのです。

しかし、続く11月26日の堅田の戦い(11月26日参照>>)で、その浅井朝倉戦が一応の落ち着きを見せた事から、翌・元亀二年(1571年)5月に、信長は最初の長島一向一揆戦を開始しました。

第一次長島一向一揆戦となるこの時の戦いでは、信長軍が周辺に放火して回った後、一旦退こうとしたところを、数万の宗徒が追撃・・・総指揮をとっていた柴田勝家が負傷し、殿(しんかり)をつとめた勇将・氏家卜全(うじいえなおもと=直元)討死してしまうという、またもや痛手を被ってしまいました(5月12日参照>>)

その後、天正元年(1573年)8月になって朝倉を倒し(8月20日参照>>)、その勢いのまま、先の刀禰坂の戦い後に浅井を破った(8月28日参照>>)信長は、続いて休む間もない9月24日、北伊勢に向かって出陣・・・これが、第二次長島一向一揆戦となる戦いです。

Dai2zinagasimaikkouikkicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に一泊した信長が、翌25日に大田城(おおたじょう・太田城=岐阜県海津市)がある小稲葉山(こいなばやま)に布陣する一方で、近江(滋賀県)に駐留していた織田配下の軍勢が峠を越えて伊勢入り・・・26日には桑名方面へ進撃した佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし)丹羽長秀(にわながひで)蜂屋頼隆(はちやよりたか)らが西別所城(にしべっしょじょう=三重県桑名市)に立て籠もる一揆勢を数多く討ち取りました。

柴田勝家と滝川一益も、近くにある坂井城(さかいじょう=桑名市)を包囲し、間もなく攻撃を開始・・・城を守っていた片岡掃部(かたおかかもん)は10月6日に降伏を申し出、城を明け渡しました。

続いて勝家と一益の二人は、深谷部(ふかやべ)近藤城(こんどうじょう)を攻め立てますが、この時、近くの抗夫を雇って隧道を掘って攻め、まもなく、この城も開城となりました。

さらに10月8日、信長が本陣を東別所に進めると、もはや抵抗は不可能と判断した周辺の地侍たちが、次々と本陣を訪れ、人質を差し出して降伏の挨拶に参上しましたが、そんな中で、白山城(はくさんじょう=三重県津市)中島将監(なかじましょうげん)だけは現れなかった事から、信長が、またまた信盛・頼隆・長秀・秀吉の4人に命じて、築山を築いて隧道を掘って攻めさせると、さすがに「もはや守りきれない」と感じた将監が降伏・・・白山城も開城となりました。

こうして北伊勢は平定・・・一向一揆勢も半数は討死して、勢力も衰えた事から、信長は矢田(やだ=桑名市)に砦を築かせて、そこを滝川一益に守らせ、兵を撤収する事にしたのでした。

天正元年(1573年)10月25日、岐阜へと戻る途中の信長は、県境にある多芸山(たぎやま・養老山=岐阜県養老郡・大垣市)へと差しかかりますが、当時のこのあたりは左手には草木の生い茂った山が迫っており、右手は揖斐川がすぐそばまで迫る泥深くて葦が生い茂る中を、うねうねとした1本の道が通っているという難所・・・

そう、実はここに、撤退する信長軍を追撃しようとする長島一向一揆勢が伏せていたのです。

各自、鉄砲や弓矢を持った伏兵は、道の要所々々に散らばって、信長がやって来るのを待ち、やがて、その時が来た時、一斉に矢を放ちます。

一揆勢の中には、加勢にやって来た伊賀&甲賀の弓の名手も多数含まれていましたので、雨あられのように降り注ぐ矢の前に、信長軍の兵士は次々と倒れていきましたが、そこを毛屋猪介(けやいのすけ=元は朝倉の家臣)なる武将が進み出て、そこかしこで応戦・・・

そんな中、昼を過ぎた頃から、いきなりの激しい雨が降って来たため、一揆勢・信長軍、ともに鉄砲が使えなくなった事から白兵戦となり、信長は林通政(はやしみちまさ)殿を任せて、自らは前進・・・

