長州一の知弁:長井雅楽~無念の死
文久三年(1863年)2月6日、長州藩の英才と謳われた長井雅楽が自刃しました。
・・・・・・・
文政二年(1819年)に、長州(山口県)藩士の長男として生まれた長井雅楽(ながいうた=時庸)は、幼くして父を亡くした後、藩校の明倫館(めいりんかん)で学びますが、その優秀さは目をみはるほどで、やがて時の藩主である毛利敬親(もうりたかちか)の小姓から奥番頭となり、毛利家の後継ぎである定広(さだひろ)の後見人にも抜擢されるほどの信頼を得て、長州藩の重役にまで昇り詰めます。
しかし、何と言っても彼を有名にしたのは、文久元年(1861年)に藩主に提出した『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)』という建白書です。
(右→画像は『山口県幕末維新関係資料等データベース』様>>より転載)
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ご存じのように、時は幕末・・・
嘉永六年(1853年)6月のペリー来航(6月3日参照>>)以来、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かに揺れる中で、幕府大老の井伊直弼(なおすけ)が、開国に反対する孝明天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に調印してしまった事から、開国派と攘夷派は真っ向から対立する事になります。
以前に、水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)さん死去のページで少し書かせていただきましたが(10月2日参照>>)、もともとは、幕府を守るための尊王攘夷思想だったのが、幕府大老自らがそこでの序列を無視してしまった事で、尊王攘夷はどんどんと倒幕の方向へと向かうのですが、そんな中で、それに拍車をかける如く行われたのが、安政六年(1859年)の、あの安政の大獄・・・
危険を感じた西郷隆盛(さいごうたかもり)は自殺未遂するわ(11月16日参照>>)、
梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)は逮捕(9月14日参照>>)されるわ、
橋本左内(はしもとさない)は斬首(2012年10月7日参照>>)されるわ、
吉田松陰(よしだしょういん)は死刑(10月27日参照>>)になるわ、
と、幕府に反発する攘夷論者を次々と罰した事から、ますます日本は真っ二つとなり、翌・安政七年(万延元年=1860年)3月には、張本人の直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で暗殺される事態に・・・
そんな中で、その打開策として、幕府は公武合体(こうぶがったい)を模索しはじめます。
公武合体とは、その名の通り、「公=朝廷」と「武=幕府」が、力を合わせてこの苦境を乗り切って行こうという物で、その象徴のように進められていたのが、第14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)と、孝明天皇の妹=和宮(かずのみや)の結婚話でした(8月26日参照>>)。
・・・で、その翌年の文久元年(1861年)に、先ほどの雅楽の建白書=『航海遠略策』です。
その内容を、ごくごく簡単にご紹介しますと、
「このまま、尊王攘夷論の朝廷と、開国論の幕府が対立していては欧米列強につけ込まれるかも知れない…すでに、アメリカとの条約を結んでしまった今となっては、幕府が調印した条約に朝廷が同意して勅許を与え、国論を統一して万全な体制を作り、海外にも進んで乗り出しつつ外国との交渉にも当たるべきである」
みたいな感じです。
当時、藩内知弁第一と謳われた雅楽ですから、その説明も見事な物で、藩主・敬親も大いに感動し、重臣の周布政之助(すふまさのすけ)(9月26日参照>>)も、その意見に耳を傾けたと言います。
早速、この案は、長州藩の藩論とされ、藩主・敬親は雅楽を伴って、江戸へ京へと奔走・・・幕府も喜んで賛同します。
てか、もともと、和宮の嫁入りを模索していた幕府にとって、むしろ、これは好都合な案・・・早速、その年の10月には、皇女和宮が江戸に向かって発ち(10月20日参照>>)、これで政局は一段落したかに見えました。
しかし、長州藩の一部の志士は、これに納得せず、雅楽暗殺計画を立て、反対運動を展開します。
その中心となっていたのが、桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)や久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)と言った、今は亡き松陰の松下村塾(11月5日参照>>)の出身者たち・・・
実は、そもそも『航海遠略策』の根底に流れる「国論を統一して海外にも積極的に乗り出して外国と交渉すべき」という考え方は、雅楽よりも先に松陰が言っていた事だったんです。
なんせ、ご存じのように、黒船に乗って外国へ行こうとした人ですからね・・・松陰は、
なので、彼ら反対派も、それが、来たるべき未来に実現すべき正論である事は重々承知だったわけですが、ただ、その考えを、今、この時点で、幕府の生き残りのための策として使われるのが許せなかったようなのです。
敬親と雅楽が江戸や京都や国許を行ったり来たりしている間にも、藩内で積極的に反対運動を推進していく彼らに、初めは賛成派だった周布政之助も態度を変えるようになり、徐々に反対派は増えていき、やがて、藩主の敬親も『航海遠略策』に消極的になっていきます。
そんな中、雅楽の『航海遠略策』に最もノリノリだった幕府老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)が、文久二年(1862年)1月15日に起こった坂下門外の変(1月15日参照>>)と呼ばれる水戸脱藩浪士に襲撃された事件がもとで失脚し、雅楽は大きな後ろ盾を失ってしまいます。
