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2014年11月29日 (土)

大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い

 

慶長十九年(1614年)11月29日、大坂冬の陣での博労淵・野田・福島の戦いにおいて、徳川方が豊臣方の砦を奪いました。

・・・・・・・・・・

豊臣VS徳川の最終決戦となる大坂の陣ですが・・・

皆様ご存じのように、あの関ヶ原終結の段階から、豊臣家は、強くなりすぎた五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)を警戒し、家康は家康で「目の上のタンコブである豊臣家を潰したい」と思っていた(←心の内はわかりませんので、あくまで予想ですが…)わけですが、
【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】も参照>>)

そんな中、豊臣秀頼(とよとみひでより)が亡き父=秀吉の悲願だった京都・方広寺の大仏建立(7月26日参照>>)を達成しようとした直前に、家康は、その方広寺の鐘に書かれた銘文に抗議し、中止を要求(7月21日参照>>)・・・

その後、豊臣方の弁明空しく、家康は最後通告を発し(8月20日参照>>)、やがて、大坂城には有名浪士たちが集結し(10月7日参照>>)、徳川も江戸を出陣し(10月24日の後半部分参照>>)、まもなく決戦の時を迎える事になるのですが・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】で>>)

・・・で、その大坂の陣=今回は大坂冬の陣において、事実上の最初の合戦となるのが、大坂城へと通じる水路を巡る戦いで、その戦いが展開された場所の名前から、博労淵(ばくろうふち)野田・福島の戦と呼ばれます。

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野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

豊臣方は、木津川天満川の合流地点付近(現在、詳細な場所は不明)新家に船倉を設置して水軍の本拠とし、さらに、そこを守るがごとく五分一(ごぶいち)上福島に砦を築いて守備を固めていましたが、まずは、そんな豊臣方の水軍を潰すべく、慶長十九年(1614年)11月16日九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、10隻ほどの豊臣方の船が浮かんでいた伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・

・・・と、ここで、徳川方の攻撃者が九鬼(10月12日の【九鬼嘉隆の自刃】参照>>)・・・という点でもお察しかと思いますが、豊臣全盛時代に、その水軍を支えた武将の多くが、今回は徳川方についていた(二股をかけてた人もいたと思いますが…)事で、もはやこの時の豊臣方の水軍は、徳川の水軍と対抗できるほどの能力を持っていなかった?とも言われています。

その力の差を象徴するかのように、ここ伝法口はあっさりと徳川方に乗っ取られてされてしまい、続く18日には新家を、26日には福島を、28日には五分一を、と次々に攻略され、この方面の豊臣方主将であった大野治胤(おおのはるたね)もやむなく撤退・・・慶長十九年(1614年)11月29日には、徳川方の一手の池田忠雄(いけだただかつ)軍が上福島の砦を攻略しました。

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

一方、この間に南側の木津川口でも動きがありました。

11月19日朝、木津川口砦が手薄になっているのを確認した徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、自らの軍を二手に分け、水軍を南から、陸路で北側に回った軍には、船場方面から周囲の民家に放火させつつ木津川口砦を挟み撃ちに・・・この時、この木津川口砦の主将であった明石全登(あかしたけのり=景盛)が軍義のため現地にいなかった事から、指揮命令系統がグダグダだった守備隊は大混乱となり、やむなく博労淵砦(大阪市西区立売堀付近)へと撤退したのでした(木津川口の戦い)

この頃、家康は、大砲にて砦を攻撃すべく、水野勝成(みずのかつなり)らに、木津川の中州に仕寄(しより=城などを攻めやすくするため付城や壕を築いた攻撃拠点の事)を築かせていましたが、28日に、その仕寄が完成した事を聞きつけた蜂須賀至鎮は、「このまま、(先日奪った)木津川口砦に居座っていても手柄は立てられん!」とばかりに、残る博労淵砦への攻撃準備に取り掛かります。

明けて慶長十九年(1614年)11月29日、家康から、(攻撃しやすいように)周辺の葦の刈り取りを命じられていた石川忠総(いしかわただふさ)は、夜明けとともに船で渡河し、刈り取りもそこそこに北側から博労淵砦を攻撃・・・一方の蜂須賀至鎮も、負けじとばかりに南側から攻撃を仕掛けます(博労淵の戦い)

