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2015年1月31日 (土)

アンケート企画:「カッコイイと思う戦国武将の通り名は?」

 

さて、旧暦の無い31日という事で、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたがカッコイイと思う戦国武将の通り名は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とは言え、これも、複数あったり、後からつけられた物もありで、厳密に言うとややこしい部分もあるのですが、そこのところは、気軽なお遊びのアンケートという事でご理解いただきつつ、いつものように清き一票をよろしくお願いします。

もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 第六天魔王
    織田信長(参照ページ>>)
  2. 日本一の兵
    真田幸村(信繁)(参照ページ>>)
  3. 海道一の弓取り
    今川義元(参照ページ>>)
  4. 東海一の弓取り
    徳川家康(参照ページ>>)
  5. 今孔明
    竹中半兵衛(参照ページ>>)
  6. 乱世の梟雄
    松永久秀(参照ページ>>)
  7. 笹の才蔵
    可児才蔵(参照ページ>>)
  8. 鬼玄蕃
    佐久間盛(参照ページ>>)
  9. 鬼武蔵
    森長可(参照ページ>>)
  10. 槍の又左
    前田利家(参照ページ>>)
  11. 瓶割柴田
    柴田勝家(参照ページ>>)
  12. 越後の龍
    上杉謙信(参照ページ>>)
  13. 甲斐の虎
    武田信玄(参照ページ>>)
  14. 美濃の蝮
    斎藤道三(参照ページ>>)
  15. 剣豪将軍
    足利義輝(参照ページ>>)
  16. 姫若子
    長宗我部元親(参照ページ>>)
  17. 名人久太郎
    堀秀政(参照ページ>>)
  18. 肥前の熊
    龍造寺隆信(参照ページ>>)
  19. 独眼龍
    伊達政宗(参照ページ>>)
  20. その他
    「やっぱアレでしょう」「この人忘れちゃダメよ」てな人がおられましたらお知らせください
      

てか、選択肢を作っていて、メッチャ多い事に、あらためて気づきました(*´v゚*)ゞ

とてもじゃ無いが、いくつかの選択肢に収まる感じでは無い中、とりあえずは、上記の20項目に絞ってみましたが、その他が満載になる覚悟はしておりますです。

・‥…━━━☆

申し訳ありませんが、この投票は2月14日に締め切りとさせていただきましたm(_ _)m

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2015年1月25日 (日)

幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念

 

慶応二年(1866年)1月25日、奇兵隊の第3代総監を務めた赤禰武人が、山口にて処刑されました。

・・・・・・・・・

時は幕末の文久三年(1863年)5月、攘夷(じょうい=外国を排除)の先頭を切って、関門海峡に停泊する外国船に攻撃を仕掛けた長州藩(山口県)・・・(5月10日参照>>)

その後、やがて訪れるであろう外国からの報復への対策として作られたのが、あの奇兵隊(きへいたい)です。

藩主の相談を受けた高杉晋作(たかすぎしんさく)が、
「有志の士をつのり一隊を創立し、名づけて奇兵隊といわん
 いわゆる正兵は総奉行の兵なり、これに対し奇兵とせんと…」
(奇兵隊日記)
と、つまり、藩による正規軍に対して、外国軍鑑の報復に備える攘夷のための特別な軍隊として、身分を問わず募集をかけて作ったのが奇兵隊という事です。

「わが郷土は、わが手で守る!」
と、藩内の農民や商人の士気も高かったおかげで、募集をかけた途端に志願者が殺到する、かなりの盛り上がりっぷりだったようですが、その後、正規軍の兵士たちとのイザコザ=教法寺事件(きょうほうじじけん)で、奇兵隊士らが、相手側の兵士を斬ってしまった事への責任をとる形で、初代の総監になっていた高杉は、わずか3ヶ月ほどで総督を更迭されました。

Akane600 その後、河上弥市&滝弥太郎を経て、第3代総監を継いだのが、赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)でした。