大役を任された通政は、何度も敵を追い払い、道が狭くなったところに集中して兵を集めて、逃げる主君を追わせぬよう踏ん張って戦います。

中でも、賀藤次郎左衛門(かとうじろうざえもん)という通政の家臣は、国内に知らない者はいない弓の名手で、今回も先頭を切って駆けて来る敵をバッタバッタと倒しておりましたが、やがて、主君の通政が討死・・・次郎左衛門もまた、ここで命を落しました。

しかも、昼過ぎから降り出したこの日の雨は、さらに激しさを増して降り続き、兵士たちの中には凍死した者も少なくなかったとか・・・(旧暦の10月25日は11月末~12月初めなので…)

通政らの命がけの防戦で、何とか敵の追撃を振り切った信長は、この日の夜に大垣城に到着・・・翌・10月26日に岐阜城に戻りました。

まさに、危機一髪だった信長・・・当然、このままおとなしく引き下がるはずは無い事は、ご承知の通り・・・

翌・天正二年(1574年)7月、今度は最後となる3度目の長島一向一揆戦へと向かう事になりますが、そのお話は2007年9月29日のページで>>7年も前の記事なので、まだブログに慣れて無い感ありますが、よろしければどうぞm(_ _)m
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2014年10月17日 (金)

九州の関ヶ原~加藤清正の動き

 

慶長五年(1600年)10月17日、加藤清正が小西行長の支城・八代城を制圧しました。

・・・・・・・・・・・・

各地の武将を巻き込んで行われた天下分け目の関ヶ・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

本チャンの関ヶ原と同時進行的な感じで展開していた九州の関ヶ原と言われる合戦で、東軍として参戦していた細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)を、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)の支援を受けた大友義統(よしむね=宗麟の息子)が攻撃した(9月10日参照>>)事を受けて、豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)中津城(大分県中津市)にて隠居の身であった黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)が挙兵し、救援部隊として、その義統を石垣原の戦い(9月13日参照>>)で破り、その勢いのまま北九州制圧(10月14日参照>>)した事など、先日来よりご紹介させていただいて来ましたが、

Katokiyomasa600 この九州では、多くの武将が西軍として関ヶ原に参戦していた中、合戦前から、先の黒田&細川とともに、東軍参戦を明白にしていたのが、隈本城(くまもとじょう・熊本城=熊本県熊本市)を居城とずる加藤清正(かとうきよまさ)でした。
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ご存じのように、この清正は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の母方の親戚だった縁から小姓となり、秀吉の奥さんのおねさんのもとでわが子のように育てられたいわゆる飼いの家臣で、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(4月21日参照>>)にも名を連ね、あの朝鮮出兵でも活躍(12月22日参照>>)する猛将だったわけですが、

その朝鮮での戦いで、先頭に立って戦う清正らと、それを監督する立場にあった石田三成(いしだみつなり)らの間に亀裂が生じた(4月18日参照>>)ため、秀吉亡き後には三成襲撃事件(3月4日参照>>)まで起こしていました。

なので、この関ヶ原では、現地での実質的な中心人物であった三成に対抗すべく、当然の東軍参戦だったわけです。

この時、関ヶ原には行かず、九州に留まっていた清正は、もちろん、かの杵築城攻撃の一報を受けて、約4000の兵を引き連れて救援に向かうのですが、未だ、彼らが杵築に到着する前に、石垣原で決着が着いた旨の知らせが届いたため、清正は兵を戻す事にします。

が・・・彼もまた、如水同様、そのまま居城に戻る事なく、西軍として関ヶ原に参戦している小西行長(こにしゆきなが)の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)に向かうのです。

Sekigaharakitakyuusyuukcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

9月20日、宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って、宇土城を完全包囲・・・この戦いには、日野江城(ひのえじょう=長崎県南島原市)有馬晴信(ありまはるのぶ)大村城(長崎県大村市)大村喜前(おおむらよしあき)も加わり、味方の士気は高まります。