この時、博労淵砦の主将だった薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)は、なんと、前夜から神崎の女郎屋に泊り込んで遊んでいたため、主将不在の砦は、あっけなく落されていまいました。

おかげで、薄田隼人は『橙武者』=「(正月の鏡餅に飾られる橙のように)見てくれだけの小心者」というレッテルを貼られる事になるのですが、そのワリには、大戦を終えた後の徳川方の武将から「比類無き働き!」と絶賛されているところを見れば、やはり、この後の夏の陣での道明寺の戦いぶりのおかげなのか??と思いますが、そのお話は5月6日の【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】>>でご覧いただくとして・・・

とにもかくにも、こうして幕が上がった大坂冬の陣・・・上福島の砦&博労淵の砦が、ともに11月29日に陥落した事で、冬の陣における野田・福島の戦いは、これにて終了となりますが、11月26日には、この冬の陣で最も激戦となった鴫野・今福の戦いも、同時進行で繰り広げられています(11月26日参照>>)ので、
よろしければ、そちらもご一読くださいませm(_ _)m
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2014年11月21日 (金)

アンケート企画:「驚いた?!歴史上の人物の年齢は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート(あなたが初めて知った時…)驚いた?!歴史上の人物の年齢は結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
実は、このアンケートを作った時点で「結果は分かれるだろうなぁ」と予想していたんですが、その予想通り、様々なご意見をいただき、「なるほど~」と思ったり、「その人、選択肢に入れるの忘れてた~」ってな事もあり、あらためて、アンケート投票の楽しさを味わわせていただきましたヽ(´▽`)/

・・・って事で、結果発表と参りたいところですが、その前に・・・

先に言っちゃって恐縮ですが、今回1位の神武天皇・・・さすがに伝説の世界ですし、現段階で長寿世界一のギネス記録が122歳なのに、神武天皇の137歳は??・・・と、私も以前から思っていたのですが、記紀神話好きの友人から興味深い話を聞いたので、ちょっとご紹介させていただきます。

もちろん、その話は、その友人が勝手に言ってるのではなく、書籍(書籍名も教えてもらいましたが失念しましたスンマセン)で読んだ、とある研究者さんの見らしいのですが・・・

それは、以前に私も、【閻魔様のお話】(7月16日参照>>)のページで書かせていただいているのですが、日本には、畑作と稲作の年2回収穫が行われる事から、何かと年2回という分け方をするという風習が古くからあったという事・・・

その「閻魔斎日」も年に2回ですし、盆と正月や、春と秋のお彼岸、現在も多く行われている「夏越大祓」(7月31日参照>>)大晦日の「大祓」と一対になった半年に1度の厄払いです。

つまり、ひょっとしたら古代の人には(現在の)1年の間に2度、歳を重ねる日があり、(現在の)1年で2歳」歳をとっていたのかも・・・という事らしいです。

それでいくと、137歳は65歳前後となるわけで、「なるほど」とうなづける・・・まぁ、あくまで仮説ですが、そういう見方もあるという事で、一応、この場を借りてご紹介させていただきました。

ではでは、ようやくですが、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
13票
神武天皇
とは言え、やはり137歳はインパクトありますww…堂々の1位!
2位
9票
伊能忠敬
津田梅子

50歳で天文学を志した伊能さんと8歳でアメリカ留学した梅子さん…どちらも、それが、人生においてのベストタイミングだったのかも…
4位
8票
蓮如
吉田松陰

コチラも、教える側の老若が並び立ちました!オモシロイヽ(´▽`)/
6位
5票
明智光秀
ドラマ等を見てると、どうしても光秀の方が若い感じがします。
7位
4票
橋本左内
失礼ながら、意外にイイ位置に食い込みましたね~あまり知名度無い感じがしてたんですが、そうでもないかも…
8位
3票
足利義満
北条早雲
信玄・義元・
氏康の嫡男
朝倉宗滴
葛飾北斎

とりあえず3票獲得しました!
13位
2票
徳川慶喜
250年の世を締めくくるには、まだ若い…慶喜さんなりに頑張った気がします。
14位
0票
聖徳太子
源義経
木曽義仲
細川幽斉
近松門左衛門