周防国玖珂郡柱島(山口県岩国市柱島)の医師の次男として生まれた武人は、尊王攘夷派の僧=月性(げっしょう)のもとで学びますが、ほどなくして武人の並々ならぬ才能に気づいた月性の勧めによって、長州藩士浦家の家老=赤禰雅平(あかねまさへい)の養子に迎え入れられます。

この間、武人は、あの吉田松陰(よしだしょういん)松下村塾(11月5日参照>>)にも在籍・・・つまり、彼は晋作の先輩という事になりますね。

さらに、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)にも師事しますが、ご存じのように、ここに来て、あの井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄が・・・

安政の大獄とは、当時、江戸幕府の大老を務めていた直弼が、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないままアメリカと結んだ『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に反対する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件です(10月7日参照>>)が、その安政の大獄で雲浜が逮捕された(9月14日参照>>)事によって、武人も大獄第一号の逮捕者の一人となります。

釈放後には、かの雲浜奪還の策を練ったり、高杉や久坂玄瑞(くさかげんずい)らとともに英国公使館焼き打ち事件(12月12日参照>>)に参加したり、もちろん、冒頭の外国船に攻撃=下関戦争にも参戦・・・と、武人は、まさに攘夷派の王道を歩む事になるのですが、そんなこんなの文久三年(1863年)10月に、奇兵隊の第3代総監に就任・・・

となるのですが、ここらあたりは、長州藩にも奇兵隊にも、大きな変化があった時期・・・そう、先の高杉が総監を退任する事になった教法寺事件が起こったのが、武人が総監になる2ヶ月前の文久三年(1863年)8月16日、そのわずか2日後にあの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

朝廷内での公武合体派(朝廷と幕府が協力であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)によって起こされたこの政変で、朝廷内の攘夷派=三条実美(さねとみ)らが追い出され、彼らを冠に頂いていた長州藩も政治の表舞台から排除される事になってしまったのです。

「このままでは、いかん!」
「何とかせねば!」

と、長州藩士たちは水面下でイロイロ画策する事になるのですが、その相談していた場を、新撰組に襲撃されたのが、翌・元治元年(1864年)6月5日の、あの池田屋事件(6月5日参照>>)・・・

さらに翌月の7月には、もともとは長州藩の回復を願う「嘆願書」を起草して朝廷に奉上するための上洛であった長州藩の軍隊が、血気にはやってしまった結果の禁門(蛤御門)の変で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となってしまいました。
(2010年7月19日来島又兵衛編参照>>)
(2011年7月19日久坂玄瑞編参照>>)

さらに、その禁門の変の直後には、先の下関戦争で攻撃を受けた国々が、その報復としてやって来た四国艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊)による下関攻撃で、コチラの戦いにも長州は敗北・・・

・・・で、先に書かせていただいたように、そもそもの奇兵隊は、外国軍鑑による報復に備えるための特別な軍隊だったわけですから、本来なら、ここで奇兵隊の役目は終わった事になりますが、武人は、この奇兵隊を攘夷のための軍隊から民衆寄りの軍隊へと変えていく事で、この直後の解散命令を回避しようとしたと思われます。

武人が総監を務めていた頃に打ち出した『諭志(ゆじ)という、ユニークは奇兵隊の規律があります。

  • 農業の妨げをしてはならない
  • 人家の果物・鶏・犬などを奪ってはならない
  • 牛馬などに出会えば道べりによけて速やかに通行させてやる事
  • 強き敵は百万と言えど恐れず 弱き民は一人といえども恐れる事を士道の本意とする事

などなど・・・地域や民衆に密着した庶民の奇兵隊を目指すかたわら、『諸隊会議所』なる物を設けて、今後の方針は、皆の話し合い=合議制で決めよう…なんて事も・・・

しかし、一方では、この第3代の総監である武人は、藩からは低い身分の総監と見られていたようで、彼が「奇兵隊の入隊者一同を武士の身分に取り立ててもらえませんか?」との願いを出した時、藩は、その願いを聞き入れるどころか、逆に、隊士が身につける『袖印(そでじるし=戦場で敵味方を見分けるために袖につける)』を、「武士は絹で、農民や商人は木綿を使用する事」とし、身分をはっきり区別させたと言います。

