維新の混乱に散った長州藩士~大楽源太郎
明治四年(1871年)3月16日、幕末の長州藩士で忠憤隊を組織した大楽源太郎が久留米にて斬殺されました。
・・・・・・・・
天保三年(1832年)もしくは五年((1834年)に、
萩藩の家老・児玉若狭の家臣である山県信七郎の息子として生まれた大楽源太郎(だいらくげんたろう)は、12歳の時に、同じ児玉家の家臣であった大楽助兵衛の養嗣子となります。
まもなく、萩にて、勤王の僧であった月性(げっしょう)や儒学者の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾で学んだ事から、そこの門下生であった久坂玄瑞(くさかげんずい)や赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)(1月25日参照>>)らと友情を育む一方で、安政四年(1857年)の20代半ば頃から京都や江戸に出て、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう=頼山陽の三男)、西郷吉之助(後の西郷隆盛)らと交流を持つというバリバリの尊皇攘夷派(そんのうじょういは=天皇を尊び外国を排除する派)の道を歩む事になります。
ところが、ここに来てご存じの安政の大獄・・・このブログでも、幕末の回になると度々出て来ておりますが、この安政の大獄とは、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま、アメリカと『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)を結んだ幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、それに反発する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件(10月7日参照>>)です。
これによって、源太郎が師事していた梅田雲浜が逮捕されてしまうのです(9月14日参照>>)。
当然、源太郎にも幕府の手が伸びて来るわけですが、この時は逮捕される寸前に故郷・長州へと戻り、長州藩による謹慎処分を受ける事で、何とか幕府からの処分を逃れました。
しかし、すでにその謹慎が解けるか解けないかの頃に井伊直弼暗殺計画を練ったり、ご存じの高杉晋作(たかすぎしんさく)ら松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)出身者と合流して勤王運動を繰り返す源太郎は、当時、京の町で増加していた天誅(てんちゅう=本来は神による天罰の意味ですが、ここでは勤王の志士による暗殺行為の事)事件にも、いくつか関与したとの事ですが、なんだかんだでその身を守りつつ、やがて故郷へと戻っていたところ、文久三年(1863年)には藩からの学校建設の命を受け、再び京都へ・・・
ところが、この年の8月の八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)にて、長州藩は中央政界から追われ、翌・元治元年(1864年)の6月には、密かに京にて活動していた長州藩士らが殺害される池田屋騒動(6月5日参照>>)が起こり、その翌月には、この騒動に不満を感じた長州が武装して上洛する、あの禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)・・・と、時代がめまぐるしく動きます。
この禁門の変の時、源太郎は、真木和泉(まきいずみ=保臣)(2007年10月21日参照>>)や久坂玄瑞(2011年7月19日参照>>)らと行動をともにしていましたが、一時は御所に迫る勢いをみせたものの、やがては、敗戦となって彼らは自刃・・・源太郎も、悲痛な思いの中、なんとか長州へと帰還しました。
これにより、長州藩内の勤王倒幕の影は衰え
(【長州を守る為~福原越後の自刃政治責任】参照>>)
(【長州に尽くす!国司信濃の政治責任】参照>>)
藩の上層部は保守派が牛耳る事になりますが、これに不満を持った高杉晋作が1ヶ月後に、下関の功山寺にて兵を挙げると(12月16日参照>>)、源太郎も、自らの同志とともに忠憤隊を組織して参戦します。
この長州藩内の内紛で勝利した事により、再び長州藩は、高杉らが率いる革新派が牛耳る事になり、源太郎の忠憤隊この内紛時に生まれた多くの諸隊は、それぞれが合併したりして長州藩の軍隊の一部となって行くのですが・・・
そんなこんなの慶応二年(1866年)・・・この年の1月には、ご存じの薩長同盟が成立(1月21日参照>>)しますが、一方の源太郎は、この年に、故郷の三田尻近くに敬神堂(西山書屋)なる私塾を開設します。
水戸学(水戸学については…【水戸学・尊王・倒幕~藤田東湖・志半ば】を参照>>)や日本外史の講義をしていたというその塾は、一時は100人を超える塾生を抱えるほどの大人気で、この年の6月に勃発する第2次長州征伐=四境戦争(7月27日参照>>)にも、源太郎の塾生たちが参加したと言います。
そして、その第2次長州征伐=四境戦争、さらに、この年の7月に14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)(7月20日参照>>)、12月に第121代=孝明天皇(12月25日参照>>)と、相次いだトップの死を受けて情勢が大きく変化して、皆様ご存じのように、倒幕の嵐は最高潮となり、翌・慶応三年(1867年)・・・
10月13日&14日には「討幕の密勅」(10月13日参照>>)が出され、
10月14日には大政奉還(10月14日参照>>)、
12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
と続き、
さらに、この暮れの12月25日に起こった薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケに、幕府が、朝廷に『討薩の表(朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩を罰したいんですが…という内容)』を提出すべく、翌年・1月1日に、武装して大坂から京都に向かっていた行軍の列を、「京都へは入れない!」と阻止する長州藩&薩摩藩の軍隊が衝突した事を皮切りに始まったのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
