織田VS斉藤~森部の戦い…前田利家の復帰
永禄四年(1561年)5月14日、西美濃に侵攻して来た織田信長と、受ける斉藤龍興が戦った森部(森辺)の戦いがありました。
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ご存じのように、永禄三年(1560年)5月19日に、あの桶狭間(おけはざま)にて天下に最も近い男=今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事により、いきなり、全国ネットの舞台を踏んだ感のある織田信長(おだのぶなが)ですが、実際のところは、未だ尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一しておらず、国内で同族同士の争いが絶えない状況(尾張統一は1562年…11月1日参照>>)の一地方武士であったわけです。
また、隣国=美濃(みの=岐阜県)に対しては、5年前の弘治二年(1556年)に、嫁(濃姫)の父=斎藤道三(さいとうどうさん)から「美濃を譲る」の遺言状を貰った(4月19日参照>>)ものの、援軍が間に合わず道三は討死(4月20日参照>>)・・・
以来、信長は義父の弔い合戦として、再三にわたって美濃侵攻を企てますが、道三の後を継いだ斉藤義龍(よしたつ)によって阻まれていて・・・なんせ、義龍は、「美濃の蝮(マムシ)」と呼ばれた父親から国を盗った男ですからねぇ~(10月22日参照>>)
そんなこんなの永禄四年(1561年)5月11日・・・その義龍が30半ばの若さで急死します。
しかも、その後を継ぐべき義龍の息子=龍興(たつおき)は、未だ14歳の若者・・・
信長は、
「これはチャンスでんがな!(*^m^)」
とばかりに、義龍の死から、わずか2日後の5月13日、西美濃への侵攻を開始したのです…(゚ロ゚屮)屮早っ!
飛騨川(長良川)に舟で橋を架けて越え、その日のうちに国境の勝村(岐阜県海津市平田町)まで進出・・・その勝村に陣を置きました。
これを知った斉藤龍興は、長井甲斐守(ながいかいのかみ)と日比野清美(ひびのきよざね)を大将に任命して迎撃します。
かくして永禄四年(1561年)5月14日、洲の俣(すのまた・墨俣=岐阜県大垣市)の砦から出撃した長井&日比野軍は、約6000・・・、
対する織田軍は、約1500・・・ちょうど中間あたりに位置する森部村(もりべ・森辺=岐阜県安八町)の楡俣川(これまたがわ=長良川下流)河畔にて両者は遭遇・・・この時、斉藤軍を目にした信長は、
「これは、天が与えてくれた最大のチャンスや!」
と言い放ち、早速、楡俣川を渡って戦いを挑みました。
合戦は数時間に及ぶ激戦でしたが、斉藤側は、長井&日比野はじめ、大将クラスを含む170余の首級(しゅきゅう)を挙げ、全戦死者は約320人・・・一方の織田軍には、ほとんど死傷者が出無かったという織田方の完全勝利にて戦いを終えました。
ちなみに、この戦いにて、「首切り足立」と恐れられていた猛将である日比野の家臣=足立六兵衛を討ち取ったのが、現在、浪人中の前田利家(まえだとしいえ)でした。
以前、【24歳からの再出発~若き日の前田利家】>>のページで書かせていただいたように、この頃の利家は、信長お気に入りの側近を殺してしまった事で出仕停止となっていた浪人の身・・・
何とか織田家に戻りたいと、許しを得ないまま単独で合戦に参加しては、大将クラスの首を手みやげに、信長に復帰の直談判を試みでいましたが、あの桶狭間でも、首を3つ取ったにも関わらず、未だ復活は許されていなかったわけで・・・
ところが、そんな利家が、今回のこの森部の戦いの功績にてお許しが出て、やっとこさ織田傘下に復帰するのですが・・・それには、上記の足立六兵衛を討ち取った事とともに、こんな秘話が残っています。
この戦いの後、織田軍は周辺の村を焼き、敵地だった洲の俣に堅固な砦を築いて、軍を駐留させる事になるのですが・・・
『利家夜話』によると、その時のお話として・・・
この頃の織田の家臣で最も手柄が多い武将と言えば森可成(もりよしなり)・・・と考えた利家は、何とか可成の戦法を学ぼうと、今回の美濃攻めでは、常に可成の近くにおり、彼の動きを見ておりました(勝手に参加してるので、その点はわりと自由に動けるのかも…)
そんな中、ある砦を奪取しようとしていた可成・・・馬では攻め難い険しい場所にあったその砦には、馬から降りて攻めかかる事にしますが、これが、かなりのゆっくりモード・・・
あまりのスピードの遅さに、たまりかねた利家は、可成のそばに駆け寄って、その手を引き、
「はよっ!」
と急かしました。
ところが可成・・・
「今は、誰もが人より先に行きたがるところやけど、そんなに急いだら、敵に近づいた頃には、疲れてしまうやん。
ここは、先を争わんとゆっくり行って、敵に近づいてから全力で戦うべき。
利家くん…焦ったらあかんで」
と・・・
果たしてその後、敵の近くまで行き、全員が集まっているのを確認した可成は、
「今や!全力でイケー!!」
と、声をかけて一斉に攻めさせます・・・もちろん、利家&可成の二人も、我先に攻撃を仕掛けます。
・・・で、この時に、一番槍を果たしたのが利家・・・
戦いの後、可成は信長の前で
「利家くんに先を越されてもた~」
と言って悔しがり・・・いや、実は、信長の前で利家の事を持ちあげて、織田家に戻れるよう気を配ってくれたのだとか・・・
おかげで、この森部の戦いで織田家復帰が叶った利家・・・彼の今後の活躍については、もはや皆様ご存じの通り・・・
そんな利家は、晩年になっても
「可成さんほどのスゴイ武将は、そうおれへんで!」
と、べた褒めだったとか・・・
(森可成については…9月20日参照>>)
やっぱ、感謝してたんでしょうね。
この後、信長の美濃攻めは、10日後の美濃十四条の戦いへ向かう事になりますが、そのお話は【VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い】>>でどうぞ
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