もともとは身分を問わず募集をかけて、農民や商人もヤル気満々だった奇兵隊だけに、総監となった武人も、はがゆい思いだった事でしょうが、今現在の長州はそれどころではありません。

そう、先の禁門の変で朝敵となった長州には、幕府による長州征伐(第一次)が計画されていたのです。

幕府を相手に戦うのか否か?

徹底交戦を唱えるのは、山口に拠点を置く革新派(正義派)の高杉や桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)(5月26日参照>>)など、

いやいや、さすがに幕府相手に戦いは挑めんと、とにかく謝罪して事を収めようとするのが、に拠点を置く保守派(俗論派)椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)など・・・

こうして、長州は真っ二つに分かれてしまい、両者のどちらが、長州の実権を握るか?の争いになる中、禁門の変を先導した三家老を自刃させる(11月12日参照>>)事で、何とか決着をつけようとするのですが、一方では、奇兵隊の諸隊でも「交戦やむなし」の声もあがっていました。

そんな中、武人は、「今は長州藩存亡の危機で内戦をやってる場合やないやろ!」と一喝・・・

「ここは長州藩が一致団結して立ち向かうべき!僕が俗論派を説得して来る」
と言って和平交渉を提案・・・元治元年(1864年)11月、萩に向けて旅立ったのです。

ところが、その翌月の12月・・・奇兵隊のもとに、あの高杉がやって来て、「今、ここで挙兵せんとあかん!」と持ちかけて来ます。

武人の留守を預かっていた軍監の山縣狂介(後の山縣有朋)が、「赤禰が戻るまで待って下さい」と高杉を説得しますが、高杉は、「お前ら赤禰に騙されとんねん!そもそもアイツは●●(←身分が低いという意味の差別用語です)、俺は毛利家300年来の家臣やぞ!赤禰と比べんなや!」と息巻いて、武人と同じ低い身分の彼らをシラケさせますが、ご存じのように、これが功山寺の挙兵(12月6日参照>>)です。

結局、奇兵隊の中でも、わずかな者だけの賛同しか得られないまま、高杉は挙兵したわけですが、これが見事に勝利してしまった事で、長州藩内の保守派は一掃され、実権は革新派が握る事になり、そうなると、武人不在のまま奇兵隊や諸隊も、その後に続く事になるわけで・・・

逆に、そんな中で和平交渉を進めていた武人は「裏切り者」とされてしまいます。

この頃、身の危険を感じるようになった武人が母に宛て、手紙を残していますが、そこには
「僕の意見に逆らって高杉が挙兵してしまいました。
結果的に良かったとしても、それは殿様に弓引く行為であり、何より、僕は内乱を避けたかったので残念です。
今、逃げ隠れしてるのは命が惜しいからではありません。
この先の長州藩の行く末を、自分のやり方で救いたいと思っています」

と、決意のほどが書かれていたそうです。 

その言葉通り、その後の武人は、大阪に潜伏し、西郷隆盛(さいごうたかもり)らと接触して、幕府との衝突(第二次長州征伐)回避に向けての情報収集をしていたと言いますが、そんな中で、幕府から長州尋問のために派遣されて来た大目付の永井尚志(ながいなおゆき)とともに長州に戻って来た事から、今度は「幕府のスパイ」と疑われる事となった武人は、誕生の地である柱島にいたところを捕縛されるのです。