この時、宇土城の留守を預かっていたのは行長の弟の行景(ゆきかげ)・・・この時点で、すでに数日前の関ヶ原本チャンでの勝敗は決定(9月15日参照>>)、しかも、19日には行長が捕縛(9月19日参照>>)されてしまっていますが、未だ、その知らせは宇土城には届いておらず、当然ですが、行景は、支城の八代城(やつしろじょう=熊本県八代市)へ救援要請するなど、徹底交戦の構えで挑みます。

この状況に、宇土城に総攻撃をするか否かを悩んだ末、「総攻撃は犠牲が大きすぎる」と判断した清正は、三の丸までは攻略したものの、その先は、固く包囲する状況のまま長期戦に持ち込もうとします。

ところが、ここに来て南から進軍して来たのが島津勢・・・ご存じのように、島津四兄弟の次男である島津義弘(しまづよしひろ)は、西軍として参戦した現地=関ヶ原にて敵中突破(9月16日参照>>)の離れ業で戦線を離脱しましたが、鹿児島に残っていた兄の義久(よしひさ)が、宮之城(みやのじょう=鹿児島県薩摩郡)島津忠長(ただなが=分家で家老)とともに北上し、清正の支城・佐敷城(さしきじょう=熊本県葦北郡)を攻撃して来たのです。

おかげで、清正の宇土城攻撃は、その先へ進めず・・・

しかし、当然の事ながら、やがては関ヶ原での戦況が、この九州にも伝わって来るわけで・・・

9月28日、かの黒田如水から関ヶ原現地での結果を聞いた清正は、行景に対して状況を説明し、降伏するよう呼び掛けはじめます。

はじめは清正の言う事を信じなかった行景でしたが、徐々に関ヶ原で敗れた兵士たちが宇土城に戻って来て、現地の状況を報告するようになった事から、結果を知った行景は決意を固め、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)、宇土城開城へと踏み切ったのでした。

続く慶長五年(1600年)10月17日、支城の八代城も制圧した清正・・・

一方、島津からの攻撃を受けていた佐敷城では、関ヶ原の結果を知った島津軍が兵を退くまでの約1ヶ月間、城代の加藤重次(しげつぐ)が、この籠城戦を守り切りました。

このあと、清正は最後の関ヶ原とも言える11月3日柳川城の戦い>>へと向かう事になります。
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2014年10月14日 (火)

九州の関ヶ原~小倉城開城で黒田如水が北九州制圧

 

慶長五年(1600年)10月14日、関ヶ原の戦いに乗じて北九州を制圧中の黒田如水が、小倉城を落しました。

・・・・・・・・・

天下分け目の関ヶ原は、9月15日の本チャン=関ヶ原での決戦以外にも、各地に様々な影響を与え、それぞれ東西に分かれた各地の武将が、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走していたわけですが・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

そんな中で、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)を通じて、豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から旧領=豊後(大分県)の回復を約束された大友義統(よしむね=宗麟の息子)が、東軍として関ヶ原にいるために留守役しか残っていなかった細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)を攻めた事(9月10日参照>>)で、この杵築城を救援すべく兵を挙げたのが、隠居して豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)中津城(大分県中津市)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)・・・

9月13日、両者は石垣原でぶつかり、九州の関ヶ原とも呼ばれる、この石垣原の戦いに如水は勝利する(9月13日参照>>)のですが、如水の関ヶ原は、まだまだ終わりません。

Sekigaharakitakyuusyuucc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

その後、先の杵築城攻め救援を優先したために、囲んだだけでスルー状態になっていた垣見一直(かきみかずなお)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)と、熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を自ら兵を率いて攻める如水は、9月19日に安岐城を、10月2日に富来城を開城させる一方で、

