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2014年12月29日 (月)

日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、本年の締めくくりは、この一年間に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 大阪市中央区「難波宮跡(12月11日参照>>)「大規模回廊の可能性」発見…奈良時代に造営された難波宮の一部に、土壇跡や瓦片などが見つかり、南北約120m、東西約85mの区域を囲む瓦ぶきの回廊があった可能性が高まりました。
京都市東山区「井伊美術館」で、「吉田松陰の新たな辞世の句」を発見…♪此程(これほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)は、けふきく古曽(こそ)嬉しいかりける…矩之♪とあり、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)が自身の実名=矩方(のりかた)を汚したくないとして、あえて別名で詠んだ可能性もあるとの事…
「卑弥呼の鏡」と称される3世紀後半の三角縁神獣鏡を最新の3Dプリンタで復元したところ、光を当てると裏面の文様が浮かび上がる「魔鏡」の構造であった事が判明したと京都国立博物館の村上学芸部長が発表…古代の人々にとって鏡がどのような役割を果たしたのか?新たな研究期待。(11月30日【古代日本における鏡とは~】参照>>)
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡4つめの建物跡…すでにエリアの中央部で発見されている宮殿とおぼしき建物の東に位置し、居館の可能性があるとみられています。
奈良県上牧町で3年前に発見された久渡(くど)2号墳飛鳥時代の大規模な終末期古墳と判明…古墳の規模が小さくなる傾向にあった時代に関わらず、比較的大規模な事が判明し、敏達天皇系の皇子の古墳である可能性も…
3月 豊臣秀吉が築いた最初の大坂城市民に公開するプロジェクトとして、昭和59年に発見された地下7mの所に埋まっている石垣を新たに発掘して報道陣に公開…今回は4日に報道陣に、7~9日に一般公開されたのみでしたが、後に常時見学できる施設を設ける予定で、現在、募金が行われています。
石垣公開プロジェクトの公式ページ>>(別窓で開きます)
4月 卑弥呼の後継者=台与(壱与)の墓ではないか?と噂される奈良県天理市西殿塚古墳で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていた事が判明…土壌は他にもあるものの、石積みの方形壇はほとんど見られない事から、今後の研究に期待が高まります。
5月 広島県福山市広島県立歴史博物館が、8代将軍・徳川吉宗が享保10(1725)年頃に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図を発見した事を発表…測量図は縦152cm、横336cm、縮尺21万6千分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名が記載されており、当時の測量方法を示す貴重な資料との評価。
卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市箸墓古墳の古写真が保存されている事を宮内庁が発表…植樹がされた現在の形になる以前の明治9年に撮影された写真で、今後、構造解明の手掛かりになる事が期待されます。
6月 岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛た四国攻めに関する書状が見つかった事を発表…日付けが本能寺の変の10日前という事で、謎の解明に近づくのでは?との期待が持たれます。(6月11日【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】参照>>)
藤井寺市林遺跡から大小2基の釣り鐘の鋳造遺跡を発見…7世紀末~8世紀前半に使用された跡と見られる事から、鋳造跡としては最古クラスとの事で、更なる発掘成果に期待。
7月 豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書を、兵庫県たつの市市立龍野歴史文化資料館が発見…全国で初めて確認されたこの文書は、天正13(1585)年に秀吉配下の大名、仙石秀久が作成して提出した物とみられ、豊臣政権初期の土地支配や大名支配の様子を確認できる貴重な資料との事。
8月 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)都塚古墳が、東西約41m、南北約42mの巨大方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状であることが判明…当時の実力者である蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我氏の邸宅跡からも近い事から、馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)(10月13日参照>>)の墓の可能性が高いとの見解です。
9月 豊臣秀吉の弟、秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)が居城とした郡山城(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半の安土桃山時代に天守閣があったことを裏付ける礎石を初めて確認…高さ15~20mで5階建てだったと考えられ、関ケ原合戦以前の天守閣の構造が分かる発掘成果は珍しいそうです。
10月 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかりました…一見、ものスンゴイ予言にも思えますが、「おそらくは泥棒よけでは無いか?との事。「冷蔵庫のプリンに名前を書く」みたいな物?ww
11月 京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大による、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の発掘調査で、この古墳が、卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)と酷似している事が判明…古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。
藤原宮(12月6日参照>>)から南約2kmの橿原市石川町藤原京跡で見つかった東西に細長い全長約51mの大型建物跡が、予想以上にしっかりした造りで、当時の宮殿クラスの建物だった事が判明…このような建物は、本来、藤原宮内にあるのが普通で、宮から遠く離れた京の南端で見つかった事に、「常識を覆す発見」と専門家も驚き、建物の性格についての謎が深まっています。
12月 織田信長東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された事を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表…日付けは天正元年(1573年)9月で、この数年前に松永久秀三好氏との戦い(10月10日参照>>)で大仏殿を焼かれた東大寺が、畿内に勢力延ばして来た信長に保護を求めた事に返答したものと推測されます。(3月28日【織田信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、やはり、6月に発見された「長宗我部元親の書状」!!ですよね~~