その後、1つの詰問も、1度の弁解も許されないまま、慶応二年(1866年)1月25日赤禰武人は28歳の若さで斬首され、胴体は鳥の餌食に、首は河原に晒されました。

最期に身につけていた着物の裏には
『真誠似偽 偽即似真』
「真実には偽りがあり、偽りにこそ真実がある」
との無念の8文字が書かれてあったとか・・・

中原邦平(なかはらくにへい)の目撃談によれば・・・
赤禰武人という人は、
「長身でたくましく、色白の美男子で、雄弁滔々、条理整然、一つも疑わしいところがない」
と、かなり魅力的な人物だったようです。

結果的に袂を分かった高杉晋作も、後には、
「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」
と、病床にて、その死を惜しんでいたと言います。

ただ、武人の後を継いだ山縣有朋が、後に総理になった時、吉田松陰などの名誉は回復されましたが、武人の名誉は回復される事なく・・・いや、むしろ、その奇兵隊の記録から、武人の事が末梢されていたらしい・・・

現在、山口県下関市にある東行庵(とうぎょうあん)には高杉晋作以下、多くの奇兵隊隊士のお墓がありますが、そんな訳で、ここに、武人のお墓が建立されたのは、彼が亡くなってから100年後の平成七年(1995年)の事なのだとか・・・

武人と有朋の間に、どのような確執的な物があったのか?は、それこそ、ご本人のみぞ知るところでしょうが、ひょっとしたら、すでに下関戦争の時点で、その存続が危ぶまれていた奇兵隊を引き継いだ有朋は、武人をスケープゴードとして葬り去る事で方針転換をアピールし、奇兵隊の存続を模索し、最後までそれを貫いたという事なのかも知れません。

ご存じのように、武人亡き後は、その有朋主導のもと、対・幕府ための軍隊として、鳥羽伏見から戊辰戦争へと進んで行く奇兵隊・・・しかし、結局は維新後に悲しい末路となってしまうのですが(11月27日参照>>) 、紆余曲折の中、多くの失敗、多くの犠牲があってこそ、現在の日本がある事を忘れてはなりませんね。
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2015年1月19日 (月)

海内一流の人物~荻生徂徠の死

 

享保十三年(1728年)1月19日、独自の思想『古文辞学』を提唱した江戸中期の儒学者・荻生徂徠が63歳で死去しました。

・・・・・・・・・・

寛文六年(1666年)は江戸に、医者の息子として生まれた荻生徂徠(おぎゅうそらい)でしたが、14歳の時に、父の失脚により、しばらくの間、母の実家にて不遇の日々を送りました。

『近世大儒列伝』によれば、その時に、父の荷物の中から、以前に父が書き移していた『大学諺解(げんかい=林羅山著)』を見つけ、これを必死に読みはじめたのが、学問に目覚めたキッカケだとの事・・・

Ogyusorai600 以来、様々な本を読みふけり、独学で以って学問を究めていく徂徠は、元禄五年(1692年)の27歳の時に、父が許された事から江戸へと戻り、再び学問に励みながら、芝増上寺の近くに塾を開いて、わずかながらの生活費を稼ぐようになりますが、これが、なかなかの貧乏生活・・・

この極貧生活を見るに見かねたのが、増上寺の門前にて豆腐屋を営んでいたご主人・・・

「余り物だから…」
「どうせ、捨てる物だから…」

と、毎日、豆腐粕(おから)を徂徠のもとに届けでくれたのです。

やがて、何とか幕府に召し抱えられた徂徠は、まず、その豆腐屋に礼を尽くすべく、少ない給料の中から、お米3升を買い、毎月、かの豆腐屋に贈ったのだとか・・・

ご存じの方も多いと思いますが、これが『徂徠豆腐』という落語や講談の元となったお話です。(もちろん、落語や講談は少しアレンジされてますが…)

・・・で、この美談を耳にしたのが、時の将軍=徳川綱吉(とくがわつなよし)側用人だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)(11月2日参照>>)・・・

