黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風
明暦二年(1656年)11月13日、黒田家3代に仕え、黒田二十四騎や黒田八虎の一人に数えられる武将・黒田一成が亡くなりました。
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黒田一成(くろだかずしげ)は、黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか=如水)→黒田長政(ながまさ)→黒田忠之(ただゆき)と、まさに筑前福岡藩の基礎づくりの時代に、黒田家3代に渡って仕えた武将ですが、父は加藤重徳(かとうしげのり)という荒木村重(あらきむらしげ)の家臣で、彼自身も、はじめは加藤一成でした。
そう、今年の大河ドラマをご覧になっている方は、「あぁ、あの…」と思いだされる名場面だったと思いますが・・・
毛利という大国が存在する中国地方に進出中の織田信長(おだのぶなが)に、荒木村重が反旗を翻した時、その説得のために有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)に訪れた黒田官兵衛を、村重が土牢に幽閉した(10月16日参照>>)有岡城の戦いで、その囚われた官兵衛の牢番をしていたのが加藤重徳でした。
この時、有岡城には、後に黒田二十四騎の一人に数えられる事になる井口吉次(いぐちよしつぐ=この時の吉次は長政の近侍)の姉が仕えていたのですが、重徳は、その彼女が官兵衛の世話をする事を黙認したり、家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)らが官兵衛に接触したりする事を、見て見ぬふりをしたと言います。
その温情に感謝した官兵衛は、「もし俺が、ここから出て、無事に戻る事ができたなら、君の息子を保護して、織田の攻撃からも、その命は必ず守ったる!」と約束したのです。
果たして、有岡城落城の際、その重徳は戦いの中で行方不明となりますが、官兵衛は、約束通りに重徳の息子を保護し、戦後に養子として迎え入れて黒田姓を名乗らせ、我が子のように養育する事となる・・・
そう、その息子が一成です。
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こうして、官兵衛の嫡男の長政とは、兄弟のように育った一成は、やがてあの小牧長久手の戦いの一環として起こった岸和田城の戦い(3月22日参照>>)にて初陣を飾り、その後、数々の武功を挙げる猛将に成長していきます。
あの天下分け目の関ヶ原で、東軍に属した武将の中では、戦後に3倍近い石高となる=合戦1番の功労者として長政が扱われるのも、配下の一成が、多くの名将の首を挙げた事が要因の一つであったとも言われています。
しかも、黒田二十四騎の中では最も長寿を全うし、晩年には、あの島原の乱(2月28日参照>>)にまで出陣し、老いてもなお、家臣たちからの信頼も厚かったらしいです。
そんな一成さんは、明暦二年(1656年)11月13日、86歳でこの世を去りますが、その子孫の家系は、明治に至るまで、常に黒田家内では特別扱いの名家だったのだとか・・・
・・・と、一成さんの武功の詳細も書かねばならぬところではありますが、その前に、大阪城大好きの茶々としては、この一成さんに関して、ちょっと気になる事が・・・
それは、現在、大阪城天守閣が所蔵している重要文化財のお宝=大坂夏の陣図屏風についてです。
これまでも、何度か、このブログでご紹介させていただいていますし(9月12日等参照>>)、現存する合戦屏風絵の中でも最高傑作との評価を受けている有名な屏風なのでご存じの方も多かろうと思いますが、この屏風は、もともとは筑前福岡藩の黒田家に伝来していた物で、一般的に「黒田屏風」と称されます。
↑大坂夏の陣図屏風「黒田屏風」:左隻(大阪城天守閣蔵)
↑大坂夏の陣図屏風「黒田屏風」:右隻(大阪城天守閣蔵)
これは、あの大坂の陣で大坂城総攻撃があった慶長二十年(1615年)5月7日の様子(5月7日参照>>)を描いた物で、右隻には両軍の激突が、左隻には落城時の混乱や、逃げ惑う人々、略奪を行う雑兵なども描かれていて、その大坂夏の陣に徳川方として参戦した黒田長政が、戦後間もなく、その戦勝記念として、家臣に命じて描かせた物と伝えられています。
そう、その時、長政の命により、この屏風の制作したのが、誰あろう一成さんなのです。
もちろん、一成さんは絵描きではありませんので、彼が描いたというのではなく、「ウチの殿様って、こんなスゴイ合戦に勝利したんやで!」と、我が殿様の活躍ぶりを後世に残すための一大プロジェクトを任されたという事です。
