桶狭間で名を挙げた毛利新介と服部小平太
永禄三年(1560年)5月19日、大軍を率いて尾張に侵攻してきた今川義元を、織田信長が討ち取った桶狭間の戦いがありました。
・・・・・・・
果たして上洛なのか?尾張侵攻なのか?はたまた境界線が定まらない事へのけん制なのか?・・・その目的でさえ様々に語られる駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)の行軍・・・
さらに、その義元を討った織田信長(おだのぶなが)の作戦も、奇襲だった、いや正攻法だった、大きく迂回した、いや直進だった・・・と、これまた様々に語られるのは、これ、ひとえに、いかに、この桶狭間(おけはざま)の戦いが歴史好きの心をくすぐるか?という事を意味しています。
数ある戦国武将の中でも、最も、その高低差で耳キーンとなりそうなジェットコースター感満載な信長が、まさに一田舎武将が天下に最も近い男の首を挙げるという快挙で一気に上昇し、これまた、自らが天下に最も近い位置にいた時に、信頼する家臣の謀反によって、あっけなく倒される・・・
戦国で最もドラマチックな信長の、2大ドラマチック事件が、今回の一気に昇る桶狭間と、一気に下る本能寺の変なわけで・・・
なので、この二つに出来事には、常に新説が絶えないわけで・・・
そんな中で、このブログでは、
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
と、すでに4つの桶狭間関連のページを書かせていただいていますが・・・
本日は、とりあえずは、以前の内容とかぶり気味ながらも、『信長公記』に沿ってお話を進めさせていただきながら、この桶狭間の戦いで武功を挙げた二人の武将をご紹介したいと思います。
・‥…━━━☆
前日の夕刻、「翌朝に我が砦への攻撃があるのは確実」との佐久間盛重(さくまもりしげ)と織田秀敏(おだひでよし)からの報告の通り、永禄三年(1560年)5月19日の早朝、清州城(きよすじょう=愛知県清須市)にいた信長のもとに「すでに鷲津&丸根の両砦が、今川方の攻撃を受けている」との報告がもたらされると、信長は、例の♪人間五十年~♪の『敦盛』を歌い舞った後、
「ホラ貝を吹け!武具をよこせ!」
と側近たちに声をかけ、すぐに鎧兜に身を包み、立ったまま食事をとって、ソッコーで出陣しました。
この時従ったのは小姓衆のわずかな者たちだけ・・・騎馬6騎と雑兵200人ほどで熱田(あつた)までの約12kmを一気に駆け抜けて行きますが、途中、午前8時頃には、どうやら鷲津&丸根の両砦が陥落したらしく、遠く煙が上がっているのが見えました。
熱田からは距離の近い海岸沿いを避け、山手の方の道を一気に飛ばしていきますが、そうこうしているうちに徐々に将兵も集結しはじめ、少し落ち着いて戦況を見極めます。
時刻はちょうど正午頃・・・この時、4万5000余の兵を率いていた義元は桶狭間にて人馬に休息を与えていた最中で、自身は北西に陣を張り、鷲津&丸根の両砦を攻め落とした事に満足しながら謡曲を3番歌ったと言います。
しかも、信長が善照寺付近までやって来た事を聞き付けて、兵糧を手土産に織田方に参戦しようとしていた佐々政次(さっさまさつぐ=佐々成政の兄)らの武将が今川方の攻撃により討死したとの報告も入り、義元は、
「俺の向かう先には天魔も鬼神も叶うかい!」
と上機嫌だったとか・・・
(まぁ、この頃の信長に対して義元もあろう人が「天魔」や「鬼神」という者を引きあいに出してくるとは思い難いですが…)
一方の信長は、未だ2000に満たない兵数・・・「どうか、止めてください(。>0<。)」とすがりついて制止する家老を振り切って中島砦へ移動し、
「ええか?今の今川は、夜通し行軍して、朝から砦攻撃してけっこう疲れとるはず…それに比べて、こっちは数は少ないと言えど新手や。
勝負は時の運…
来たら引いて、引いたら追う…何としてでも崩す!倒す!
合戦に勝ちさえしたら、参戦した者の名は、末代まで語られるぞ!
頑張ろうや!」
と・・・
←かなり以前の関連図ですが、砦の位置関係の参考に…画像をクリックしていただくと別窓で開きます
.