元禄九年(1696年)、吉保は徂徠を書記に大抜擢するのですが、ここで、発揮されるのが、これまで頑張りに頑張りぬいて来た学問です。

柳沢邸にて講義をしたり、次々と浴びせられる政治の質問にも適格に応える徂徠に、徐々に周囲も信頼を置くようになり、やがて将軍=綱吉も彼に理解を示すようになります。

『先哲像伝(せんてつどうぜん)によれば、やはり徂徠に教えを請うていたあの名奉行の大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)をして、
「博識洽聞(はくしきこうぶん)知らざる所無し」
と言わせたとか・・・

そんな中で先ほどの落語『徂徠豆腐』とともに有名な逸話として知られるのは、元禄十五年(1702年)12月に起きた「元禄赤穂事件」(12月14日参照>>)との関わり・・・

実は、史実として起きた出来事を呼ぶ場合は「元禄赤穂事件」、物語として流布している物を指す場合は(仮名手本)忠臣蔵」と使い分けがされている事で解るように、実際の討ち入りと、それをモデルにしたお芝居やドラマは、あちらこちらが違っているわけですが、現在1番有名な『仮名手本忠臣蔵』こそ、事件があってから50年後に初上演となっているものの、早い物は討ち入り前に、討ち入り後はその3ヶ月後の翌年の2月に複数の、赤穂事件関連のお芝居が上演されています(8月14日参照>>)

つまり赤穂事件は、その事件があった直後から一般市民にも知れ渡るほどの話題になっていたわけで・・・しかも、それらの多くは、「曽我兄弟の仇打ち」(5月28日参照>>)になぞらえたりしての仇打ち賛美で、また、討ち入りした彼らも、「忠臣」「義士」と呼ばれていて、その呼び名でお察しの通り、庶民はもちろん、多くの知識人たちもが、彼らを擁護し、助命論を展開していたのです。

しかし、そんな中で、徂徠は幕府の質問に答える形で、あえて「切腹」を主張します。

「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也」
つまり、義理人情でいくと、主君の無念を晴らした彼ら赤穂浪士の行為はワカランでもないが、法のもとでは明らかに罪人である・・・と、

さらに付け加えて・・・
そもそも、江戸城内での刃傷事件(3月14日参照>>)に関しては、その後に幕府の沙汰が執行されているわけで、そこを、幕府の許可無しに騒動を起こした事は許されない事。 

情に流された私論で以って公論を曲げるような事になったら、天下の法は成り立たなくなる。 

その代わり、罪人=処刑とするところを、武士の礼を以って切腹とすれば、彼らの忠義も軽んじた事にはならない。
・・・と、

私としては見事なお答えのように思います。

・・・で、結果的に、赤穂浪士の面々は、徂徠の意見の通りに切腹となる(2月4日参照>>)のですが、かの落語の『徂徠豆腐』では、恩返しに来た徂徠に対して、豆腐屋が
「義士を切腹させたヤツのお礼は受けたくない!」
てな事を言う場面がありますので、この事が、一部の義士ファンからの反感をかっていたかも知れません。

「反感をかう」と言えば、徂徠が、後世の解釈をつけず論語などの経典を研究する『古文辞学(こぶんじがく)の開祖的立場だった事から、当時の主流だった朱子学(しゅしがく)を、「憶測にう基づく虚説」痛烈批判した事で、朱子学者から反感を持たれていた事も確か・・・

やがて、綱吉が亡くなって柳沢吉保が失脚してからは、柳沢邸を出て、日本橋茅場町にて私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いて、多くの弟子たちを育て、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)にも助言する立場にあった徂徠でしたが、

享保十三年(1728年)1月19日に、彼が63歳で死去した後には、対立していた朱子学者側から、「尋常な死に方では無かった」とか、「幕府の命で徂徠の遺体は島流しにされた」とかの、あらぬ噂を流されたうえに、徂徠の墓を巡って、「誰が主導権そ握るか」弟子同士が対立して、一門がバラバラになってしまったようで・・・何とも悲しい雰囲気ですが、

