荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い
天正八年(1580年)3月2日、荒木村重の籠る花隈城と、それを囲む池田隊の間で花隈城の戦いが開始されました。
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永禄十一年(1568年)に足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、その義昭が反旗を翻した元亀四年(天正元年・1573年)に信長の傘下となった(2月20日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)・・・
その後は、信長に大いに気に入られ、どちらかと言うと出世コースを歩むかに見えた村重でしたが、天正六年(1578年)10月21日、突如として反旗を翻し、居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠ってしまいます。
以来、様々な条件と様々な使者を派遣して、村重の説得にあたる信長サイドでしたが、村重は城を明け渡すどころか、逆に、説得に訪れた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)を幽閉して(10月16日参照>>)、かたくなに籠城を続けますが、
翌・天正七年(1579年)入ってからは、信長の軍に有岡城を2重3重にも囲まれてしまったうえに、頼りにしていた毛利の援軍も一向に現れなかった事から、9月2日の真夜中、妻子をはじめとするほとんどの者を有岡城に残したまま、わずかな側近だけを連れて村重は有岡城を脱出・・・息子・村次(むらつぐ)が城主を務める尼崎城(兵庫県尼崎市=大物城)へと逃走したのです。
これを受けた信長は、村重に対して
「現在籠っている尼崎城と、配下の花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)を明け渡せば、有岡城に残る妻子らの命は助ける」
との条件を出して、またまた説得しますが、その交渉も実を結ぶ事がなかった事から、その年の暮れ、村重の妻子をはじめとする一族郎党約600名が処刑される(12月16日参照>>)事態となってしまったのです。
その後、尼崎城から花隈城へと移った村重父子・・・文字通り、村重にとって最後の砦となった花隈城に対し、天正八年(1580年)に入って、信長の命にて近くに付城(つけじろ=敵の城を攻撃するための城)を築いた織田の家臣・池田恒興(いけだつねおき)は、自らと嫡男の元助(もとすけ)が花隈の北にあたる諏訪に陣を置き、西の金剛寺山には侍大将の伊木忠次(いぎただつぐ)&森寺清右衛門ら、南の生田の森には次男の輝政(てるまさ)を配置して臨戦態勢に入ります。
かくして天正八年(1580年)3月2日、動きを見せたのは花隈城内の荒木勢・・・城から撃って出て、囲む池田勢に襲いかかり、花隈城の戦いの火蓋が切られました。
反応素早き池田勢は、すぐに足軽部隊が応戦し、元助&輝政兄弟が烈火のごとく突撃・・・この時、元助は22歳、輝政はわすか16歳でしたが、ともに組討で敵の首を挙げる功名をたてました。
息子に負けじとばかりに、続いて父の恒興も敵中に駆け込み、またたく間に槍にて数人を討ち取ります。
この初日の戦いは池田軍の勝利・・・若き兄弟の活躍は、比類なき働きとして名を挙げる結果となりました。
とは言え、上記の通り、未だ花隈城は開城には至らず・・・
その後、しばらくは、池田配下の武将が城内に忍び込んで探りを入れたりのこう着状態が続きました。
次に激しい交戦が行われたのは4ヶ月後の7月2日・・・
生田の森の南側へ、馬用の草を刈るために幾人かの者が出たのを、隠れていた花隈の城兵らが追い払う場面を、例の付城から見つけた元助が、それをキッカケとばかりに馬に乗り、槍を携えて「行くぞ!者ども、俺に続け!」と声をかけ、一気に、城の大手へと向けて突進していきました。
・・・と、同時に、これを見ていた金剛寺山の伊木忠次や森寺清右衛門らが搦手(からめて)へと回り、城内への突入を図ります。
花隈城内からは野口与一兵衛なる武将が打って出て、決死の防戦を展開しますが、まもなく彼が討ち死にすると、池田側の勢いが増します。
しかし、ここらあたりで、大手での戦いで負傷者が続出・・・危うさを感じた恒興が、「一旦退こう」としますが、それを阻止したのが、梶浦勘兵衛なる者・・・
実は、彼は、かの、こう着状態の時に、花隈城内に忍び込んだうちの一人で、その時の城内の様子を見て、すでに「勝てる!」と踏んでいたのです。
「今引揚げたら、自軍の足が乱れるだけやと思います。
さっきまで、意外に鉄砲の数が少ないように思いましたのに、なんや急に増えたように感じますんは、たぶん、搦手から大手に応援が来てるんやと思います。
そうなると、おそらく、搦手の彼らは、もう、城内へ乗り込む寸前やと…せやのに、ここで大手を退けば、城兵は搦手へと回り、伊木や森寺は討死してしまいます」
と、勘兵衛が進言すると、恒興は、
「よっしゃ!それなら、しばらく引かずに踏ん張るから、お前は、搦手の様子を見て来い!」
と命令・・・
搦手へと向かった勘兵衛が、清右衛門に事を報告をすると、清右衛門は、
「お前、よう言うた!今からすぐに門を破って乗り入れまっさかいに、殿は大手をお攻めあれ!と伝えてくれ」
との事・・・
再び大手に戻った勘兵衛が、恒興に搦手の現状を報告すると、「もはや、一にも二にも突入あるのみ!」と、恒興は全軍にゲキを飛ばし、大手門の脇へと攻め寄せました。
もちろん、同時に搦手も門を破って攻め入りますが、やはり勘兵衛が推察した通り、コチラは手薄となっていて、容易に火が放たれると、それを察した大手の兵が大手門を開けて撃って出て防戦をしますが、ほどなく、搦手から進入して来た池田勢が、大手門近くに到着し、背後から攻め立てると、もはや、状況を見て取った花隈の城兵たちは、一気に浜辺の方角へ我も我もと敗走を開始しました。
兵庫の築島(兵庫県神戸市)には雑賀(さいが・さいか)衆が花隈の加勢として陣取っていましたが、伊木忠次と森寺清右衛門は、その勢いのまま、ここの砦も落します。
一方、湊川にては、荒木側の五輪(ごりん)作右衛門なる豪傑と戦っていた元助でしたが、まもなく、その場に森寺清右衛門の軍勢が駆け付けた事で、作右衛門は、自らの旗指物(はたさしもの=武士が戦場で目印として背中にさした小旗)を投げつけながら、
「これは有名な指物やぞ!お前らにやるわ!」
との捨てゼリフを残して川に飛び込み、どこへともなく逃れていったのだとか・・・
こうして花隈城は開城となりました。
合戦後、恒興は
「今回の皆の活躍は、この目でしっかりと見届けたからな…特に梶浦の決断は、あのややこしい場面で、よくぞ推察してくれた!これは槍の手柄よりスゴイ事やぞ!」
と大絶賛したそうです。
・・・と、本日は『常山紀談(じょうざんきだん)』に沿って、花隈城の攻防戦をご紹介しましたが、ご存じのように、張本人の荒木村重は、この戦いのさ中に城を脱出し、中国の雄=毛利氏に身を寄せて生き残り、後に利休七哲(りきゅうしちてつ=千利休の高弟7人)の一人として歴史上に再登場する事になります。
・・・が、そのお話は、また、関連するその日の日付けにて書かせていただきたいと思います。
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