信長の意見書に将軍・義昭が反旗
元亀四年(天正元年・1573年)2月20日、将軍・足利義昭が織田信長討伐の為に今堅田に軍を進めた事を受けて、信長配下の柴田勝家らが出陣しました。
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そもそもは・・・
自分を担いで上洛してくれる武将を求めていた足利義昭(よしあき・義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長(おだのぶなが)(10月4日参照>>)・・・この二人の利害関係が一致した事により、永禄十一年(1568年)9月にともに上洛し、翌10月に、義昭は晴れて第15代・室町幕府将軍となりました(10月18日参照>>)。
ところが、この二人の蜜月はそう長くはなく、2年後の元亀元年(1570年)1月23日には、信長から「これからは全部、俺がやるさかいに、アンタはおとなしゅーしといてね」てな感じの『信長朱印条書』を突き付けて(1月23日参照>>)、同年の4月には、朝倉氏の手筒山・金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)します。
しかし、ご存じのように、そこで妹婿の浅井長政(あざいながまさ)が朝倉側についた事で一旦撤退(4月27日参照>>)・・・2ヶ月後の姉川の戦いに勝利(6月28日参照>>)するも、8月に勃発した三好三人衆との戦い(8月26日参照>>)に、今度は石山本願寺が参戦(9月12日参照>>)・・・
さらに、未だくすぶる浅井朝倉との戦い=(9月:宇佐山城の戦い>>)&(11月:堅田の戦い>>)で、その浅井朝倉の残党をかくまった比叡山を、翌・元亀二年(1571年)9月に焼き討ち(9月12日参照>>)にした信長・・・
この間に、長島一向一揆も勃発(10月25日の前半部分参照>>)していますが、そんなこんなの元亀三年(1572年)・・・いよいよ、甲斐(かい=山梨県)のオオモノ=武田信玄(たけだしんげん)が参戦して来たのです。
この状況を踏まえてか?否か?信長は義昭に対して、17カ条にも及ぶ意見書を提出します。
少し長いので、かいつまみつつ、ご紹介しますが・・・
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- 入京した時から、毎年、怠りなく宮中に参内されるよう申し上げてますのに、最近は、その事をお忘れになってるようですが、そんなんやったら困りますわ。
- 全国に手紙出して、馬やら何やら、イロイロ献上してもろてはるみたいですけど、そんなん、僕に命じてくれはったら、僕が手配するて前から言うてますやん…僕にナイショでコソコソ指示されるのは、よくないと思いまっせ。
- 幕府内の人事で、一所懸命やってる人に恩賞与えんと、それほどでも無い新参者を格別に可愛がってはるみたいですけど、評判よくありませんよ。
- 最近は、将軍様と僕の関係が悪化してるなんて噂がたってるみたいですけど、そんな中で、ご自分の大事な宝物なんかを、御所から別の場所に移したりなんかして、今度は、どこに引っ越さはるんですか?せっかく僕が、今の御所を建ててさしあげたのに、無駄になってまいますやんか。
- 賀茂神社の所領を没収して石成友通に与えて経費を負担するよう指示しはったて聞きましたけど、寺社の所領を没収したりするのんは、あんまりええ事やありませんし、僕は僕でどうするか考えてましたのに、勝手にそんなんされるんは良くないと思いますわ。
- 僕と親密にしてる者と聞けば、下っ端の者にまでイケズしてはるそうで、彼らも困惑してますよ。僕と親しい者には、逆に親切にしてもらわんと…いったい、どんな理由で、そんな事してはりますのん?
