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2014年12月16日 (火)

有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑

 

天正七年(1579年)12月16日、織田信長に反旗をひるがえした荒木村重の妻子が処刑されました。

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今年の大河ドラマでも注目を浴びた荒木村重(あらきむらしげ)・・・このブログでも、すでにチョコチョコと書かせていただいてるんですが・・・(5月4日参照>>)

そもそもは、主君・池田家の内紛に乗じて、池田勝政(勝正)高野山へ追放して、池田家を乗っ取り
さらに、和田家伊丹家を滅ぼして、摂津(大阪・兵庫)を統合して大名へとのし上がった村重が、織田信長の傘下を表明した時には、信長は彼の下剋上ぶりを大いに気に入って、特別待遇で傘下にしたと言われます。

Arakimurasige600a 以前、豊臣秀吉『北野大茶会』(10月1日参照>>)でもチョコッと書かせていただきましたが、この信長の時代は、茶会を開くにも信長公の許可が必要だったのですが、秀吉に、その許可が下りるのが、天正五年(1577年)の上月城など、播磨(兵庫県)備前(岡山県)の諸城を落した時なのに対し、村重はその前年の天正四年(1576年)に、許可を得て茶会を開いていますから、その時点でも、信長がいかに村重を高く評価していたのかが解ります。

なので、天正六年(1578年)の10月に「村重が本願寺と内通している」との情報が信長のもとに入って来た時も、最初は、「母を人質に出して、本人が安土城まで弁明に来れば許すよ」と、信長は寛大な条件を出し、村重自身も弁明に行くつもりだったのですが・・・

安土に向かう途中で、茨木城主中川清秀(なかがわきよひで)高槻城主高山右近(たかやまうこん=重友)から、「信長さんは、1度疑ったら許してくれへん人やから、毛利と組んで籠城した方がええで」とアドバイスされ、結局、天正六年(1578年)10月21日に、居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠って、反信長の旗を掲げたのです。

それでも信長は、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、小姓の万見重元(まんみしげもと=仙千代(12月8日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉を有岡城に派遣して説得・・・ご存じのように、そのまま有岡城に幽閉される黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)(10月16日参照>>)も派遣してます。

しかし、それでも村重は説得に応じる事無く、毛利に援軍の要請を出し続けますが、やがて、村重にアドバイスした中川清秀や高山右近も信長に寝返り、天正七年(1579年)入ってからは、信長の軍に有岡城を2重3重にも囲まれてしまったうえに、頼りにしていた毛利の援軍も一向に現れなかった事から、9月2日の真夜中、大事な茶道具を抱きかかえた村重は、わずかな側近だけを連れて有岡城を脱出・・・息子が城主を務める尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走したのです。

主のいなくなった城内の士気は下がり、誰もが不安にかられる中、当然の如く内通者も出て、ついに10月16日、有岡城の防御拠点が次々に陥落し、有岡城は、もはや裸城となりますが、ここに来て、信長側から、
(村重が籠る)尼崎城と花隈城(兵庫県神戸市中央区)を開け渡せば、有岡城に残る妻子らの命は助ける」
との条件が出されます。

有岡城の留守を守っていた池田知正(いけだともまさ=荒木久左衛門)は、
「俺が、尼崎城に行って村重を説得して来ます!
もし、アイツが説得に応じひん場合は、俺らが先陣を切って尼崎城を攻めます!」

と言って、池田和泉守(いけだいずみのかみ)らに、残った妻子らの警固を任せ、一路、尼崎城へと向かいました。

しかし、事は一向に進展せず・・・11月19日には、苦悩に耐えきれなかった池田和泉守は、鉄砲で自らを撃って自害してしまう事態に・・・

『信長公記』によれば・・・
「今度、尼崎・はなくま渡し進上申さず、歴々者ども妻子・兄弟を捨て、我身一人ずつ助かるの由、前代未聞の仕立なり」
「ここまで来ても、荒木方が尼崎や花隈を開け渡さへんのは、未だ籠ってる武将たちが、己の妻子や肉親を見捨ててでも、自分らだけが助かりたいと思てるって事やんな…そんなん前代未聞やで!」
と、有岡城に残された者が可哀そうだとは思いながらも、放っておいては他者へ示しがつきませんから、信長は、有岡城の人質たちを成敗する事を決意するのです。

有岡城に残された妻子たちは、これまで抱いていたわずかな望みも断たれた事で、「もう、運命からは逃れられない」と、それぞれの菩提寺の僧侶にお布施などを包み、代わりに数珠などをもらい受けて、極楽浄土を願いつつ静かに時を過ごしたと言います。

村重の妻=だし(たし)が村重に送った歌
霜がれに 残りて我は 八重むぐら
 難波の浦の 底のみくずに
 ♪
「私は、霜に当たって枯れた八重葎のようなもん…あとは大阪湾に沈んで海の藻屑となるだけやわ」

村重の返歌
思ひきや あまのかけ橋 ふみならし
 難波の花も 夢ならんとは
 ♪
「天のかけ橋を踏み鳴らすように大阪で頑張って来たけど、それが、はかない夢になるとは、思てもなかったわ」