家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)日田(ひた)玖珠(くす)郡へと侵攻させて、西軍に属する佐伯城(さえきじょう=大分県佐伯市)城主の毛利高政(もうりたかまさ)に属する角牟礼城(つのむれじょう=大分県玖珠郡玖珠町)隈城(くまじょう=大分県日田市:日隈城とも)を攻撃させました。

留守を預かる隈城代・毛利隼人佐(はやとのすけ)は、わずかな兵で籠城しつつ、周辺の西軍に属する城へと救援を求めるのですが、残念ながら、ここらあたりの城主たちは、皆、主力部隊を引き連れて現地=関ヶ原に行ってしまっていて留守・・・救援に応える事ができません。

やむなく隼人佐は、無血で降伏開城する事を決意しますが、実は、それと前後して、如水の勢いに押されたのか?、ここ九州では、西軍から東軍に寝返る武将が続出していて、かの毛利高政も、すでに東軍に寝返っていたらしい事から、この無血開城は、もはや戦う意味も無かったという事なのかも知れません。

そんな中、豊後竹田・岡城(おかじょう=大分県竹田市)中川秀成(なかがわひでしげ)も西軍から東軍に寝返り、太田一吉(おおたかずよし)臼杵城(うすきじょう=大分県臼杵市)を攻めるべく出陣・・・迎え撃つ太田勢は、10月3日に佐賀関にて中川勢を破ったものの、もはや、東軍へと吹く風に逆らう事は無謀と判断したのか?如水に対して降伏を申し出ます。

つまり、ここも如水が平定した事になったわけで・・・

「ほんだら、次は…!」とばかりに、如水は居城の中津へは戻らず、そのまま毛利勝信(かつのぶ=吉成)小倉城(こくらじょう=福岡県北九州市小倉)へと向かいます。

まずは10月5日に、支城である豊前・香春岳城(かわらだけじょう=福岡県田川郡香春町大字香春)開城させた如水は、その勢いのまま小倉城を囲みます。

しかし、すでに支城の香春岳城が開城した事も小倉城内に伝わっているうえ、攻撃の先発隊だったのが、その香春岳城・城主の遺児(城主は伏見城の戦いで戦死)を掲げた言わば仲間だった事もあり、さらに、小倉城主の勝信も、その息子の毛利勝永(吉政)も、現地の関ヶ原に行っていて留守だった事・・・

それらの状況を受けて、小倉城内では、我先に逃亡者が続出する事態となり、もはや戦闘くクソも無い状況・・・結局、慶長五年(1600年)10月14日小倉城は開城となったのです。

こうして、あの9月9日に中津城を出陣して後、わずか1ヶ月余りで、豊後&豊前を平定するという電光石火の猛進撃を見せた如水・・・

なので、如水は、この関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?という説もあり・・・ウソかマコトか、「お前の左手は何をしてた?」って、息子の長政(ながまさ)を怒鳴ったって話(8月4日の後半部分参照>>)もありますしね。
(個人的には、今年の大河ドラマの主役=戦を回避したがるキャラの官兵衛で、ここのあたりをどう描くのかが楽しみです)

とにもかくにも、このあとの九州の関ヶ原は、
10月20日の久留米城の戦い>>
11月3日の柳川城の戦い>>
へと向かう事になりますが、その前に黒田如水と同時進行だった
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】もどうぞ>>m(_ _)m
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2014年10月 7日 (火)

大坂の陣~毛利勝永の入城

 

慶長十九年(1614年)10月7日、大坂の陣に備えた豊臣方の呼び掛けに応じ、浪士たちが大坂城に入城しました。

・・・・・・・・・・・

関ヶ原の戦いに勝利したものの(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>)、未だ健在の目の上のタンコブ=豊臣家(3月29日参照>>)を滅ぼそうと、豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)が大仏を建立した京都の方広寺の鐘銘(4月26日讃参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)がイチャモンをつけた事に始まる(8月20日参照>>)、ご存じ大坂の陣・・・