残念ながら0票でした(´・ω・`)やはり他の方のインパクトが強かったか?
その他 20票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 近藤勇ってこんなに若かったんだ!と思いませんでしたか?(東京)
「あっ(゚o゚)思いました!幕末の人たちは皆ビックリするほど若いですよね~
伊能忠敬 ハンパない脚力に脱帽です。(50歳代/男性/神奈川)
「全国を徒歩で…って事ですもんね~」
その他 一休宗純が京田辺の酬恩庵で、森女と同衾をはじめたのは、75歳、1468年のことだったとか。(70歳代/男性/京都)
「あっ、ソレ、蓮如さんのシルバーラブのページで書いてました(*´v゚*)ゞホント、びっくりですよね」
その他 年齢といえば、92歳で「戦死」した一栗放牛。
「葛西大崎一揆ですね~そうですか、92歳だったんですね。。。それはスゴイ!
その他 源為朝が九州制圧したときの年齢(40歳代/男性/東京)
「為朝の武勇はスゴイですからね。
神武天皇 面白いサイトを見つけて嬉しいです。ちょくちょく覗かせてもらいたいと思います♪福島県出身の「天海大僧正」も108才で亡くなっています。(40歳代/女性/福島)
「ありがとうございますm(_ _)mそうですそうです…天海さんもかなりのモノですね
その他 坂本龍馬が暗殺されたのが33歳。近藤勇、土方歳三が戦死したのが35歳。なんとも・・・30代の人間が日本の未来の為に命を懸けて足掻いた時代。享年を知ったときは驚きました(30歳代/男性/海外)
「やはり幕末は…知った時は驚きますね
伊能忠敬 その齢もですが、技術や持続する志にも驚嘆です(60歳代/男性/長野)
「そうです!志ですね。学ぼうという精神がスゴイです」
吉田松陰 幕末・明治の有名人の死因に、結核がとても多いのも驚きました。(50歳代/女性/東京)
「不治の病でしたからね~」
蓮如 信じられません。旧約聖書の時代のような話ですね。(60歳代/男性/東京)
「生まれた子供が必ず成長する時代では無いですから、自らの思想を継いでくれる後継者は、一人でも多い方が良いって事なのでしょうね」
その他 真田信繁若武者のイメージやけど大阪の陣の時はいいおっちゃん・・・(男性)
「そうそう、『最近は歯も抜けて…』って、グチった手紙を、親戚に送ってますもんね~
その他 我らが大阪に縁のある、秀吉に次ぐ大名たる三好長慶が本願寺と法華宗の調停をした時の年齢なんて如何でしょう12歳にして、亡父の因縁の相手のために機内全土を巻き込む乱の調停をした悲劇の英雄に一票!(20歳代/男性/大阪)
「そうです!そうです!三好長慶も、かなり若い時から家を背負ってましたね~
嫡男3人 きっとPTAか父親参観の後にコーヒーすすりながら同盟結んだんですね?(笑)(20歳代/男性/大阪)
「私も、そんな場面を想像してしまいました~偶然とは言え、なんかオモシロイです」
神武天皇 ありえんやろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「まぁ、神様の子孫ですから…」
明智光秀 最初信長より年下だと思ってました。(20歳代/男性/滋賀)
「私も、最初そう思ってました。。。最近の大河では信長役の方より年上の方が演じられますが、以前はドラマでも役者さんが若かったような??」
その他 11歳で初陣した吉川元春さんに1票です。お父さんは20歳になってからだったのに・・(女性/兵庫)
「しかも、自ら進んで、父の反対を押し切っての初陣ですものね~」
その他 めっちゃマイナーですけど六条天皇(^ω^;);););)生後一年未満で践祚して3歳と少しで叔父に譲位って、、、(30歳代/女性/大阪)
「動乱の時代には周囲に翻弄された天皇様がいらっしゃいますね~」
神武天皇 こんな化け物が実在してたまるか(10歳代/男性/東京)
「これでも、先々代のコノハナサクヤヒメの一件で短くなってたんじゃなかったでしたっけ?」
その他 藤原頼通が関白を勇退した年齢:76歳。および、彼の摂政+関白の在任年数:50年(26~76歳)。関白退任年齢では歴代関白中最高齢では?(30歳代/男性/千葉)