お千代が村重に送った歌
これほどの 思ひし花は 散りゆきて
 形見になるぞ 君が面かげ 

「これほど愛し合ってた二人の関係は、あんたの面影を形見にして、花のように散っていくんやね」

村重の返歌
百年に 思ひしことは 夢なれや
 また後の代の 又後の世は
 ♪
「100年も続くと思てた俺らの仲は、夢のようにはかない物やったけど、今度生まれ変わって、もっかい出会えた時は、そんなはかない物やないと信じてくれ」

この後の事を知っている後世の外野が、第3者的な目線で見させていただくと、奥さんたちがあまりに気の毒で・・・
「おいおい!勝手に自分だけ脱出しとして、何、他人事みたいな歌詠んどんねん!」
と、ツッコミの一つも入れたくなりますが、それこそ、当事者にしかわからない何やかんやもあったでしょうし、本願寺やら、援軍を頼んでいる毛利に対してのしがらみや男の意地なんかもあったでしょうし・・・ま、有岡城の戦いについても、まだまだ書き足りない部分もありますので、後々の機会にご紹介させていただきたいと思っておりますが・・・

とにもかくにも・・・
その後、12月12日には、主だった妻子たちが京へと護送され、続く13日には、尼崎に近い七松(ななまつ)という所で、残った妻女たち122人が磔となり、さらに中級以下の武士の妻子や侍女に、若党の男たちが含まれた500余人が、4軒の家に押し込められ、周囲に積んだ枯れ草に火をつけて焼き殺されたとの事・・・

一方、京都に護送されて妙顕寺(京都市中京区)に造られた牢に押し込められた30人余りの妻女たちは、「今となっては、もう村重を恨む事なく、これも前世で自分が犯した罪への報いなんやろ」と諦めとも悟りとも言える境地に立っていたのだとか・・・

ここでも、村重の奥さんのだしはじめ、複数の女性が複数の歌を詠んでいますが、とりあえずはだしさんの歌だけ・・・
消ゆる身は 惜しむべきにも なきものを
 母の思ひぞ 障
(さわ)りとはなる ♪
「消えていく自分は惜しむ事なんて何もないんやけど、母として子を思う気持ちだけが煩悩となって悟りの妨げになってしまうわ」

残しおく そのみどり子の 心こそ
思ひやられて 悲しかりけり
 ♪
「残していく子供の事を思うと、哀れで悲しいわ」
 

木末(こずえ)より あだに散りにし 桜花
 さかりもなくて 嵐こそ吹け
 ♪
(たぶん、村重との夫婦関係が…)盛りが来んうちに嵐が吹いて、梢から無駄に散っていく桜のようやったね」  

磨くべき 心の月の 曇らねば
 光とともに 西へこそ行け
 ♪
「心の中の月はしっかりと磨いてあるんで、その光とともに西方浄土へ行くわね」

と、かなり子供の事を気にしているようですが、一説には、この時、密かに侍女の懐に隠されて脱出した村重の子供が、後に江戸初期を代表する絵師となる岩佐又兵衛(いわさまたべえ)だとの話もあります(11月13日参照>>)

かくして天正七年(1579年)12月16日、村重の身内の者たちは、1台の車に二人ずつ乗せられていきます。

1番目の車には
村重の弟=吹田某(村氏?:20歳くらい)
村重の妹=野村丹後の妻(17歳)

2番目の車には
村重の娘=隼人の妻(妊娠中:15歳)
村重の妻(正室?)=だし(21歳)

3番目の車には
村重の娘=だご(13歳)
吹田某の妻(16歳)
 ↓
など、二人ずつの車が8台

この後ろには、1台に7~8人の乳母や子供たちが乗った車3台が続きます。

美人で有名だった村重の妻=だしは、華やかな小袖で、より美しく着飾り、本来なら、他の男にたやすく顔を見せる事の無い身分高き女性ですが、この時ばかりは雑兵に、荒々しく肘を掴まれて車に乗せられ、上京一条の辻から室町通りを通って京都市中を引き回され、やがて六条河原へと到着します。

成敗を担当するのは、前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(さっさなりまさ)などの越前衆・・・

車から降りただしは、着物の帯を締め直し、髪を高く結い直して、小袖の襟後ろへと引いて首を差し出し、見事に斬られたと言います。

この潔さに、他の妻子たちも、見苦しい場面を見せる事なく、その身を任せましたが、さすがに、侍女や召使いの女性たちは、身もだえ、泣き叫びながら息絶えていったのだそうです。

彼らの遺体は、以前から頼まれていた寺の僧たちに引き取られ、それぞれ弔われましたが、「これほど多数の成敗が行われたのは、歴史始まって以来初めての事ではないか?」と、京都の人々は哀れに思うと同時に、その恨みが恐ろしいと、おののくばかりであったとか・・・

世は戦国・・・とは言え、切ないですね。。。

この後、戦いの舞台は、村重が移った花隈城へと移動しますが、そのお話は、3月2日【花隈城の戦い】でどうぞ>>
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