ただ、別のページのコメントにも書かせていただいたように、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・というのが、今のところの私の見解です。

確かに、「四国説」(再びですが…6月11日参照>>)の追い風となる、すばらしい一級史料ではありますが、その内容は
「言わはる通り阿波から撤退した事を信長さんに伝えてほしい…けど、土佐の周辺は長年俺が頑張って来た土地やから手放したくないねん。かと言うて戦争したいわけやないんで、何とかしてくれへんやろか?by元親」
てな感じ・・・(当時の元親はこんな状況…9月21日【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】参照>>)

四国攻めを止めて欲しいと願う元親の気持ちは充分理解できますが、受け取った利三と、その主君の光秀の心の内は・・・??

確かに、光秀は利三を身内のように可愛がっており、その利三の妹が元親に嫁いでいるという三者の仲ではありますので、光秀と利三も、戦いを回避する事が望ましいとは思っていたでしょうが、事あらば、身内と言えど討つ覚悟が無ければやっていけないのが戦国の世というもの・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

逆に、「主君の命令を蹴る=謀反を起こす」という重大さは、他の事とは比較にならないほど・・・まして、光秀ともあろう優秀な武将ならば、それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないだろうと人は考えるわけで・・・

今回の書状を含め、未だに、その「ものスンゴイ理由には、お目にかかれてないわけで・・・
だからこそ、未だにその謎が解けないわけで・・・

ただ、先にも書きましたように、今回の発見は「四国説」を後押しする重要な史料である事は確かですから、この先、その謎を解くためには欠かせない史料の一つとなる事は間違い無いでしょう。

という事で、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m
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2014年12月21日 (日)

応永の乱~大内義弘の最期

 

応永六年(1399年)12月21日、応永の乱で大内義弘が討死しました。

・・・・・・・・・

延元三年・歴応元年(1338年)8月征夷大将軍に任命されて、京都にて室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)ですが、ご存じのように、開幕当初は、あの南北朝の動乱に明け暮れる日々・・・
(くわしくは【尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

やがて、応安元年(正平二十三年・1368年)に尊氏の孫=足利義満(よしみつ)が第3代将軍に就任する(12月30日参照>>)頃になって、ようやく南北朝は、少し落ち着きを見せ始めますが・・・(実際の南北朝合一は元中九年・明徳三年(1392年)=10月5日参照>>

なんたって、この時、将軍に就任した義満は未だ11歳・・・周囲には、その南北朝動乱で活躍した多くの武将たちがいたために、将軍の権力はまだまだ強固な物ではなく、それを確固たる物にするために、義満は、ある時は相手を攻め、ある時は、彼らを内部分裂で切り崩して行き、将軍権力の絶対化に向けて力を注がねばならなかったのです。

そんな中で、 弘和元年・永徳元年(1381年)に邸宅である『花の御所』を完成させた義満は、明徳元年(元中七年・1390年)には、山名氏清に同族の山名時熙(ときひろ)を攻めさせ(12月23日参照>>)、自らは、美濃(岐阜県)土岐康行(ときやすゆき)を討ち破り、翌年には、その氏清を明徳の乱(12月30日参照>>)で倒し・・・と、自らの直轄部隊を強化するとともに、守護大名の弱体化を図っていくのです。

その頃に、頭角を現して来ていたのが、九州探題(きゅうしゅうたんだい)今川貞世(いまがわさだよ=了俊)と、周防長門(すおう・なごと=山口県)の守護大名であった大内義弘(おおうちよしひろ)でした。

九州探題とは、その名の通り、九州を平定するために幕府から派遣されてる役職ですが、以前、日明貿易関連のページ(5月13日参照>>)で書かせていただいたように、この少し前に九州大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子である懐良(かねよし・かねなが)親王を、日本側の代表者と勘違いして謁見するくらい、九州での室町幕府の影響力は弱かった(3月27日参照>>)わけで、その後も、しばらくは、九州は幕府の掌中には無かったのです。

そこを、将軍の支配下とするために派遣されていたのが貞世で、貞世の援軍として九州平定に活躍したのが義弘です。

義弘の大内氏は、百済(くだら=飛鳥時代に朝鮮半島にあった国)の王を祖先とし、鎌倉の昔よし周防・長門を守護する武家でしたが、義弘の代になって、先の明徳の乱など京都市中での活躍などが評価され、豊前(ぶぜん=福岡県東部と大分県北部)石見(いわみ=島根県西部)、さらに、和泉(いずみ=大阪府南西部)紀伊(和歌山県)といった、中央に近い場所の守護を任されるほどの大大名に出世していたのです。