くわしいそれぞれは【大坂の陣の年表】>>でご覧いただくとして・・・

この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、それは、
真田幸村(さなだゆきむら=信繁)
毛利勝永(もうりかつなが=吉政)
木村重成(きむらしげなり)(5月6日参照>>)
大野治房(おおのはるふさ)
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(5月15日参照>>)
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)(4月10日参照>>)
明石全登(あかしたけのり・景盛)(5月8日参照>>)
の7人。

この中で、木村重成と大野治房は豊臣の家臣ですが、彼ら以外の5人は、合戦間近となった大坂城内からの呼び掛けに応じて入城した浪人たちでした。

・・・で、『駿府記』『時慶卿記』などによれば、彼らは慶長十九年(1614年)10月7日に入城したと・・・

と、なっているものの、『當代記』では10月6日~9日にかけてとなっていますし、以前書かせていただいたように、真田幸村が九度山を脱出するのが10月9日(『翁草』=10月9日参照>>)という話もありますので、そこのところは曖昧ではありますが、本日のところは10月7日の日付けで、この日入城したとされる毛利勝永の入城秘話『明良洪範』に沿ってご紹介させていただきます。

ちなみに、七人衆ではありませんが、猛将として知られる塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)(12月16日参照>>)も、この日に入城したとされます。

逆に、あの高山右近(たかやまうこん=長房・重友)はマニラに追放=日本を出国しています(大坂方の使者がギリギリ間に合わなかったとも…)(1月5日参照>>)

・‥…━━━☆

毛利勝永(吉政)は、父=毛利勝信(かつのぶ=吉成)とともに豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた武将で、天正十五年(1587年)に、父に豊前国(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)小倉を与えられたのと同時に、彼も豊前国内に領地を賜ったとされます。

豊臣政権下では、その後の朝鮮出兵でも活躍した勝永でしたが、あの関ヶ原では父とともに西軍として参戦・・・伏見城の攻撃に参加し、本番の関ヶ原では、西軍総大将:毛利輝元(てるもと)の名代である毛利秀元(もうりひでもと)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに南宮山に布陣していたために、ご存じのように、決戦には参加せずとも負け組となってしまいます。

しかも、勝永父子が関ヶ原に行ってる間に、北九州を制圧中の黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)に居城の小倉城を奪われてしまっていました(10月14日参照>>)

まぁ、負け組となった以上、ここで如水に奪われなくても、その身は改易処分となるわけですが・・・で、戦後は、以前から仲の良かった山内一豊(やまうちかずとよ)(12月5日参照>>)との縁から山内家に預けられる事となり、父子ともども土佐(とさ=高知県)へと移ります。

昔から仲が良かったおかげか、ここ土佐での生活は預かりの身とは思えないほど待遇が良かったようで、勝永は、のんびりと茶の湯に親しむ毎日を送っておりましたが、そんな中、ある時、家臣の窪田甚三郎に、
「ちょっと、大坂まで行って、カッコええ茶器なと買うて来てくれへんかな?」
と・・・

勝永の求めに応じて大坂に向かった甚三郎は、そこで、豊臣秀頼の近況を小耳にはさみます。

実はこの甚三郎さん・・・大坂の陣の時に大坂城内の主将格として活躍する大野治長(おおのはるなが)従兄弟にあたる人物です。

なんとなく偶然では無い、出来すぎ臭がプンプンする感はありますが、とにもかくにも、ここで甚三郎は、「間もなく起こるであろう大坂の陣」の事、秀頼が「勝永にも参戦してほしい」と言ってる事などの情報を入手し、土佐の勝永に伝えます。

伝え聞いた勝永は、早速、大坂城に入る決意を固めるのですが、気がかりなのは、おそらくは土佐に残していく事になるであろう妻子の事・・・

ある夜、勝永は、奥さんにうち明けます。

「前の大戦で負け組についてもた事で、お前ら家族にまでツライ思いさしてしもて、ホンマ心苦しいんやけど、実は…密かに考えてる事があんねん…けど、めっちゃ言い難い事やねん」
と・・・

