秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期
天正八年(1580年)4月24日、織田信長の命により、播磨平定中の羽柴秀吉が宍粟郡に入り、宇野祐清らの諸城を攻めました。
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永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、周囲敵ばかりになりながらも、天正元年(1573年)には浅井(8月28日参照>>)朝倉(8月20日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には長篠の戦い(5月21日参照>>)で武田を破り・・・と、徐々に力を強めていくのですが、琵琶湖の東岸に安土城(滋賀県近江八幡市)を構築(2月28日参照>>)し始めた天正四年(1576年)頃から、西への勢力拡大=中国征伐を開始します。
ご存じのように、その中国地方平定の担当となったのが羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)ですが・・・以前、若き日の黒田如水(くろだじょすい=小寺官兵衛孝高)さんのページ(11月29日参照>>)で書かせていただいたように、ここで、中国地方を統治する多くの武将たちが二者択一を迫られる事になります。
なんせ、西国には、あの毛利が控えています。
しかも、当時は、かの信長とドンパチ真っ最中の石山本願寺(5月3日参照>>)と、その毛利が提携してますから、迫りくる織田につくのか?控える毛利につくのか?・・・両者の間で独立を保つほどの勢力を持たない彼らにとっては、その動向が今後を左右する事になるのですから。。。
そんな中、如水の進言により、いち早く信長傘下を表明した小寺氏の姫路城(兵庫県姫路市)にて準備を整えた秀吉は、天正五年(1577年)11月、毛利傘下の赤松政範(あかまつまさのり)が守る上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を攻略しました(11月29日参照>>)。
これによって播磨(はりま=兵庫県南西部)地方の武将たちは、一旦は信長派へとなびくのですが、当然の事ながら、奪われた上月城を奪還すべく攻め寄せる毛利・・・
と、そんなこんなの天正六年(1578年)2月、一旦、信長傘下を表明していた播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治(べっしょながはる)が、いきなりの離反表明で城に籠ってしまった事で、秀吉は、その三木城攻防戦へと突入(3月29日参照>>)・・・そのために上月城への援軍が手薄になってしまいます。
上月城を任されていた尼子勝久(あまこかつひさ)と、その家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ・幸盛)が踏ん張るも、その年の7月3日に、上月城は落城しました(5月4日参照>>)。
どうやら、この上月城落城の頃に、やはり一旦は信長傘下を表明しておきながらも毛利へと、その動向を変えたらしいのが宍粟郡(しそうぐん=兵庫県宍粟市)一帯を本拠としていた宇野政頼(うのまさより)&宇野祐清(すけきよ)父子でした。
政頼&祐清の宇野氏は、室町幕府政権下で播磨一帯の守護を務めていた赤松氏のもとで守護代を務めていた家柄でしたが、戦国の世となって赤松氏の力が衰えてしまっていた事から、主君の赤松氏に見切りをつけ、毛利か?信長か?の選択の末、結局、毛利を頼ったという事なのでしょう。
祐清は政頼の次男なので、本来は家督を継ぐ身ではありませんでしたが、天正二年(1574年)頃に起こった家内のゴタゴタで家督を継いでいた兄が殺害され、以後、祐清が宇野氏の当主となっていたのです。
とは言え、ここらあたりの時点では、かの秀吉本隊は、先ほどの上月城や三木城の攻防戦にかかっていましたから、未だ、宇野氏への攻撃は、いち早く信長傘下となっていた赤松則房(あかまつのりふさ)の軍との対決だったおかげで、激しい戦いになりながらも、城が陥落する事はありませんでしたが、天正八年(1580年)1月16日に、その三木城が落城した事から、その矛先は宇野氏へと向けられる事になります。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
『信長公記』によれば・・・
天正八年(1580年)4月24日、宍粟郡に入った秀吉軍は、政頼と祐政(すけまさ=政頼の弟で祐清の叔父)の居城など(伊和郷岡城?杉ヶ瀬城?)を、またたく間に乗っ取って約250余人を討ち取ったと言います。
政頼らは、何とか宇野下野(しもつけ)の居城(篠ノ丸城?)へと撤退しますが、ここもまた、秀吉軍に攻められて多くの敵兵が打ち取られて陥落・・・
やむなく、政頼ら主だった武将たちは、当主=祐清の居る本城=長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)へと逃げ込みます。
城内の様子を探らせた偵察隊によれば、「城内はもはや正気を失って混乱状態である」との事・・・しかし、長水城は険しい山の山頂という天然の要害を持つ堅固な城であった事から、秀吉は力攻めを避け、敵兵が逃走できないように麓を焼き払って、要所である3ヵ所に砦を築いて守備兵を配置し、厳重に対峙させる作戦に出ます。
その一方で、軍本隊は、その勢いのまま英賀(阿賀・あが=兵庫県姫路市飾磨区)へと攻め寄せますが、安芸(あき=広島県)の毛利輝元(もうりてるもと)に人質を差し出して同盟をしている身の英賀城主・三木通秋(みきみちあき)は、秀吉軍と戦う事を諦めて舟で海上へと脱出・・・はるか九州へと落ち延びて行きました。
こうして秀吉は、英賀城下を手中に収める事に成功します(英賀城攻防戦は2月13日説・4月1日説もあり)秀吉が播磨英賀城を攻撃(4月1日参照>>)。
一方、包囲された長水城は・・・
その後、しばらくの間は持ちこたえましたが、秀吉軍によって完全包囲された城内では、やがて精も魂も尽き果てるのは時間の問題・・・しかも、そうなると当然、内通者も出て来るようになるわけで・・・
やがて6月5日(5月9日~10日前後の説あり)・・・祐清以下、宇野一族郎党は、縁者を頼って美作(みまさか=岡山県東北部)へと向かうべく、真夜中の長水城を脱出します。
しかし、これに気付いた秀吉配下の荒木重堅(あらきしげかた=荒木村重の小姓・甥とも)と蜂須賀家政(はちすかいえまさ=小六の息子)が追撃を開始・・・千草(兵庫県宍粟市千種)のあたりで追いつかれ、あちこちで激しい戦闘が繰り広げられる中、祐清以下、宇野一族は自刃して果てました。
ここに、室町幕府初期に大活躍した赤松氏を支えた守護代の名家=宇野氏は滅亡・・・最後の当主となった祐清は、この時、33歳くらいだったと伝えられています。
ちなみに、今回の祐清一行を追い詰めた荒木重堅は、その功績により木下姓を名乗る事を許され、以後、木下重堅(きのしたしげかた)となりますが、そんな彼も、20年後の慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、西軍として参戦し、戦後、息子とともに自刃しています。
まさに戦国の世・・・
毛利につくか?織田につくか?
はたまた、西につくのか?東につくのか?
義理と人情と利益と駆け引き・・・武将の選択が一族郎党の命を左右するのものなのだと、つくづく・・・
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