ところが・・・
そんなこんなの応永二年(1395年)、九州平定に尽力していた今川貞世が突然京都に呼び戻され、これまた突然、九州探題の任を解かれて、、地元の駿河(するが=静岡県)へと帰還するという出来事が・・・

代わって、新たな九州探題として渋川満頼(しぶかわみつより)が派遣されますが、地元の少弐(しょうに)菊池相手になかなかの苦戦・・・この時、すでに応永元年(1394年)に将軍職を嫡男の義持(よしもち)に譲っていた義満でしたが、この事態を打開すべく、義弘に九州入国を命じたのです。

応永五年(1398年)、大軍を率いて九州に入った義弘・・・その援軍のおかげで、何とか形勢を挽回する幕府軍でしたが、そんな中で、義弘は、とんでも無い噂を耳にします。

「義満が、少弐氏や菊池氏に対して『大内討伐』の密命を下した」と言うのです。

結局、その噂は単なる噂だったようなのですが、1度抱いた疑念が義弘の心から消える事は無かったのです。

なぜなら、この九州での戦いで、義弘は弟の満弘(みつひろ)を失いましたが、それに対する義満からの言葉かけもないばかりか、別ルートで「和泉と紀伊の領地を召し上げるらしい」との噂の流れており、何たって、先年の今川貞世への仕打ちを目の当たりにしています。

「大きくなり過ぎた大内に対して、そろそろ何か仕掛けて来るかも知れない・・・」
徐々に徐々に、義弘のその思いは膨らんでいったのです。

かくして応永六年(1399年)10月13日、軍を率いて周防を出立した義弘は、領地である和泉の(大阪府堺市)にやって来て、京都を見据える形で、この地に陣を敷きます。

「上洛して義満に謁見する」との噂も流れましたが、結局、義弘自身は上洛せず、京都には使者を派遣しただけ・・・逆に、義満側には、「大内が堺にて兵を集めている」という噂が流れ始めます。

Zekkaityuusin500 そうなると、義満も黙っているわけにはいかず・・・お抱え禅僧の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を、使者として義弘のもとへ派遣し、上洛して速やかに義満に面会するよう求めました。

しかし、中津に面会した義弘は、その思いを切々と語り始めるのです。

「俺の、上様への篤い思いは今も変わりません。
せやからこそ、明徳の乱の時も、今回の九州での戦いも、南北朝合一の時も、俺ら、精一杯頑張って来ましてん。
せやけど、ここのところの上様のなさりようには、ホンマ、合点がいきませんのや。
敵方に‘大内を討て’て言わはったとか、‘領地を召し上げる’て言わはったとかの話聞くし、なんて言うても、ウチの弟が討死した事に対し、感謝の言葉一つくれはれへんていうのは、どーゆーこっちゃ?って思てますねん」

その不満を聞いた中津は、「それは誤解や」「そては行き違いや」と丁寧に弁解し、
「その疑念を解くためにも、上洛して将軍様に会うてくれへんやろか?」
と説得しましたが、もはや、義弘の決意は揺るがなかったのです。

実は、義弘は、すでに鎌倉公方足利満兼(あしかがみつかね=第3代鎌倉公方)と、
「ともに挙兵して幕府の御政道を正そう!」
との約束を交わしていたのです。

「いずれ、鎌倉殿とともに上洛します」
これが、義弘の答えでした。

そうなると、道はただ一つ・・・義満は、各地の大名に軍勢を整えて京に上るよう指令を発しました。

11月8日、東寺に陣を構えた義満のもとに馳せ参じた細川(ほそかわ)赤松(あかまつ)の軍勢が(京都市伏見区)山崎(京都府向日市)を通って和泉へと発進・・・さらに、駆け付けた畠山(はたけやま)斯波(しば)の軍勢も八幡(京都府八幡市)に集結し、時をうかがいます。

迎え撃つ義弘は、5000余りの軍勢で堺城に籠りますが、その堺城を幕府軍が取り囲むようになった11月下旬には、幕府の大軍は30000ほどに膨れ上がっていました。

とは言え、数の違いのワリには籠城&出撃を巧みにくりかえし、激戦を交わしながらも耐え抜く義弘・・・しかし、応永六年(1399年)12月21日早朝、いよいよ、幕府軍が総攻撃を開始します。

