後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件
寛永六年(1629年)11月8日、第108代後水尾天皇が、皇女の女一宮に譲位しました。
・・・・・・・・・・
天皇の近臣である土御門泰重(つちみかどやすしげ)のその日の日記(『泰重卿記』)によると・・・
「この日=寛永六年(1629年)11月8日の朝、「束帯を着用して参内せよ」との急なおふれを受け、「なぜ束帯なのか?」もわからぬまま、慌てて支度を整えて、息子とともに禁裏に向かうと、他の公家たちも、同じく束帯姿で集まっているものの、皆、何の御用なのか知らない様子で、口々に不安がっていたところ、いきなり禁中で儀式が始まり、そこでようやく「譲位なのだ」とわかって、皆一同に驚嘆した」
との事・・・
この日記の内容を見る限り、時の天皇=後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、江戸幕府側の者にはもちろん、周囲の公家衆にさえ何も告げる事なく、娘である女一宮への譲位を、いきなり決行した事になります。
そもそも、慶長二十年(1615年)5月8日、あの大阪の陣で豊臣を倒した徳川は(くわしくは【大阪の陣の年表】で>>)、その2ヶ月後の慶長二十年(1615年)7月に元号を元和に改め、天皇や公家に対して『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を発布(7月7日参照>>)・・・つまり、この先の天皇や公家の動向に関しては、実行する前に幕府の許可がいる事を定めたわけですが、上記の通り、今回の後水尾天皇の譲位は、その法度を無視したわけで・・・そう、天皇さん、かなり怒ってはります。
そのお怒り要因の一つとされているのが、今回の譲位の2年前=寛永四年(1627年)に起こった『紫衣(しえ)事件』と呼ばれる事件なのですが・・・
(紫衣事件については、すでに、このブログで何度か書いておりますので、内容が重複する部分があるかと思いますが、ご了承くださいm(_ _)m)
とは言え、江戸初期の頃の後水尾天皇と幕府の関係が、最初っからギクシャクしていたわけではありません。
先の『禁中並公家諸法度』発布の事やこの『紫衣事件』から譲位に至るまでの一連の出来事で、ついつい、常に対立しまくりに思ってしまいますが、もともと、この後水尾天皇は、未だ豊臣が滅ぶ前の慶長十六年(1611年)に、先代の後陽成(ごようぜい)天皇が弟に皇位を譲ろうとしていたところを、徳川家康の強い推しによって即位した天皇でしたので、両者の関係は悪くは無かったのです。
しかも、大坂の陣や家康の死去などを含むゴタゴタが一段落した元和六年(1620年)に、第2代将軍・徳川秀忠と江(ごう・江与)の娘である徳川和子(まさこ・かずこ)(6月15日参照>>)が女御(にょうご)として入内した(=結婚したという事です)事でさらに良好な関係に・・・
実は、この和子さん・・・なかなかの美人なうえに性格も良く、政略結婚とは言え、後水尾天皇はかなりのラブラブぶりだったようで、その夫婦の関係が、まさに天皇家と徳川家のかけ橋となって密月期を迎える事となり、紫衣事件の起こる前年の寛永三年(1626年)9月には、すでに大御所なっていた秀忠&現将軍の家光(いえみつ)はじめ、諸大名がこぞって上洛し、二条城に後水尾天皇を迎えて盛大な宴が催されて、上機嫌の天皇は、秀忠を太政大臣に、家光を左大臣に任命したりなんぞしてはします。
(ちなみに、この行幸の直後に江が江戸城で亡くなっています:9月15日参照>>)
しかも、そのすぐあとの11月、すでに中宮(武士で言えば正室)となって、天皇との間に二人の女の子をもうけていた和子が、待望の男子(高仁親王)を出産するのです。
もともと、この後水尾天皇と和子の結婚は、奈良&平安の昔より、藤原氏をはじめとする数多の豪族が行った『天皇の外戚(がいせき=母方の実家)をゲットして権力を握ろう作戦』(8月3日参照>>)なのですから、それは、もう、秀忠も家光も大喜びでしたし、後水尾天皇自身も、男子誕生から間もなく、親王への譲位を幕府に打診するほどのノリノリぶりでした。
ところが、そんなさ中での事件の発生・・・
実は、先の『禁中並公家諸法度』の中には「紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず…(以下略)」の一文が含まれていたのですが・・・
これは「紫衣を許される住職は、以前はほんの少しやったのに、最近はやたらと勅許(ちょっきょ=天皇の許可)されてるけど、そんな事してると序列を乱して官寺の名誉を汚す事にもなるんで、以後は、ちゃんと、その能力を見極めて任命すべきです」という事・・・
ちなみに、この紫衣というのは紫色の法衣の事で、着用するには朝廷の許可がいる高僧の証というべき物だったわけですが、その紫衣を着る事ができる高僧へのランクアップ人事が、かの家康が出した『禁中並公家諸法度』に反して、未だ乱発して行われているとして、元和元年以降に行われた紫衣の許可を凍結すると、幕府が発表したのです。
ただ、この時点では、幕府には僧侶たちの紫衣をはく奪する目的はなく、あくまで、「これまでの人事を見直す」という事で、最終的には、後水尾天皇の意思で以って判断する事とし、幕府も天皇に配慮した形をとっていたようです。
なので、後水尾天皇にとっては、多少不愉快だったかも知れませんが、これまでの密月ぶりから見れば、この時点では、それほどのお怒りでは無かったかも知れません。
ところが、寛永五年(1628年)の春になって、大徳寺の住職=沢庵宗彭(たくあんそうほう)をはじめとする一部の僧らが、先の幕府の「紫衣待った!」の姿勢に真っ向から反論する抗弁書を提出し、反撃の態勢に出たのです。
これを受けた幕府としては、反発した彼らに寛大な対処すべきか?それとも、強い姿勢で対処するのか?と、その対応に悩まされる事になりますが、そんな中で更なる一大事が!!