(厳密には前日の海戦が最初ですが…【大坂湾で~初の様式海戦】参照>>)
・・・で、その鳥羽伏見の戦いが、北へ東へ進み、戊辰戦争と名を変え、やがて明治維新を迎える事になるのですが、その一連の流れは【幕末・維新の年表】で>>
とにもかくにも、この間も、源太郎の私塾からは、多くの優秀な人材を輩出する事になるのですが、そんな源太郎の運命が、大きく変わるのが、明治二年(1869年)・・・
この年の9月4日、例の四境戦争や戊辰戦争にて、その巧みな戦術で勝利を導いた事から(5月15日参照>>)、今や新政府軍の最高位の立場にあった大村益次郎(おおむらますじろう)が京都で襲撃され、その傷がもとで亡くなって(9月4日参照>>)・・・そう、大村益次郎の暗殺事件です。
実は、ここのところの大村は、軍隊の改革を推進しており、
「もはや、武士の兵法は古く、徴兵制を設けて国民皆兵とし、西洋式の軍隊に育てあげる」としていましたが、それは未だ武士のプライドを捨てきれない多くの士族(元武士)たちの反感をかっていたのです。
なんせ、彼らは、維新を成した、かの四境戦争&戊辰戦争を命がけで戦ってきた人たちなわけで・・・で、その大村暗殺劇の中心人物だったのが、源太郎の私塾出身の神代直人(こうじろなおと)だったのです。
この事から、「影で糸を引いていたのではないか?」と疑われ、源太郎は、主君である児玉若狭によって幽閉されてしまいますが、事態はさらに悪化して行くのです。
それから約3ヶ月後の11月27日、藩知事の毛利元徳(もとのり)が、元奇兵隊を含む諸隊を、第1大隊~第4大隊の常備軍として再編制する事を発表(11月27日参照>>)・・・つまり、事実上の諸隊の解散命令で、これは、多くの兵士たちのクビ切りを意味していました。
新たな軍隊への登用が見込めない兵士たちは、当然、この解散命令を不服とし、一旦、山口を脱走して集結した後、彼らの言い分が聞き入れられないとなると、大勢で以って藩庁を取り囲み、もはや数千人に膨らんだ集団は、しだいに暴動と化していきます。
・・・と、この暴徒と化した集団に中にも、源太郎の教え子が多く含まれていたのです。
しかも、もともと兵制の改革には反対の姿勢だった源太郎は、この暴動の首謀者と睨まれ、藩庁より出頭の命令が出されますが、彼は出頭命令を無視して、密かに九州へと脱出します。
そして、熊本藩の飛び地であった鶴崎に、かつての同志である河上彦斎(かわかみげんさい=るろ剣のモデルです(*^-^))を訪ね、「回天軍を立ち上げよう!」とクデーターを持ちかけますが実現ならず・・・
(後に彦斎は源太郎をかくまった罪で斬首されます…【佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎】参照>>)
やむなく、未だ攘夷の意思固い応変隊のいる久留米藩へと向かいます。
一旦は、源太郎を受け入れた久留米藩ではありましたが、当然、新政府の追及はどんどん激しくなって来るわけで・・・やがて、「このまま大楽を庇護し続ければ、藩の存続も危ぶまれる」となった事から、やむなく、応変隊の川島澄之助らは、源太郎の暗殺を計画します。
明治四年(1871年)3月16日、「回天軍を起こす準備ができたゾ」と川島らに呼び出された源太郎は、その場で斬殺され、40年足らずの生涯を閉じました。
『久留米藩難記』には、「藩のためには、どうしても生かしておく事はできなかった」と、暗殺に関わった彼らの心情が記されています。
悲しい末路となった奇兵隊と同様に、今回、源太郎に手を下した彼らも、その心の内では涙していたのかも知れません。
明治という時代は、まだ始まったばかり・・・時には鬼となって近代化を模索しなければならなかったのでしょうね。
,
★あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 「大手違い」…本当はもっと早いはずだった徳川家定と篤姫の結婚(2024.12.18)
- 幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英(2024.10.30)
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
コメント
こないだ
「梅田雲浜はあまり好きじゃない…」
てカキコした分けですが…大楽源太郎も繋がりが
有ったんですね。
私は、歴史ってのは色んな側面が有るから絶対的に
「コイツは嫌い」
てのはあまり無いんです。でもテロリストの系統はあまり好きになれないんですよ。特に私は木戸と大村益次郎が好き (余談ですが、司馬さんの作品では「竜馬が…」より「花神」の方が完成度は高いと思います)ですので、どうもね…www
投稿: 高槻晋作 | 2015年4月10日 (金) 22時57分
高槻晋作さん、こんばんは~
私も、歴史上の人物で「嫌い」と思う人はいませんね~
特に幕末は、現在進行形でその時代に生きていた人たちは、皆、日本の将来の事を真剣に考えて、命がけで行動していましたから…
どちらが正しいかは、その時点では判断できませんもの…
投稿: 茶々 | 2015年4月11日 (土) 03時53分
茶々さん、こんばんは!
先日の事、NHK大河ドラマ「花神」を録画したビデオテープが新たに2作品見つかった情報を知りました。そのうちの1つに第39回「周防の人々」ってのがあって、原作からすると、村田蔵六が周防鋳銭司村に帰宅する途中で、大楽源太郎と道ですれ違って問答する―ってな内容やったはずです。
この作品が観られるようになるって事は、総集編でさえカットされてしまった大楽源太郎が初めて茶の間デビューするって事んんですよね。
大楽源太郎って門弟に神代直人がいて、長州的には悪者扱いっぽいですが、僕は彼をキーヤーにして長州の裏側を描くのも面白いのにと思ってるんですよ。(モチロン、山口の人間はそんな発想微塵もありませんけどね・・・)
今から、第39回「周防の人々」の放映が楽しみです
投稿: 御堂 | 2015年7月 9日 (木) 23時28分
御堂さん、こんばんは~
そうですか…「花神」の頃は多忙な時期でして、残念ながらドラマは見て無いですね~
>長州の裏側を描く…
「八重の桜」の年も、ネットでは「会津の裏側」的な逸話が飛び交ってましたね。
実際にはキレイごとだけではやっていけない物ですが、やはりドラマでは描き難いのでしょうね。。。
投稿: 茶々 | 2015年7月10日 (金) 01時44分