その日はおりからの強風・・・その風に乗じて、城内に火を放った幕府軍は、一気に城内へ攻め寄せます。

やがて主だった者が次々と討死し、その敗戦の色に内応者も出る中、最期の時を悟った義弘は、自刃ではなく、戦って死ぬ事を選びます。

自ら進み出て奮戦する義弘・・・一人減り二人減り、やがて、気付けば最後の一人・・・

自分を取り囲む敵兵に対して、義弘は高らかに・・・
「我は、天下無双の将・大内義弘である!この首取って、将軍に見せるがええ!」
と、言い放ち、その言葉を最後に、見事に討ち取られたと言います。

主君を失った大内勢は、その場で自刃する者、落ちる者、様々でしたが、ほどなく堺城は落城し、世に言う応永の乱が終結しました。

戦後、義満は、他の領地は召し上げたものの、周防・長門の守護職は安堵し、大内氏の名跡は、義弘の弟の大内弘茂(おおうちひろしげ)が継ぐ事になりました。

やはり、義満の心の内は「大内滅亡」ではなく、あくまで、その力を弱める事であったようです。

全滅こそ免れたものの、中央からは遠い、周防・長門に押し込められてしまった大内氏ですが、この後、応仁の乱でも、戦国でも、大いに活躍する名家として登場する事は、皆さま、ご存じの通りです。
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2014年12月16日 (火)

有岡城の戦い~荒木村重・妻子の処刑

 

天正七年(1579年)12月16日、織田信長に反旗をひるがえした荒木村重の妻子が処刑されました。

・・・・・・・・・・

今年の大河ドラマでも注目を浴びた荒木村重(あらきむらしげ)・・・このブログでも、すでにチョコチョコと書かせていただいてるんですが・・・(5月4日参照>>)

そもそもは、主君・池田家の内紛に乗じて、池田勝政(勝正)高野山へ追放して、池田家を乗っ取り
さらに、和田家伊丹家を滅ぼして、摂津(大阪・兵庫)を統合して大名へとのし上がった村重が、織田信長の傘下を表明した時には、信長は彼の下剋上ぶりを大いに気に入って、特別待遇で傘下にしたと言われます。

Arakimurasige600a 以前、豊臣秀吉『北野大茶会』(10月1日参照>>)でもチョコッと書かせていただきましたが、この信長の時代は、茶会を開くにも信長公の許可が必要だったのですが、秀吉に、その許可が下りるのが、天正五年(1577年)の上月城など、播磨(兵庫県)備前(岡山県)の諸城を落した時なのに対し、村重はその前年の天正四年(1576年)に、許可を得て茶会を開いていますから、その時点でも、信長がいかに村重を高く評価していたのかが解ります。

なので、天正六年(1578年)の10月に「村重が本願寺と内通している」との情報が信長のもとに入って来た時も、最初は、「母を人質に出して、本人が安土城まで弁明に来れば許すよ」と、信長は寛大な条件を出し、村重自身も弁明に行くつもりだったのですが・・・

安土に向かう途中で、茨木城主中川清秀(なかがわきよひで)高槻城主高山右近(たかやまうこん=重友)から、「信長さんは、1度疑ったら許してくれへん人やから、毛利と組んで籠城した方がええで」とアドバイスされ、結局、天正六年(1578年)10月21日に、居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠って、反信長の旗を掲げたのです。

それでも信長は、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、小姓の万見重元(まんみしげもと=仙千代(12月8日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉を有岡城に派遣して説得・・・ご存じのように、そのまま有岡城に幽閉される黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)(10月16日参照>>)も派遣してます。

しかし、それでも村重は説得に応じる事無く、毛利に援軍の要請を出し続けますが、やがて、村重にアドバイスした中川清秀や高山右近も信長に寝返り、天正七年(1579年)入ってからは、信長の軍に有岡城を2重3重にも囲まれてしまったうえに、頼りにしていた毛利の援軍も一向に現れなかった事から、9月2日の真夜中、大事な茶道具を抱きかかえた村重は、わずかな側近だけを連れて有岡城を脱出・・・息子が城主を務める尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走したのです。

主のいなくなった城内の士気は下がり、誰もが不安にかられる中、当然の如く内通者も出て、ついに10月16日、有岡城の防御拠点が次々に陥落し、有岡城は、もはや裸城となりますが、ここに来て、信長側から、
(村重が籠る)尼崎城と花隈城(兵庫県神戸市中央区)を開け渡せば、有岡城に残る妻子らの命は助ける」
との条件が出されます。

有岡城の留守を守っていた池田知正(いけだともまさ=荒木久左衛門)は、
「俺が、尼崎城に行って村重を説得して来ます!
もし、アイツが説得に応じひん場合は、俺らが先陣を切って尼崎城を攻めます!」