その2ヶ月後の3月には、未だ、朝廷から、正式に『航海遠略策』を認めてもらっていない雅楽は、江戸を発って京都に向かいますが、すでにこの頃は、朝廷内でも反対派の動きが活発になっていて、雅楽の建白は失敗・・・さらに、続く4月には、反対派の久坂らによって、12カ条に及ぶ『長井弾劾書』が長州藩に提出されるのです。
その内容は、
「松陰を幕府の役人に売り渡した」とか、
「勤王の志篤い長州藩を詭弁で翻弄した」とか、
「朝廷は攘夷一色だったのに外国との条約に勅許を下すよう仕向けた」とか、
「藩主が病気なのに参勤交代でウロウロさせた」とか・・・
しかし、ずいぶん前の安政の大獄の直弼の本心のページ(2006年10月7日参照>>)でも書かせていただいたように、それは松陰自らが、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画と、仲間の梅田雲浜の奪還計画を自白して出頭して来たわけで、そんなテロ行為が発覚した以上、幕府は何らかの処置を取らねばならないし、幕府の命があれば、当時、直目付という役職だった雅楽は、粛々と、その役職を全うするわけで・・・売り渡したというよりは、単に仕事をこなしただけのような気がしないでもない・・・
また、そのほかの、尊王攘夷か公武合体かとかに関しては、雅楽一人が原因なのではなく、そこに同調した重臣やらその他モロモロの大勢の関係もあるわけで・・・
しかも、ここに来て、前年に雅楽が朝廷に提出していた『航海遠略策』に、その文書の中に「謗詞(ぼうし=誹謗中傷する言葉)がある」として不採用との判断がくだされます。
謗詞一件(ぼうしいっけん)と呼ばれるこの事件ですが、結局のところ、『航海遠略策』のどの部分が朝廷に対しての誹謗中傷なのかよくわからずじまいの一件で、要は、反雅楽派=長州内の攘夷派の画策を、朝廷内の攘夷派が受けて、とにかく「誹謗中傷の言葉が含まれている」の一点張りで押し通した・・・てな感じのようです。
とにもかくにも、これにて、長州藩内の雅楽への批判は頂点へと達します。
なんせ反対派も賛成派も長州藩士なわけですから、藩主としても分裂した藩を一つにまとめねばならないし、かと言って「藩主が…」「重役たちが…」って事になれば、事は大きくなるわけで、ハッキリ言って、雅楽一人に責任を取らせる形にしないと、収まりがつかなくなったという事なのでしょう。
そして、その責任の取り方は・・・そう、切腹です。
もちろん、藩内にも雅楽に同情する者もいましたし、藩主の敬親も、彼の優秀さに惚れ込んでいた一人ですから、おそらく、その死を惜しんだでしょうが、もはや、長州藩のゴタゴタは、それ以外に収拾の方法が無い状況となっていたようです。
切腹の命を受けた雅楽は、最期となる日の前日、定広の側近を、長年ともに務めた友人=高杉小忠太(たかすぎこちゅうた=晋作の父)に、その思いを込めた長文の手紙を書いたと言います。
それは、自分に降りかかった非難が、いかに言われの無い物であるかという事を綴った悲痛な訴えだったようですが、その末尾には
♪ぬれ衣(ぎぬ)の かゝるうき身は 数ならで
唯思はるゝ 国の行末 ♪
という辞世の句が添えられていたのだとか・・・
かくして文久三年(1863年)2月6日、長井雅楽の切腹は執行されました。
その最期を目撃した人によると、
朗々と『弓八幡』を謡い終わった後、介錯人の助けを拒絶して自らの刃で切腹を果たし、血の海の中で逝った・・・との事。
この3ヶ月後、長州藩は関門海峡を通る外国船に砲撃を仕掛けて攘夷の先頭に立つ事になるのですが(5月10日参照>>)、それもつかの間・・・
さらに3ヶ月後の8月に政変が起こった(8月18日参照>>)事で表舞台から引きずり降ろされた長州は、翌年の禁門(蛤御門)変(7月19日参照>>)にて朝敵(国家の敵)となり、その後始末のために・・・
実は、今回の雅楽の最期を、検使役として見届けたのが家老の国司信濃(くにししなの)・・・彼もまた、その禁門の変の後始末のために切腹する事になるのです(11月12日参照>>)。
維新という大義を成し遂げた長州藩・・・
そこに至るまで、めまぐるしいほどの紆余曲折の日々に散って行った人々・・・
親王攘夷と公武合体・・・胸に抱いた思想は違えど、彼らは、皆ともに、日本の明日を真剣に考えていた人々なのです。
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コメント
お茶々さま
はじめまして
いつも楽しく読ませてもらっていますが初めてコメント入れさせていただきます。
わたしは今、平安末期から鎌倉時代にはまっているので鎌倉へ歴遠足に行きます(東京と神奈川の境に住んでいるので)
その時の日記をブログに書いていますが、読んでくれた方に更にわかりやすいようにお茶々さんのブログをリンクさせたりしていますので取り急ぎのご挨拶です。
ホントにこのブログはわかりやすく面白いので毎日読んでます。
何かわからない出来事や人物の名前があればまずここを調べるくらいです。
これからも毎回楽しみにしていますのでよろしくお願いします♡
投稿: megu | 2015年2月 8日 (日) 23時04分
meguさん、こんばんは~
ウレシイお言葉、ありがとうございます。
更新の励みになります。
また、お暇な時に、覗きに来てくださいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2015年2月 9日 (月) 04時50分
9月に長州検定がありますね。山口だけでなく、東京と大阪で受験出来ます。長井雅楽さんも登場するかも〜
投稿: やぶひび | 2015年2月17日 (火) 12時19分
やぶひびさん、こんにちは~
「大坂の陣検定」や「新撰組検定」があるのは知ってましたが、なるほど…「長州検定」もあるんですね~
やはり大河の関係ですかね~
投稿: 茶々 | 2015年2月17日 (火) 14時51分