学者大名~福知山藩主・朽木昌綱
享和二年(1802年)4月17日、福知山藩第8代藩主で蘭学者でもあった朽木昌綱がこの世を去りました。
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第6代福知山藩主=朽木綱貞(つなさだ)の長男として江戸藩邸にて生まれた朽木昌綱(くつきまさつな)は、幼い頃から、何か一つ気になる事があると、トコトン夢中になる性格だったと言います。
そんな昌綱が13歳の頃に出会ったのが、当時、大ブームとなっていた古銭の収集でした。
最初の頃は、ちょうど、江戸幕府が新貨幣増発制作を打ち出した時期でもあった頃から、ブームに乗っかって五匁(もんめ)銀や四文銭など、身近な貨幣を収集していた昌綱少年でしたが、やがてそれが清国(中国)やオランダの銭貨へ、さらにオランダを通じて入って来るヨーロッパの貨幣へと広がって行くうち、日本のソレとは違った雰囲気を放つ不思議な貨幣を造る、その外国そのものへと興味が湧いて来るようになるのです。
そんなこんなの安永元年(1772年)・・・23歳になっていた昌綱は、その前の年に、江戸は小塚原の刑場で行われた死刑囚の腑分け(解剖)の現場で意気投合した小浜藩の医者=杉田玄白(げんぱく)と中津藩の医者=前野良沢(りょうたく)が『ターヘル・アナトミア(ドイツの医学書『解剖学図譜』をオランダ語に訳した物)』の翻訳作業に取り掛かるというニュース(3月4日参照>>)を聞き付け、そのチームに身を投じるのでした。
もとより、何事にも夢中になる少年時代の性格は、今もなお健在でしたから、これは、決して藩主おぼっちゃまの気まぐれなどでは無く、一大決心の真剣勝負・・・
外国に興味を以って以来、漢文で書かれた様々な地理に関する書物を読みながらも、「本当に西洋の事を知るためには、自分自身で洋書を読めるようになければ!」という思いからの行動でした。
なんせ、このチームのメンバーは、いずれも天下の逸材と呼ばれる人々ですから・・・
そんな中で、語学とともに地理研究を続けていた昌綱は、彼に最も影響を与える人物に出会います。
それが、当時、長崎の出島にてオランダ東インド会社商館長(カピタン)だったオランダ人外科医で学者でもあるイサーク・チチング(ティチング・ティツィング)でした。
日本を研究したいチチングと西洋を研究したい昌綱・・・現在、石川県立図書館に所蔵されるニコラ・サンソン編『新世界地図帳(ATLAS NOUVEAV=1692年パリ刊)』は、安永九年(1780年)にチチングが初めて江戸にやって来た時に、昌綱にプレゼントした物だそうです。
これに代表されるように、チチングと昌綱は、お互いが持っている物を見せ合ったり、疑問に思っている事を質問しては答えたり・・・と、いつしか二人は、師弟とも友人とも言える交流を持つようになったようです。
なんせ、当時は、いくら欲しても、入手できる洋書の数は知れた物ですから、昌綱にとってのチチングは、まさに生きた辞書・・・言い方悪いですが、これほど便利な図書館はありません。
二人の関係はチチングが日本を去った後も続けられ、昌綱のチチングに宛てたオランダ語の手紙も残っているそうです。→
もちろん、昌綱の地理研究は、このチチングを得た事で、より本格的に進んで行きますが、それは、38歳で第8代福知山藩主となった後も続けられ、やがて寛政元年(1789年)、20年余りの彼の研究の集大成とも言える『泰西輿地図説(たいせいよちずせつ)』の刊行に至ったのです。
これは、第1巻のヨーロッパ総論に始まり、2巻~14巻は各国の地誌、15巻~17巻は地図や都市図を記した物なのですが、実はこれが、当時として珍しい仮名まじりの文章・・・
この時代のいわゆる学者さんが、学術的に高い専門書のような物を執筆する時は、漢文で書くのが一般的でしたが、昌綱は、誰にでも読みやすく、一般人でもたやすく理解できるように細心の注意を払って、この書を書いたのです。
残念ながら原本は残っていないようなのですが、別の物に転載された一部の記述を見てみると・・・
「『ウェストミュンステル』ノ殿閣ハ古ヘハ是モ王の居處ナリシカ今ハ會儀堂トナリテ國中ノ諸官人集リテ政事ヲ儀スルノ役所トナセリ…」
て・・・これ↑ってイギリスはロンドンの・・・あの「ウェストミンスター宮殿=ビッグベンは、現在では国会が開かれる場所ですヨ」って事ですよね?
今でも、わかりやすいです。
おかげで、この『泰西輿地図説』は、西洋地誌の権威書として長く珍重される事になります。
また、この昌綱さんは、自らが勉学に励むだけでは無く、蘭学者たちのパトロンであった事も知られています。
たとえば・・・
一流の蘭学者&医者として知られる大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)・・・実は、同じ「チーム解体新書」のよしみから、彼の長崎進学の資金を提供したのが、この昌綱さん・・・
彼がいなければ、玄沢の遊学も道半ばで終わってしまっていたかも知れないわけで、そういう意味でも、昌綱は蘭学の発展に尽くした人と言えるのです。
寛政十二年(1800年)、50歳を超えた昌綱は、養子の倫綱(ともつな)に家督を譲って隠居した後、江戸へと戻ってわずか2年の享和二年(1802年)4月17日、53歳の生涯を閉じます。
禅の道にも精通し、茶道の世界でも、山水画も一流だった昌綱さん・・・
とにもかくにも、これだけの才能を持ち、常に努力して実行した大名は、他にはいないわけで、もう少し知名度があって良いのでは?と思う歴史人物の一人ですね。
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コメント
おばんです。
この朽木さんてのは関ケ原で小早川と一緒に寝返った朽木元綱の末裔ですか?
大名で蘭学者でコレクターですか?西洋じゃ人気出そうな殿様ですね。幕末期に日本が植民地化を避けられた理由の一つが
「この国は野蛮国じゃないんじゃないか?文明は遅れているが、文化は我々と同じだ」
と思われ躊躇したからだ…と言うのも有るそうです。そのうちの一つが「コレクター」の存在だそうです。特にコインのコレクターなら英仏独蘭なんかの貴族となら盛り上がりそうですね。
投稿: 高槻晋作 | 2015年4月18日 (土) 00時34分
高槻晋作さん、こんばんは~
>朽木元綱の…
そうです。
嫡流は旗本となりますが、コチラは三男さんの家系です。
江戸時代に日本にやって来た外国人が、街中の本屋の多さに驚いたらしいですよ。
未だ、上流階級の人しか字が読めない自国に比べ、一般庶民が町の本屋で本を買いまくって読んでる事にビックリしたらしいです。
投稿: 茶々 | 2015年4月18日 (土) 03時21分