慶応二年(1866年)1月25日、奇兵隊の第3代総監を務めた赤禰武人が、山口にて処刑されました。
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時は幕末の文久三年(1863年)5月、攘夷(じょうい=外国を排除)の先頭を切って、関門海峡に停泊する外国船に攻撃を仕掛けた長州藩(山口県)・・・(5月10日参照>>)
その後、やがて訪れるであろう外国からの報復への対策として作られたのが、あの奇兵隊(きへいたい)です。
藩主の相談を受けた高杉晋作(たかすぎしんさく)が、
「有志の士をつのり一隊を創立し、名づけて奇兵隊といわん
いわゆる正兵は総奉行の兵なり、これに対し奇兵とせんと…」(奇兵隊日記)
と、つまり、藩による正規軍に対して、外国軍鑑の報復に備える攘夷のための特別な軍隊として、身分を問わず募集をかけて作ったのが奇兵隊という事です。
「わが郷土は、わが手で守る!」
と、藩内の農民や商人の士気も高かったおかげで、募集をかけた途端に志願者が殺到する、かなりの盛り上がりっぷりだったようですが、その後、正規軍の兵士たちとのイザコザ=教法寺事件(きょうほうじじけん)で、奇兵隊士らが、相手側の兵士を斬ってしまった事への責任をとる形で、初代の総監になっていた高杉は、わずか3ヶ月ほどで総督を更迭されました。
その後、河上弥市&滝弥太郎を経て、第3代総監を継いだのが、赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)でした。
周防国玖珂郡柱島(山口県岩国市柱島)の医師の次男として生まれた武人は、尊王攘夷派の僧=月性(げっしょう)のもとで学びますが、ほどなくして武人の並々ならぬ才能に気づいた月性の勧めによって、長州藩士浦家の家老=赤禰雅平(あかねまさへい)の養子に迎え入れられます。
この間、武人は、あの吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(11月5日参照>>)にも在籍・・・つまり、彼は晋作の先輩という事になりますね。
さらに、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)にも師事しますが、ご存じのように、ここに来て、あの井伊直弼(いいなおすけ)の安政の大獄が・・・
安政の大獄とは、当時、江戸幕府の大老を務めていた直弼が、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないままアメリカと結んだ『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に反対する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件です(10月7日参照>>)が、その安政の大獄で雲浜が逮捕された(9月14日参照>>)事によって、武人も大獄第一号の逮捕者の一人となります。
釈放後には、かの雲浜奪還の策を練ったり、高杉や久坂玄瑞(くさかげんずい)らとともに英国公使館焼き打ち事件(12月12日参照>>)に参加したり、もちろん、冒頭の外国船に攻撃=下関戦争にも参戦・・・と、武人は、まさに攘夷派の王道を歩む事になるのですが、そんなこんなの文久三年(1863年)10月に、奇兵隊の第3代総監に就任・・・
となるのですが、ここらあたりは、長州藩にも奇兵隊にも、大きな変化があった時期・・・そう、先の高杉が総監を退任する事になった教法寺事件が起こったのが、武人が総監になる2ヶ月前の文久三年(1863年)8月16日、そのわずか2日後にあの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。
朝廷内での公武合体派(朝廷と幕府が協力)であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)によって起こされたこの政変で、朝廷内の攘夷派=三条実美(さねとみ)らが追い出され、彼らを冠に頂いていた長州藩も政治の表舞台から排除される事になってしまったのです。
「このままでは、いかん!」
「何とかせねば!」
と、長州藩士たちは水面下でイロイロ画策する事になるのですが、その相談していた場を、新撰組に襲撃されたのが、翌・元治元年(1864年)6月5日の、あの池田屋事件(6月5日参照>>)・・・
さらに翌月の7月には、もともとは長州藩の回復を願う「嘆願書」を起草して朝廷に奉上するための上洛であった長州藩の軍隊が、血気にはやってしまった結果の禁門(蛤御門)の変で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となってしまいました。
(2010年7月19日来島又兵衛編参照>>)
(2011年7月19日久坂玄瑞編参照>>)
さらに、その禁門の変の直後には、先の下関戦争で攻撃を受けた国々が、その報復としてやって来た四国艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊)による下関攻撃で、コチラの戦いにも長州は敗北・・・
・・・で、先に書かせていただいたように、そもそもの奇兵隊は、外国軍鑑による報復に備えるための特別な軍隊だったわけですから、本来なら、ここで奇兵隊の役目は終わった事になりますが、武人は、この奇兵隊を攘夷のための軍隊から民衆寄りの軍隊へと変えていく事で、この直後の解散命令を回避しようとしたと思われます。
武人が総監を務めていた頃に打ち出した『諭志(ゆじ)』という、ユニークは奇兵隊の規律があります。
- 農業の妨げをしてはならない
- 人家の果物・鶏・犬などを奪ってはならない
- 牛馬などに出会えば道べりによけて速やかに通行させてやる事
- 強き敵は百万と言えど恐れず 弱き民は一人といえども恐れる事を士道の本意とする事
などなど・・・地域や民衆に密着した庶民の奇兵隊を目指すかたわら、『諸隊会議所』なる物を設けて、今後の方針は、皆の話し合い=合議制で決めよう…なんて事も・・・
しかし、一方では、この第3代の総監である武人は、藩からは低い身分の総監と見られていたようで、彼が「奇兵隊の入隊者一同を武士の身分に取り立ててもらえませんか?」との願いを出した時、藩は、その願いを聞き入れるどころか、逆に、隊士が身につける『袖印(そでじるし=戦場で敵味方を見分けるために袖につける)』を、「武士は絹で、農民や商人は木綿を使用する事」とし、身分をはっきり区別させたと言います。
もともとは身分を問わず募集をかけて、農民や商人もヤル気満々だった奇兵隊だけに、総監となった武人も、はがゆい思いだった事でしょうが、今現在の長州はそれどころではありません。
そう、先の禁門の変で朝敵となった長州には、幕府による長州征伐(第一次)が計画されていたのです。
幕府を相手に戦うのか否か?