「末法思想に怯えてるワリには、しっかりと治め切ってはりますよね~」
その他 細川勝元 管領になった年齢:16歳(40歳代/男性/千葉)
「ここは、息子の政元さんも、若くして重要な役どころをこなしてますね~そういう時代だったのでしょうかね?
朝倉宗滴 今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ。(40歳代/男性/兵庫)
「それ!その言葉ですね(*^-^)カッコイイ~」
北条早雲 伊勢しょうくろうだっけ?(10歳代/男性/大阪)
「伝説の部分も多いですが、やはり下剋上の象徴的存在!」
足利義満 アニメ一休さんのイメージが強くて…(40歳代/女性/北海道)
「新右衛門さんも出てましたね~」
嫡男3人 武田・今川・北条の嫡男が同級生だということは知りませんでした。へぇ?(笑)(30歳代/男性/愛知)
「驚くというよりはほくそ笑む感じの情報ですが…(*´v゚*)ゞ」
伊能忠敬 過酷すぎます~。弟子に任せてゆっくりしてほしかったです。とは言え偉大な業績を遺した方ですね。(40歳代/女性/愛知)
「自分でやっちゃうところが!!偉大です
その他 吉田松陰が明倫館の兵学講義を学生にした年齢:10歳吉田松陰でもこちらの方がインパクトが強かったのでその他に(20歳代/男性/兵庫)
「その時の経験が松下村塾につながったんでしょうね」
伊能忠敬 物事をやり始めるのに年齢は関係ないということを教えてくれる素晴らしい例だと思います。伊能忠敬先生万歳?(30歳代/女性/千葉)
「ホントです。もう○○歳だから…というのは通用しませんね」
神武天皇 ホントなのかもしれないけど、やっぱり どうも信用ならん…^^; そこが面白いところですが。(40歳代/女性/兵庫)
「ハイ(*^-^)そこがオモシロイところです
蓮如 老いてなお盛んとは,凄い。絶倫やね(30歳代/男性/香川)
「奥さんが若いとは言え、ご本人も頑張らないといけませんからね~」
その他 上杉鷹山 19歳で藩主になった点を評価したいです(10歳代/男性/宮城)
「その藩政も見事ですしね
明智光秀 私は、光秀67歳説をとります。本能寺の変あたりでは、すでに老人性痴呆症が相当進んでいたと思います そのことをよく知っていたのは、重臣の斉藤利三で彼がすべての意図を引いていたと思われます。(40歳代/男性/大阪)
「最近は67歳説が活気を帯びてますね~謎が謎呼ぶ感じでオモシロイです
その他 真田幸村の大坂の陣の時の年齢 戦国ゲームの影響で永遠の20代だと思っていた・・・ ちなみに49歳(30歳代/男性/神奈川)
「ゲームは皆、若くてカッコイイですからね~まぁ、それでないとゲームやる気になりませんしww」
吉田松陰 肖像画のせいで余計に高齢だと勘違いしてしまいますね。(20歳代/男性/京都)
「そうですよね…あの肖像画、けっこうなオッチャンに見えます
その他 新選組の芹沢さん、50代と思い込んでいました…。(40歳代/女性/千葉)
「新撰組もね~他の方もおっしゃってましたが、皆、意外に若いですね」
葛飾北斎 たくさん作品があるようなのに意外!(20歳代/男性/神奈川)
「その名前の時に、1番人気だったって事なんでしょうかね?
その他 瑞龍院日秀です。豊臣秀吉の姉で兄弟で一番の長寿だったこと。92歳でなくなりましたが、ドラマなどでは最後まで語られることも殆んど無く1625年まで生きていたのには驚きました。(40歳代/男性/兵庫)
「ブログの投票ページにもコメントいただき、ありがとうございましたm(_ _)m」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
その他 明治天皇(マー君さん)
その他 菅原道真travis_walkさん)
その他 杉文(やぶひびさん)
伊能忠敬 (ティッキーさん)
朝倉宗滴 (ティッキーさんのお母様)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2014年11月13日 (木)