と言って、池田和泉守(いけだいずみのかみ)らに、残った妻子らの警固を任せ、一路、尼崎城へと向かいました。

しかし、事は一向に進展せず・・・11月19日には、苦悩に耐えきれなかった池田和泉守は、鉄砲で自らを撃って自害してしまう事態に・・・

『信長公記』によれば・・・
「今度、尼崎・はなくま渡し進上申さず、歴々者ども妻子・兄弟を捨て、我身一人ずつ助かるの由、前代未聞の仕立なり」
「ここまで来ても、荒木方が尼崎や花隈を開け渡さへんのは、未だ籠ってる武将たちが、己の妻子や肉親を見捨ててでも、自分らだけが助かりたいと思てるって事やんな…そんなん前代未聞やで!」
と、有岡城に残された者が可哀そうだとは思いながらも、放っておいては他者へ示しがつきませんから、信長は、有岡城の人質たちを成敗する事を決意するのです。

有岡城に残された妻子たちは、これまで抱いていたわずかな望みも断たれた事で、「もう、運命からは逃れられない」と、それぞれの菩提寺の僧侶にお布施などを包み、代わりに数珠などをもらい受けて、極楽浄土を願いつつ静かに時を過ごしたと言います。

村重の妻=だし(たし)が村重に送った歌
霜がれに 残りて我は 八重むぐら
 難波の浦の 底のみくずに
 ♪
「私は、霜に当たって枯れた八重葎のようなもん…あとは大阪湾に沈んで海の藻屑となるだけやわ」

村重の返歌
思ひきや あまのかけ橋 ふみならし
 難波の花も 夢ならんとは
 ♪
「天のかけ橋を踏み鳴らすように大阪で頑張って来たけど、それが、はかない夢になるとは、思てもなかったわ」

お千代が村重に送った歌
これほどの 思ひし花は 散りゆきて
 形見になるぞ 君が面かげ 

「これほど愛し合ってた二人の関係は、あんたの面影を形見にして、花のように散っていくんやね」

村重の返歌
百年に 思ひしことは 夢なれや
 また後の代の 又後の世は
 ♪
「100年も続くと思てた俺らの仲は、夢のようにはかない物やったけど、今度生まれ変わって、もっかい出会えた時は、そんなはかない物やないと信じてくれ」

この後の事を知っている後世の外野が、第3者的な目線で見させていただくと、奥さんたちがあまりに気の毒で・・・
「おいおい!勝手に自分だけ脱出しとして、何、他人事みたいな歌詠んどんねん!」
と、ツッコミの一つも入れたくなりますが、それこそ、当事者にしかわからない何やかんやもあったでしょうし、本願寺やら、援軍を頼んでいる毛利に対してのしがらみや男の意地なんかもあったでしょうし・・・ま、有岡城の戦いについても、まだまだ書き足りない部分もありますので、後々の機会にご紹介させていただきたいと思っておりますが・・・

とにもかくにも・・・
その後、12月12日には、主だった妻子たちが京へと護送され、続く13日には、尼崎に近い七松(ななまつ)という所で、残った妻女たち122人が磔となり、さらに中級以下の武士の妻子や侍女に、若党の男たちが含まれた500余人が、4軒の家に押し込められ、周囲に積んだ枯れ草に火をつけて焼き殺されたとの事・・・

一方、京都に護送されて妙顕寺(京都市中京区)に造られた牢に押し込められた30人余りの妻女たちは、「今となっては、もう村重を恨む事なく、これも前世で自分が犯した罪への報いなんやろ」と諦めとも悟りとも言える境地に立っていたのだとか・・・

ここでも、村重の奥さんのだしはじめ、複数の女性が複数の歌を詠んでいますが、とりあえずはだしさんの歌だけ・・・
消ゆる身は 惜しむべきにも なきものを
 母の思ひぞ 障
(さわ)りとはなる ♪
「消えていく自分は惜しむ事なんて何もないんやけど、母として子を思う気持ちだけが煩悩となって悟りの妨げになってしまうわ」

残しおく そのみどり子の 心こそ
思ひやられて 悲しかりけり
 ♪
「残していく子供の事を思うと、哀れで悲しいわ」
 

木末(こずえ)より あだに散りにし 桜花
 さかりもなくて 嵐こそ吹け
 ♪
(たぶん、村重との夫婦関係が…)盛りが来んうちに嵐が吹いて、梢から無駄に散っていく桜のようやったね」  

磨くべき 心の月の 曇らねば
 光とともに 西へこそ行け
 ♪
「心の中の月はしっかりと磨いてあるんで、その光とともに西方浄土へ行くわね」

と、かなり子供の事を気にしているようですが、一説には、この時、密かに侍女の懐に隠されて脱出した村重の子供が、後に江戸初期を代表する絵師となる岩佐又兵衛(いわさまたべえ)だとの話もあります(11月13日参照>>)