すると奥さんは、
「何を言うてんのよ!
ウチがこの家に嫁に来たんのも、ず~っと前から神さんが決めてはった運命なんやと思うし、嫁に来た以上、旦那さんと一緒に浮き沈みすんのは女のさだめやん。
そんな事、ツライなんて思わへんよ…むしろツライんは、大好きな旦那さんが、悩みをウチに言うてくれへん事やわ。何でも言うてよ」

その奥さんの言葉に・・・
「実は、もうすぐ天下分け目の大きな戦いがある。
それを横目で見ながら、ここでグダグダやってるのは、実にくやしい!!
やっぱ俺は、秀頼さんのもとに馳せ参じて、前の大戦のリベンジしたいねん。
けど、俺がここを出たら、きっとお前らは、山内さんに人質として捕えられるやろ…それが心配で…」

と、勝永が言うと、奥さんは大きな声で笑いながら・・・
「アハッ(*^m^)ちゃうちゃう、その考え、間違うてるわww
天下の猛者とあろう者が、嫁さん子供への情にほだされて、足踏みしてる事こそ、恥ですやん!
ウチらの事なんか気にせんと、さっさと大坂行って、家名を再興して来なはれ!」

と高らかに言い放ち、

続けて・・・
「もしアンタが討死にしはった時は、ウチら皆、この海に身を投げて、あの世とやらへお供しするだけやし…けど、アンタが勝たはった時は、絶対、もっかい会いましょね」
・・・夫を信じて、待っていると・・・

この奥さんの言葉に勇気づけられた勝永は、早速、土佐藩主の山内忠義(ただよし=一豊の養嗣子)『関東に下りたい」とウソをついて出国の許可を得、嫡子=勝家(かついえ)とともに大坂城へと向かったのでした。

もちろん、そんなウソはすぐにバレます。

彼らが大坂城にて籠城したという一報を聞いた忠義は、妻子を捕えて駿府へと連れて行きましたが、一部始終を聞いた家康の、
「それって武士としては立派な事やんか…そんなヤツの妻子を罪に問うたらアカンのちゃう?」
との言葉により、その後、妻子は城中にて養育されたとの事・・・

って、なんか、いつの間にか「神君家康公ステキ(*≧m≦*)」の逸話にすり替えられる気がしないでもない・・・(あくまで『明良洪範』内のお話ですから)

実際には、この時、妻とともに駿府へ行った次男君は、合戦後に斬首されているようですし・・・

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『大坂夏の陣図屏風』右隻4扇(大阪城天守閣蔵)に描かれた毛利勝永…右隻の左端に描かれているのが大坂城で、中央の鳥居は四天王寺の西門、鳥居を挟んだ下(西側)には真田隊が見えます。

とにこかくにも、こうして大坂方の一翼として大坂の陣に参戦する事になった勝永は、期待通りの縦横無尽の活躍をし、夏の陣では、家康本陣にまで攻め込む大活躍を見せるのですが・・・そのお話は、2015年5月7日【毛利勝永VS本多忠朝~大坂夏の陣・天王寺口の戦い】でどうぞ>>
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2014年10月 1日 (水)

北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」

 

天正十五年(1587年)10月1日、京都の北野天満宮にて、豊臣秀吉による大規模な茶会・・・世に言う「北野大茶会」が開催されました。

・・・・・・・

この日をさかのぼる事2ヶ月ほど前の7月末、京都・大坂・奈良・堺など、畿内の主だった場所に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)からの高札が立ちます。