6月11日・・・なんと、あの高仁親王が、わずか3歳で亡くなってしまったのです。
そして、その直後に、後水尾天皇から内々で幕府に要請が・・と、この天皇の要請自体は記録が残されていないそうなので、それに返信した幕府側の書状から内容を推測するしか無いのですが、その返書を見る限りでは、6月、あるいは遅くとも7月の時点で、後水尾天皇は「この10月にでも、女一宮(和子との間に生まれていた長女)に皇位を譲りたい」との内容だったようで・・・
すでに、翌・寛永六年(1629年)に決定していた譲位でしたが、親王の死を受けて、さらにそれを1年早めて、しかも長女に譲る・・・これには家光もビックリです。
なんせ、この時、和子は妊娠中でしたから、ひょっとしたら、すぐに男児が生まれる可能性もあるわけで・・・とにかく、家光は「時期が早い」としてその要請は制止するのですが・・・やはり、この後水尾天皇の譲位希望は、かの紫衣事件に対する、何らかの思いがあったのでしょうか?
そうこうしているうち、9月27日には、和子が男子を出産するのですが、その子は生まれてすぐに、後水尾天皇の叔父である八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)の養子とされて次期天皇候補から外されたうえ、わずか生後10日ほどで亡くなってしまいました。
やがて翌・寛永六年(1629年)に入って、かの紫衣事件の決着をつけるべく、沢庵らが江戸に召喚されますが、このタイミングで以って、後水尾天皇は再度、幕府に譲位を打診します。
この時の要請は、またもや妊娠中だった和子のお腹の中の子供を見据えて、女一宮は中継ぎの女帝である事を明言し、徳川の『天皇の外戚ゲット作戦』を念頭に、天皇としては最大限譲歩した内容だったとか・・・もちろん、そこには、江戸に召喚されたた僧侶たちを無罪放免にしてほしい=こっちも譲るからそっちも譲ってね、という意味も込められていたのでは?と言われていますが・・・
しかし、その要請をを無視するかのように、7月25日、沢庵らの配流処分が決定され、譲位の打診も拒否されたわけで・・・まさに、「幕府の法度は天皇の勅許よりも重い」という結果になってしまったのです。
さらに、この年の10月10日、家光の乳母であった斉藤福(さいとうふく)が、その家光の病気治癒祈願のための伊勢参りの帰りに京都に立ち寄り、遠い親戚である三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の仮の妹という事にして参内し、無位無冠のまま後水尾天皇と和子に拝謁するという前代未聞の事を強行します。
やむなく、後水尾天皇は、お福に対し、従三位の位と春日局(かすがのつぼね)の称号を与えていますが、これは天皇家に対して、かなり失礼な事なのでは???
案の定、その春日局の一件から1ヶ月経った寛永六年(1629年)11月8日、冒頭に書かせていただいた通りの、後水尾天皇による譲位の決行となるのです。
天皇譲位の知らせは、京都所司代の板倉重宗(いたくらむねしげ)によって、すぐさま江戸へともたらされますが、秀忠の返事は1ヶ月以上も経った12月27日・・・「叡慮次第」=「天皇様のお考え通りに…」という、「まぁ、そう言うしか無いよね?」ってな感じの物でした。
かくして翌・寛永七年(1630年)に女一宮の即位式が行われ、徳川の血を継ぐ、859年ぶりの女帝=第19代・明正天皇が誕生するのです(11月10日参照>>)。
(織田と浅井の血も継いでますが…)
一方の紫衣事件の結末に関しては、
寛永九年(1632年)に秀忠がこの世を去った後、家光主導のもとで僧侶たちは赦免され、人事ももとの状態に戻されています・・・って事は、逆に言えば、秀忠さんの生存中は、天皇家と徳川家のギクシャク感も、ずっと尾を引いていたという事なのでしょうね。
.
「 江戸時代」カテゴリの記事
- 幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英(2024.10.30)
- 元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討(2024.05.09)
- 無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平(2024.01.30)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
コメント
昨年、上野寛永寺で講演会がありました。天海大僧正と紫衣事件の話です。沢庵宗彭らの赦免運動をしたそうです。
投稿: やぶひび | 2014年11月 9日 (日) 11時47分
やぶひびさん、こんにちは~
そうですね。
事件の時は、天海さんをはじめ、お仲間の僧侶たちも赦免運動をしたみたいですね。
やぶひびさんは、講演会や展覧会によく行かれるのですか?
いいですね~(*^-^)
投稿: 茶々 | 2014年11月 9日 (日) 15時19分
展覧会のギャラリートークや講演会は、よく行きます。無料のもあります。国会図書館のギャラリートークは3回聞いて来ました。講師が違うので楽しめます。
投稿: やぶひび | 2014年11月 9日 (日) 17時37分
やぶひびさん、こんばんは~
そうなんですか~
専門家の方の見方も様々なので、多くの方のお話を聞くのは勉強になりますね。
投稿: 茶々 | 2014年11月10日 (月) 01時54分
今受験生なのですが、教科書も授業も紫衣事件はサラッと終わってしまったので詳しく知れてめっちゃ役に立ちました。
今もブログ更新は続いているみたいなので、応援してます!
投稿: からっぽ | 2017年12月20日 (水) 21時44分
からっぽさん、こんばんは~
うれしいコメント、ありがとうございます。
更新の励みになります。
また、このブログに起こしくださいませ(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2017年12月21日 (木) 02時25分