徹底交戦を唱えるのは、山口に拠点を置く革新派(正義派)の高杉や桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)(5月26日参照>>)など、
いやいや、さすがに幕府相手に戦いは挑めんと、とにかく謝罪して事を収めようとするのが、萩に拠点を置く保守派(俗論派)の椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)など・・・
こうして、長州は真っ二つに分かれてしまい、両者のどちらが、長州の実権を握るか?の争いになる中、禁門の変を先導した三家老を自刃させる(11月12日参照>>)事で、何とか決着をつけようとするのですが、一方では、奇兵隊の諸隊でも「交戦やむなし」の声もあがっていました。
そんな中、武人は、「今は長州藩存亡の危機で内戦をやってる場合やないやろ!」と一喝・・・
「ここは長州藩が一致団結して立ち向かうべき!僕が俗論派を説得して来る」
と言って和平交渉を提案・・・元治元年(1864年)11月、萩に向けて旅立ったのです。
ところが、その翌月の12月・・・奇兵隊のもとに、あの高杉がやって来て、「今、ここで挙兵せんとあかん!」と持ちかけて来ます。
武人の留守を預かっていた軍監の山縣狂介(後の山縣有朋)が、「赤禰が戻るまで待って下さい」と高杉を説得しますが、高杉は、「お前ら赤禰に騙されとんねん!そもそもアイツは●●(←身分が低いという意味の差別用語です)、俺は毛利家300年来の家臣やぞ!赤禰と比べんなや!」と息巻いて、武人と同じ低い身分の彼らをシラケさせますが、ご存じのように、これが功山寺の挙兵(12月6日参照>>)です。
結局、奇兵隊の中でも、わずかな者だけの賛同しか得られないまま、高杉は挙兵したわけですが、これが見事に勝利してしまった事で、長州藩内の保守派は一掃され、実権は革新派が握る事になり、そうなると、武人不在のまま奇兵隊や諸隊も、その後に続く事になるわけで・・・
逆に、そんな中で和平交渉を進めていた武人は「裏切り者」とされてしまいます。
この頃、身の危険を感じるようになった武人が母に宛て、手紙を残していますが、そこには
「僕の意見に逆らって高杉が挙兵してしまいました。
結果的に良かったとしても、それは殿様に弓引く行為であり、何より、僕は内乱を避けたかったので残念です。
今、逃げ隠れしてるのは命が惜しいからではありません。
この先の長州藩の行く末を、自分のやり方で救いたいと思っています」
と、決意のほどが書かれていたそうです。
その言葉通り、その後の武人は、大阪に潜伏し、西郷隆盛(さいごうたかもり)らと接触して、幕府との衝突(第二次長州征伐)回避に向けての情報収集をしていたと言いますが、そんな中で、幕府から長州尋問のために派遣されて来た大目付の永井尚志(ながいなおゆき)とともに長州に戻って来た事から、今度は「幕府のスパイ」と疑われる事となった武人は、誕生の地である柱島にいたところを捕縛されるのです。
その後、1つの詰問も、1度の弁解も許されないまま、慶応二年(1866年)1月25日、赤禰武人は28歳の若さで斬首され、胴体は鳥の餌食に、首は河原に晒されました。
最期に身につけていた着物の裏には
『真誠似偽 偽即似真』
「真実には偽りがあり、偽りにこそ真実がある」
との無念の8文字が書かれてあったとか・・・
中原邦平(なかはらくにへい)の目撃談によれば・・・
赤禰武人という人は、
「長身でたくましく、色白の美男子で、雄弁滔々、条理整然、一つも疑わしいところがない」
と、かなり魅力的な人物だったようです。
結果的に袂を分かった高杉晋作も、後には、
「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」
と、病床にて、その死を惜しんでいたと言います。
ただ、武人の後を継いだ山縣有朋が、後に総理になった時、吉田松陰などの名誉は回復されましたが、武人の名誉は回復される事なく・・・いや、むしろ、その奇兵隊の記録から、武人の事が末梢されていたらしい・・・
現在、山口県下関市にある東行庵(とうぎょうあん)には高杉晋作以下、多くの奇兵隊隊士のお墓がありますが、そんな訳で、ここに、武人のお墓が建立されたのは、彼が亡くなってから100年後の平成七年(1995年)の事なのだとか・・・
武人と有朋の間に、どのような確執的な物があったのか?は、それこそ、ご本人のみぞ知るところでしょうが、ひょっとしたら、すでに下関戦争の時点で、その存続が危ぶまれていた奇兵隊を引き継いだ有朋は、武人をスケープゴードとして葬り去る事で方針転換をアピールし、奇兵隊の存続を模索し、最後までそれを貫いたという事なのかも知れません。
ご存じのように、武人亡き後は、その有朋主導のもと、対・幕府ための軍隊として、鳥羽伏見から戊辰戦争へと進んで行く奇兵隊・・・しかし、結局は維新後に悲しい末路となってしまうのですが(11月27日参照>>) 、紆余曲折の中、多くの失敗、多くの犠牲があってこそ、現在の日本がある事を忘れてはなりませんね。
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