海内一流の人物~荻生徂徠の死
享保十三年(1728年)1月19日、独自の思想『古文辞学』を提唱した江戸中期の儒学者・荻生徂徠が63歳で死去しました。
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寛文六年(1666年)は江戸に、医者の息子として生まれた荻生徂徠(おぎゅうそらい)でしたが、14歳の時に、父の失脚により、しばらくの間、母の実家にて不遇の日々を送りました。
『近世大儒列伝』によれば、その時に、父の荷物の中から、以前に父が書き移していた『大学諺解(げんかい=林羅山著)』を見つけ、これを必死に読みはじめたのが、学問に目覚めたキッカケだとの事・・・
以来、様々な本を読みふけり、独学で以って学問を究めていく徂徠は、元禄五年(1692年)の27歳の時に、父が許された事から江戸へと戻り、再び学問に励みながら、芝増上寺の近くに塾を開いて、わずかながらの生活費を稼ぐようになりますが、これが、なかなかの貧乏生活・・・
この極貧生活を見るに見かねたのが、増上寺の門前にて豆腐屋を営んでいたご主人・・・
「余り物だから…」
「どうせ、捨てる物だから…」
と、毎日、豆腐粕(おから)を徂徠のもとに届けでくれたのです。
やがて、何とか幕府に召し抱えられた徂徠は、まず、その豆腐屋に礼を尽くすべく、少ない給料の中から、お米3升を買い、毎月、かの豆腐屋に贈ったのだとか・・・
ご存じの方も多いと思いますが、これが『徂徠豆腐』という落語や講談の元となったお話です。(もちろん、落語や講談は少しアレンジされてますが…)
・・・で、この美談を耳にしたのが、時の将軍=徳川綱吉(とくがわつなよし)の側用人だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)(11月2日参照>>)・・・
元禄九年(1696年)、吉保は徂徠を書記に大抜擢するのですが、ここで、発揮されるのが、これまで頑張りに頑張りぬいて来た学問です。
柳沢邸にて講義をしたり、次々と浴びせられる政治の質問にも適格に応える徂徠に、徐々に周囲も信頼を置くようになり、やがて将軍=綱吉も彼に理解を示すようになります。
『先哲像伝(せんてつどうぜん)』によれば、やはり徂徠に教えを請うていたあの名奉行の大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)をして、
「博識洽聞(はくしきこうぶん)知らざる所無し」
と言わせたとか・・・
そんな中で先ほどの落語『徂徠豆腐』とともに有名な逸話として知られるのは、元禄十五年(1702年)12月に起きた「元禄赤穂事件」(12月14日参照>>)との関わり・・・
実は、史実として起きた出来事を呼ぶ場合は「元禄赤穂事件」、物語として流布している物を指す場合は「(仮名手本)忠臣蔵」と使い分けがされている事で解るように、実際の討ち入りと、それをモデルにしたお芝居やドラマは、あちらこちらが違っているわけですが、現在1番有名な『仮名手本忠臣蔵』こそ、事件があってから50年後に初上演となっているものの、早い物は討ち入り前に、討ち入り後はその3ヶ月後の翌年の2月に複数の、赤穂事件関連のお芝居が上演されています(8月14日参照>>)。
つまり赤穂事件は、その事件があった直後から一般市民にも知れ渡るほどの話題になっていたわけで・・・しかも、それらの多くは、「曽我兄弟の仇打ち」(5月28日参照>>)になぞらえたりしての仇打ち賛美で、また、討ち入りした彼らも、「忠臣」「義士」と呼ばれていて、その呼び名でお察しの通り、庶民はもちろん、多くの知識人たちもが、彼らを擁護し、助命論を展開していたのです。
しかし、そんな中で、徂徠は幕府の質問に答える形で、あえて「切腹」を主張します。
「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也」
つまり、義理人情でいくと、主君の無念を晴らした彼ら赤穂浪士の行為はワカランでもないが、法のもとでは明らかに罪人である・・・と、