- 「俺ら頑張ってるのに、ぜんぜん給料上げてくれへん」て僕に泣きついて来てる者もいてて、僕から口聞いたらどないかなるやろと思て伝えましたけど、一向に音沙汰無しで、僕のメンツも立ちませんわ。
- 若狭の国の代官の訴訟に関しては、当然の事やなと思て助言しましたのに、その後、決裁されんままですやん。
- 小泉は偶発的な喧嘩で死んだのに、彼の身の回りの品や刀なんかを没収しはったらしいですけど、ちゃんと法律にう基づいた処分をせんとお名前に傷がつきまっせ。
- 元亀の元号は縁起悪いから変えた方がええて皆が言うて、宮中からも催促があるのに、改元の費用ケチって延び延びになってますやん。
- 烏丸光康をクビにされた件は、僕が「許してやってほしい」と進言しましたけど、なんや聞くところによると、金銭を受け取ってお許しになったとか…情けないですわ。
- 諸国から金銭を献上してもろてはる事は明白やのに、それを自分だけの貯蓄に回してはるんは何のためでっか?
- 明智光秀が京都で集めた固定資産税を預けておいたら、「そこは延暦寺の土地や」言うて預けてたもんを差し押さえはったんはアカンと思います。
- 昨年夏、幕府が備蓄している米を売って、たいぶ儲けはったみたいですけど、将軍が商売するなんて、聞いた事ありませんわ。世は戦国でっさかいに、幕府には常に兵糧米がある方がかっこええんちゃいますん?
- 可愛がってる男の子に小遣いやりたいって思いはるんやったら、ベッドに入ったその時にやりなはれ。あとから役職につけたり、不当な味方したりしはったら、周りに示しがつきませんやん。
- 幕府に仕えてる武士たちは、武具や兵糧やなく、金銀ばっかり蓄えてるそうやないですか。これも将軍様自身が金銀を集め、ヤバい時は、コレ持って御所から逃げよと思てはるのがバレバレやからやないですか?「上に立つ者は自らの行動を慎む」…僕は、将軍様は「やればデキる子」やと思てます。
- 世間では農民までもが、将軍様の事を「悪御所」と呼んで陰口たたいてますけど、なんで、そんな事言われなアカンのか、よくよく考えた方がええと思いますわ。
以上
と、こんな感じですが、受け取った義昭さんにしたら、さぞかしご立腹の内容だったかも・・・いや、むしろ、これで両者の亀裂が決定的になったのかも・・・
一方、信長包囲網に参戦した信玄は、配下の秋山信友(あきやまのぶとも=虎繁)の岩村城の奪取(3月2日参照>>)を命じるとともに、10月には、信玄自らが出陣し、12月には、あの三方ヶ原で、信長と同盟を結んでした徳川家康(とくがわいえやす)を惨敗させた(12月22日参照>>)ばかりか、その時に討死した平手汎秀(ひらてひろひで)の首を、これ見よがしに信長に送りつける(12月23日参照>>)というノリノリの参戦でした。
そう、この頃の信長は、未だ浅井朝倉とはゴチャゴチャやってるわ、本願寺は参戦するわ、比叡山は敵に回るわ、さらに、ここに来て信玄は出陣するわと大忙し・・・で、「これはチャンス!!( ´艸`)」と、思ったのか?