黒田一成と岩佐又兵衛と大坂夏の陣図屏風

 

明暦二年(1656年)11月13日、黒田家3代に仕え、黒田二十四騎黒田八虎の一人に数えられる武将・黒田一成が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

黒田一成(くろだかずしげ)は、黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか=如水)黒田長政(ながまさ)黒田忠之(ただゆき)と、まさに筑前福岡藩の基礎づくりの時代に、黒田家3代に渡って仕えた武将ですが、父は加藤重徳(かとうしげのり)という荒木村重(あらきむらしげ)の家臣で、彼自身も、はじめは加藤一成でした。

そう、今年の大河ドラマをご覧になっている方は、「あぁ、あの…」思いだされる名場面だったと思いますが・・・

毛利という大国が存在する中国地方に進出中の織田信長(おだのぶなが)に、荒木村重が反旗を翻した時、その説得のために有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)に訪れた黒田官兵衛を、村重が土牢に幽閉した(10月16日参照>>)有岡城の戦いで、その囚われた官兵衛の牢番をしていたのが加藤重徳でした。

この時、有岡城には、後に黒田二十四騎の一人に数えられる事になる井口吉次(いぐちよしつぐ=この時の吉次は長政の近侍)の姉が仕えていたのですが、重徳は、その彼女が官兵衛の世話をする事を黙認したり、家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)らが官兵衛に接触したりする事を、見て見ぬふりをしたと言います。

その温情に感謝した官兵衛は、「もし俺が、ここから出て、無事に戻る事ができたなら、君の息子を保護して、織田の攻撃からも、その命は必ず守ったる!」と約束したのです。

Kurodakazushige300 果たして、有岡城落城の際、その重徳は戦いの中で行方不明となりますが、官兵衛は、約束通りに重徳の息子を保護し、戦後に養子として迎え入れて黒田姓を名乗らせ、我が子のように養育する事となる・・・

そう、その息子が一成です。
 .

こうして、官兵衛の嫡男の長政とは、兄弟のように育った一成は、やがてあの小牧長久手の戦いの一環として起こった岸和田城の戦い(3月22日参照>>)にて初陣を飾り、その後、数々の武功を挙げる猛将に成長していきます。

あの天下分け目の関ヶ原で、東軍に属した武将の中では、戦後に3倍近い石高となる=合戦1番の功労者として長政が扱われるのも、配下の一成が、多くの名将の首を挙げた事が要因の一つであったとも言われています。

しかも、黒田二十四騎の中では最も長寿を全うし、晩年には、あの島原の乱(2月28日参照>>)にまで出陣し、老いてもなお、家臣たちからの信頼も厚かったらしいです。

そんな一成さんは、明暦二年(1656年)11月13日86歳でこの世を去りますが、その子孫の家系は、明治に至るまで、常に黒田家内では特別扱いの名家だったのだとか・・・

・・・と、一成さんの武功の詳細も書かねばならぬところではありますが、その前に、大阪城大好きの茶々としては、この一成さんに関して、ちょっと気になる事が・・・

それは、現在、大阪城天守閣が所蔵している重要文化財のお宝=大坂夏の陣図屏風についてです。

これまでも、何度か、このブログでご紹介させていただいていますし(9月12日等参照>>)、現存する合戦屏風絵の中でも最高傑作との評価を受けている有名な屏風なのでご存じの方も多かろうと思いますが、この屏風は、もともとは筑前福岡藩の黒田家に伝来していた物で、一般的に「黒田屏風」と称されます。

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↑大坂夏の陣図屏風「黒田屏風」:左隻(大阪城天守閣蔵)
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↑大坂夏の陣図屏風「黒田屏風」:右隻(大阪城天守閣蔵)

これは、あの大坂の陣で大坂城総攻撃があった慶長二十年(1615年)5月7日の様子(5月7日参照>>)を描いた物で、右隻には両軍の激突が、左隻には落城時の混乱や、逃げ惑う人々、略奪を行う雑兵なども描かれていて、その大坂夏の陣に徳川方として参戦した黒田長政が、戦後間もなく、その戦勝記念として、家臣に命じて描かせた物と伝えられています。

そう、その時、長政の命により、この屏風の制作したのが、誰あろう一成さんなのです。

もちろん、一成さんは絵描きではありませんので、彼が描いたというのではなく、「ウチの殿様って、こんなスゴイ合戦に勝利したんやで!」と、我が殿様の活躍ぶりを後世に残すための一大プロジェクトを任されたという事です。