しかし、一方では、死に臨んだ徂徠の最期の言葉として
「海内一流の人物、物茂卿(ぶつもけい)将に命を隕(おと)さんとす。天、為めに此の世界をして銀ならしむ」

その日、江戸に大雪が降った事を受けて、
「一流の俺が死ぬから、神さんが銀世界にしはったんやで!」
との豪快な言葉を残したという事も伝えられていますので、徂徠自身は、大いに満足のいく人生だったのかも知れませんね。
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2015年1月11日 (日)

少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡

 

永禄二年(1559年)1月11日、龍造寺隆信に勢福寺城を攻められた少弐冬尚が自害し、鎌倉時代から続いた少弐氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・

平将門討伐で有名な藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)の末裔として、武藤(武者所に仕える藤原)と名乗っていたのを、あの源平合戦での武功で大宰少弐(だざいのしょうに=大宰府の次官)に任じられた事をキッカケに、少弐(しょうに)と名乗るようになった今回の少弐氏・・・以来、肥前(佐賀県)を中心に九州の雄として君臨して来たわけですが、

その後、南北朝動乱のゴタゴタの時に、いち時的に九州に勢力を持った足利尊氏(あしかがたかうじ)の次男=足利直冬(ただふゆ)(6月9日参照>>)や、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子=懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)が、室町幕府(北朝)に敵対した南朝であった事から、少弐氏も、北に南に迷走する事になるのですが、そんな中で幕府から「九州平定」の名目で派遣されて来た九州探題(きゅうしゅうたんだい)は、少弐氏にとって、何となく受け入れ難い物・・・

なんせ、もともとは大宰府を任されてる=大宰少弐だから少弐氏なわけで・・・

やがて、その九州探題のヘルプとして九州に侵攻して来た大内氏との争いに明け暮れる少弐氏ですが(12月21日参照>>)、そんな少弐氏を支えていたのが、配下の龍造寺・・・享禄三年(1530年)8月の田手畷(たてなわて・佐賀県吉野ヶ里町)の戦い(8月15日参照>>)では、少弐資元(すけもと)に大内の迎撃を命じられた龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)によって見事な勝利を治めています。

しかし、なおも続く大内氏の侵攻の中で、資元は、大内の重臣=陶興房(すえおきふさ)梶峰城(かじみねじょう=佐賀県)を攻められ、天文四年(1535年)12月29日に自害に追い込まれてしまいます。

この時の混乱をかいくぐって脱出した資元の息子=少弐冬尚(ふゆひさ・時尚)は、その後、龍造寺家兼らの支援を受けて、少弐氏を再興するのですが、おかげで、もはや少弐氏は龍造寺一族無しでは立ち行かない状況となってしまうのです。

しかし、一方では、冬尚の中で引っかかる物が・・・

実は、先の父=資元自害の時の戦いの際、家兼は兵を出さず静観していた事もあり(実際には兵を出すに出せない状況であったとも)、冬尚から見れば「父を見殺しにした」感が拭えなかったわけで・・・

そんなモヤモヤが断ち切れない中、少弐氏の中で龍造寺一族が力をつけ過ぎる事を不安に思った重臣の馬場頼周(よりちか)の進言によって心が決まった冬尚は、天文十四年(1545年)1月23日、龍造寺家純(いえすみ=家兼の長男)周家(ちかいえ=家純の長男)頼純(よりすみ=家純の三男)など、龍造寺家の主だった人々=6名を謀殺するという行為に出てしまいます(1月23日参照>>)

さらに、この事件の時に何とか脱出した家兼を筑後(福岡県南部)に追放した冬尚ですが、お察しの通り、結果的には、これが少弐氏自身の首を絞める事になります。

90歳という高齢にも関わらず冬尚の行為に憤慨する家兼は、龍造寺の残党とともに挙兵・・・翌・天文十五年(1546年)に頼周を討ち取り、仏門に入っていた亡き周家の息子をお家再建のために還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)させて龍造寺の家督を継がせます。

Ryuuzouzitakanobu600 これが、後に肥前の熊と恐れられる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。