元亀四年(天正元年・1573年)正月、将軍・義昭は信長に対して反旗を翻します。
しかし、それでも信長は、「将軍に忠誠を尽くしている」事を強調し、日乗朝山(にちじょうちょうざん=日蓮宗の僧・朝山日乗とも)、島田秀満(しまだひでみつ)、村井貞勝(むらいさだかつ)、の3名を使者に立て、自らの息子を人質に差し出しての和睦を提案しますが、義昭側は、まったく受け入れず・・・
むしろ、事が成った後の恩賞をチラつかせながら味方を増やし、今堅田へと軍を進めて、石山(滋賀県大津市)に砦を築きはじめます。
これを受けた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)、明智光秀(あけちみつひで)、丹羽長秀(にわながひで)、蜂谷頼隆(はちやよりたか)の4名に、その撃退を命じたのでした。
かくして元亀四年(天正元年・1573年)2月20日、柴田らは出陣します。
24日には舟で瀬田を渡り、例の石山の砦に突入・・・ここを守っていたのは、義昭によって幕臣にとりたてられていたとされる山岡景友(やまおかかげとも)で、やはり、信長に敵意を抱く伊賀衆や甲賀衆が多く陣取っていましたが、悲しいかな、未だ砦は完成しておらず、構築途中・・・やむなく、山岡軍は砦から撤退します。
その後、この石山砦を破壊した柴田ら織田軍は、今堅田へと向かい、2月29日の朝、一斉に攻め掛かります。
明智隊は琵琶湖の湖上に浮かべた舟から、丹羽隊は東南側から・・・と見事な連携プレーで攻撃を仕掛ける中、正午頃には明智隊が敵陣奥深くに突入して猛攻撃を展開しました(くわしくは2月24日のページで>>)。
これによって、志賀(しが)周辺はほぼ鎮圧され、まもなく、勝家や光秀ら織田軍は、それぞれ帰還しますが、1ヶ月後の3月25日、代わって織田信長自身が、軍を率いて京に入ります。
そう・・・鎮圧したとは言え、まだ、和睦は成ってませんから・・・
で、この信長入京の時に、国境の逢坂(おうさか=滋賀県大津市)まで出迎えに行って、信長を大いに喜ばせたのが、この時までは、まだ幕臣としての立場をとっていた(実際にはすでに信長に内通していますが…)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斉)(6月9日参照>>)と、主君の池田家を掌握したばかりの荒木村重(あらきむらしげ)・・・この二人は、ここで、信長の傘下となったのですね。
京に入った信長は、早速、東山の知恩院に本陣を置き、配下の諸将たちは、白川から粟田口(あわたぐち)、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田と、まさに、京都の東側に鉄壁の陣を敷き、4月3日には、まずは洛外にて、堂塔を避けるように火を放ち、義昭陣営を威嚇します。
もちろん、ここでも、「将軍様の返答次第では、和睦しまっせ」との姿勢を、信長は見せていましたが、将軍=義昭とて、そう簡単に応じるわけにはいかず・・・
すると翌日の4月4日・・・二条にある将軍御所を包囲した信長は、周辺の上京に火を放って焼き払います。
これが、ご存じの上京焼き討ち(4月4日参照>>)・・・と、そのページにも書かせていただいたように、少々の謎はあるものの、とにかく、ここで、この焼き討ちに驚いた正親町(おおぎまち)天皇から「和睦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)」が出た事もあり、義昭自身も「もはや抵抗はムダだろう」と感じていた事もあって、「和議に応じる」との返答を信長に送ったのです。
こうして、4月6日、両者の和睦が成立しました。
で、早くもその翌日には、京都を後にする信長ですが・・・ご存じのように、この和睦はわずか3カ月しかもちませんでした。
結局、その年の7月、義昭は槇島(まきしま)城に籠って、またまた信長に反旗を翻す事になる(7月18日参照>>)のですが、
その前に・・・
この義昭の反旗を予想して、信長は大船の建造をしていますので、まずはコチラからどうぞ>>)
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コメント
世間一般で信長は冷酷な独裁者とよく耳にしますが、あの戦国時代を静める為には真っ当な事をしてきたと思います。一方、自ら筆をとり各国へ手紙を出したり、意見書など見ていると女々しい所も感じます。
ひとつひとつ細かな、大義ある考えの持ち主であったのではないかと思いますよ。
最近、信長の手紙が公開されてるようですが、見に行かれましたか?
投稿: Gakky | 2015年2月22日 (日) 06時42分
Gakkyさん、こんにちは~
>最近、信長の手紙が公開されてるようですが…
この間テレビでくりぃむしちゅーさんたちがやってた永青文庫美術館の展覧会ですか?
残念ながら行けてません(><)
人生の中で、まだ東京は1回しか行ってませんので、なかなかに遠いです。
(実際の距離がではなく心の距離が…)
投稿: 茶々 | 2015年2月22日 (日) 17時04分