専門家の方の研究によれば、六曲一双の大画面の中に、人物:5071人、馬:348頭、幟:1387本、槍:974本、弓:119張、鉄砲:158挺が描かれているそうで、とても一人では描ききれない気がしないでも無いですが、この屏風の制作に関わった人物としては、『黒田家重宝故実』では八郎兵衛『竹森家伝』では久左衛門なる絵師の名前が見えます。

しかし、上記の八郎兵衛なる絵師は、狩野派の中に狩野八郎兵衛なる人物がいるものの、大坂夏の陣図屏風との関係は釈然とせず、後者の久左衛門という絵師も、よくわからない・・・

なので、結局、今のところは、筆者は不明という見解になっているのですが、一方で、その作風から、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)の作ではないか?との見解も浮上しています。

この岩佐又兵衛は、『風神雷神図』などでもお馴染みの俵屋宗達(たわらやそうたつ)と並ぶ江戸時代初期を代表する大和絵絵師ですが、様々な流派の影響を受けながらも、そのうちのどれかに偏る事なく、見事に融合させて独特の新たな画風=「又兵衛風」を造り上げた人で、浮世絵の元祖とも言われ、江戸時代には浮世又兵衛なんて呼ばれてたらしいのですが・・・

そう、この大坂夏の陣図屏風には、その「又兵衛風」が見て取れるのです。

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これは岩佐又兵衛筆による洛中洛外図屏風「舟木本」:右隻 (東京国立博物館蔵)=確かに素人の私が見ても作風が似ている気がします…ちなみに、こちらも重要文化財です。

そしてそして・・・
『名家略伝』『岩佐家譜』などによれば、この岩佐又兵衛の父は、あの荒木村重との事・・・

有岡城落城の際(12月16日参照>>)は、わずか2歳だったところを、乳母の懐に隠されて脱出し、密かに本願寺の塔中に隠れ住みながらも、長じて、母方の姓である岩佐姓を名乗り、父の縁故によって織田家に仕えるも、幼き頃より好んでいた絵の才能が開花し、絵師になった・・・と、

そう、これまた、今年の大河ドラマをご覧になっている方には、父=村重との別れのシーンなど、「あぁ、あの…」思いだされる名場面だったはず・・・

とは言え、最近の大河には、なぜか、側室なる女性が登場しないので(秀吉だけ例外ww)、ドラマでは村重の正室とされるだしさんの子供という事になってましたが、だしさんは岩佐姓では無いはずですので、おそらく、母親は別の女性だと思われます。

ただ、だしさんも、本願寺に仕えた川那部氏の出身とされる事から、逃亡後に本願寺に隠れたという一件からも可能性が無いわけでは無いのですが・・・

とにもかくにも、もし、大坂夏の陣図屏風の作者が岩佐又兵衛だったとしたら・・・

有岡城の牢番の息子で、彼もまた村重の家臣であった一成が、旧殿様の遺児に、その制作を依頼した事になるわけで・・・
もしかして、二人の間に交流があったのかしら?

なんとも、ワクワク感満載の妄想ネタになる説ではありませんか?
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2014年11月 8日 (土)

後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件

 

寛永六年(1629年)11月8日、第108代後水尾天皇が、皇女の女一宮に譲位しました。

・・・・・・・・・・

天皇の近臣である土御門泰重(つちみかどやすしげ)のその日の日記(『泰重卿記』)によると・・・

「この日=寛永六年(1629年)11月8日の朝、「束帯を着用して参内せよ」との急なおふれを受け、「なぜ束帯なのか?」もわからぬまま、慌てて支度を整えて、息子とともに禁裏に向かうと、他の公家たちも、同じく束帯姿で集まっているものの、皆、何の御用なのか知らない様子で、口々に不安がっていたところ、いきなり禁中で儀式が始まり、そこでようやく「譲位なのだ」とわかって、皆一同に驚嘆した」
との事・・・

Gomizunootennou600 この日記の内容を見る限り、時の天皇=後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、江戸幕府側の者にはもちろん、周囲の公家衆にさえ何も告げる事なく、娘である女一宮への譲位を、いきなり決行した事になります。

