日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ
いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、本年の締めくくりは、この一年間に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。
とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、
また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ
1月 | ● | 大阪市中央区の「難波宮跡」(12月11日参照>>)に「大規模回廊の可能性」発見…奈良時代に造営された難波宮の一部に、土壇跡や瓦片などが見つかり、南北約120m、東西約85mの区域を囲む瓦ぶきの回廊があった可能性が高まりました。 |
● | 京都市東山区の「井伊美術館」で、「吉田松陰の新たな辞世の句」を発見…♪此程(これほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)は、けふきく古曽(こそ)嬉しいかりける…矩之♪とあり、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)が自身の実名=矩方(のりかた)を汚したくないとして、あえて別名で詠んだ可能性もあるとの事… | |
● | 「卑弥呼の鏡」と称される3世紀後半の三角縁神獣鏡を最新の3Dプリンタで復元したところ、光を当てると裏面の文様が浮かび上がる「魔鏡」の構造であった事が判明したと京都国立博物館の村上学芸部長が発表…古代の人々にとって鏡がどのような役割を果たしたのか?新たな研究期待。(11月30日【古代日本における鏡とは~】参照>>) | |
2月 | ● | 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で4つめの建物跡…すでにエリアの中央部で発見されている宮殿とおぼしき建物の東に位置し、居館の可能性があるとみられています。 |
● | 奈良県上牧町で3年前に発見された久渡(くど)2号墳が飛鳥時代の大規模な終末期古墳と判明…古墳の規模が小さくなる傾向にあった時代に関わらず、比較的大規模な事が判明し、敏達天皇系の皇子の古墳である可能性も… | |
3月 | ● | 豊臣秀吉が築いた最初の大坂城を市民に公開するプロジェクトとして、昭和59年に発見された地下7mの所に埋まっている石垣を新たに発掘して報道陣に公開…今回は4日に報道陣に、7~9日に一般公開されたのみでしたが、後に常時見学できる施設を設ける予定で、現在、募金が行われています。 *石垣公開プロジェクトの公式ページ>>(別窓で開きます) |
4月 | ● | 卑弥呼の後継者=台与(壱与)の墓ではないか?と噂される奈良県天理市の西殿塚古墳で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていた事が判明…土壌は他にもあるものの、石積みの方形壇はほとんど見られない事から、今後の研究に期待が高まります。 |
5月 | ● | 広島県福山市の広島県立歴史博物館が、8代将軍・徳川吉宗が享保10(1725)年頃に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図を発見した事を発表…測量図は縦152cm、横336cm、縮尺21万6千分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名が記載されており、当時の測量方法を示す貴重な資料との評価。 |
● | 卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳の古写真が保存されている事を宮内庁が発表…植樹がされた現在の形になる以前の明治9年に撮影された写真で、今後、構造解明の手掛かりになる事が期待されます。 | |
6月 | ● | 岡山市北区の林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛た四国攻めに関する書状が見つかった事を発表…日付けが本能寺の変の10日前という事で、謎の解明に近づくのでは?との期待が持たれます。(6月11日【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】参照>>) |
● | 藤井寺市の林遺跡から大小2基の釣り鐘の鋳造遺跡を発見…7世紀末~8世紀前半に使用された跡と見られる事から、鋳造跡としては最古クラスとの事で、更なる発掘成果に期待。 | |
7月 | ● | 豊臣秀吉が太閤検地(7月8日参照>>)の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書を、兵庫県たつの市の市立龍野歴史文化資料館が発見…全国で初めて確認されたこの文書は、天正13(1585)年に秀吉配下の大名、仙石秀久が作成して提出した物とみられ、豊臣政権初期の土地支配や大名支配の様子を確認できる貴重な資料との事。 |
8月 | ● | 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚古墳が、東西約41m、南北約42mの巨大方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状であることが判明…当時の実力者である蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我氏の邸宅跡からも近い事から、馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)(10月13日参照>>)の墓の可能性が高いとの見解です。 |
9月 | ● | 豊臣秀吉の弟、秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)が居城とした郡山城(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半の安土桃山時代に天守閣があったことを裏付ける礎石を初めて確認…高さ15~20mで5階建てだったと考えられ、関ケ原合戦以前の天守閣の構造が分かる発掘成果は珍しいそうです。 |
10月 | ● | 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)」(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかりました…一見、ものスンゴイ予言にも思えますが、「おそらくは泥棒よけでは無いか?」との事。「冷蔵庫のプリンに名前を書く」みたいな物?ww |
11月 | ● | 京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大による、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の発掘調査で、この古墳が、卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)と酷似している事が判明…古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。 |
● | 藤原宮(12月6日参照>>)跡から南約2kmの橿原市石川町の藤原京跡で見つかった東西に細長い全長約51mの大型建物跡が、予想以上にしっかりした造りで、当時の宮殿クラスの建物だった事が判明…このような建物は、本来、藤原宮内にあるのが普通で、宮から遠く離れた京の南端で見つかった事に、「常識を覆す発見」と専門家も驚き、建物の性格についての謎が深まっています。 | |
12月 | ● | 織田信長が東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された事を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表…日付けは天正元年(1573年)9月で、この数年前に松永久秀と三好氏との戦い(10月10日参照>>)で大仏殿を焼かれた東大寺が、畿内に勢力延ばして来た信長に保護を求めた事に返答したものと推測されます。(3月28日【織田信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>) |
・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、やはり、6月に発見された「長宗我部元親の書状」!!ですよね~~
ただ、別のページのコメントにも書かせていただいたように、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・というのが、今のところの私の見解です。
確かに、「四国説」(再びですが…6月11日参照>>)の追い風となる、すばらしい一級史料ではありますが、その内容は
「言わはる通り阿波から撤退した事を信長さんに伝えてほしい…けど、土佐の周辺は長年俺が頑張って来た土地やから手放したくないねん。かと言うて戦争したいわけやないんで、何とかしてくれへんやろか?by元親」
てな感じ・・・(当時の元親はこんな状況…9月21日【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】参照>>)
四国攻めを止めて欲しいと願う元親の気持ちは充分理解できますが、受け取った利三と、その主君の光秀の心の内は・・・??
確かに、光秀は利三を身内のように可愛がっており、その利三の妹が元親に嫁いでいるという三者の仲ではありますので、光秀と利三も、戦いを回避する事が望ましいとは思っていたでしょうが、事あらば、身内と言えど討つ覚悟が無ければやっていけないのが戦国の世というもの・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
逆に、「主君の命令を蹴る=謀反を起こす」という重大さは、他の事とは比較にならないほど・・・まして、光秀ともあろう優秀な武将ならば、それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないだろうと人は考えるわけで・・・
今回の書状を含め、未だに、その「ものスンゴイ理由」には、お目にかかれてないわけで・・・
だからこそ、未だにその謎が解けないわけで・・・
ただ、先にも書きましたように、今回の発見は「四国説」を後押しする重要な史料である事は確かですから、この先、その謎を解くためには欠かせない史料の一つとなる事は間違い無いでしょう。
という事で、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~
今年一年、本当にありがとうございました・・・
皆さま、良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m
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