全盛を誇った藤原道長の最期
万寿四年(1027年)12月4日、藤原氏の全盛を築いた藤原道長が、63歳で死去しました。
・・・・・・・
平安時代に隆盛を誇った藤原ファミリーの中でも、最も有名かつ最も全盛を極めたのが、ご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)さん・・・
昨年の6月に、ご本人の日記=『御堂関白記』がユネスコの世界記憶遺産に登録される事が決まったニュースも記憶に新しいですが、
そんな道長は、康保三年(966年)に藤原兼家(かねいえ)の五男(または四男)として生まれました。
父が、兄で関白の藤原兼通(かねみち=道長の叔父)と対立していた時代には、少々不遇な日々を送りますが、その兼通が亡くなった後に関白となった藤原頼忠(よりただ)のおかげと、
第64代・円融(えんゆう)天皇に嫁に行った次女・詮子(せんし・あきこ=道長の姉)が、後に第66代となる一条天皇(6月13日参照>>)を生んだ事から、その一条天皇の時代になると父・兼家が外祖父として摂政に就任し、当然、息子の道長も出世街道を歩む事になります。
そんな中、正暦元年(990年)に父・兼家が亡くなると、それと前後して兄たちも病死・・・道長は、亡くなった長兄の息子・藤原伊周(これちか)と争う事になりますが、これまた、その伊周が、女がらみのゴタゴタで、先代の花山(かざん)天皇に矢を射かけるという不祥事を起こし(2月8日参照>>)て失脚・・・
その事件から半年後に、道長は左大臣に昇進し、事実上、第1の実力者となりました。
ここから、一条天皇の皇后となった自らの娘・彰子(しょうし)(11月1日参照>>)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位して外祖父となるまでの間、あえて摂政や関白にならず、太政官で政治の実権を握れる左大臣のままで手腕を発揮したのだとか・・・
そして、一条天皇の後を継いだ三条天皇の後継者として、いよいよ孫の後一条天皇即位した寛仁二年(1018年)、あの有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠む(10月16日参照>>)わけです。
この時、53歳だった道長・・・この前年には太政大臣に就任し、まさに、わが世の春を迎え、その人生には何一つ不満は無かったかのようにも見えます。
ただ、以前に書かせていただいたように、この♪望月の…♪の歌は、この歌を詠む6年前に、三男の藤原顕信(あきのぶ)が父に何も告げずに出家してしまった(1月16日参照>>)事を受けての「俺はまだまだ頑張るで~!」という、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも知れません。
そう、今よりずっと平均寿命が短い平安時代・・・いくら権勢を誇っても、老いは確実にやって来るわけで、しかも、当時は『末法思想』真っただ中・・・
この『末法思想』というのは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。1052年がその『末法の世』の第一年である。」という、言わば「終末予言」みたいな感じ・・・とにかく、阿弥陀仏におすがりして極楽往生を願おうと、貴族たちは、こぞって阿弥陀堂を建て、そこに阿弥陀仏を安置し、念仏を唱えて「とにかく来世の幸福を・・・」と願ったのです。
この世に極楽浄土を再現したとして有名な京都・宇治の平等院鳳凰堂も、この道長さんの息子である藤原頼通(よりみち)が建てた阿弥陀堂なんです(3月4日参照>>)。
とかく、お金や権勢を掴んだ人ほど、誰にでも平等にやって来る「死」という物に、より大きい恐怖を感じるのかも知れませんね。
道長も例外ではなく、晩年は法成寺の建立に力を注いだようです。
当時、邸宅としていた土御門殿(現在の京都御所)に隣接する地に、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建てて法成寺としました。
現在は廃絶してしまって、その寺地もよくわかっていませんが、それこそ息子の平等院を彷彿させる・・・いや、当時としては、それ以上に壮麗な伽藍が建ち並んでいた事でしょう。
『栄華物語』など、一般的には、この万寿四年(1027年)に入って体調を崩した道長が、やがて死期を悟り、自ら、法成寺の阿弥陀堂に入って、自らの手と、阿弥陀如来像の手を五色の糸で結び、あの、お釈迦様の涅槃(ねはん)(2月15日参照>>)と同様に、北枕西向き横たわり、居並ぶ高僧が念仏を唱える中、自身も静かに経を唱えつつ、万寿四年(1027年)12月4日、心穏やかにあの世へ旅立ったとされています。
しかし、同じ藤原北家の一族で、道長の友人でもあった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(おうき・しょうゆうき)』では、少々違った道長の最期がうかがえます。
先ほど、♪望月の…♪の歌は、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも・・・と書かせていただきましたが、その日記の中の道長は、まさに、そのように、権力者では無い、一人の人間としての道長が、垣間見えるのです。
その日記によれば、かの歌を詠む少し前の50歳を過ぎた頃から、すでに道長の健康には陰りがあったようで・・・見た目にも急激に痩せて行き、しきりに水を飲むようになったと・・・
当時、「飲水の病」と言われていた・・・おそらく糖尿病であろうと言われています。
そして、現在の糖尿病でも白内障を併発する事がありますが、道長もまた、視力が衰えていき、やがては、目の前にいる人物の顔を識別できないほどになっていったのだとか・・・
さらに、おそらく糖尿病とは別の、当時は「胸病」と呼ばれていた、胸に激しい痛みが走る持病もあったようで、その発作が起こる度に、大声でのたうちまわるほど苦しそうだったと・・・
しかも、最後には背中に大きな腫れ物ができ、その治療のために受ける針治療が、これまた壮絶な痛みを伴う物だったのだとか・・・
そして、その針治療をはじめてから数日後に、「道長はこの世を去った」と実資は書き残しています。
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば♪
満月は、必ず欠けていく物・・・
永遠に欠ける事の無い望月なんてありはしない事を知りながら、道長は、この歌を詠んだのかも知れません。
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コメント
パソコン故障で一月ご無沙汰してましたが、改めて見ますと、歴史小説書いている私にしても大変発想の参考になることがら勉強させていただいています。
今後もよろしく・・・(* ̄ー ̄*)
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2014年12月 5日 (金) 20時42分
紫式部の恋人と言われていたようですが、
どうなんでしょうね?
投稿: やぶひび | 2014年12月 5日 (金) 23時13分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
こちらこそ、コメントありがとうございます(*^-^)
投稿: 茶々 | 2014年12月 6日 (土) 00時59分
やぶひびさん、こんばんは~
>紫式部の恋人と言われていたようですが…
どうなんでしょうね~
確かに、そういう話もありますね~
道長さんが、源氏物語の続きを楽しみにしていて「早く、続き書いてヨ」と、紫式部に催促してた…って話も聞いた事ありますが、一方では、源氏物語は複数人の共同著作なんて話もありで、なかなか謎に満ちていますね。
投稿: 茶々 | 2014年12月 6日 (土) 01時05分