仙石騒動に散った仙石左京
天保六年(1835年)12月9日、江戸時代後期の出石藩を揺るがした仙石騒動の中心人物である仙石左京が処刑されました。
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江戸時代を通じて、いくつか起こっていたお家騒動ですが、その中の『三大お家騒動』と言えば、これまで、
「黒田騒動」(3月2日参照>>)
「伊達騒動」(3月27日参照>>)
「加賀騒動」(6月26日参照>>)
と、ご紹介させていただいていますが、上記の「加賀騒動」に入れ換わって三大お家騒動の一つに数えられる事があるのが、今回の仙石騒動・・・
仙石家と言えば、清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、戦国時代には、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)が登場し、乱世の中を美濃(岐阜県)の斉藤から、豊臣秀吉→徳川家康と渡り歩いて生き残り、元禄時代(1688年~1704年)に、それまで藩主を務めていた小出家が廃絶になったのを受けて、信濃国(長野県)上田藩の第3代藩主=仙石政明(せんごくまさあきら)が出石に入って以来、代々、但馬国(兵庫県北部)出石(いずし)藩の藩主を務めていました。
しかし、第6代藩主となった仙石政美(まさよし・まさみつ)の時代になると、これまで積み重ねて来た借金が約6万両ほどにも膨れ上がり、藩の財政はかなり窮地に立たされていたのです。
こういう場合、財政立て直しの策としては、大きく分けて、地場産業を盛り上げたり、人事を見直して人件費を削るという改革案と、質素倹約を徹底するという保守に分かれる物ですが、この出石藩もご多分にもれず、藩内では改革派と保守派がしのぎを削っていたわけです。
そんな中で、未だ若き25歳の藩主=政美は、改革派の政策を指示し、改革派のリーダー的存在であった筆頭家老の仙石左京(さきょう=久寿)を登用し、財政改革に当たらせました。
しかし、なかなか思うような成果があげられない・・・で、結局、政美は、左京の政策を一旦停止させて、一時失脚していた保守派のリーダー的存在=仙石造酒(みき=久恒)を復権させて政務に当たらせたのです。
とは言え、この時点では、改革派VS保守派の派閥争いはあったものの、騒動というほどの物では無かったのですが・・・
ところが、そんなこんなの文政七年(1824年)、参勤交代で江戸へ向かった政美が、その途中で病にかかり、江戸に到着した直後、28歳の若さで亡くなってしまうのです。
未だ若き藩主であったため、その後を継ぐべき男子がおらず・・・急きょ、隠居していた先代藩主の仙石久道(ひさみち=政美の父)は、後継者を選定すべく、江戸にて会議を開く事にします。
この時、会議出席のために国許から江戸にやって来た左京が、息子の小太郎を連れて来ていた事から、藩内では「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」との憶測も流れましたが、結局、議場では波風立つ事無く、亡き政美の弟(久道の十二男)である久利(ひさとし)を政美の養子として、後継者に据える事と決定しました。
その後も、久利が第7代藩主になったとは言え、藩の方針としては、亡き政美を継ぐ形でしたから、今まで通り、左京の政策は廃止されたままで、藩政の実権は、相変わらず保守である造酒派は握っていたわけですが・・・
ところが、今度は、その造酒派内で、造酒の弟と側近による派閥争いが勃発し、それは乱闘騒ぎまで引き起こす事に・・・
そうなると、当然、その責任を追及され、造酒派は失脚し、造酒自身も隠居させられ、左京が、藩政の中心に返り咲く事となったのです。
ここぞとばかりにその手腕を発揮する左京・・・やがて、わずかに残っていた造酒派も失脚し、もはや、左京の独擅場となって、藩政の最高権力者に上った天保二年(1831年)、左京は、息子=小太郎の嫁に、江戸幕府の筆頭老中である松平康任(まつだいらやすとう)の姪を娶るという最盛期を迎えます。
そうなると、再び浮上するあの噂・・・かの会議の時に起こった「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」という憶測が、再び乱れ飛ぶ事となり、造酒派が何度となく、その状況を先々代藩主の久道に訴えたりなんぞしますが、それ以上、何かが動く事はありませんでした。
しかし天保六年(1835年)・・・ここに来て、出石藩の騒動が幕府の知るところとなり、さらに幕府内の権力争いが、この騒動の上に圧し掛かって来るのです。
そう、小太郎が松平康任の姪を嫁にした事が仇となりました。
筆頭老中の松平康任を追い落としたい寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)と老中の水野忠邦(みずのただくに)が、「仙石家の乗っ取りを画策している左京に康任が加担している」と、将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)に報告したのです。
雲行きが怪しくなった康任は、病気と称して自ら老中を辞任しますが、尋問の結果、康任が左京から賄賂を受け取っていた事実も暴かれ、隠居ならびに蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)の命令が下りました。
騒動の中心人物であった左京は獄門を言い渡され、天保六年(1835年)12月9日、江戸鈴が森にて処刑され、その首はさらし首に・・・左京の息子の小太郎は八丈島への遠島となり、以下、30人ほどの藩士が断罪されたと言います。
また、藩主の久利には、お咎めこそ無かったものの、出石藩は5万8千石から3万石に減封に・・・こうして、何とか、この仙石騒動は一件落着となりました。
しかし、聞くところによれば、その後も両派閥にしこりが残り、この先30年ほどは、藩内の政争が絶えなかったのだとか・・・
やがて、この騒動は、講談やお芝居の恰好の題材となった事から、仙石左京は「お家乗っ取りを企んだ極悪人」として広く知られる事になりますが、他のお家騒動同様、実際には、誰が悪人かは、一概に決めつけられないものです。
出石では、左京は頭脳明晰で多才、藩政改革に努力した人として伝えられており、ここまでの隆盛を誇ったワリには、事件後に開け渡された屋敷の中には、贅沢な衣装や宝物などはほとんどなく、意外に質素な生活をしていたらしいという話も残っているとの事・・・
残念ではありますが、その真相は、関係者のみそ知る・・・という事になります。
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