かくして天正七年(1579年)12月16日、村重の身内の者たちは、1台の車に二人ずつ乗せられていきます。

1番目の車には
村重の弟=吹田某(村氏?:20歳くらい)
村重の妹=野村丹後の妻(17歳)

2番目の車には
村重の娘=隼人の妻(妊娠中:15歳)
村重の妻(正室?)=だし(21歳)

3番目の車には
村重の娘=だご(13歳)
吹田某の妻(16歳)
 ↓
など、二人ずつの車が8台

この後ろには、1台に7~8人の乳母や子供たちが乗った車3台が続きます。

美人で有名だった村重の妻=だしは、華やかな小袖で、より美しく着飾り、本来なら、他の男にたやすく顔を見せる事の無い身分高き女性ですが、この時ばかりは雑兵に、荒々しく肘を掴まれて車に乗せられ、上京一条の辻から室町通りを通って京都市中を引き回され、やがて六条河原へと到着します。

成敗を担当するのは、前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(さっさなりまさ)などの越前衆・・・

車から降りただしは、着物の帯を締め直し、髪を高く結い直して、小袖の襟後ろへと引いて首を差し出し、見事に斬られたと言います。

この潔さに、他の妻子たちも、見苦しい場面を見せる事なく、その身を任せましたが、さすがに、侍女や召使いの女性たちは、身もだえ、泣き叫びながら息絶えていったのだそうです。

彼らの遺体は、以前から頼まれていた寺の僧たちに引き取られ、それぞれ弔われましたが、「これほど多数の成敗が行われたのは、歴史始まって以来初めての事ではないか?」と、京都の人々は哀れに思うと同時に、その恨みが恐ろしいと、おののくばかりであったとか・・・

世は戦国・・・とは言え、切ないですね。。。

この後、戦いの舞台は、村重が移った花隈城へと移動しますが、そのお話は、3月2日【花隈城の戦い】でどうぞ>>
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2014年12月 9日 (火)

仙石騒動に散った仙石左京

 

天保六年(1835年)12月9日、江戸時代後期の出石藩を揺るがした仙石騒動の中心人物である仙石左京が処刑されました。

・・・・・・・・・

江戸時代を通じて、いくつか起こっていたお家騒動ですが、その中の『三大お家騒動』と言えば、これまで、
「黒田騒動」(3月2日参照>>)
「伊達騒動」(3月27日参照>>)
「加賀騒動」(6月26日参照>>)
と、ご紹介させていただいていますが、上記の「加賀騒動」に入れ換わって三大お家騒動の一つに数えられる事があるのが、今回の仙石騒動・・・

仙石家と言えば、清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、戦国時代には、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)が登場し、乱世の中を美濃(岐阜県)斉藤から、豊臣秀吉徳川家康と渡り歩いて生き残り、元禄時代(1688年~1704年)に、それまで藩主を務めていた小出家が廃絶になったのを受けて、信濃国(長野県)上田藩の第3代藩主=仙石政明(せんごくまさあきら)が出石に入って以来、代々、但馬国(兵庫県北部)出石(いずし)の藩主を務めていました。

しかし、第6代藩主となった仙石政美(まさよし・まさみつの時代になると、これまで積み重ねて来た借金が約6万両ほどにも膨れ上がり、藩の財政はかなり窮地に立たされていたのです。

こういう場合、財政立て直しの策としては、大きく分けて、地場産業を盛り上げたり、人事を見直して人件費を削るという改革案と、質素倹約を徹底するという保守に分かれる物ですが、この出石藩もご多分にもれず、藩内では改革派と保守派がしのぎを削っていたわけです。

そんな中で、未だ若き25歳の藩主=政美は、改革派の政策を指示し、改革派のリーダー的存在であった筆頭家老の仙石左京(さきょう=久寿)を登用し、財政改革に当たらせました。

しかし、なかなか思うような成果があげられない・・・で、結局、政美は、左京の政策を一旦停止させて、一時失脚していた保守派のリーダー的存在=仙石造酒(みき=久恒)復権させて政務に当たらせたのです。

とは言え、この時点では、改革派VS保守派の派閥争いはあったものの、騒動というほどの物では無かったのですが・・・

ところが、そんなこんなの文政七年(1824年)、参勤交代で江戸へ向かった政美が、その途中で病にかかり、江戸に到着した直後、28歳の若さで亡くなってしまうのです。

未だ若き藩主であったため、その後を継ぐべき男子がおらず・・・急きょ、隠居していた先代藩主の仙石久道(ひさみち=政美の父)は、後継者を選定すべく、江戸にて会議を開く事にします。

