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2014年11月29日 (土)

大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い

 

慶長十九年(1614年)11月29日、大坂冬の陣での博労淵・野田・福島の戦いにおいて、徳川方が豊臣方の砦を奪いました。

・・・・・・・・・・

豊臣VS徳川の最終決戦となる大坂の陣ですが・・・

皆様ご存じのように、あの関ヶ原終結の段階から、豊臣家は、強くなりすぎた五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)を警戒し、家康は家康で「目の上のタンコブである豊臣家を潰したい」と思っていた(←心の内はわかりませんので、あくまで予想ですが…)わけですが、
【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】も参照>>)

そんな中、豊臣秀頼(とよとみひでより)が亡き父=秀吉の悲願だった京都・方広寺の大仏建立(7月26日参照>>)を達成しようとした直前に、家康は、その方広寺の鐘に書かれた銘文に抗議し、中止を要求(7月21日参照>>)・・・

その後、豊臣方の弁明空しく、家康は最後通告を発し(8月20日参照>>)、やがて、大坂城には有名浪士たちが集結し(10月7日参照>>)、徳川も江戸を出陣し(10月24日の後半部分参照>>)、まもなく決戦の時を迎える事になるのですが・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】で>>)

・・・で、その大坂の陣=今回は大坂冬の陣において、事実上の最初の合戦となるのが、大坂城へと通じる水路を巡る戦いで、その戦いが展開された場所の名前から、博労淵(ばくろうふち)野田・福島の戦と呼ばれます。

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野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

豊臣方は、木津川天満川の合流地点付近(現在、詳細な場所は不明)新家に船倉を設置して水軍の本拠とし、さらに、そこを守るがごとく五分一(ごぶいち)上福島に砦を築いて守備を固めていましたが、まずは、そんな豊臣方の水軍を潰すべく、慶長十九年(1614年)11月16日九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、10隻ほどの豊臣方の船が浮かんでいた伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・

・・・と、ここで、徳川方の攻撃者が九鬼(10月12日の【九鬼嘉隆の自刃】参照>>)・・・という点でもお察しかと思いますが、豊臣全盛時代に、その水軍を支えた武将の多くが、今回は徳川方についていた(二股をかけてた人もいたと思いますが…)事で、もはやこの時の豊臣方の水軍は、徳川の水軍と対抗できるほどの能力を持っていなかった?とも言われています。

その力の差を象徴するかのように、ここ伝法口はあっさりと徳川方に乗っ取られてされてしまい、続く18日には新家を、26日には福島を、28日には五分一を、と次々に攻略され、この方面の豊臣方主将であった大野治胤(おおのはるたね)もやむなく撤退・・・慶長十九年(1614年)11月29日には、徳川方の一手の池田忠雄(いけだただかつ)軍が上福島の砦を攻略しました。

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

一方、この間に南側の木津川口でも動きがありました。

11月19日朝、木津川口砦が手薄になっているのを確認した徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、自らの軍を二手に分け、水軍を南から、陸路で北側に回った軍には、船場方面から周囲の民家に放火させつつ木津川口砦を挟み撃ちに・・・この時、この木津川口砦の主将であった明石全登(あかしたけのり=景盛)が軍義のため現地にいなかった事から、指揮命令系統がグダグダだった守備隊は大混乱となり、やむなく博労淵砦(大阪市西区立売堀付近)へと撤退したのでした(木津川口の戦い)

この頃、家康は、大砲にて砦を攻撃すべく、水野勝成(みずのかつなり)らに、木津川の中州に仕寄(しより=城などを攻めやすくするため付城や壕を築いた攻撃拠点の事)を築かせていましたが、28日に、その仕寄が完成した事を聞きつけた蜂須賀至鎮は、「このまま、(先日奪った)木津川口砦に居座っていても手柄は立てられん!」とばかりに、残る博労淵砦への攻撃準備に取り掛かります。

明けて慶長十九年(1614年)11月29日、家康から、(攻撃しやすいように)周辺の葦の刈り取りを命じられていた石川忠総(いしかわただふさ)は、夜明けとともに船で渡河し、刈り取りもそこそこに北側から博労淵砦を攻撃・・・一方の蜂須賀至鎮も、負けじとばかりに南側から攻撃を仕掛けます(博労淵の戦い)

この時、博労淵砦の主将だった薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)は、なんと、前夜から神崎の女郎屋に泊り込んで遊んでいたため、主将不在の砦は、あっけなく落されていまいました。

おかげで、薄田隼人は『橙武者』=「(正月の鏡餅に飾られる橙のように)見てくれだけの小心者」というレッテルを貼られる事になるのですが、そのワリには、大戦を終えた後の徳川方の武将から「比類無き働き!」と絶賛されているところを見れば、やはり、この後の夏の陣での道明寺の戦いぶりのおかげなのか??と思いますが、そのお話は5月6日の【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】>>でご覧いただくとして・・・

とにもかくにも、こうして幕が上がった大坂冬の陣・・・上福島の砦&博労淵の砦が、ともに11月29日に陥落した事で、冬の陣における野田・福島の戦いは、これにて終了となりますが、11月26日には、この冬の陣で最も激戦となった鴫野・今福の戦いも、同時進行で繰り広げられています(11月26日参照>>)ので、
よろしければ、そちらもご一読くださいませm(_ _)m
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