少弐冬尚の自害で少弐氏が滅亡
永禄二年(1559年)1月11日、龍造寺隆信に勢福寺城を攻められた少弐冬尚が自害し、鎌倉時代から続いた少弐氏が滅亡しました。
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平将門討伐で有名な藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)の末裔として、武藤(武者所に仕える藤原)と名乗っていたのを、あの源平合戦での武功で大宰少弐(だざいのしょうに=大宰府の次官)に任じられた事をキッカケに、少弐(しょうに)と名乗るようになった今回の少弐氏・・・以来、肥前(佐賀県)を中心に九州の雄として君臨して来たわけですが、
その後、南北朝動乱のゴタゴタの時に、いち時的に九州に勢力を持った足利尊氏(あしかがたかうじ)の次男=足利直冬(ただふゆ)(6月9日参照>>)や、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子=懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)が、室町幕府(北朝)に敵対した南朝であった事から、少弐氏も、北に南に迷走する事になるのですが、そんな中で幕府から「九州平定」の名目で派遣されて来た九州探題(きゅうしゅうたんだい)は、少弐氏にとって、何となく受け入れ難い物・・・
なんせ、もともとは大宰府を任されてる=大宰少弐だから少弐氏なわけで・・・
やがて、その九州探題のヘルプとして九州に侵攻して来た大内氏との争いに明け暮れる少弐氏ですが(12月21日参照>>)、そんな少弐氏を支えていたのが、配下の龍造寺・・・享禄三年(1530年)8月の田手畷(たてなわて・佐賀県吉野ヶ里町)の戦い(8月15日参照>>)では、少弐資元(すけもと)に大内の迎撃を命じられた龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)によって見事な勝利を治めています。
しかし、なおも続く大内氏の侵攻の中で、資元は、大内の重臣=陶興房(すえおきふさ)に梶峰城(かじみねじょう=佐賀県)を攻められ、天文四年(1535年)12月29日に自害に追い込まれてしまいます。
この時の混乱をかいくぐって脱出した資元の息子=少弐冬尚(ふゆひさ・時尚)は、その後、龍造寺家兼らの支援を受けて、少弐氏を再興するのですが、おかげで、もはや少弐氏は龍造寺一族無しでは立ち行かない状況となってしまうのです。
しかし、一方では、冬尚の中で引っかかる物が・・・
実は、先の父=資元自害の時の戦いの際、家兼は兵を出さず静観していた事もあり(実際には兵を出すに出せない状況であったとも)、冬尚から見れば「父を見殺しにした」感が拭えなかったわけで・・・
そんなモヤモヤが断ち切れない中、少弐氏の中で龍造寺一族が力をつけ過ぎる事を不安に思った重臣の馬場頼周(よりちか)の進言によって心が決まった冬尚は、天文十四年(1545年)1月23日、龍造寺家純(いえすみ=家兼の長男)、周家(ちかいえ=家純の長男)、頼純(よりすみ=家純の三男)など、龍造寺家の主だった人々=6名を謀殺するという行為に出てしまいます(1月23日参照>>)。
さらに、この事件の時に何とか脱出した家兼を筑後(福岡県南部)に追放した冬尚ですが、お察しの通り、結果的には、これが少弐氏自身の首を絞める事になります。
90歳という高齢にも関わらず冬尚の行為に憤慨する家兼は、龍造寺の残党とともに挙兵・・・翌・天文十五年(1546年)に頼周を討ち取り、仏門に入っていた亡き周家の息子をお家再建のために還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)させて龍造寺の家督を継がせます。
これが、後に肥前の熊と恐れられる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。
早速、敵の敵は味方とばかりに、大内氏と結んで少弐氏打倒の兵を挙げる隆信(当時の名は胤信)ですが、一方の冬尚も、豊後(大分県)の大友氏を味方につけて応戦します。
・・・と、この頃は、隆信の方がチョイと優勢だったのですが、そんなこんなの中で、ここに来て北九州の情勢が大きく変わる出来事が立て続けに起こります。
天文十九年(1550年)2月・・・
大友二階崩れの変(2月10日参照>>)によって大友義鎮(よししげ)=後の宗麟(そうりん)が大友氏の実権をい握る一方で、
翌・天文二十年(1551年)8月・・・
大内氏の大内義隆(よしたか)が、重臣の陶隆房(すえたかふさ=晴賢)に殺害される大寧寺の変(8月27日参照>>)が勃発したのです。
有力な当主が誕生した大友と、有力な当主を失った大内では、当然、周囲にもその影響が出る物で・・・劣勢を悟った隆信は、冬尚の降伏勧告を受け入れて、再び筑後へと落ちて行ったのでした。
しかし、男・隆信・・・ここで諦めるわけにはいきません。
大友氏の配下でありながらも「武士の義」として、広い心で隆信たちを保護してくれていた筑後国南部の蒲池氏16代目の当主=蒲池鑑盛(かまちあきもり)のもと、態勢を整え直した隆信は、永禄元年(1558年)、再度、少弐氏打倒の兵を挙げ、冬尚の拠る勢福寺城(せいふくじじょう=佐賀県神埼市)をとり囲みました。
しかし、この時は勢福寺城の守りが固く、なかなか落せなかった事から、年末には和議を結んで城の囲みを解き、隆信はさっさと帰ってしまいました。
ところが・・・
年が明けてまもない永禄二年(1559年)1月11日、隆信は、いきなり兵を挙げたかと思うと、またたく間に勢福寺城を囲み、有無を言わさず、四方八方からの猛攻撃を仕掛けたのです。
年末に戻ったばかりだと油断していた勢福寺城内は、完全にフイを突かれた状態で、応戦もままならぬまま・・・そうなると、一人、また一人と、冬尚に味方していた武将たちが城から去って行く事に・・・
取り残された冬尚は、さびしく自害し、ここに、鎌倉時代から続いた少弐氏は滅亡する事となります。
ちなみに、この冬尚の死を知った大友宗麟が、冬尚の弟の政興(まさおき)を旗印に隆信討伐を支援しますが、思うように行かなかったため、やはり、この冬尚の死を以って「少弐氏の滅亡」とするのが、一般的なようです。
世は戦国・・・
消えて行く名家もあれば、ここで誕生して後に名家となる家もある・・・それが世の習いというものなのでしょう。
そんな龍造寺隆信だって、いずれ・・・おっと、そのお話は隆信さんのそれぞれのページでどうぞ
●鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い
●沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因
●龍造寺四天王~それぞれの沖田畷
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コメント
初めまして、少弐氏の記事有難う御座います。九州屈指の歴史を持つ家でありながら、全く認知度の無い少弐氏、実は私のご先祖様で御座います。もちろん直系ではないですがw
曽祖父は鍋島藩の家臣で祖父は福岡の炭鉱を経営しておりました。ご先祖様は少弐氏が滅亡した際に名前を武藤に戻し、鍋島家に拾ってもらったと聞いています。我が家には鎌倉時代の刀が家宝として受け継がれており、お墓は佐賀にあります。歴女などという言葉が生まれ今日に置いてなお、大友氏や島津氏に比べ少弐氏の認知度の不遇さに悲しくなっていますw
投稿: ヒデ | 2017年3月 6日 (月) 16時12分
ヒデさん、こんにちは~
>私のご先祖様で…
そうでしたか~
やはり、ご先祖様の事は気になりますよね~
なかなか、このあたりの事は時代劇とかにはならないので、確かに、知名度は低いかも知れませんね。
ドラマになれは、魅力的な物語が展開されると思うんですが…
投稿: 茶々 | 2017年3月 6日 (月) 16時25分