武田滅亡後の織田信長…論功行賞と訓令発布
天正十年(1582年)3月24日、織田信長が、武田との戦いを労って、自軍の諸隊に兵糧を支給しました。
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あの長篠・設楽ヶ原の戦い(5月21日参照>>)から7年・・・
この間、天正四年(1576年)に安土城を構築した(2月23日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)に中国方面を(5月4日参照>>)、明智光秀(あけちみつひで)に丹波方面を(8月9日参照>>)、柴田勝家(しばたかついえ)に北陸方面を(3月9日参照>>)攻略させつつ、さらに上杉謙信(うえすぎけんしん)亡き後のゴタゴタ(2007年3月17日参照>>)に乗じて越中の諸城も手に入れ(9月24日参照>>)ながら、天正八年(1580年)には、10年に渡る石山本願寺との交戦にも終止符を打ちました(8月2日参照>>)。
一方の武田勝頼(たけだかつより)は、そんな信長と、その同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)をけん制すべく、北条や上杉と同盟を結ぶとともに、甲斐(かい=山梨県)で初めての本格的な城=新府(しんぷ)城(山梨県・韮崎市)の構築を開始しますが、天正九年(1581年)に遠江(とうとうみ・静岡県西部)の高天神城を家康に奪還された(3月22日参照>>)あたりから、家臣の中から離反者が相次ぐようになり、天正十年(1582年)に入った1月に、とうとう妹婿である信濃(長野県)南部の武将・木曾義昌(きそよしまさ)までが信長方に寝返ってしまいました。
これを受けた信長が2月9日に甲州征伐(こうしゅうせいばつ)を開始(2月9日参照>>)・・・
2月20日の田中城・開城(2月20日参照>>)、
3月1日の穴山梅雪(あなやまばいせつ)離反【3月1日参照>>)、
3月2日の高遠城陥落(3月2日参照>>)、
と来て、
天正十年(1582年)3月11日、天目山に逃れた勝頼以下が自刃して、ここに名門・武田が滅亡しました。
【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
【天目山…武田勝頼の最期】参照>>
ちなみに、『常山紀談(じょうざんきだん)』では、合戦後に、現地から送られて来た勝頼の首を見た信長が、「お前のオヤジが義を欠いて道理に外れた事をした故の天罰でこうなったんや!」と罵るも、家康は、「ひとえに、その若さ故、このようになられてしまった」と、丁寧な言葉をかけた事で、後に、これを伝え聞いた武田の旧臣たちは徳川家に好意を寄せる事になった…
と、信長をディスるとともに家康ageな内容となっていて、何となく、この後に徳川が「赤備え」(10月29日参照>>)を引き継ぐ事を匂わせる記述となっていますが、
『信長公記(しんちょうこうき)』では、合戦後に勝頼の首実検をした織田信忠(おだのぶただ=信長の嫡男)が、家臣に命じて、その首を信長のもとに送り届けた…
という事だけが、アッサリと記されている感じです。
とにもかくにも、ここで武田に撃ち勝った信長は、3月19日に上諏訪の法花寺に陣を据え、翌・20日に、かの木曽義昌と穴山梅雪と面会して労い、続く23日には、滝川一益(たきがわかずます)に上野(こうずけ=群馬県)と信濃(しなの=長野県)のうちの2郡を与えて「関八州の警固を命ずる」=関東管領に任ずる事を伝えています。
そして天正十年(1582年)3月24日、「各隊とも長期に駐留して、兵糧などに困ってるんちゃうん?」と、家臣に命じて兵員の数をまとめさせ、その人数に応じて米を支給した後、「僕は、(諏訪から)富士山の麓を見物しながら駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を回って京に帰りたいと思てるから、君ら(諸将)だけ付き合ってな…一般兵士の皆さんは、一旦、ここで解散!!」と指示し、3月29日から、兵士たちは、それぞれ帰国の途につきます。
そして、同じく3月29日に、信長は旧武田領の配分や今後の取り決めについての事を発表しています。
甲斐国=河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国=徳川家康、
上野国+信濃国(小県・佐久2郡)=滝川一益、
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)=森長可(もりながよし)、