早速、敵の敵は味方とばかりに、内氏と結んで少弐氏打倒の兵を挙げる隆信(当時の名は胤信)ですが、一方の冬尚も、豊後(大分県)大友氏を味方につけて応戦します。

・・・と、この頃は、隆信の方がチョイと優勢だったのですが、そんなこんなの中で、ここに来て北九州の情勢が大きく変わる出来事が立て続けに起こります。

天文十九年(1550年)2月・・・
大友二階崩れの変(2月10日参照>>)によって大友義鎮(よししげ)=後の宗麟(そうりん)大友氏の実権をい握る一方で、

翌・天文二十年(1551年)8月・・・
大内氏の大内義隆(よしたか)が、重臣の陶隆房(すえたかふさ=晴賢)に殺害される大寧寺の変(8月27日参照>>)が勃発したのです。

有力な当主が誕生した大友と、有力な当主を失った大内では、当然、周囲にもその影響が出る物で・・・劣勢を悟った隆信は、冬尚の降伏勧告を受け入れて、再び筑後へと落ちて行ったのでした。

しかし、男・隆信・・・ここで諦めるわけにはいきません。

大友氏の配下でありながらも「武士の義」として、広い心で隆信たちを保護してくれていた筑後国南部の蒲池氏16代目の当主=蒲池鑑盛(かまちあきもり)のもと、態勢を整え直した隆信は、永禄元年(1558年)、再度、少弐氏打倒の兵を挙げ、冬尚の拠る勢福寺城(せいふくじじょう=佐賀県神埼市)をとり囲みました。

しかし、この時は勢福寺城の守りが固く、なかなか落せなかった事から、年末には和議を結んで城の囲みを解き、隆信はさっさと帰ってしまいました。

ところが・・・
年が明けてまもない永禄二年(1559年)1月11日隆信は、いきなり兵を挙げたかと思うと、またたく間に勢福寺城を囲み、有無を言わさず、四方八方からの猛攻撃を仕掛けたのです。

年末に戻ったばかりだと油断していた勢福寺城内は、完全にフイを突かれた状態で、応戦もままならぬまま・・・そうなると、一人、また一人と、冬尚に味方していた武将たちが城から去って行く事に・・・

取り残された冬尚は、さびしく自害し、ここに、鎌倉時代から続いた少弐氏は滅亡する事となります。

ちなみに、この冬尚の死を知った大友宗麟が、冬尚の弟の政興(まさおき)を旗印に隆信討伐を支援しますが、思うように行かなかったため、やはり、この冬尚の死を以って「少弐氏の滅亡」とするのが、一般的なようです。

世は戦国・・・
消えて行く名家もあれば、ここで誕生して後に名家となる家もある・・・それが世の習いというものなのでしょう。

そんな龍造寺隆信だって、いずれ・・・おっと、そのお話は隆信さんのそれぞれのページでどうぞ
鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い
沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因
龍造寺四天王~それぞれの沖田畷
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2015年1月 3日 (土)

謹賀新年~大河ドラマ「花燃ゆ」への期待

 

あけましておめでとうございます

昨年は、多くの方々のご訪問をいただき、ありがとうございましたm(_ _)m

近頃は、多忙につき、週1~2回程度の更新頻度となってしまっておりますが、本年も、「今日は何の日?徒然日記」を、よろしくお願いします。
2015cc330

てな事で、やはり年始となれば、1年間に渡っての歴史好きの話題となる大河ドラマのお話を・・・とは言え、もちろん、まだ本編は始まってませんので、あくまで、予告編や番組情報を見た限りの、私の勝手な解釈によるドラマへの期待と言った感じのお話ですが・・・

ところで・・・
今年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公は杉文(すぎふみ=後の楫取美和子)さん・・・って誰???