その後、さらにメンバーを増やしながら、敵間近の山の際まで進んで行くと、にわかに、石か氷を投げかけるような豪雨が・・・しかも、その方向は、敵=今川の陣では顔に向かって、向かうコチラ=信長には背中からという、まさに好都合な方向でした。
その激しい雨が、峠付近にあった楠木の大木をなぎ倒すのを見た織田軍は、
「この合戦は熱田神宮の神の意志やで!」
と、大いに盛り上がった直後、雨が止んで晴れて行く空を見た信長が槍を取って、
「今や!掛かれ!掛かれ!」
と、大きな声をかけると、味方は土煙を挙げながら、一斉に敵陣へとなだれ込みます。
寸前の雨で、織田軍との距離を把握し切れていなかった今川軍は、水を撒くようにドッと後方へと崩れ、弓も鉄砲も旗指物(はたさしもの)も・・・果ては、真っ赤な義元専用ザク・・・もとい、朱塗りの義元専用の輿(こし)さえ打ち捨てて、我先に逃走するばかり・・・
「そら!義元の旗本は、あそこやゾ!行け~~」
と、信長が下知(げち)を飛ばした午後2時頃・・・東へと攻める織田軍に対して、未だ300騎余りが義元を囲んでいましたが、徐々に減り、やがて50騎ほどになった所で、信長自身も馬を下りると、織田軍の兵士たちは、我先にと敵に突進し、入り乱れて火花を散らし、今川&織田の両者ともに、多くの死傷者を出しながらも、ここで・・・
「服部小平太 義元にかゝりあひ
膝の口きられ倒れ伏す
毛利新介
義元を伐ち臥せ 頸をとる」
(信長公記原文)
つまり・・・義元が、飛びかかって来た服部小平太の膝を斬って返り討ちにしたスキを狙って、毛利新介か斬り伏せて、その義元の首を取ったと・・・
錦絵に描かれた桶狭間(桶狭間今川義元血戦)…中央に義元、左に毛利良勝、右に服部一忠が見えます。
総大将の首が取られた以上、万事休す・・・ただ、この桶狭間はかなりの難所だったため、逃げる方もかなり逃げにくい状態で、戦線離脱に苦戦する今川の兵士を討ち取った織田方の兵士が、その首を2個3個とぶら下げて信長の前へと参上するのを見て、信長は、
「首は全部、清州で検分する」
と言い残し、義元の首だけをその場で確認して、朝来た道を、清州へと戻って行ったのでした。
・‥…━━━☆
と、ここまでが『信長公記』の桶狭間ですが・・・
今回の桶狭間で、比類なき武功を挙げた毛利良勝(もうりよしかつ=新介・新左衛門・秀高とも)と服部一忠(はっとりかずただ=小平太・春安とも)・・・ここまでの武功を挙げておきながらも、彼らについての史料はかなり少ないのですが、実は、彼ら二人には、ここで武功を挙げた故の運命とでも言いましょうか?
何となく共通する何かに導かれて、その最期を遂げる事になるのです(あくまで個人の感想です)。
まずは通称:新介(新助)と呼ばれた毛利良勝・・・
彼は、当時は馬廻りだったこの戦いの後、織田軍の精鋭部隊である黒母衣衆(くろほろしゅう)に大抜擢され、伊勢の大河内城(おおかわちじょう)攻めや甲信越の攻略に出陣したりしますが、何かと吏僚(りりょう=官吏&官僚・役人)的な仕事が多く、武功を挙げるような活躍が無いまま、最後は、信長の嫡男=信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の側近となった事で、あの本能寺の変の時に、その信忠とともに二条御所で討死します。
一方、通称:小平太と呼ばれ、やはり馬廻りだった服部一忠は、その後に、織田の家臣としての活躍話は無く、次に彼が登場するのは、本能寺で信長が倒れた後に、その後継者の位置についた豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた状態での再登場となっています。
黄母衣衆(きほろしゅう)と呼ばれる、これまた秀吉の親衛隊に抜擢された一忠は、小牧長久手の戦いや小田原征伐で活躍して、豊臣政権下で伊勢松坂3万5000石を賜って松阪城主となり、さらに文禄の役にも出陣・・・そのまま大大名への道を歩むかに見えた直後、側近として仕えていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ=秀吉の甥・三好秀次・羽柴秀次)の事件(7月15日参照>>)に連座して改易処分となり、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に預けられた後に自害して果てました。
そう、
良勝は信長の・・・
一忠は秀吉の・・・
奇しくも二人ともが、その1番の後継者の側近となった事で、ともに悲しい最期へと向かうレールの上に乗ってしまう事になるのです。
おそらくは、桶狭間という、歴史上屈指の名勝負で名を挙げた事で、時の天下人の後継者となるべき人物の側近に抜擢されたであろう二人・・・
皮肉にも、その名誉が命取りとなってしまうとは・・・
しかし、それが戦国という世のサダメなのかも知れませんね。
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コメント
この錦絵の義元さん、かっこいいですね。