信濃木曽谷2郡=木曽義昌に追加
信濃伊那1郡=毛利長秀(もうりながひで)、
岩村((岐阜県恵那市)=団忠直(だんただなお)
金山・米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)=森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
ちなみに森長可と団忠直は今回の戦いで先陣を切って活躍した事(先の2月9日を参照>>)への評価による恩賞です。
また、甲斐&信濃の両国に対して11ヶ条に渡る訓令も発布・・・
- 関所&駒口(こまぐち=荷馬用の関所)にて税を徴収してはならない
- 農民に正規の年貢以外の不法な税を徴収してはならない
- 忠誠を尽くす者は取り立ててやり、反抗する者は切腹か追放にする事
- 裁判は念入りに調査して判決を下す事
- 国人(地侍)たちは丁寧に扱いながらも警戒を怠るな
- 新たに与えられた所領を一人占めせず、現地で家臣を召し抱えて分配するなどして、決して欲張らない事
- 本国(尾張や美濃)でもともと奉公していた者を新たな領地で雇うなら、雇用状況を確認のうえ、以前の上司に連絡してから採用する事
- 諸城は堅固に修復しておく事
- 鉄砲・弾薬・兵糧などは充分に備蓄しておく事
- 新たな領地を与えられた者は、責任を以って現地のインフラ整備に取り組む事
- 領地の境界線でモメるような事があっても怨恨を残したらアカンよ
以上、
その後、しばらくの間、息子の信忠を甲斐&信濃に駐留させる事にし、4月2日、予定通り、信長は帰国の途につきます。
途中、山あいから見えた富士山は、真っ白に雪が積もり「これぞ、日本一!」という美しさだったそうで、一行は大いに感動したとの事・・・
この後、4月21日に安土に到着するまでの道のりについてのくわしい事は【甲州征伐後の信長の書状と安土帰陣と息子・勝長の事】>>で見ていただくとして、この直後の武田関連の出来事としては、4月3日に、信長に屈しなかった恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)があります。
また、これらの様々な日付けをご覧になって、お察しの通り、信長が本能寺に倒れるのは、このわずか2ヶ月後の事・・・
この戦いで最も評価された森長可は、主君と弟たち(蘭丸・坊丸・力丸)の悲報を聞いて鬼の形相で京都へと向かい(4月9日前半部分参照>>)、同じくこの戦いで甲斐一国を与えられた河尻秀隆は武田の旧臣率いる一揆に囲まれて命を落とし(2013年6月18日参照>>)、関東管領を賜った滝川一益は、あの清州会議(月27日参照>>)にさえ間に合いませんでした(6月18日参照>>)。
戦国の世のならいとは言え、信長ほどの人物でも、その運命にはあらがえないのでしょうか?・・・上記の11ヶ条の訓令を見る限りでは、新たな領地支配についての夢多き未来が感じられるだけに、なんだか切ないですね。。。
もちろん、武田勝頼さんに対しても切なさいっぱいですが・・・
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コメント
家康さんの息子が武田姓になっていますね。領地を引き継いだんでしょうか。
投稿: やぶひび | 2015年4月 8日 (水) 13時59分
やぶひびさん、こんにちは~
武田の旧領は、豊臣政権を経て、江戸幕府の直轄地となってますから、そういう事だと思います。
家臣も多く召し抱えてますしね。
聞くところによると「信玄・家康、親子説」もあるらしいです。
投稿: 茶々 | 2015年4月 8日 (水) 17時24分
茶々様、こんばんは。
武田家滅亡からわずか二か月後に本能寺の変で信長が倒れるとは・・・。
信長の方こそひどいことをしているので因果応報かなと。
先月長年の念願が適って、新府城跡に行ってきましたが
本丸跡に立って周りを眺めていると
433年前裏切った重臣や家臣達の人質を殺して
城に火をかけて岩殿城を目指して落ちていく
勝頼主従は待ち受ける未来も知らずどんな思いだったのかなと
思ってしまいました。
投稿: 新発田重家 | 2015年4月23日 (木) 22時01分
新発田重家さん、こんばんは~
武田の最期は、やはり悲しいですね~
戦国武将の場合、因果応報は仕方ないかも…
やられたらやり返す(倍返し!)
やらなければやられる…ですしね~
投稿: 茶々 | 2015年4月24日 (金) 01時51分