恥ずかしながら、この私・・・吉田松陰(よしだしょういん)の妹という事以外は、まったく知りませんでした。

しかしながら、聞くところによれば、今回の大河の主役が決まるまで、彼女の名前はwikiにも無かったらしく、どうやら、知らなかったのは私だけではないようで(*^.^*)ホッ・・・

一般的にも、さほど有名ではなく、残っている史料も少ない女性のようですが、それは、言いかえれば、作家さん&スタッフさんの腕の見せ所でもあり、そこを、いかに面白く、うまく脚色する事ができるのか?が期待できる主人公でもあります。

第1回放送の表題が「人をむすぶ妹」という事で、おそらく皆さまもお察しかとは思いますが、どうやら、幕末&維新に活躍したあまたの志士たちが、彼女を通じて出会い、親しみ、そして繋がっていく・・・という感じで描かれていくのでしょうね。

幕末という荒波を泳ぎ、維新という大望を抱く彼らを、妻として、友人として、時には母のように支え&サポートする彼女の姿を通して、その時代を描いていこうという主旨なのだと思います。

これまで、このブログで紹介した女性で言えば、
野村望東尼(ぼうとうに・もとに)(11月6日参照>>)や、
村岡局(むらおかのつぼね)(8月23日参照>>)
みたいな感じかも知れませんね(←あくまで予想です)

とにもかくにも、女性目線の幕末&維新は、2008年の「篤姫」(=薩摩から徳川家)、一昨年の「八重の桜」(=会津)に続き、今度は維新を成した側の長州から・・・

どんな物語になるのか、楽しみにしていますヽ(´▽`)/

てな事で、新ドラマに期待しつつ・・・手前味噌ながら、すでにブログに書かせていただいている中から、参考になりそうなページをピックアップさせていただいときますので、興味がおありでしたら、ご視聴の予備知識としてご覧いただけるとウレシイです。
(上記の通り、主人公の文さんについては、ほとんど知らないので、まだ書いてませんが…(*´v゚*)ゞ)

・‥…━━━☆

●主人公の兄:吉田松陰
 【熱血先生・吉田松陰の教育方針】

●松陰の恋人?:高須久子
 【吉田松陰~生涯一度の獄中の恋】

●長州藩士:周布政之助
 【長州動乱…周布政之助の自殺】

●長州藩士:椋梨藤太
 【動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太】

●長州藩士:長井雅楽
 【長州一の知弁:長井雅楽~無念の死】

●塾生:高杉晋作
 【高杉晋作・功山寺で挙兵】

下関戦争
 【長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発】

八月十八日の政変
 【新撰組を表舞台に押し上げた政変】

池田屋騒動
 【新撰組・絶好調!池田屋事件】

●主人公の旦那さん:久坂玄瑞
 【禁門の変で散る久坂玄瑞】

●長州藩士:来島又兵衛
 【禁門の変~来島又兵衛アラ50の挑戦】

●長州藩士:赤禰武人
 【奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念】

●長州藩家老:福原越後の自刃
 【長州を守る為~福原越後の政治責任】

第2次長州征伐
 【高杉の奇襲で幕開け大島奪回作戦】
 【明暗分ける芸州口の戦い】
 【晋作・龍馬・益次郎~小倉口の戦い】
 【大詰め~長州・小倉口ゲリラ戦】
 【石州口・浜田城陥落】
 【大詰め!最後の小倉・上陸】

●長州藩士:桂小五郎(木戸孝允)
 【「逃げの小五郎」で逃げまくった孝允も】

●塾生:伊藤博文
 【内閣総理大臣・伊藤博文君を評価したい】

●塾生:品川弥二郎前原一誠
 【萩の乱近し~前原と木戸と品川と】

●塾生:前原一誠の萩の乱
 【天皇をお諌め~前原一誠の萩の乱】
 【長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉】

●尊王攘夷から倒幕については
 【水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死】
 ↑水戸学がらみなので、少し東湖さんの話が多いですが…

‥…━━━☆

今年も、歴史のあんな事こんな事、お話しましょう!
どうぞ、よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ
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