この時、会議出席のために国許から江戸にやって来た左京が、息子の小太郎を連れて来ていた事から、藩内では「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」との憶測も流れましたが、結局、議場では波風立つ事無く、亡き政美の弟(久道の十二男)である久利(ひさとし)を政美の養子として、後継者に据える事と決定しました。

その後も、久利が第7代藩主になったとは言え、藩の方針としては、亡き政美を継ぐ形でしたから、今まで通り、左京の政策は廃止されたままで、藩政の実権は、相変わらず保守である造酒派は握っていたわけですが・・・

ところが、今度は、その造酒派内で、造酒の弟と側近による派閥争いが勃発し、それは乱闘騒ぎまで引き起こす事に・・・

そうなると、当然、その責任を追及され、造酒派は失脚し、造酒自身も隠居させられ、京が、藩政の中心に返り咲く事となったのです。

ここぞとばかりにその手腕を発揮する左京・・・やがて、わずかに残っていた造酒派も失脚し、もはや、左京の独擅場となって、藩政の最高権力者に上った天保二年(1831年)、左京は、息子=小太郎の嫁に、江戸幕府の筆頭老中である松平康任(まつだいらやすとう)の姪を娶るという最盛期を迎えます。

そうなると、再び浮上するあの噂・・・かの会議の時に起こった「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」という憶測が、再び乱れ飛ぶ事となり、造酒派が何度となく、その状況を先々代藩主の久道に訴えたりなんぞしますが、それ以上、何かが動く事はありませんでした。

しかし天保六年(1835年)・・・ここに来て、出石藩の騒動が幕府の知るところとなり、さらに幕府内の権力争いが、この騒動の上に圧し掛かって来るのです。

そう、小太郎が松平康任の姪を嫁にした事が仇となりました。

筆頭老中の松平康任を追い落としたい寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)と老中の水野忠邦(みずのただくに)、「仙石家の乗っ取りを画策している左京に康任が加担している」と、将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)に報告したのです。

雲行きが怪しくなった康任は、病気と称して自ら老中を辞任しますが、尋問の結果、康任が左京から賄賂を受け取っていた事実も暴かれ、隠居ならびに蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)の命令が下りました。

騒動の中心人物であった左京は獄門を言い渡され、天保六年(1835年)12月9日、江戸鈴が森にて処刑され、その首はさらし首に・・・左京の息子の小太郎は八丈島への遠島となり、以下、30人ほどの藩士が断罪されたと言います。

また、藩主の久利には、お咎めこそ無かったものの、出石藩は5万8千石から3万石に減封に・・・こうして、何とか、この仙石騒動は一件落着となりました。

しかし、聞くところによれば、その後も両派閥にしこりが残り、この先30年ほどは、藩内の政争が絶えなかったのだとか・・・

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出石城跡

やがて、この騒動は、講談やお芝居の恰好の題材となった事から、仙石左京は「お家乗っ取りを企んだ極悪人」として広く知られる事になりますが、他のお家騒動同様、実際には、誰が悪人かは、一概に決めつけられないものです。

出石では、左京は頭脳明晰で多才、藩政改革に努力した人として伝えられており、ここまでの隆盛を誇ったワリには、事件後に開け渡された屋敷の中には、贅沢な衣装や宝物などはほとんどなく、意外に質素な生活をしていたらしいという話も残っているとの事・・・

残念ではありますが、その真相は、関係者のみそ知る・・・という事になります。
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2014年12月 4日 (木)

全盛を誇った藤原道長の最期

 

万寿四年(1027年)12月4日、藤原氏の全盛を築いた藤原道長が、63歳で死去しました

・・・・・・・

平安時代に隆盛を誇った藤原ファミリーの中でも、最も有名かつ最も全盛を極めたのが、ご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)さん・・・

昨年の6月に、ご本人の日記=『御堂関白記』ユネスコの世界記憶遺産に登録される事が決まったニュースも記憶に新しいですが、

Fuziwaranomitinaga300a そんな道長は、康保三年(966年)に藤原兼家(かねいえ)五男(または四男)として生まれました。

父が、兄で関白の藤原兼通(かねみち=道長の叔父)と対立していた時代には、少々不遇な日々を送りますが、その兼通が亡くなった後に関白となった藤原頼忠(よりただ)のおかげと、

第64代・円融(えんゆう)天皇に嫁に行った次女・詮子(せんし・あきこ=道長の姉)が、後に第66代となる一条天皇(6月13日参照>>)を生んだ事から、その一条天皇の時代になると父・兼家が外祖父として摂政に就任し、当然、息子の道長も出世街道を歩む事になります。