専門家の方の研究によれば、六曲一双の大画面の中に、人物:5071人、馬:348頭、幟:1387本、槍:974本、弓:119張、鉄砲:158挺が描かれているそうで、とても一人では描ききれない気がしないでも無いですが、この屏風の制作に関わった人物としては、『黒田家重宝故実』では八郎兵衛、『竹森家伝』では久左衛門なる絵師の名前が見えます。
しかし、上記の八郎兵衛なる絵師は、狩野派の中に狩野八郎兵衛なる人物がいるものの、大坂夏の陣図屏風との関係は釈然とせず、後者の久左衛門という絵師も、よくわからない・・・
なので、結局、今のところは、筆者は不明という見解になっているのですが、一方で、その作風から、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)の作ではないか?との見解も浮上しています。
この岩佐又兵衛は、『風神雷神図』などでもお馴染みの俵屋宗達(たわらやそうたつ)と並ぶ江戸時代初期を代表する大和絵絵師ですが、様々な流派の影響を受けながらも、そのうちのどれかに偏る事なく、見事に融合させて独特の新たな画風=「又兵衛風」を造り上げた人で、浮世絵の元祖とも言われ、江戸時代には浮世又兵衛なんて呼ばれてたらしいのですが・・・
そう、この大坂夏の陣図屏風には、その「又兵衛風」が見て取れるのです。
↑これは岩佐又兵衛筆による洛中洛外図屏風「舟木本」:右隻 (東京国立博物館蔵)=確かに素人の私が見ても作風が似ている気がします…ちなみに、こちらも重要文化財です。
そしてそして・・・
『名家略伝』や『岩佐家譜』などによれば、この岩佐又兵衛の父は、あの荒木村重との事・・・
有岡城落城の際(12月16日参照>>)は、わずか2歳だったところを、乳母の懐に隠されて脱出し、密かに本願寺の塔中に隠れ住みながらも、長じて、母方の姓である岩佐姓を名乗り、父の縁故によって織田家に仕えるも、幼き頃より好んでいた絵の才能が開花し、絵師になった・・・と、
そう、これまた、今年の大河ドラマをご覧になっている方には、父=村重との別れのシーンなど、「あぁ、あの…」と思いだされる名場面だったはず・・・
とは言え、最近の大河には、なぜか、側室なる女性が登場しないので(秀吉だけ例外ww)、ドラマでは村重の正室とされるだしさんの子供という事になってましたが、だしさんは岩佐姓では無いはずですので、おそらく、母親は別の女性だと思われます。
ただ、だしさんも、本願寺に仕えた川那部氏の出身とされる事から、逃亡後に本願寺に隠れたという一件からも可能性が無いわけでは無いのですが・・・
とにもかくにも、もし、大坂夏の陣図屏風の作者が岩佐又兵衛だったとしたら・・・
有岡城の牢番の息子で、彼もまた村重の家臣であった一成が、旧殿様の遺児に、その制作を依頼した事になるわけで・・・
もしかして、二人の間に交流があったのかしら?
なんとも、ワクワク感満載の妄想ネタになる説ではありませんか?
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コメント
こんにちは。
題名に興味を覚えてアクセスしましたが、内容もよく纏まっており、また読み易いというのが私の感想です。
これから時々お邪魔したいと思います。
貴ブログをリンクしたいと思いますので、宜しければ、我がブログにアクセス履歴を残して戴きたくお願いします。
投稿: tyouseimaru | 2014年11月13日 (木) 11時20分
tyouseimaruさん、コメントありがとうございます。
このブログはリンクフリーですので、お気づかいなくリンクしていただいて結構ですよ。
また、お暇な時にでも、覗きに来てくださいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年11月14日 (金) 02時19分
番組内で成人した岩佐又兵衛も見たかったですね。
軍師官兵衛は関東と関西とでは微妙に印象が違うようです。
ところで「最近の大河には側室が出ない」ではなく、「男性が主人公になる場合は主人公に側室がいない人が選ばれる傾向」だと思います。軍師官兵衛の他の人物でも側室は出ましたよ。
一成と岩佐又兵衛は再来年の「真田丸」では多分出ないと思いますが、後藤又兵衛は大坂の陣では豊臣側で真田幸村の戦友になるので、「今年の続きを見られる」と思えば待ち遠しいのでは?
投稿: | 2014年12月10日 (水) 10時59分
>男性が主人公になる場合は主人公に側室がいない人が選ばれる傾向…
確かに、ここのところの直江兼続や徳川秀忠なんかもそうですね。
ただ、主人公は、あえてそういう方を選んでいるように思いますが、今回の官兵衛なんかも、本人はともかく、お父さんには側室がいたわけで、本来なら、そばにいるはずの弟たちの影が、極端に薄い気がしてます。
やはり「時代」なんてしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年12月10日 (水) 17時35分