そもそも、慶長二十年(1615年)5月8日、あの大阪の陣で豊臣を倒した徳川は(くわしくは【大阪の陣の年表】で>>)、その2ヶ月後の慶長二十年(1615年)7月に元号を元和に改め、天皇や公家に対して『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布(7月7日参照>>)・・・つまり、この先の天皇や公家の動向に関しては、実行する前に幕府の許可がいる事を定めたわけですが、上記の通り、今回の後水尾天皇の譲位は、その法度を無視したわけで・・・そう、天皇さん、かなり怒ってはります。

そのお怒り要因の一つとされているのが、今回の譲位の2年前=寛永四年(1627年)に起こった『紫衣(しえ)事件』と呼ばれる事件なのですが・・・
(紫衣事件については、すでに、このブログで何度か書いておりますので、内容が重複する部分があるかと思いますが、ご了承くださいm(_ _)m)

とは言え、江戸初期の頃の後水尾天皇と幕府の関係が、最初っからギクシャクしていたわけではありません。

先の『禁中並公家諸法度』発布の事やこの『紫衣事件』から譲位に至るまでの一連の出来事で、ついつい、常に対立しまくりに思ってしまいますが、もともと、この後水尾天皇は、未だ豊臣が滅ぶ前の慶長十六年(1611年)に、先代の後陽成(ごようぜい)天皇が弟に皇位を譲ろうとしていたところを、徳川家康の強い推しによって即位した天皇でしたので、両者の関係は悪くは無かったのです。

しかも、大坂の陣や家康の死去などを含むゴタゴタが一段落した元和六年(1620年)に、第2代将軍・徳川秀忠(ごう・江与)の娘である徳川和子(まさこ・かずこ)(6月15日参照>>)女御(にょうご)として入内した(=結婚したという事です)事でさらに良好な関係に・・・

実は、この和子さん・・・なかなかの美人なうえに性格も良く、政略結婚とは言え、後水尾天皇はかなりのラブラブぶりだったようで、その夫婦の関係が、まさに天皇家と徳川家のかけ橋となって密月期を迎える事となり、紫衣事件の起こる前年の寛永三年(1626年)9月には、すでに大御所なっていた秀忠&現将軍の家光(いえみつ)はじめ、諸大名がこぞって上洛し、二条城に後水尾天皇を迎えて盛大な宴が催されて、上機嫌の天皇は、秀忠を太政大臣に、家光を左大臣に任命したりなんぞしてはします。
(ちなみに、この行幸の直後に江が江戸城で亡くなっています:9月15日参照>>

しかも、そのすぐあとの11月、すでに中宮(武士で言えば正室)となって、天皇との間に二人の女の子をもうけていた和子が、待望の男子(高仁親王)を出産するのです。

Tokugawahidetada600 もともと、この後水尾天皇と和子の結婚は、奈良&平安の昔より、藤原氏をはじめとする数多の豪族が行った『天皇の外戚(がいせき=母方の実家)をゲットして権力を握ろう作戦』(8月3日参照>>)なのですから、それは、もう、秀忠も家光も大喜びでしたし、後水尾天皇自身も、男子誕生から間もなく、親王への譲位を幕府に打診するほどのノリノリぶりでした。

ところが、そんなさ中での事件の発生・・・

実は、先の『禁中並公家諸法度』の中には「紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず…(以下略)の一文が含まれていたのですが・・・

これは「紫衣を許される住職は、以前はほんの少しやったのに、最近はやたらと勅許(ちょっきょ=天皇の許可)されてるけど、そんな事してると序列を乱して官寺の名誉を汚す事にもなるんで、以後は、ちゃんと、その能力を見極めて任命すべきです」という事・・・

ちなみに、この紫衣というのは紫色の法衣の事で、着用するには朝廷の許可がいる高僧の証というべき物だったわけですが、その紫衣を着る事ができる高僧へのランクアップ人事が、かの家康が出した『禁中並公家諸法度』に反して、未だ乱発して行われているとして、元和元年以降に行われた紫衣の許可を凍結すると、幕府が発表したのです。

ただ、この時点では、幕府には僧侶たちの紫衣をはく奪する目的はなく、あくまで、「これまでの人事を見直す」という事で、最終的には、後水尾天皇の意思で以って判断する事とし、幕府も天皇に配慮した形をとっていたようです。

なので、後水尾天皇にとっては、多少不愉快だったかも知れませんが、これまでの密月ぶりから見れば、この時点では、それほどのお怒りでは無かったかも知れません。

ところが、寛永五年(1628年)の春になって、大徳寺の住職=沢庵宗彭(たくあんそうほう)をはじめとする一部の僧らが、先の幕府の「紫衣待った!」の姿勢に真っ向から反論する抗弁書を提出し、反撃の態勢に出たのです。

これを受けた幕府としては、反発した彼らに大な対処すべきか?それとも、強い姿勢で対処するのか?と、その対応に悩まされる事になりますが、そんな中で更なる一大事が!!