貴族的な衣装で、輿に乗っているイメージを
持っていましたけど。
投稿: やぶひび | 2015年5月19日 (火) 14時36分
やぶひびさん、こんにちは~
>貴族的な衣装で、輿に乗っているイメージ
ドラマでは、そんなイメージばかりですよね~
実際にはカッコイイでしょうね…なんせ、海道一の弓取りですから…
投稿: 茶々 | 2015年5月19日 (火) 16時01分
茶々様、こんばんは。
昨日は桶狭間の合戦があった日なんですね。
何年か前に放送された大河ドラマ風林火山では
武田信玄に切腹させられた諏訪頼重の遺児を
今川義元がそそのかして信玄を暗殺しようとした仕返しに
山本勘助が信長に義元の居場所を教えたと描かれていましたが
谷原章介演じる義元はイイ男でしたね。
もし、桶狭間の奇襲が失敗して義元が生きていたらその後の歴史はどうなっていたんでしょうね?。
投稿: 新発田重家 | 2015年5月20日 (水) 22時34分
新発田重家さん、こんばんは~
>大河ドラマ風林火山では…
>山本勘助が…
まぁ、ドラマの場合は主役の特権がありますから…にしても、おっしゃる通り、谷原さんの義元はカッコ良かったです(*^-^)
投稿: 茶々 | 2015年5月21日 (木) 01時53分
>義元専用ザク・・・`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!
この二人、どこにいたのかと思ったら…
「祇園精舎の鐘の声」って感じがしますね。
投稿: ことかね | 2015年5月24日 (日) 16時33分
ことかねさん、こんにちは~
ボケたところに、ちゃんと突っ込んで下さって…ありがたいですm(_ _)m
まぁ、世は戦国ですから、順調に出世していく事の方が稀なんでしょうけど…
>「祇園精舎の鐘の声」…
乱世の常ですね~
投稿: 茶々 | 2015年5月24日 (日) 16時58分
(◎´∀`)ノ
どのように観ても、織田信長は幸運の神に恵まれていたとしか思えない桶狭間の勝利であったように思う。
地の利はあったとは言え、突然の驟雨という天候に恵まれたことが大きいですね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年5月26日 (火) 03時26分
桶狭間の戦いの真実は?
徳川家の資料にはどのようにあるのでしょうか?
徳川家康は、元康時代に殿の方に居て、戦況を見ていたわけですから、後の時代に伝えることができたわけで、信長の資料とは別にまとめたものが色々あるはずで、憶測の根拠などもろんぱできそうとは思うのですが・・。
それにしても、信長の余りにもの神がかり的大勝利は、やや眉唾もののような気がするのですが・・。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年5月26日 (火) 10時31分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~
>徳川家の資料にはどのようにあるのでしょうか?
『徳川実紀』によれば…
(この時の家康については『信長公記』も、ほぼ同じですが…)
この時の家康(元康)は大高城に兵糧を運び込む役をこなした後、そのまま大高城から丸根砦の攻めに対しています。
「義元大高城は敵地にせまり大事な要害なればとて…君をして是を守らせ その身は桶狭間に着陣し御中酒宴を催し勝ち誇りたるその夜 信長暴雨に乗じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ 義元あえなくうたれ…」
とあり、その知らせを聞いた家康は背進し、大樹寺まで引いたそうです。
実紀では、昼間が夜になってますし、上記の通り、家康が現場にいなかった以上、あまり、くわしい状況はわかって無かったんじゃないか?と思います。
そのへんのところは、本文にもリンク張りました桶狭間の戦い~その時、家康は…>>を見ていただけるとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2015年5月26日 (火) 18時38分
毛利良勝は大坂の陣で有名な毛利勝永の父親ではないんですね。
もしやと思いましたが親子ではない。
血縁の有無はどうなんでしょう?
桶狭間の戦い。来年の大河ドラマで久々に取り上げられると思いますが、次期・織田信長役の俳優がまだ未発表(12月20日時点)です。年内の発表はないかな?今年は吉田鋼太郎さんでした。
徳川家康が阿部サダオさんですから、誰が起用されるかな?
投稿: えびすこ | 2016年12月25日 (日) 10時36分
えびすこさん、こんにちは~
風林火山では影だけの登場だった桶狭間の信長さんですが、来年の大河では、主人公のお父さんが亡くなる戦いなので、さすがに避けては通れないでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年12月25日 (日) 17時31分