その文面は・・・

  • 北野の森において、十月朔日(ついたち)より十日の間、天気次第、大茶湯御沙汰(おおちゃのゆごさた)さるるに付(つい)て、御名物共残らず相揃えられ数寄執心(すきしゅうしん)の者に見せられるべき御ため、御催成(おんもよおしな)され候事。 
  • 茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一(かまひとつ、つるべ一、呑物一、茶なき者はこがし(米を煎って塩を加えた茶の代用品)にても苦しからず候間、提来(さげき)たり仕(つかまつ)るべく候事。 
  • 座鋪(ざしき)の儀は松原にて候間、畳二畳。但し、侘者(わびもの)は綴継(とじつぎ)にても、稲掃(いねばき)にても苦しかる間敷事。着所の儀は次第不同たるべし。 
  • 日本の儀は申すに及ばず、数寄心懸けこれある者は、唐国の者までも罷(まか)り出べく候事。 
  • 遠国(おんこく)の者まで見せられるべきため、十月朔日まで日限御延ばしなされ候事。 
  • かくのごとく仰せ出さるるは、侘者不便(ふびん)に思(おぼ)し召しの儀候ところに、今度罷り出ざる者は、向後(こうご)においてこがしも点て候事、無用との御意見事に候。罷り出ざる者の所へ参り候者も、同前たるべき事。 
  • 侘者においては、誰々遠国の者によらず、御手前にて御茶下さるべき旨、仰せ出され候事。
    …右以上
    『北野大茶湯之記』より

の7項目からなる物で、北野の松原にそれぞれ畳・2畳ぶんの場所を確保して行う事や、茶の湯が好きなら誰でも=中国人の参加もOKとし、心得のある者には、秀吉自らが茶の接待をする事などが明記されていました。

逆に、「俺が、こんだけ広く門を開いたってんねんから、これでも参加せぇへん者は、今後、茶の湯をやったらアカンからな!」というペナルティも・・・

ちなみに北野天満宮のHPの「宝物殿のご案内」のページ高札の現物写真がありますので→コチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

もちろん、これ以前に、公家や各地の大名や茶人などには朱印状を通じて通達済み・・・公家の日記には、この秀吉の要請に、慌てて準備する様子が記録されていて、中には、資金の工面がつかず、茶室の完成がギリギリになる人もいたようですが・・・

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北野天満宮

そんなこんなでやって来た「北野大茶会(きたのだいさのえ)本番の天正十五年(1587年)10月1日・・・天気はうってつけの晴天となりました。

豪華絢爛な衣装を身につけて、小姓や家来を引き連れた秀吉は、早朝から北野の森へと足を運びますが、到着したその目の前にあるのは、昨夜、天満宮の拝殿に組み立てられた、あの黄金の茶室・・・

その黄金の茶室を背に秀吉が座ると、その両側に、今井宗久(いまいそうきゅう)津田宗及(つだそうぎゅう)千利休(せんのりきゅう=宗易)らをはじめとする茶人や前田利家(まえだとしいえ)などの武将ら15名が着座し、おもむろに秀吉が濃茶を点て、一同が頂きます。

その後、周囲に造られた4つの茶室に、秀吉、宗久、宗及、利休の4人が入り、参加者は、各茶室の入口から入って茶を頂き、別の出口から出て行く・・・という、まさに、どこぞのアイドル48の握手会方式で、彼らのお点前を頂いたのです。

なんと!この日、秀吉ら4人は、一人200人以上を接待したと言います。

とは言え、さすがに途中から疲労が濃くなった秀吉は、午前中で自ら茶を点てる事は中止したものの、会場には、公家・武家・庶民らの茶屋が800軒余りも建ち並んでいましたから、それらを満足げに見て回ったりしつつ、

披露した黄金の茶室や、そこに飾られた名物名器を、一目見ようと押し寄せる群衆を眺めながら、終始、上機嫌だったそうな。

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北野大茶の湯図(北野天満宮蔵)

ところが・・・・

翌日の10月2日、前日とは打って変わって、茶会はいきなりの中止・・・しかも、その後再開される事なく終了してしまいます。

つまり、高札では「10日まで」と言っていたのが、10月1日の1日こっきりで終わってしまったのです。

一般的には、その理由として、肥後(ひご=熊本県)の国人一揆(7月10日参照>>)が挙げられます。

1日の午後に、この肥後での一揆の知らせを聞いた秀吉が不機嫌になって中止・・・という事なのですが、

未だ、その真相は明らかではなく、それ以外にも、「思ってたほど人が集まらず盛り上がらなかった」=「イベントの失敗」をウヤムヤにするために、一揆うんぬんを持ちだして早いうちにやめる事にした、なんて事も言われてます。