そんな中、正暦元年(990年)に父・兼家が亡くなると、それと前後して兄たちも病死・・・道長は、亡くなった長兄の息子・藤原伊周(これちか)と争う事になりますが、これまた、その伊周が、女がらみのゴタゴタで、先代の花山(かざん)天皇に矢を射かけるという不祥事を起こし(2月8日参照>>)て失脚・・・

その事件から半年後に、道長は左大臣に昇進し、事実上、第1の実力者となりました。

ここから、一条天皇の皇后となった自らの娘・彰子(しょうし)(11月1日参照>>)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位して外祖父となるまでの間、あえて摂政や関白にならず、太政官で政治の実権を握れる左大臣のままで手腕を発揮したのだとか・・・

そして、一条天皇の後を継いだ三条天皇の後継者として、いよいよ孫の後一条天皇即位した寛仁二年(1018年)、あの有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

の歌を詠む(10月16日参照>>)わけです。

この時、53歳だった道長・・・この前年には太政大臣に就し、まさに、わが世の春を迎え、その人生には何一つ不満は無かったかのようにも見えます。

ただ、以前に書かせていただいたように、この♪望月の…♪の歌は、この歌を詠む6年前に、三男の藤原顕信(あきのぶ)が父に何も告げずに出家してしまった(1月16日参照>>)事を受けての「俺はまだまだ頑張るで~!」という、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも知れません。

そう、今よりずっと平均寿命が短い平安時代・・・いくら権勢を誇っても、老いは確実にやって来るわけで、しかも、当時は『末法思想』真っただ中・・・

この『末法思想』というのは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。1052年がその『末法の世』の第一年である。」という、言わば「終末予言」みたいな感じ・・・とにかく、阿弥陀仏におすがりして極楽往生を願おうと、貴族たちは、こぞって阿弥陀堂を建て、そこに阿弥陀仏を安置し、念仏を唱えて「とにかく来世の幸福を・・・」と願ったのです。

この世に極楽浄土を再現したとして有名な京都・宇治の平等院鳳凰堂も、この道長さんの息子である藤原頼通(よりみち)が建てた阿弥陀堂なんです(3月4日参照>>)

とかく、お金や権勢を掴んだ人ほど、誰にでも平等にやって来る「死」という物に、より大きい恐怖を感じるのかも知れませんね。

道長も例外ではなく、晩年は法成寺の建立に力を注いだようです。

当時、邸宅としていた土御門殿(現在の京都御所)に隣接する地に、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建てて法成寺としました。

Dscn2476a600 ←現在の京都御所に隣接する法成寺跡の碑

現在は廃絶してしまって、その寺地もよくわかっていませんが、それこそ息子の平等院を彷彿させる・・・いや、当時としては、それ以上に壮麗な伽藍が建ち並んでいた事でしょう。

『栄華物語』など、一般的には、この万寿四年(1027年)に入って体調を崩した道長が、やがて死期を悟り、自ら、法成寺の阿弥陀堂に入って、自らの手と、阿弥陀如来像の手を五色の糸で結び、あの、お釈迦様の涅槃(ねはん)(2月15日参照>>)と同様に、北枕西向き横たわり、居並ぶ高僧が念仏を唱える中、自身も静かに経を唱えつつ、万寿四年(1027年)12月4日心穏やかにあの世へ旅立ったとされています。

しかし、同じ藤原北家の一族で、道長の友人でもあった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(おうき・しょうゆうき)では、少々違った道長の最期がうかがえます。

先ほど、♪望月の…♪の歌は、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも・・・と書かせていただきましたが、その日記の中の道長は、まさに、そのように、権力者では無い、一人の人間としての道長が、垣間見えるのです。

その日記によれば、かの歌を詠む少し前の50歳を過ぎた頃から、すでに道長の健康には陰りがあったようで・・・見た目にも急激に痩せて行き、しきりに水を飲むようになったと・・・

当時、「飲水の病」と言われていた・・・おそらく糖尿病であろうと言われています。

そして、現在の糖尿病でも白内障を併発する事がありますが、道長もまた、視力が衰えていき、やがては、目の前にいる人物の顔を識別できないほどになっていったのだとか・・・

さらに、おそらく糖尿病とは別の、当時は「胸病」と呼ばれていた、胸に激しい痛みが走る持病もあったようで、その発作が起こる度に、大声でのたうちまわるほど苦しそうだったと・・・

しかも、最後には背中に大きな腫れ物ができ、その治療のために受ける針治療が、これまた壮絶な痛みを伴う物だったのだとか・・・

そして、その針治療をはじめてから数日後に、「道長はこの世を去った」と実資は書き残しています。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

満月は、必ず欠けていく物・・・

永遠に欠ける事の無い望月なんてありはしない事を知りながら、道長は、この歌を詠んだのかも知れません。
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