6月11日・・・なんと、あの高仁親王が、わずか3歳で亡くなってしまったのです。

そして、その直後に、後水尾天皇から内々で幕府に要請が・・と、この天皇の要請自体は記録が残されていないそうなので、それに返信した幕府側の書状から内容を推測するしか無いのですが、その返書を見る限りでは、6月、あるいは遅くとも7月の時点で、後水尾天皇は「この10月にでも、女一宮(和子との間に生まれていた長女)に皇位を譲りたい」との内容だったようで・・・

すでに、翌・寛永六年(1629年)に決定していた譲位でしたが、親王の死を受けて、さらにそれを1年早めて、しかも長女に譲る・・・これには家光もビックリです。

なんせ、この時、和子は妊娠中でしたから、ひょっとしたら、すぐに男児が生まれる可能性もあるわけで・・・とにかく、家光は「時期が早い」としてその要請は制止するのですが・・・やはり、この後水尾天皇の譲位希望は、かの紫衣事件に対する、何らかの思いがあったのでしょうか?

そうこうしているうち、9月27日には、和子が男子を出産するのですが、その子は生まれてすぐに、後水尾天皇の叔父である八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)の養子とされて次期天皇候補から外されたうえ、わずか生後10日ほどで亡くなってしまいました。

やがて翌・寛永六年(1629年)に入って、かの紫衣事件の決着をつけるべく、沢庵らが江戸に召喚されますが、このタイミングで以って、後水尾天皇は再度、幕府に譲位を打診します。

この時の要請は、またもや妊娠中だった和子のお腹の中の子供を見据えて、女一宮は中継ぎの女帝である事を明言し、徳川の『天皇の外戚ゲット作戦』を念頭に、天皇としては最大限譲歩した内容だったとか・・・もちろん、そこには、江戸に召喚されたた僧侶たちを無罪放免にしてほしい=こっちも譲るからそっちも譲ってね、という意味も込められていたのでは?と言われていますが・・・

しかし、その要請をを無視するかのように、7月25日、沢庵らの配流処分が決定され、譲位の打診も拒否されたわけで・・・まさに、「幕府の法度は天皇の勅許よりも重い」という結果になってしまったのです。

さらに、この年の10月10日、家光の乳母であった斉藤福(さいとうふく)が、その家光の病気治癒祈願のための伊勢参りの帰りに京都に立ち寄り、遠い親戚である三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の仮の妹という事にして参内し、無位無冠のまま後水尾天皇と和子に拝謁するという前代未聞の事を強行します。

やむなく、後水尾天皇は、お福に対し、従三位の位と春日局(かすがのつぼね)の称号を与えていますが、これは天皇家に対して、かなり失礼な事なのでは???

案の定、その春日局の一件から1ヶ月経った寛永六年(1629年)11月8日、冒頭に書かせていただいた通りの、後水尾天皇による譲位の決行となるのです。

天皇譲位の知らせは、京都所司代の板倉重宗(いたくらむねしげ)によって、すぐさま江戸へともたらされますが、秀忠の返事は1ヶ月以上も経った12月27日・・・「叡慮次第」=「天皇様のお考え通りに…」という、「まぁ、そう言うしか無いよね?」ってな感じの物でした。

かくして翌・寛永七年(1630年)に女一宮の即位式が行われ、徳川の血を継ぐ、859年ぶりの女帝=第19代・明正天皇が誕生するのです(11月10日参照>>)
(織田と浅井の血も継いでますが…)

一方の紫衣事件の結末に関しては、
寛永九年(1632年)に秀忠がこの世を去った後、家光主導のもとで僧侶たちは赦免され、人事ももとの状態に戻されています・・・って事は、逆に言えば、秀忠さんの生存中は、天皇家と徳川家のギクシャク感も、ずっと尾を引いていたという事なのでしょうね。
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