また、そもそもは、この半年前に九州を平定(4月17日参照>>)、京都に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を建設して(2月23日参照>>)、天下人としてノリノリの秀吉が、自らの権威を見せびらかしたいための茶会であり、その気持ちに1日で満足したので終わったとか、

上記の通り、何百人もの相手をする事になってしまったので疲れてやめたとか、
高札を立てた段階では10日だったけど、途中で変更され、結局は、はなから1日の予定で開催されたとか・・・

また、「京都の人の反応を見ていた」という説もあります。

秀吉は、この4年前から、あの石山本願寺(8月2日参照>>)の跡地に大坂城の築城を開始していますが、ちょうどこの頃、自らの拠点を京都にするか?大坂にするか?迷っていて、今回の茶会の反応を見て大坂に決めたんじゃ?(1日やってみて決心がついた?)・・・てな事だとも、

もちろん、それらすべてが絡み合った結果という事もありますし、まったく別の事が理由かも・・・なんせ、この北野大茶会、秀吉の文化的な大変革ではなかったのか?と思えてならないのです。

それは、秀吉の茶の湯が、元主君=織田信長の茶の湯に対抗するような・・・

以前も書かせていただいたように、そもそもは鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)中国から持ち帰ったお茶(2006年10月31日参照>>)という物が、南北朝時代に闘茶(2008年10月31日参照>>)という形で武士に親しまれた後、室町時代に禅の精神と融合し、やがて村田珠光(しゅこう)や、その弟子の武野紹鷗(たけのじょうおう)(10月29日参照>>)らによって、茶の湯=茶道という形で戦国武将の間で大流行する(3月4日参照>>)わけですが、

信長は、この茶の湯に「一部の選ばれた者の特権」という価値をつけます。

それは、天下を平定した後には、「与える恩賞が無くなるかも」という事への危機感かも知れません。

そう、鎌倉時代の昔から、命をかけて戦場を駆け抜ける武士の最大の恩賞といえば土地=領地ですが、もしかして日本全国を制覇してしまったら、その先、家臣への給料はどうやって支払ましょう?・・・って事です。

この信長の時代、茶会を開くためには、信長の許可が必要でした。

秀吉場合、天正五年(1577年)に上月城など播磨(兵庫県)備前(岡山県)に点在する毛利の諸城を制圧した褒美として、信長からの許可を得て、翌・天正六年(1578年)10月15日に三木城攻め(3月29日参照>>)の陣中で初めての茶会を開いています。

さらに、信長時代の茶頭(さどう=茶の湯の師匠)であった今井宗久・津田宗及・千利休らに、彼らの美的感覚で評価を高めた、いわゆる名物と呼ばれる茶道具を生み出させ、信長自らが、それを買いまくって、さらに希少化してその物の価値を上げて・・・そうすれば、先の秀吉のように、茶会を開く事ができる事が褒美となり、めずらしい高価な茶道具を拝領する事が褒美となるわけです。

これが、信長の「茶の湯御政道」・・・

しかし、今回の秀吉の北野大茶会・・・冒頭の高札にある通り、釜一つ、つるべ一つ持って「老いも若きも百姓も町民も、みんな集まれ~~!」となってます。

これは、その信長の「茶の湯御政道」とは、相反する物のように思えてならないわけで・・・

もちろん、茶の湯に価値があり、名物茶道具が褒美となる価値観は、この後もしばらく続きますが、今回の秀吉の北野大茶会には、上は天皇や公家から下は一般庶民までに、自らの権威を見せびらかし、自己顕示欲を満足させる事だけでは無い何かか、秀吉の中にあったという事が見え隠れしてなりません。
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