さらに付け加えて・・・
そもそも、江戸城内での刃傷事件(3月14日参照>>)に関しては、その後に幕府の沙汰が執行されているわけで、そこを、幕府の許可無しに騒動を起こした事は許されない事。
情に流された私論で以って公論を曲げるような事になったら、天下の法は成り立たなくなる。
その代わり、罪人=処刑とするところを、武士の礼を以って切腹とすれば、彼らの忠義も軽んじた事にはならない。
・・・と、
私としては見事なお答えのように思います。
・・・で、結果的に、赤穂浪士の面々は、徂徠の意見の通りに切腹となる(2月4日参照>>)のですが、かの落語の『徂徠豆腐』では、恩返しに来た徂徠に対して、豆腐屋が
「義士を切腹させたヤツのお礼は受けたくない!」
てな事を言う場面がありますので、この事が、一部の義士ファンからの反感をかっていたかも知れません。
「反感をかう」と言えば、徂徠が、後世の解釈をつけず論語などの経典を研究する『古文辞学(こぶんじがく)』の開祖的立場だった事から、当時の主流だった朱子学(しゅしがく)を、「憶測にう基づく虚説」と痛烈批判した事で、朱子学者から反感を持たれていた事も確か・・・
やがて、綱吉が亡くなって柳沢吉保が失脚してからは、柳沢邸を出て、日本橋茅場町にて私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いて、多くの弟子たちを育て、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)にも助言する立場にあった徂徠でしたが、
享保十三年(1728年)1月19日に、彼が63歳で死去した後には、対立していた朱子学者側から、「尋常な死に方では無かった」とか、「幕府の命で徂徠の遺体は島流しにされた」とかの、あらぬ噂を流されたうえに、徂徠の墓を巡って、「誰が主導権そ握るか」で弟子同士が対立して、一門がバラバラになってしまったようで・・・何とも悲しい雰囲気ですが、
しかし、一方では、死に臨んだ徂徠の最期の言葉として
「海内一流の人物、物茂卿(ぶつもけい)、将に命を隕(おと)さんとす。天、為めに此の世界をして銀ならしむ」
その日、江戸に大雪が降った事を受けて、
「一流の俺が死ぬから、神さんが銀世界にしはったんやで!」
との豪快な言葉を残したという事も伝えられていますので、徂徠自身は、大いに満足のいく人生だったのかも知れませんね。
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コメント
茶々様、こんにちは!
今回も興味深い記事をありがとうございます。
荻生徂徠は独学で勉強したそうですが、誰か特定の師についたり、私塾などで勉強はしなかったのですか?
それにしても、すごいバイタリティーですよね!
私はあきっぽいので見習わなければ(笑)
赤穂義士の処遇に対しては室鳩巣などと対立しましたね。
ドラマの名前を忘れましたが(大河ドラマだったかもしれません)義士をめぐり、殿中で荻生徂徠と室鳩巣が激しく意見を言い合うシーンを覚えています。
投稿: あいこ | 2015年1月20日 (火) 12時10分
あいこさん、こんにちは~
『美術人名辞典』の解説では、「林春斎・林鳳岡に学ぶ」とありますが、参照した『近世大儒列伝』には出てきませんね。
お医者さんの息子さんですから、幼い頃は裕福だったかも知れませんが、父親が失脚してからは、かなりの貧乏だったようなので、そこらあたりからは独学だったんじゃ無いでしょうか?
『先哲像伝』には、「どこかの蔵書が売りに出されると聞けば、家財を売ってでも、ありったけのお金をかき集めて買いに行って、寝る間も惜しんで読んだ」とあるので、とにかく、そうやって学んだんじゃないか?と…
>義士をめぐり、殿中で荻生徂徠と室鳩巣が…
ドラマで扱われていたんですね~
知りませんでした(/ー\*)
投稿: 茶々 | 2015年1月20日 (火) 17時33分